日本大百科全書(ニッポニカ) 「足尾鉱山」の意味・わかりやすい解説
足尾鉱山
あしおこうざん
栃木県日光市の南西部、足尾町にあった古河鉱業(現、古河機械金属)の主要銅山。1973年(昭和48)閉山。稼業時は別子、日立、小坂、尾去沢(おさりざわ)とともに、日本の代表的な銅山で、亜鉛、硫化鉄鉱なども産した。鉱床は備前楯山(びぜんたてやま)(1273メートル)を中心として発達し、形態上、流紋岩中の裂罅充填(れっかじゅうてん)鉱脈と河鹿(かじか)鉱床(交代鉱床)、および古生層中の河鹿鉱床の3種があった。銅山は1610年(慶長15)に備前出身農民によって発見され、翌1611年銅吹(どうふき)が開始された。銅山の中心備前楯山(楯とは鉱脈の露頭のこと)の名はこれに由来する。まもなく江戸幕府は銅山を直轄経営し、御用銅として江戸へ送り、芝、上野などの諸廟(びょう)造営の材料として、あるいは江戸城、日光東照宮の銅瓦(がわら)にも使用した。17世紀後半には、長崎経由でオランダへ輸出するまでになったが、幕末には廃坑状態にまで衰えた。1871年(明治4)銅山は民営となり、1877年には古河市兵衛(ふるかわいちべえ)らの手にするところとなり、以後古河鉱業の主要銅山となった。1885年までに本山(ほんざん)坑、小滝坑、通洞(つうどう)坑が次々に開坑され、明治20年代に最盛期を迎え、日本の銅生産量の40%内外を産出するに至った。
この急激な銅山の開発により、鉱山廃液は渡良瀬川(わたらせがわ)下流で鉱毒汚染をもたらし、煙害は周辺山地をはげ山にし、下流地域に水害をもたらすなど、深刻な公害を引き起こした。その後、銅山の枯渇化とともに輸入鉱石による製銅へ中心が移り、次々に閉山され、1973年には採鉱部門は完全に終わった。その後は輸入鉱石による精錬が赤倉の足尾製錬所で続けられていたが、1989年足尾線の廃止により、製錬所は全面的に操業を停止した。閉山された坑の一部は、足尾町の観光の中心施設として銅山観光の名のもとに再利用されている。
[櫻井明久]