1911年(辛亥の年)10月10日に中国武漢の武昌で起きた武装蜂起を機に清朝を倒し、中華民国を建国した革命。清朝が欧米列強の侵略により統治能力を失う中、孫文らが05年に東京で中国革命同盟会を組織し「民族、民権、民生」の三民主義による革命を提唱。武昌蜂起が成功すると、多くの省が清朝からの独立を宣言した。12年1月1日、南京に中華民国臨時政府が成立、孫文が臨時大総統に選ばれた。同2月、宣統帝溥儀が退位、清朝が滅んだ。(北京共同)
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1911年(宣統3)辛亥の年に勃発し,清朝を打倒して中華民国を樹立した中国の革命。孫文はつとに1894年(光緒20),興中会を組織して革命を唱えたが,革命風潮が高揚をみせるのは20世紀に入ってからのことである。1903年には100万部も出回ったろうと推定される鄒容(すうよう)の《革命軍》の刊行,清朝の権威失墜に終わった《蘇報》事件の発生など,世の耳目を聳動(しようどう)する大事件がつぎつぎと起こった。さらにその翌年を最後として科挙が廃止されると,知識人の革命化はおしとどめえぬ趨勢となった。05年8月の東京での中国同盟会の成立はその端的な表現である。同盟会は一面では《民報》によって革命世論の形成につとめるとともに,他方では革命的テロルと武装蜂起を精力的に遂行した。国内でも小規模な革命組織が各地につくられ,改良主義者による君主立憲制への移行運動もかなりの力をもつにいたっていた。
1911年5月,責任内閣制採用とのふれこみで誕生した内閣が皇族内閣にすぎなかったことは,改良主義者の多くをも反清の立場に追いやってしまった。しかも宣統年間(1909-11)に入ると,米騒動,増税反対等の人民闘争のかつてない高まりが全国各地をおそった。半植民地化にともなう社会変動のきしみは,大量の流民・無産者を生み出し,新軍,会党につぎつぎと新しい血液を供給していた。革命派の清朝打倒のよびかけは,ほとんど社会の全階層からそれぞれに期待される革命情勢の高揚を生み出したのである。四川での鉄道国有反対暴動がひきがねとなって,11年10月10日,武昌の新軍が蜂起した。蜂起は成功し,革命政権(湖北軍政府)が組織された。武昌の新軍は,共進会(1907創立)や文学社(1911年1月創立)といった同盟会の流れをくみ,しかもはるかに広範な大衆的基盤をもつ革命結社により,千の単位で組織されていたのである。武昌の革命はただちに周辺諸県にひろがり,さらには湖南,陝西等,省都級での蜂起成功がそれに続いた。1ヵ月たたぬうちに12の省都が清朝の支配を離脱した。革命の勢いはそれくらい猛烈だったのである。清朝は袁世凱を再起用して第2代内閣総理大臣に任じ,もてる力のほとんどを武漢戦線に投入して漢口,漢陽を奪回したが,それとひきかえるように12月初め,南京が革命軍に攻略された。清軍は局部的優勢をたもちえても全国に広がる革命の勢いをおしつぶすことはできなかった。また,革命軍のほうも全国的な優勢を首都攻略に向け直すだけの軍事力,財力を欠いていた。
南方の革命側は孫文の帰国をまって12年1月1日,孫文を初代臨時大総統とする中華民国臨時政府(南京臨時政府)を組織した。副大総統には〈首義〉の区,湖北の都督黎元洪(れいげんこう)が選ばれた。北京,南京とも手づまり状況のもとで孫・袁間に電報談判が行われ,清国皇帝の退位と袁世凱の共和制賛成を条件に,孫文は大総統位を袁世凱に譲ることにした。2月12日,皇帝退位の上諭が発せられ,秦の始皇帝以来の王朝支配の終焉をみた。孫文は袁世凱に位をひきつぐまえに民主的な臨時約法(軍政から憲政にいたる過渡期の最高法規。憲法と考えてよい)を作りあげた。立法機関(臨時参議院)は人権を確立し,民主を擁護するための多くの法律を制定した。4月初め,孫文は辞職し,南京の諸機関はみな北京へと移り,新しい共和国は袁世凱のもとに統一された。
革命の成果として誕生した民国では,人々は自由を享受し,未来への希望にもえていた。政党の乱立,新聞の族生はその社会的現象であり,辮髪の剪截,纏足(てんそく)の解放はその個人的表現だった。武昌蜂起1周年に際し,北京では天壇が一般開放されたが,これほど帝国から民国への移行を実感させることはなかったろう。孫文は袁世凱と協定を行い,政治を袁世凱にまかせて,自分は10万kmの大鉄道網の建設に当たることにしたほどであった。しかし,北洋軍閥の頭目と革命家が現実に歩調を合わせて前進することはできなかった。12年暮れから翌年初めにかけて中国最初の国会選挙が行われ,袁世凱の与党が敗北した。勝利した国民党は中国同盟会を母体としたものだったが,反袁というわけではなく,責任内閣制のもとで民国を運営していこうと考えていたにすぎない。しかし袁世凱はそれも独裁への障害であるとし,3月,国民党の中心人物である宋教仁を暗殺した。
孫文はこの段階で反袁武装闘争の必要を認識したが,黄興をはじめ多くは法律による解決を主張した。その間に袁世凱は国会の権限を踏みにじってイギリス,ドイツ,フランス,ロシア,日本の5国銀行団から2500万ポンドにもおよぶ善後借款を結び態勢をととのえた。列強は革命の勢いの強いあいだは中立を装っていたが,今や公然と北洋軍閥を清朝にかわる中国での代理人に仕立てあげることにしたのである。7月,追いつめられた国民党側は九江,南京等で蜂起したが,いずれも簡単に袁世凱の手でねじふせられた。いわゆる第二革命の敗北である。武昌蜂起から1年有半,革命派は政権を握りながら国民の期待にほとんど応えられなかったことにより,孤立状態で蜂起したのである。たしかに彼らは,前も今も反動的独裁者に対して闘争をしかけたのだが,前に彼らを支持した諸勢力は,いまやほとんど背を向けてしまったのだから,その敗北も必然だったわけである。辛亥革命は民国を作りだし,民国は袁世凱に献げられたかのようにもみえたが,それは同時に,つぎの跳躍のための屈膝でもあった。
列強利権の交錯するなかでの革命であっただけにその影響は全世界におよび,とりわけ隣国日本の反応は敏感だった。この機に乗じての中国分割論,あるいは列強との強調による保全論が叫ばれ,さらには犬養毅らによる日中提携論も唱えられた。また革命による君主制の打倒が天皇制と家族制に及ぼす影響を憂慮するむきも多かった。忠孝,男尊女卑等の封建的綱常体系の崩壊が恐れられたわけだが,やがて袁世凱による逆コースの開始とともに,この方面の論議は下火になった。
執筆者:狭間 直樹
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1911年(辛亥(かのとい)の年)に起こされた中国のブルジョア民主主義革命。この革命により、300年ほど続いた清(しん)朝が滅び、2000年来の専制政治が終わりを告げて、中華民国が生まれ、民主共和政治の基礎がつくられた。民国革命、第一革命ともよばれる。
[野澤 豊]
辛亥革命は、少数民族である満洲族のつくった清朝の衰退と、漢民族を中心とした中国民衆の離反に由来する。白蓮(びゃくれん)教の乱に始まり、清末の諸事件を経て、義和団事件が起こされ、列強の侵略が強まり、中国の植民地化の危機が一段と深まるなかで、清朝は対外従属を強めつつ、自らの存続のためには、中央集権体制の立て直しを図らねばならなかった。制度改正、立憲準備、実業奨励、軍備強化などを内容とする新政運動が起こされたが、財源難のため、旧税の増徴と、新税の増設が不可避となり、社会的矛盾を激化させることとなって、新政反対、税金不払い、米よこせ、利権の回収などといった大衆闘争の全国的な展開をもたらすに至った。それに伴い、一方で、地方の有力者(郷紳(きょうしん))や商工界を基盤に立憲派が形成されて、立憲君主制を目ざした国会速開の運動が起こされた。他方では、華僑(かきょう)のほか、商工界の一部、留日学生や、国内の知識青年層を基盤として、孫文(そんぶん/スンウェン)ら革命派が1905年に中国同盟会を結成し、民主共和の実現を目ざして、会党(秘密結社)などと組み、反清武装闘争を華中・華南地方を中心に繰り広げていったが、失敗の繰り返しに終わっていた。
[野澤 豊]
1911年5月、財政難に陥った清朝は鉄道国有令を出し、民営であった鉄道を国有化して、これを担保に列強金融資本の連合体である四国借款団から多額の金を借り受けようとした。これに対して、湖南(こなん/フーナン)、湖北(こほく/フーペイ)、広東(カントン)などで広範な反対運動が起こされ、四川(しせん/スーチョワン)では大規模な武装闘争に発展した(四川暴動)。10月初め、四川討伐に湖北新軍が動員されるに及び、武漢地区で文学社や共進会などを組織し、軍隊に対して革命工作を行い、湖北新軍内に大きな勢力を張っていた革命派は、ついに10月10日武昌(ぶしょう/ウーチャン)に蜂起(ほうき)し、中華民国軍政府を設けて、辛亥革命の口火をきった(武昌蜂起)。革命の波はたちまち全国を巻き込み、1か月内にほとんどの省が呼応して、独立を宣言するに至った。
革命派は、武漢(ぶかん/ウーハン)地区で清軍の反撃を受けて苦戦したが、南京(ナンキン)地区を攻略し、各省代表を集め、海外で軍資金の募集にあたっていた孫文を迎えて、1912年1月1日に孫文を臨時大総統とする南京臨時政府をたて、中華民国を発足させた。孫文は、「革命時代の政府」の課題は民族、領土、軍政、内治、財政の統一にあるとしたが、外からは日本、イギリスなど列強が、内では臨時政府の要職を占めた立憲派などが策動し、革命派の内部対立もあって、「北伐(ほくばつ)」による革命の徹底化は困難となり、南北和議が図られることになった。これより先、清朝は北洋軍閥の袁世凱(えんせいがい)を起用し、革命軍の討伐を命じたが、内閣を組織して軍政両権を掌握した袁世凱は、イギリスの仲介で和平を画策し、清朝の宣統帝の退位と引き換えに、孫文から臨時大総統の地位を奪い、3月10日正式に大総統に就任して、北京(ペキン)政府を発足させた。革命派は、袁世凱に法制的な拘束を加えようと、その翌日、南京で「中華民国臨時約法」を公布した。これは憲法草案ともいうべきものであるが、主権在民と、人民の自由・平等の権利を規定した点において、画期的意義をもつものであった。また、責任内閣制を取り入れて、国務総理に大きな権限を付与することで、大総統の専断を予防しようとした。4月1日、孫文は正式に辞任し、5日に臨時政府の北京移転が決定され、「革命時代」は終わりを告げた。
[野澤 豊]
袁世凱への政権委譲にあたって、孫文ら革命派の急進分子は、在野の立場にたって実業振興と社会改革を目ざそうとし、宋教仁(そうきょうじん/ソンチャンレン)ら穏健分子は積極的に政治に関与し、多数政党の樹立と責任内閣制の実現を望んだが、民国初期の中央政局は政党政治をめぐる抗争として展開されていった。立憲共和制をたてまえとした中華民国の発足に伴う政党乱立のなかで、宋教仁らは中国同盟会を改組して公開政党とし、ついで小党派をあわせて国民党をつくり、政党政治の実現を目ざした。1913年1~2月施行された国会選挙で国民党が勝利するに及び、袁世凱は列強や立憲派の支持の下に、これに武力弾圧を加え、宋教仁暗殺事件を引き起こし、4月末に五国借款団との間に2500万ポンドに上る善後大借款を結び、第二革命に勝利した。革命派を押さえた袁世凱は、帝制運動を進める一方で、日本の対華二十一か条要求を受諾したことから、第三革命が起こされた。これは袁の死で終わったものの、これより中国は軍閥混戦状態に陥り、辛亥革命は不徹底なまま終わりを告げ、反帝反封建の課題はこれ以後の闘争に引き継がれていった。
[野澤 豊]
『野澤豊著『辛亥革命』(岩波新書)』▽『菊池貴晴著『現代中国革命の起源』(1970・巌南堂書店)』▽『呉玉章著『辛亥革命』(1960・外文出版社)』▽『宮崎滔天著『支那革命軍談』(1967・法政大学出版局)』
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清朝を倒し,中華民国を樹立した共和主義革命。1911年(辛亥)10月10日の武昌蜂起が発端になったので辛亥革命という。日清戦争,義和団事件による外国の侵略と,内乱によって動揺した支配体制を再建するため,清朝はみずから新政運動を起こし,立憲君主制の採用をはじめとする諸制度の改革に着手した。09年には地方議会(諮議局(しぎきょく))を設置し,翌年には国会(資政院)を開設した。これまで地方で新政運動を推進してきた郷紳(きょうしん)層や民族資本家などを中心とする立憲派は,諮議局によって勢力を結集し,清朝に対抗する傾向を強めた。また孫文,黄興(こうこう)などの革命派は,新軍や会党に対する工作を進めていた。清朝が外国から借款を得るために,11年5月川漢(せんかん),粤漢(えつかん)両鉄道の建設を外国借款団に委ねると,湖南,湖北,広東,四川で,これに対する反対運動が起こった。四川の暴動についで,武昌で革命派が蜂起し,新軍の旅団長黎元洪(れいげんこう)を擁して独立した。これに呼応して各省の革命派が蜂起し,1カ月のうちにほとんどの省が独立した。各省代表は南京に集まり,12年1月,孫文を臨時大総統に臨時政府をつくり,中華民国を成立させた。清朝は袁世凱(えんせいがい)を起用して革命の弾圧を図ったが,袁世凱は革命政府と通じて清帝を退位させ(2月12日),孫文に代わって中華民国大総統に就任した。
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