一般には,連合国軍の占領下に日本で実施された農地改革を指す。それは,1946年10月公布の〈自作農創設特別措置法〉および〈改正農地調整法〉に基づいて47年から50年にかけて実施された。その骨子は,(1)不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地で保有限度(都府県で平均1ha,北海道で4ha)を超える部分を国が強制買収し,それを小作農に売り渡す,(2)自作農の農地最高保有限度を原則として都府県平均3ha(北海道は12ha)とする,(3)小作料を金納制とし,最高小作料率を設け(田は収穫物価額の25%,畑は15%),小作料統制を実施し,さらに小作契約の文書化を義務づけ,土地取上げの制限を強化し,耕作権の移動を当面知事の許可制とする,(4)農地の買収・売渡しは2ヵ年間で完了させることとし,買収・売渡し計画の作成主体である市町村農地委員会の階層別委員構成を,地主3,自作農2,小作農5とする,などである。この農地改革によって,地主的土地所有制度は基本的に解体され,それにかわって自作農的土地所有制度(自作農体制ともいう)が広範に創出されることとなった。
明治維新以降農地改革にいたる近代日本の歴史において,地主制度は経済的にも政治的にも重要な役割を演じた。すでに地主制度が後退していた1941年においても,日本の全耕地の46%,水田では53%が小作地であり,耕地をまったくもたない純小作農は全農家の28%,それに多少とも地主から耕地を借りている小自作農や自小作農を加えると69%に達した(図1,2)。小作農はとりわけ経営が零細であり,水田を中心にその収穫物(米)の約半分に及ぶ高額高率の現物小作料を地主から徴収された。小作農は,収穫米から小作料を支払い,肥料代や借金の利子を差し引くと自分の飯米すら事欠く状態であった。しかも小作農民は地主による土地取上げの脅威に不断にさらされていた。
こうして多数の貧窮小作農民層から,欧米に比較して格安な低賃金の不熟練労働力が多数生み出された。戦前期(1945年以前)に輸出=外貨獲得業として,日本で基軸的地位を占めた生糸(対アメリカ輸出中心)や綿糸布(対アジア輸出中心)の生産は,これら貧農層から生じた低賃金と過酷な労働条件に耐えて働く女工の労働によって支えられていた。原料資源が乏しく,先進的機械の多くの部分を欧米からの輸入に依存しなければならないという弱点をもった日本が発揮しえた強い国際競争力は,実はこれら貧窮小作農民層から生じた低賃金労働力の存在に由来していた。
さらに,農業・小作問題は日本の軍国主義と対外侵略とも関連していた。1930年の昭和恐慌は小作農のみならず全農家(約550万戸)を,さらにはその数200万戸に達すると推定された小規模の不耕作・耕作地主層をも長期にわたって窮乏させた。長期農業恐慌下にともに困窮した地主・小作がせめぎあうという一種の〈閉塞状況〉のもとで,右翼急進派によるクーデタなど政治的危機が発生した。日本の支配層は恐慌と危機打開を軍事,経済両面で対外的に打って出る道に求めた。恐慌と踵(きびす)を接して31年に日本は満州(現,中国東北部)侵略を開始し,〈十五年戦争〉へと突入する。日本の農村は軍人の重要な供給源でもあったが,地主のみならずその搾取をうける小作農でさえも,困窮と閉塞状況打開の希望を侵略戦争に託した。こうして日本資本主義の基礎を構成した農村は,重要な低賃金労働力源であるとともに軍国主義の温床ともなった。
第2次大戦後,ポツダム宣言を背景に連合国軍による対日占領の実権を掌握したアメリカは,当初その占領政策の基調を日本の民主化と非軍事化におくことになった。経済分野でも財閥解体・非独占化,労働者保護・労働運動規制解除などの政策とならぶ重要な柱として農地改革を据えた。小作農民の要求や共産主義勢力の主張をいわば先取りし,占領軍の指揮下に日本の統治機構を利用しながら推進される〈上から〉の農地改革が実施されることとなった。ところが,日本の内外における共産主義勢力の進出,とりわけ中国の共産化の急速な進展といった事態に直面して,アメリカは1947,48年ころを境に占領政策の基調を日本の非軍事化・民主化から反共・経済自立化へと転換させ,対資本・労働政策では非独占化政策の骨抜き,労働運動奨励からその規制への転換が行われていく。これに対して,非軍事化・民主化という初期占領政策の目標に即して行われることとなった農地改革は,そのまま反共・経済自立化の後期占領政策の目標にも沿ったものとして政策転換はなされなかった。
図1,2に見られるように,農地改革の結果,小作地は田で14%,畑で12%に激減し,大部分が自作地となった。また,純小作農は8%に,自小作農や小自作農を含めても43%に減り,自作農家は55%と過半を占めるにいたった。農地解放は有償ではあったが,当時のインフレ急進にもかかわらず農地の買収・売渡し価格は固定されたために,小作農民は格安に自作地を手に入れることができた。買収・売渡し価格は田で賃貸価格の40倍,全国平均10a当り約760円とされた。1947-49年の米150kg当り公定政府買上げ価格は3232円であったから,10a当り水田価格は35.3kg(2斗3升5合)分にすぎず,仮に10a当り米の収穫量が330kg(2.2石)としても,その10分の1程度で水田が入手できた。まして,当時の食糧不足下の高い闇米価の存在を考えると,小作農は農地改革によって格安に自作化しえたといってよい。また残存小作地の小作料も,改革前10a当り収穫米2石,小作料1石,小作料率50%であったものが,改革後の1948年産米では公定政府買上げ価格150kg当り3600円で計算しても,小作料75円,小作料率1%と激減し,小作農の地位は自作農に接近した。
こうして,農地改革は日本の耕作農民に〈労働の成果を公正に享受する〉契機を農地所有関係の点では与えたといってよい。1955年の1200万tを超える史上最高の米豊作と以後の米生産力水準の階梯的上昇も農地改革と切り離しては理解しえないといってよい。そして,この農地改革の成果を今後とも維持すべく,農地移動・転用統制,小作料統制,土地取上げ制限などを盛り込んだ〈農地法〉が1952年7月に制定された。なお,1950年の農地価格統制の撤廃と農業生産力水準の上昇に促進された高地価形成のもとで,旧地主層の農地買収価格を不満とする声が全国的に高まった。彼らによる違憲訴訟は53年12月の最高裁による買収価格合憲判決により決着をみたものの,彼らの解放農地国家補償要求はその後も根強く継続し,高度成長下で地価上昇がさらに進む65年〈農地被買収者等に対する給付金の支給に関する法律〉が公布され,10a当り2万円の給付金支給(無利子・10年償還の国債)によって旧地主補償要求の決着が政府・与党の手で図られた。
ところで農地改革には他面でさまざまな限界もみられた。第1は,農地改革が旧来からの農民の個々の保有地が零細な耕地片から成り,しかもそれが各所に分散して他人の耕地と入り組んでいる〈分散錯圃制〉のもとでの零細農民経営の枠組みを打破しえず,日本農業の合理化という点で重大な限界をもったことである。1930年代をとってみても,全国農家平均経営耕地面積はわずかに1.1ha,1ha未満の経営農家が全農家の66%までを占めるという零細さであった。しかもこの平均1.1haは耕地が1ヵ所に集団化して存在しているのではなくて,十何ヵ所の零細耕地片に分散していることが多かった。農地改革は法規上は耕地の交換分合による集団化などを行って農業合理化を推進しうることになっていたが,交換分合といった当事者間の利害錯綜する事業を2ヵ年という期限の付された農地改革と合わせて実施することは困難だった。こうして,農地改革の〈上から〉の性格ともかかわって,それは全体として各零細耕地片の所有権を機械的に旧来の地主から小作農へ移し換えたにすぎぬという性格を強くもった。
さらに農地改革の対象が農地に限定され,国土の7割,農地の5倍強に達する山林原野までを含む土地改革としては遂行されなかったことも,零細農民経営打破と日本農業合理化を困難にした。日本の林野を国土保全,林業,生活(観光,保養)のための基地としてのみならず,畜産(肉牛,酪農など)を中心とする農業基地として活用することの意義は大きい。だが,農地改革は農民による個別的・集団的畜産経営の展開のための林野解放を行うことがきわめて少なかった。そのことと関連して,農地改革以後日本で展開する畜産業は,土地所有・利用と切り離され,外部からの飼料の購入・輸入に強く依存する加工型・施設型畜産という性格に偏したものとなった。こうして農地改革後の農民経営は,総じて旧来の分散錯圃制下の零細経営という枠組みを継承し,それに縛られたまま全階層的に自作化の度合を格段に強めたということができる。
農地改革の限界の第2は,全小作地の解放を主張したソ連の農地改革案への対抗とかかわって,在村地主に1haの貸付地保有を認めたことによる残存小作地の存在である。解放農地との均衡上,残存小作地の賃借条件は小作農民にとって改革前に比べてはるかに有利化されはしたが,一部の小作人がその意思に反して農地解放から排除されることとなり,残存小作地問題の処理を後の課題として残すこととなった。
以上のような重大な諸限界を農地改革は有するとはいえ,改革前の状態に比べるならば,それは全体として農業生産力と農民の生活水準の上昇に寄与したといってよい。改革後の零細自作農民は,1960年代の高度成長期以降急激に分解を遂げ,農家労働力の脱農・賃労働者化,農家の兼業化が急進する。しかし,その場合の賃労働者化も,改革前の貧窮小作農民の賃労働者化に比べるならば,総じてよりましな賃労働者化だといってよいのである。
執筆者:暉峻 衆三
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一般には、第二次世界大戦後、日本が連合国軍の占領下に置かれた際に、占領政策の重要な一環として実施された「農地改革」(1946~50)をさす。
戦前、日本農業は日本の資本主義経済にとって重要な地位と役割を有した。1940年(昭和15)段階においても、農業就業者は全就業者の41%、農林水産業は全国民所得の24%を占めていた。農業では、農家一戸当り平均経営耕地面積約1ヘクタールと零細農民経営が圧倒的であり、農家の半分は賃労働を主とした兼業農家だった。全耕地の半分は小作地であり、70%の農家は大なり小なり土地を借りる小作農民だった。小作農民は、小作地について収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され、農業所得では最低限の生活を維持することさえ困難で、生活は貧しく、高利負債にあえぐ者が多かった。農業では生きていけない農民は子女も含めてその多数が低賃金で出稼ぎし、生活を補った。ここでは、零細農民経営、とりわけ高額小作料を負担する小作農民経営から低賃金労働力が生み出され、逆に、その賃金が農家所得を補充することによって零細農民経営と高額小作料が維持存続されるという相互規定関係がみられた。これによって、日本の資本家は農村から低賃金労働力を豊富に調達しえたし、またそれを有力な武器として対外市場を拡大し、アメリカ、イギリスなど先進資本主義国との対立を激化し、やがて戦争へと突入した。
連合国による対日占領の実権は資本主義超大国=アメリカが掌握したが、アメリカとしても、日本が農村を基盤とする低賃金を武器にふたたび脅威を及ぼすことを防止する必要があった。また、対日占領を開始してまもなく、中国や朝鮮で共産主義勢力が急速に勢力を増して政権を掌握していくが、その際、徹底した土地改革による広範な農民の支持の獲得がてことなっていた。また、日本国内でも、生産の著しい低下のもとで、労働・農民運動が高揚し、徹底した土地改革が要求され、共産主義勢力の伸長と相まって政治的危機が進行していた。こういった内外の諸条件に支えられて、地主制度の解体による自作農の広範な創出を目ざす農地改革が、占領政策の重要な一環として断行されることとなった。
農地改革遂行のための法律は、「自作農創設特別措置法」と「農地調整法改正」であり、1946年(昭和21)10月に公布された。それは、同年6月の対日理事会で提案・採択されたイギリス案を骨子としたものである。
そのおもな内容は次のとおりである。〔1〕不在地主の小作地はすべて、在村地主の小作地は、北海道4ヘクタール、都府県平均1ヘクタールを超える部分を国が買収する。〔2〕農地の買収価格は、田は賃貸価格の40倍(10アール当り平均750円)、畑は48倍(平均450円)とし、農地証券で支払う。〔3〕国は買収農地を小作人に直接売り渡す。その際、小作農は24年年賦の低利資金の融資を受けることができる。〔4〕農地の買収・売渡しを二か年で終える。〔5〕農地の買収・売渡し計画の立案・審議、紛争処理の機関として地方自治体に農地委員会を置く。市町村農地委員会は小作5、地主3、自作二の委員構成とし、階層別選挙により委員を選出する。〔6〕小作料は定額金納とし、最高小作料率は収穫物価額の25%(田)、15%(畑)とする。〔7〕小作農が「信義に反した行為」をするなど「正当の事由」がない限り、地主はかってに賃貸借契約を解除することはできない、などである。
すでに1920年代以降、小作争議が激化し、さらに戦時に入って社会平和と農業生産力増進の必要が強く叫ばれるようになった段階に、自作農創設政策は登場していた。また、現実には実施されなかったが、終戦直後の45年12月、占領軍とは独自に農地改革案が政府の手でつくられた(「農地調整法改正」、通称第一次農地改革案)。だが、そのいずれと対比しても、実施された農地改革は、地主的土地所有の解体とそれによる自作農の創設という点でははるかに徹底しており、その間に大きな断層が認められる。
この農地改革によって、かつての小作地(1945年で244万8000ヘクタール)の80%に及ぶ194万2000ヘクタールの農地が解放され、小作農に売り渡された(うち、買収=175万7000ヘクタール、財産税物納による「管理換」=18万5000ヘクタール)。解放農地の6割は在村地主、4割は不在地主の所有地であった。
改革前には全農地の46%、田の53%が小作地であったが、改革後(1949)にはそれぞれ13%、14%に激減した。地主保有地として残った「残存小作地」についても、小作料は低く抑えられ、小作農の小作料負担は著しく軽減され(小作料率は1950年代後半でも5~6%)、耕作権も強化された。そして、改革前には自作農は全農家の28%にすぎなかったが、改革後は55%と過半を占めるに至り、逆に、農地をまったくもたぬ小作農は28%から8%に著減し、大なり小なり農地を小作している小自作・自小作農家も改革前の41%から改革後には35%に減った。改革後は自作農が日本農業の根幹となった。
以上のように、農地改革は、地主制度を解体して、広範な小作農を安価に自作農に転化し、残存小作地についても小作農の負担を著しく軽減し、耕作権を強めることによって、農民が農業生産力=商業的農業の水準ならびに生活水準を改革前に比して大きく高めることを可能にした。
と同時に、農地改革にはいくつかの限界もあった。農地改革は林野には手を触れなかった。これによって、林野利用による農民的畜産の展開は制約されることとなった。また、農地改革は小作地の自作地化に眼目を置くことによって、小作問題とともに日本農業のもう一つの特徴をなす農民経営の零細性にはまったく手を触れることなく、それを改革後に引き継いだ。それによって、零細自作農民経営はやがて1960年以降の従属的独占資本主義の展開のもとで激しい分解にさらされ、「総兼業化」といった事態が現れることにもなった。
[暉峻衆三]
『暉峻衆三編『日本農業史』(1981・有斐閣)』▽『暉峻衆三著『日本農業問題の展開 下』(1984・東京大学出版会)』▽『大内力著『日本資本主義の農業問題』改訂版(1972・東京大学出版会)』▽『栗原百寿著『現代日本農業論』(青木文庫)』▽『農地改革記録委員会編『農地改革顛末概要』(1951・農政調査会)』▽『R・P・ドーア著、並木正吉他訳『日本の農地改革』(1965・岩波書店)』▽『『農地改革の歴史的意義』(『山田盛太郎著作集 第4巻』所収・1984・岩波書店)』
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第2次大戦後のGHQによる民主化政策のなかで行われた改革。GHQは,戦前期の天皇制の社会基盤として財閥と封建的な地主制があるとして,地主制の解体をめざし,1945年(昭和20)12月に「農地改革に関する覚書」を政府に提出して立案をもとめた。第1次農地改革法はGHQに認められず,翌年10月成立の第2次農地改革法(農地調整法改正,自作農創設特別措置法)によって具体化した。内容は,(1)不在地主の全小作地と,在村地主の保有限度(都府県平均1町歩・北海道4町歩)をこえる小作地,および都府県3町歩・北海道12町歩をこえる自作地・所有小作地が政府買収の対象となること,(2)小作料の金納化とその制限,(3)市町村農地委員会への小作側構成員の増強などであった。市町村農地委員会は47年に農地買収計画を樹立して,以後同年3月~50年7月に,16回にわたり全国の小作地の88%弱,194万町歩の買収・売渡しを行った。これにより従来の支配階級であった地主は,山林を除いて多くの耕地を失った。
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…自作業創設維持政策が果たした歴史的役割は,一方で地主の土地売逃げの道をひらくとともに,他方では小作争議の指導層を含む小作農上層の土地所有欲をあおりつつ,小作争議の鎮静化をはかるところにあったといわねばならない。 本格的な自作農創設政策は,第2次大戦後の第2次農地改革によって行われた。この改革により,小作地の8割以上が1950年までに解放された。…
…それは日本を侵略戦争とファシズムに導く重要な条件ともなった。 第2次大戦後,連合軍の占領政策の一環として行われた農地改革は,日本の地主制度を基本的に解体した。農地改革は,不在地主のすべての貸付地,在村地主については都府県で平均1haを超える貸付地を強制的に国が買収し,小作人に解放した。…
…アメリカ占領軍の初期の対日政策の基本方針は,〈降伏後における米国の初期対日方針〉(1945年9月発表)に示されているように,日本が再びアメリカの脅威とならないための非軍事化と,そのアメリカの目的を将来にわたって保障するための民主化とにおかれた。この方針のもとに占領直後から1947年にかけて,軍隊の解体,軍工廠の管理,教育の自由主義化,労働者の団結権の保障等々の旧秩序の民主主義的変革と,財閥解体,農地改革等の経済民主化とがつぎつぎと実行に移された。しかし,ヨーロッパ情勢の緊迫からアメリカの世界政策が〈冷戦の論理〉を明確にし(1947年3月,トルーマン・ドクトリン),中国革命の進展に伴う東アジアの革命的情勢の進展につれて,47年から48年にかけてアメリカの対日政策は,非軍事化=民主化を基調とする政策から,日本に〈反共の防壁〉としての役割を期待する経済自立化政策へ転換をとげていった(1948年1月,ローヤル陸軍長官声明)。…
…それは乳・肉類の消費が少ないという日本人の伝統的な食生活慣行にもよるが,この畜産が本格的に発達してきたのは1950~60年代以降のことである。 第2は社会経済的な特徴であって,(1)第2次大戦以前に日本農業を支配してきた地主制が,戦後の農地改革によってほぼ完全に一掃され,農家のほとんど全部が自作農になったことである。かつては耕地の半ば近くが地主所有の小作地であったが,今日ではその大部分が自作地となり,農家は自分の所有地で農業を営む自作農となっている。…
…食料問題に関しては,1921年の米穀法によって開始された米の市場流通への介入が42年の食糧管理法で完成し,今日の米管理政策の原型が形成された。構造問題に関しては,地主・小作関係の調整を企図した24年の小作調停法と26年の自作農創設維持補助規則に基づいた小作農の自作化に向けた土地政策の二つの流れが,38年に農地調整法に統合され,戦後農地改革と農地関係立法の源流が形成されている。また,農民問題に関しては,今日の農協の前身たる産業組合が政府の強力な援助の下に育成され,37年には3/4の農家を組織した。…
※「農地改革」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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