精選版 日本国語大辞典 「農業」の意味・読み・例文・類語
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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農業とは、土地を利用して作物の栽培または家畜の飼養を行い、衣食住に必要な資材を生産する産業である。しかし、こういっただけでは、ほとんどなにもいったことにはならない。なぜなら、その内容が、時代・地域によって異なるからである。のちに、農業の起源について考察するが、最初の農業はおもに熱帯で行われ、おもな作物はヤムイモとタロイモで、おもな家畜はイヌ、ヤギ、ブタ、ニワトリのような小家畜、その利用方法も肉利用だけ、農具も鍬(くわ)と掘棒(ほりぼう)(その発達したものが踏鋤(ふみずき))だけであった。次期の農業はおもに温帯で行われ、おもな作物は穀物(ムギ、アワ、ヒエ、キビ、イネなど)で、おもな家畜はウマとウシのような大家畜、その利用方法も肉利用のみならず役力利用、乳利用、もっとも重要な農具は犂(すき)で、ウシやウマに引かせて土を耕起した。鍬や踏鋤はおもに園芸に用いられ、農業には用いられなかった。しかし、世界でも特殊な地域(たとえば日本)では、深耕用の犂がない時期が長く続き、鍬や踏鋤が犂にかわって農業に用いられた。このような違いは、どのようにして生じたのであろうか。以下、それを具体的にみてみよう。
[飯沼二郎]
農業は時代や地域によって異なるといったが、それはとくに風土の影響を強く受けるからである。農業には、時代とともに変わっていく面と、変わっていかない面とがある。なぜ変わらないかといえば、その風土が数千年間も変わらないからである。だから正確には、農業は風土という枠のなかで変化するというべきであろう。風土は、たとえば絵画を入れる額縁のようなものである。10号の額縁には10号の絵画なら入るが、10号以上の絵画は入らない。かつてアメリカの西部は不毛の地であった。しかし、19世紀後半に、鉄道が敷かれ、大型農業機械が導入されると、一変して世界第一級のコムギ生産地となった。しかし、それだからといって、西部の風土が変わったわけではない。ただ、その利用方法が変わっただけである。
[飯沼二郎]
風土といっても、農業にもっとも深く関係するのは、その土地が乾燥地か湿潤地かということである。気候学的に乾燥・湿潤を区別する幾多の定義があるが、それらのうちでもっとも一般的なものは、フランスの地理学者・気候学者のE・マルトンヌの乾燥指数という考え方である。それはI=R/(T+10)という数式で計算される。Iは乾燥指数、Rは一定期間の積算降雨量をミリメートルで表したもの、Tは同一期間の平均気温を摂氏温度で表したものである。もし、年の乾燥指数が20以上であれば湿潤地、20以下であれば乾燥地、とくに10以下であれば砂漠(降雨のみでは農業の不可能な地域)とするのである。しかし、農業については、年の乾燥指数よりも、夏の乾燥指数こそが重要である。それで、上記の数式を用いて、6~8月のみについて計算してみると、5以上の地域は夏雨型、5以下の地域は冬雨型であることがわかる。そこで、年指数20と夏指数5を組み合わせると、世界中の農業地域を次の四つに区分することができる。
Ⅰ 年指数20以下で夏指数5以下の地域
Ⅱ 年指数20以上で夏指数5以下の地域
Ⅲ 年指数20以下で夏指数5以上の地域
Ⅳ 年指数20以上で夏指数5以上の地域
第Ⅰ地域は、年指数20以下だから、もちろん乾燥地である。しかも、そのほとんど全地域が年指数10以下の砂漠であり、そこでは、河川や井戸水による灌漑(かんがい)が可能な所でのみ農業が行われる。そのほか、わずかに存在する年指数10~20の地域で、冬雨による農業が行われている。雨がほとんどないから、春から秋までは耕地を休閑し、乾燥地用の犂で普通2回、地表を浅耕・鎮圧して毛細管現象を断ち、地表からの水分の蒸発を防ぎ(休閑保水作業)、10月にコムギを播(ま)く。10月から翌年3月まで雨が降るから、それによってコムギは成長し、6月に収穫される。以後、翌年4月まで放置され、4月以降、ふたたび休閑保水作業を繰り返し、10月にまたコムギを播く(このような農法を二圃(にほ)式農業とよぶ)。
第Ⅱ地域は、年指数20以上だが、冬雨型なので、夏は乾燥し、二圃式が行われる。ただし第Ⅰ地域よりはるかに湿潤なので、全土で二圃式が行われる。
第Ⅲ地域は、年指数20以下の乾燥地だが、夏雨型のため夏作物の栽培が可能であり、したがって夏作物の播種(はしゅ)直前と収穫直後に、乾燥地用の犂で耕起するほか、とくに一年中でもっとも雨の多い夏には、耕地に夏作物があるから、犂は使用できず、鍬による浅耕と鎮圧が行われる(中耕保水作業)。
第Ⅳ地域は、4地域中でもっとも湿潤な地域であり、夏に雑草が繁茂するため除草が必要となる。しかし、湿潤とはいえ、夏指数が5~11の北ヨーロッパでは、1年目の冬作物と2年目の夏作物を無除草で栽培し、3年目に耕地を休閑して(このような農法を三圃(さんぽ)式農業という)、湿潤地用の犂で深耕・反転し除草を行う(休閑除草作業)。これに対し、夏指数9~107の東南アジアや東アジアでは、年中繰り返して鍬による中耕除草作業を行う必要がある。
なお、これまでの説明のなかで乾燥地用の犂とか湿潤地用の犂とかいうことばを使ったが、同じく犂といっても、乾燥地用のものと湿潤地用のものとでは形態も用途もまったく異なっている。前者は乏しい水分をいかにして効果的に保つかを主要な目的とし、後者は雑草に対して作物を守るために雑草をいかにして効果的に除去するかを主要な目的としている。したがって前者では浅耕し鎮圧する。その際、深耕や土壌の反転は水分の蒸発を促すから有害である。後者では深耕し土壌を反転して雑草を埋め殺す。その際、浅耕は除草にほとんど効果がない。それゆえ、前者は小型・軽量であり、これに属する主要な犂は、南アジアのインド犂、西南アジアから地中海地方にかけての彎轅(わんえん)犂、東アジアの中国犂などである。一方、後者は大型・重量であり(産業革命後、小型・軽量化)、これに属する主要な犂は、北ヨーロッパの方形犂、日本の無床(むしょう)犂・短床犂などである。
[飯沼二郎]
以上の説明を要約したのが
である。これは保水農業と除草農業という基準で区分したものだが、それを休閑・中耕という基準から休閑農業と中耕農業として区分し直すこともできよう。両者はきわめて対照的な性質をもつ。夏に、より乾燥的な地域に成立する休閑農業では、夏に休閑し犂耕(りこう)することによって、保水あるいは除草に有効な働きをなし、地力を回復する。一方、夏に、より湿潤的な地域に成立する中耕農業では、夏に休閑するなら、地力の流失と雑草の繁茂を促すから、地力は劣化する。また、休閑農業では、播種から収穫までの間に中耕を必要としないが(中耕を必要とするのは園芸作物)、中耕農業では、すべての作物に中耕を必要とする(したがって、休閑農業におけるような農業と園芸の区別がない)。このような両者の差をグラフで表したのが である。これは、横軸に一定の土地面積の上に追増される労働量をとり、縦軸にそれぞれの労働量の平均労働生産力と限界労働生産力をとったものである。両曲線は当然、平均労働生産力の最高点Dにおいて交わる。労働価格がSの高さで表されると、Sの高さと限界労働生産力曲線の交点Cの横軸の位置ONが経済的合理的労働集約度である。このONはまた、この価格条件における労働受容力または労働消化力をも意味する。この からわかるように、休閑農業においては、じきに経済的合理的労働集約度に達してしまうために、一定の土地面積の上に労働力を追増するよりも、むしろ、土地面積そのものを拡大するほうを有利とする。一方、中耕農業においては、なかなか経済的合理的労働集約度に達しないから、土地面積を拡大するよりも、同一の土地面積の上に労働力を追増することを有利とする。そのため、休閑農業においては、労働粗放化(機械化)の方向に発展し、中耕農業においては、労働集約化(道具化)の方向に発展する。しかし、産業革命のような非農業人口(農産物に対する需要)が急増するような場合には、以上のような基本的発展方向とは反する技術が導入されるが、それが基本的発展方向に馴化(じゅんか)され、さらに、それにふさわしい農村社会が政策的につくりだされるとき、その新農法は普及し、農業生産力は急増する。これが「農業革命」である。これについての具体的な説明は後述する。
[飯沼二郎]
農業の起源については、20世紀前半にソ連のN・I・バビロフ、スイスのド・カンドル、アメリカのC・O・サウアー、ドイツのE・ハーンなどが、それぞれの説を主張したが、それらを集大成したのがドイツのE・ウェルト(1869―1957)である。
ウェルトは、サウアーの「文化複合」説とハーンの「鍬(くわ)農耕から犂(すき)農耕へ」説を結合して、「鍬農耕文化複合から犂農耕文化複合へ」という学説をつくりあげた。「文化複合」というのは、農業をあらゆる物質文化の複合体として把握する考え方である。人類は採集狩猟段階から、約1万5000年前、熱帯地方で鍬農耕段階に入り、やがて鍬農耕を温帯地方に適合させる努力から犂農耕が生まれた。
鍬農耕文化複合と犂農耕文化複合の地域は、熱帯と温帯に広範に存在しているが、それらが世界の各地で相互に無関係に発生したと考える人があるかもしれない。しかし、これらの文化複合を構成している要素の一つか二つが、いくつかの地域で偶然に発生するということがあったとしても、これらの構成要素のすべてが、いくつかの地域で相互に無関係に発生するということはありえないから、かならず地球上の1か所で発生し(第一次中心地)、そこから各地に伝播(でんぱ)したものと考えなければならない。伝播の過程で、さらに新しい作物を加えることが考えられるが、とくに新しい作物が多く累積する地域を第二次中心地と名づけよう。ウェルトによれば、その地域と主要な作物は次のようである。
鍬農耕 第一次中心地(東南アジア)――バナナ、タロイモ、ヤムイモ、パンノキ、サトウキビ
同 第二次中心地(アメリカ)――トウモロコシ、ナンキンマメ、カンショ、バレイショ、カボチャ、ワタ、トマト、タバコ
犂農耕 第一次中心地(西南アジア)――オオムギ、コムギ、エンドウ、ブドウ、ナス
同 第二次中心地(北東アフリカ)――テフ、シコモーレ、コーヒー、トウゴマ
同 第二次中心地(西南アジア~地中海地方)――ライムギ、エンバク、ニンジン、オリーブ
同 第二次中心地(東アジア)――キビ、アワ、ダイズ、チャノキ、クワ、ウルシ、ミツマタ
そして、これらの発生地を異にする作物が、その後、世界各地で混合して今日の農業が形成されたとするのである。
このウェルトの説は、農業の起源についてもっとも有力な説だが、それ以外にも諸説がないわけではない。たとえば中尾佐助(1916―1993)は、根栽農耕文化、サバナ(サバンナ)農耕文化、地中海農耕文化、新大陸農耕文化がおのおの独立に発生して、のちに混合したと主張する。
しかし、いずれの説をとるにせよ、今日、熱帯の主作物がタロイモ、ヤムイモであり、温帯の主作物が穀物であることは変わらない。われわれにもっとも関係の深いのは穀物であるから、以下、穀物栽培の歴史について記述する。
[飯沼二郎]
コムギ、オオムギの発生地が西南アジアであることは前述した。考古学的発掘によれば、これらは、いまから約1万年前、西南アジアの比較的降雨のある冬雨地帯(マルトンヌの年乾燥指数10~20)に二圃(にほ)式農業として成立した。降雨があるといってもわずかであるうえに年の偏差が大きく、収穫がほとんど皆無の年も少なくなかった。それで、収穫を安定させるために、水が利用できる所では灌漑(かんがい)が始まった。まず初め、山間の細流や泉の水を利用して行われた。灌漑は収穫を安定させるだけではなしに、それを2、3倍にする(1960年のイランの農業統計でも平均して灌漑地は非灌漑地の約2.2倍の高い収量を示していた)。
やがて、このような灌漑技術が、気候の乾燥と低湿地のために居住が不可能であったティグリス、ユーフラテス両川の沖積地帯に導入され彎轅(わんえん)犂が使用された。生産性が高く、安定度の高い灌漑農業の発達は、急激な人口増加をもたらすとともに、農業に従事しない人々――商工業者や一群の支配階級――を生み出す。こうして紀元前三千年紀に、ユーフラテス下流域にまず都市国家群が成立し、やがて北方に領域を拡大してアッシリア王国、バビロニア王国に発展した。灌漑技術は、さらにナイル川やインダス川にも伝播し、それぞれに古代国家を発達させた。なお、この地域のもう一つの灌漑方法として、カナートとかカレーズとかよばれるものがある。掘り当てた伏流水を砂漠の下に長いトンネルを掘って耕地に導く井戸灌漑である。
[飯沼二郎]
古代ギリシア、ローマの農業は、西南アジアの二圃式が伝播したものと思われる。耕地は、彎轅犂によって十字に浅耕されたから、方形をしていた。やがて、ローマの二圃式と彎轅犂は、ローマの領土の拡大とともに北ヨーロッパに伝播したが、北ヨーロッパは南ヨーロッパと異なり夏雨型の湿潤地であり、三圃式がゲルマニア地方の方形犂と結び付いてしだいに北ヨーロッパに普及し、ほぼ13世紀ごろまでに、ヨーロッパは北に三圃式、南に二圃式が一般化する。
三圃式は村落共同体の存在を前提とし、さらに村落共同体の形成は封建制の形成と結び付く。耕地は道路によって三つの耕区に区分され、一つは休閑地、他の二つは穀物畑になっていた。各耕区はさらにいくつかの小耕区に分かれ、各小耕区はさらにいくつかの条地に分かれている。普通、小耕区は12ないし20エーカー、条地はだいたい1エーカーほどであった。方形犂は重く、多数のウマ(普通4~6頭)によって牽引(けんいん)されたから、その転回度数を減らすために条地は短冊形をなし、犂耕(りこう)は小耕区ごとの共同作業によった。条地と条地との境には垣がなく、犂(す)き残された草地か、簡単な境界標があるにすぎず、また耕地には農道もなかったから、播種も収穫も定められた期間内に全村一斉に行わなければならなかった(これを「耕地強制」という)。家畜は春から夏まで共同放牧地に放牧され、冬作物(コムギなど)と夏作物(オオムギなど)の収穫後は、それぞれの刈り跡地に放牧された。一方、夏の間に採草地で干し草をつくり、11月から翌年3月まで、雪のため放牧できない家畜の舎飼いに用いられた。
[飯沼二郎]
三圃式成立以後の北ヨーロッパの農業の発展は、家畜の飼料の変化と大きな関係をもっていた。なぜなら、19世紀の中ごろまで、主要な肥料はほとんど家畜の糞尿(ふんにょう)(厩肥(きゅうひ))であり、したがって農業生産を発達させるためには家畜の頭数を増やす必要があったからである。まず14世紀ごろから、北イタリアと低地地方で耕地における牧草(一般にクローバー、アルカリ性土壌ではルーサン)の栽培が始まり、17世紀にはイギリスに、18世紀にはフランス、ドイツに広まった。そのやり方は、コムギ→オオムギ→休閑の三圃式において、オオムギとともにクローバーを混播し、オオムギの収穫後と翌年(休閑)の2年間、耕地をクローバー畑にするのである。しかし、18世紀後半、イギリスに産業革命が起こると、この程度のことでは非農業人口の急増に追い付けなくなり、耕地にさらに根菜飼料(カブなど)が導入された(したがって作付け方式はコムギ→カブ→オオムギ→クローバーとなり、これを輪栽式農業とよぶ)。クローバーとカブの栽培は、飼料→家畜→厩肥の増加をもたらし、収量の増加をもたらすとともに、家畜の年間舎飼いを可能とした結果、放牧地と採草地を不必要とし、耕地の増加をもたらした。
しかし、クローバーの栽培のみであれば、従来の村落共同体(三圃式)の枠内でも可能であったが、カブの栽培となると(カブは元来、園芸作物であったから)、2回の中耕を必要とし、かつ刈り跡放牧を不可能としたから、村落共同体の枠内には収まりきれず、これを破壊し交換分合して、それぞれに垣を巡らした個人的な農場にすることが必要であった。これを囲い込み(エンクロージャー)という。それは全村一斉に行うことが必要であったから、イギリスでは18世紀初め以来、囲い込み法が制定され、村落の耕地面積の3分の2以上の所有者が賛成すれば実行できることとされた。産業革命期に囲い込みは急速に進み、それに伴って輪栽式(その発生地の地名をとって当時、ノーフォーク農法とよばれた)も普及した。ただ、カブの中耕を人力で行う限り、これはノーフォーク以外にはなかなか広まらず(ノーフォーク北部は砂質地)、18世紀初めJ・タルによって発明された馬力条播機が普及し、中耕が畜力化されるに及んで、初めてノーフォーク以外にも広まったのである。これを農業革命という。
畜力中耕とともにノーフォーク農法は19世紀から20世紀にかけて西欧、アメリカ、ついで東欧に広まり、各地で農業革命を引き起こした。なかでもアメリカの農業革命は、ひとり休閑農業に対してのみならず、中耕農業に対しても大きな影響を及ぼした。19世紀中ごろの南北戦争の人手不足から、アメリカ北部の工業地域では農業機械の発明が相次いだが、とくに重要なものは自動刈取機と自動脱穀機であった。南北戦争後、ホームステッド法と鉄道敷設により西部・中西部の開発が急速に進められたとき、これらの農業機械、とくに刈取機と脱穀機とトラクターが結合(コンバイン)されたコンバインが威力を発揮した。今日、コンバインは資本主義国と社会主義国とを問わず、また休閑農業と中耕農業とを問わず、世界中に普及し、とくに人口の希薄なカナダ、アルゼンチン、オーストラリアなどで、コムギ生産に貢献している。アメリカに始まるいわゆる新大陸の農業革命によって、安価で良質な農産物が大量にヨーロッパに輸入され、19世紀末にはヨーロッパ各国に農業恐慌を引き起こした。フランスやドイツなどは関税障壁を設けてそれを防止したが、自由貿易の国イギリスは、農業を急速に衰退するままに放置した。今日の状況についてはのちに改めて考察する。
最後に確認しておきたいことは、休閑農業の固有の発展方向(機械化)に反する労働集約的技術(人力中耕)が導入され、それが固有の発展方向に馴化(じゅんか)されるとともに(畜力中耕)、また、それにふさわしい農村社会がつくりだされて、急速に普及して農業生産を発展させる、それが休閑農業における農業革命の特徴だということである。
[飯沼二郎]
中耕農業も、休閑農業と同様に乾燥地から湿潤地へと発展している。文献上、もっとも古くさかのぼれるのは北インドと北中国(華北)で、いずれも年の乾燥指数が20以下の乾燥地である。
[飯沼二郎]
北インドでは紀元前1000年ごろには家畜と犂をもち、夏作にキビ、冬作にオオムギなどをつくり、また華北では前2000年ごろにアワ、キビ、オオムギなどをつくっていた。ここに、すでに、休閑農業との違いがはっきり現れている。一つにはアワ、キビのような雑穀の栽培、二つには二毛作が行われていることである。休閑農業では二毛作は不可能だが、中耕農業では夏雨のため夏作が可能なうえに、冬は乾燥するのでムギ作が可能なのである。これらの雑穀は、やがて東南アジアや東アジアへ伝播していった。
北インドと華北の古代農業の姿を推測する手だてとして、これらの地方で現在どのような農業が行われているかをみてみよう。
北インドの現在の農業は、夏作物(雑穀、マメ、ワタなど)を6、7月に播(ま)き、10、11月に収穫し、また冬作物(コムギ、オオムギなど)を10、11月に播き、翌年の3、4月に収穫する。犂耕は6月のモンスーンとともに開始され、犂は2頭のウシで引かせるインド犂で、犂耕後はかならず板の上に人が乗り、ウシに引かせて鎮圧をする。播種は、土壌が乾燥しきってしまわないうちに、すばやく種子を適当な深さに埋めなければならないから、2頭のウシに引かせた播種機が用いられる。中耕は夏作物には普通2回、冬作物には行われない。休閑中に犂による保水作業が行われる。
また、現在の華北の農業も、これに似ている。夏作物はアワ、キビ、トウモロコシ、アサ、マメ、ワタなど、冬作物はオオムギ、コムギなどである。夏作物の収穫直後、まだ夏雨による水分が土中にある間に犂耕し、ただちに耙(は)や蓋子(がいし)などによる砕土・鎮圧作業が続く。春にも、播種に先だち、犂耕と砕土・鎮圧が行われるが、あまり乾燥が激しいときには犂耕は省かれる。播種は耬(ろう)(中国の播種機)による。
このような農業がいつごろから始まったかは、北インドについては正確にはわからないが、華北については、少なくとも現在の型の犂ができたのは漢時代だといわれている。いまから約2200年前である。古代農業では、犂などの農具はもっと単純なものを使用していたにしても、農作業の手順はほとんど変わりはなかったのではないかと思われる。
[飯沼二郎]
中耕農業の主作物の一つであるイネは、雑穀に比べて、はるかに複雑な伝播経過をたどった。渡部忠世(わたなべただよ)によれば、アッサムから雲南に至る山岳地域で、焼畑農耕のなかから稲作が発生したという。陸稲(おかぼ)的なイネが長い間優先的な地位を占めていたが、紀元後に至って、しだいに小河川の流域の比較的に水がかりのよい湛水(たんすい)地に栽培され、籾(もみ)粒の丸い日本種に近い水稲的なイネに交代した。メコン、メナム、イラワディ川などの河谷に沿って南下し、一つは揚子江(ようすこう)の河谷沿いに北上して日本にまで達する流れとなり、いま一つはブラマプトラ川に沿ってインド東部の低湿地に分布したインド種的なイネとなり、やがて13、4世紀ごろからベンガル湾を越えて東南アジアに入り、それまで日本種的なイネが分布しえなかった平野部の低湿地に分布した。
東南アジアには、穀作が行われる前に、タロイモ、ヤムイモを主作物とし、掘棒と鍬のみを農具とし、小家畜のみを飼育する農業(ウェルトのいう「鍬農耕文化」、中尾佐助のいう「根栽農耕文化」)が行われていた。
中尾は、さらに、根栽農耕文化の二次的発展形態として、西はアッサムから中国南部を通り、東は西日本に至る地域に「照葉樹林文化」を提唱する。それは根菜農耕文化からはサトイモ(タロイモの一種)とヤマノイモ(ヤムイモの一種)を受け取ったほかイモ作は発達せず、かわってコンニャク、シソ、ウルシ、チャノキ、ミカンなどを栽培し、カイコを飼育し、焼畑農耕のなかから稲作を生み出した。そのほか、酒のような飲料、さらには宗教に至るまで、特殊な文化内容をもつ。日本には、縄文時代に伝えられた。
[飯沼二郎]
中国最古のイネの考古学的資料は、河南省仰韶(ぎょうしょう)(前2200~前1900)から出土しているが、当時この地方でイネが栽培されたとすることについては否定的意見が強い。仰韶文化は河南・陝西(せんせい)・山西・甘粛(かんしゅく)を中心とする黄土地帯に広くその遺跡を残しているが、もっとも多い作物はアワである。黄河の中・下流において仰韶文化に続くものは竜山(りゅうざん)文化で、ついで、この竜山文化のなかから殷(いん)文化が生まれてくるが、いずれもアワを主作物とする農業であることには変わりがない。
一方、華中において、華北の仰韶・竜山文化に並行すると考えられる屈家嶺(くっかれい)・青蓮岡(せいれんこう)・良渚(りょうしょ)文化は、すべて米を出土し、また遺跡の立地からみても、水稲耕作にきわめて便利な位置が選ばれている。稲作のみならず、近くの河川・湖沼から貝や魚をとり、イノシシやシカをとる狩猟・採集生活もいっしょに行っていた。華北の殷周文化と並行すると考えられる揚子江下流域の湖熟文化においても、稲作が行われ、石包丁などの石器とともに青銅器も用いられた。
前2世紀の華中の稲作の一般的な状況を示すと思われる文献がある。『漢書(かんじょ)』武帝紀に収められた詔勅に、「江南之地火耕水耨」(江南の地は、火で耕し水で耨(くさぎ)る)とあるのがそれである。これは、当時の華北の進んだ農業(畑作)に対して、華中の農業(稲作)の後進性を示したもので、乾期に雑草を焼き払い、その跡にイネを播き、雨期に水を入れてイネとともに成長した雑草を殺すやり方である。焼畑農耕の一種とも考えられ、おそらく照葉樹林文化のなかで成立した最古の稲作の状態を示すものであろう。犂もないところから、ウェルトのいう鍬農耕文化に属するものと考えられる。このように深く湛水して除草の煩を省く農法を「常湛(じょうたん)法」とよぼう。今日でも東南アジアの稲作は、この農法によっている。
その後、6世紀の華北の農書『斉民要術(せいみんようじゅつ)』には、何度も水田の水を落とし(中干(なかぼし))、雑草を鎌(かま)で刈り取る新しい稲作が記述されている。これを「中干法」とよぼう。
一方、インド最古のイネの考古学的資料は、ビハール州やグジャラート州などから出土し、いずれも前2300年ごろと考えられるが、6~8世紀ごろに成立したと思われる北インドの農書『クリシ・パラーシャラ』にも、華北と同様の中干法が記されている。
イネは水草ではなく、根が酸素を呼吸しているのだから、中干をすればイネは強健になり収量も増える。しかし、そのためには水の掛け引きを可能とする土木技術の発達が前提となる。華北では戦国期(前3、4世紀)に鉄器とともに土木技術が発達する。おそらく、照葉樹林文化で発生した稲作(常湛法)が北上して華北の戦国期に中干法に変換したものであろう(北インドについては、よくわからない)。
華北の中干法は中国犂と結び付いて(すなわちウェルトのいう犂農耕文化に転換して)東アジア・東南アジアへ、また北インドの中干法はインド犂と結び付いて東南アジアへ伝播した。しかし、東南アジアは中干法を拒否し、中国犂・インド犂のみを受け入れた。今日でも、中国犂・インド犂と結合して常湛法が行われている。
[飯沼二郎]
縄文時代は基本的に狩猟・採集経済であったが、人口が極端に東日本、とくに関東や中部地方に集中していた。それは、東日本の落葉広葉樹林地帯では、イノシシやシカなどの動物や、ドングリ、クリ、クルミなどの堅果類、またサケやマスなど、縄文人にとってもっとも重要な食料がきわめて豊富だったのに対して、西日本の照葉樹林地帯では、自然の恵みがそれほど豊かでなかったためである。このような不利な環境を補うものとして、西日本ではしだいに農業が発達した。それは、アワ、ヒエ、モロコシなどの雑穀を主作物とする焼畑農業である。縄文時代の西日本文化を前述の照葉樹林文化の一部とみなす考えが、最近定着しつつある。このような縄文時代における農業が、後の稲作の急速な普及の前提となるのである。
以下、日本の農業の発展を耕起具によって区分し、前4世紀ごろから10世紀ごろまでを鍬(主として木鍬)の時代、以後16世紀までを犂(長床犂)の時代、以後19世紀までを鍬(鉄鍬)の時代、19世紀以後今日に至るまでを犂(無床犂・短床犂)の時代、というように四段階に分けて考察を進める。
(1)第一段階(木鍬段階) 日本へは前4世紀ごろに、揚子江下流域から朝鮮南部を経由して北九州に稲作が伝えられ、急速に日本全土に広まるが、農具はすべて木製で、鍬と鋤のみで犂はなかったから、その稲作は常湛法であったと考えられる。後4世紀以前の水田遺跡は、いずれも地下水位の高い、一年中、水がたまっているような所である。4世紀末、華北の中干法が朝鮮を経由して日本に伝えられ、以後、地下水位の低い、水はけのよい所に水田がつくられるようになる。中干法とともに、朝鮮から鉄製の鋤や鎌が伝えられ、日本でも鉄製の鍬がつくられるようになるが、当時なおそれは貴重品で、一般の農民にまでは普及しなかった。
7、8世紀ごろ朝鮮から鉄製の犂も伝えられるが、それには2種類あった。元来、華北で戦国期につくられ始めた中国犂は乾燥地用のものであるから、長い犂床が深耕を阻止していた(長床犂といわれる)。それが湿潤な朝鮮において深耕用の無床犂につくりかえられた。朝鮮の古墳から出土した最古(5、6世紀)の犂はいずれも無床犂だと考えられている。以後、朝鮮では20世紀に至るまで、水田用の長床犂と畑地用の無床犂が併用された。日本へも両者が導入されたが、一般に普及したのは長床犂であった。なぜなら、長床犂では深耕はできないが、長い犂床が水田の耕盤(水を通さない地層)をつくるのに有効であり、かつ、深耕には一般に鍬や踏鋤が用いられたからである。
(2)第二段階(長床犂段階) 10世紀ごろになると、農民にも鉄鍬が普及し、さらに上層農民には長床犂も普及した。上層農民というのは、当時、名主(みょうしゅ)とよばれ、その経営は一町歩から数十町歩まで大小さまざまだったが、名子(なご)とよばれた住込み労働者を家族ごと邸内に住まわせ、農耕はじめ生活の全般にわたる労役に従事させた。名子は、そのような労役の余暇に、名主から与えられたわずかばかりの土地を鍬で深耕し、下草などを肥料として豊富に施用したから、その土地の収量と名主の水田の収量との間の格差はしだいに大きくなっていき、名主は田地を自営するよりも名子に貸して小作料をとるようになった。
名主の上に領主がいる。名主の寄生地主化が進むにつれて、領主は直接、名子を貢租の納入者として把握したほうが、確実でもあり、貢納を増やすこともできると考えるようになる。こうして、全国的に名主を排除したのが、豊臣(とよとみ)秀吉の「太閤(たいこう)検地」であった。
(3)第三段階(鉄鍬段階) 名子を本百姓とする近世の村落が成立すると、近世を通じて、長床犂の農業はほとんど発展せず、鍬の農業のみ大発達を遂げた。地形や土質や作業に応じて各種の鍬が考案され、たとえば大坂では、播種に際して、畦(あぜ)づくり、播種溝切り、播種後の覆土に、それぞれ異なった形の鍬が用いられた。とくに備中(びっちゅう)鍬は注目に値する。鍬は本来、中耕用具であり、深耕は犂で行うのが世界共通であり、備中鍬のような深耕用の鍬などというものは、世界中で日本にしか存在しない。
肥料も、従来、人糞尿と刈敷(かりしき)(下草など)が主要なものであったが、近世には油かす、鰯(いわし)かす、鰊(にしん)かすなどの購入肥料(金肥(きんぴ))も用いられ、とくに近世後期には、都市近郊の野菜や、一般の商品作物(ワタ、果樹、ハゼ、イグサ、カンショ、アイなど)の栽培が盛んになった。
(4)第四段階(無床犂・短床犂段階) 明治以後の特記すべき変化としては、犂による深耕が日本で初めて一般化したことである。明治初年、福岡地方で行われていた無床犂による水田の深耕が全国に普及した。朝鮮の無床犂が対馬(つしま)に伝わったのは1700年(元禄13)ごろのことであるが、それがさらに北九州に伝わって畑地に用いられていたものを、明治初年、福岡の農民が水田に転用したものであろう。
しかし、無床犂を用いるためには、水田が乾田化・整形化されていなければならない。それは当時、耕地整理とよばれ、全村一斉に行うことが必要であった。当時の日本の水田は不整形かつ湿田が多かった。そこで、1899年(明治32)に耕地整理法が制定され、村の耕地面積の3分の2以上の所有者が賛成すれば耕地整理を実施できることとした(イギリスの囲い込み法とまったく同じ)。
耕地整理に伴って畜力深耕は普及するが、時あたかも産業革命期であった。イギリス産業革命期に囲い込み法に伴ってノーフォーク農法が普及して農業生産が急速に発達したのと同様、産業革命期に耕地整理法に伴って福岡農法(畜力深耕)が普及したのが、日本の農業革命である。ただ、無床犂は、犂床がないためまったく不安定だったから、もっと体力も熟練も必要としない深耕犂の発明が一般に要望され、それにこたえるために各種の短床犂が発明された。
畜力深耕は、従来の人力深耕に比べて4、5倍も労働能率を高めたから、その余力をもって経営の複合化が進められた。とくに二毛作の普及は目覚ましく、1886年に全国の耕地の25%弱であったものが、1940年(昭和15)には42.8%になっている。
畜力深耕は、中耕農業の固有の発展方向である労働集約化に反するものであるが、そのような異質の技術によって、経営規模の拡大ではなしに、固有の発展方向である労働集約化がいっそう推進されたところに、中耕農業における農業革命の特徴がみられる。
[飯沼二郎]
第二次世界大戦後の世界農業のひずみは、開発途上国の食糧不足と先進国の過剰問題が併存していることである。
開発途上国の食糧不足の典型的な例としては、1985年に世界的に大問題となったアフリカの飢饉(ききん)があげられる。これは干魃(かんばつ)によって起こったものであるが、アフリカでは干魃は珍しいことではない。それが、このような大被害を引き起こしたのは、自然的原因よりも、むしろ社会的・政治的原因によるものである。
まず第一に、最近におけるアフリカの爆発的な人口増加(とくにサハラ以南アフリカの年平均人口増加率は1970~1990年で3.0%強)に、食糧生産が追い付けなかった。従来、アフリカでは、自給的な食糧生産と輸出用作物生産を営む小規模な自作農民が基本で、農業技術の水準は低いとはいえ、長い経験に基づいて、それなりの合理性をもっていた。ところが独立後、政府が、このような合理性を無視して輸出用の作物を重視した結果、食糧生産が低下した。そこに干魃が襲いかかったのである。
第二は、アフリカに限らず、第二次世界大戦後に政治的独立を達成した開発途上国は、いずれも食糧不足に悩んでいる。その不足分を輸入で補充できれば問題はないのだが、これらの国々は経済的に貧しく、外貨の余裕もない。したがって輸入は実質必要量以下に抑えられている。だから栄養状態は悪い。そこで、ちょっとした天候異変にも、多くの餓死者を出すことになるのである。
一方、アメリカを先頭とする先進国では、第二次世界大戦後一貫して農産物過剰が最大の問題となっている。戦前の大恐慌期に始まるアメリカ、カナダなどの穀物輸出国の農産物過剰は、戦中・戦後の世界的な食糧不足時代に解消し、むしろ巨大な食糧増産を達成した。戦争直後の世界的飢餓状態は、これらの国々によって救われたといっていい。しかし、世界の農業生産がしだいに回復するにつれて、これらの国々にはふたたび農産物の過剰状態が現れた。アメリカは、それを食糧不足と外貨不足に悩む国々(おもに開発途上国)に援助物資として送り込んだ。また、1963~1964年の大凶作を契機とするソ連の穀物の大量輸入にも応じた。
アメリカは、世界の農業生産の大きな部分を占め、たとえば1998年では世界のコムギ生産の12%、トウモロコシの41%、大豆の47%を占めている。しかし、輸出に深く依存してきたアメリカは、近年の世界的な不況による農産物輸出の低迷で、大きな打撃を受けつつある。
従来、アメリカの農民は、不況が強まってくると、政府に働きかけて、農産物の輸出を促進させるとともに、価格支持政策で農業を保護させてきた。そしてアメリカ政府は、とくに、その支配下にある諸外国の政府に対し、農産物の輸入を促進するよう圧力をかけ、農産物の過剰を輸出によって和らげる一方、それらの国の農業を衰退させることで、海外市場を拡大してきたが、いまやアメリカの過剰はすさまじいまでに膨らんだ。
1996年の農業改革法成立から3年、農家に対しての生産規制の緩和等、生産弾力化が穀物需給に与えた影響をみると、1998年の生産量はコムギ6940万トン(前年比2.8%増)、トウモロコシ2億0790万トン(前年比6.0%増)、大豆7500万トン(前年比6.0%増)、これに対し1999年はコムギ6350万トン(前年比8.5%減)、トウモロコシ2億4510万トン(前年比1.1%減)、大豆7980万トン(前年比6.4%増)と、大豆以外は減少に転じている。その原因は期末在庫の増加とアジア需要の停滞による。また、10年来の価格下落に対する政府の緊急支援は総額60億ドルに上る。政府財政の大幅赤字縮小のための産業化の進行は農場の大規模化と集中化、中・小規模農家の減少をもたらし、家族経営の専業農家の破産が至る所でおこっている。
これに対してヨーロッパ連合(EU)は、域内農民の所得の保証を主目的とする市場政策と、生産・流通機構の改善および合理化などを目的とする構造政策とを中心とする共通農業政策をとり、徐々に域内の矛盾を解消しつつ、食糧自給率を高め、ほとんどの品目で自給を達成している。しかし、過剰生産や農業財政の悪化、各国の利害対立などの問題を抱えている。
[飯沼二郎]
現在の日本農業にもっとも大きな影響を及ぼしたのは、いうまでもなく第二次世界大戦敗戦直後に行われた農地改革であった。それにより、ほとんどすべての農民が一町歩前後の自作農となった。農地改革は、日本のファシズム・帝国主義の基盤を地主制に認め、それを徹底的に除去しようとするアメリカ政府の強い意志によるものであった。これにより、日本は、明治以来の資本家と地主の二重支配から脱して、資本家の単独支配となった。そのことは、食糧事情が安定するにつれて、明確な形で現れてくる。
高度経済成長の開始された1960年(昭和35)前後に、日本の財界を代表する経済団体連合会(現、日本経済団体連合会)や経済同友会などが盛んに日本農業に対する提言を発表したが、要約すれば、(1)安くてよい農産物なら、国内で生産するよりも外国から買おうという国際分業論、(2)日本の伝統的な小農複合経営を否定し、それを大型単作経営に転換させようという農業近代化論であった。政府がこの財界の提言を100%法律化したのが(政府と財界の密着の現れ)、1961年の農業基本法であり、以後これに基づいて農政が行われてきたので、それは基本法農政とよばれている。
では、なぜ、高度成長の開始期に財界がこのような提言を行ったのかといえば、高度成長に必要な労働力を農村から引き出すため(農業近代化論)、また、高度経済による工業製品に必要な海外市場を確保するため(国際分業論)であった。基本法農政の目的もそこにあったわけで、1985年農業センサスによれば、1960年から25年間に、専業農家率は34.3%から14.3%に、また食糧自給率は80%から30%以下に低下した。この基本法農政によって高度経済成長はみごとに達成され、日本は世界有数の金持ち国にのし上がった。
日本の工業製品の最大の顧客はアメリカで、1997年のアメリカの輸入総額8990億ドルのうち、日本は1171億ドルで、全体の13%を占めている。一方、アメリカの農林水産物輸出のうち、日本向けは1998年度95億ドルで、トップである。日本はアメリカから農産物を買い、アメリカは日本から工業製品を買うという構造が定着した(もちろん、航空機や軍需品がアメリカの最大の対日輸出品目ではあるが)。
食糧自給率についてはっきりしたことがいえないのは、あまりにも急激な低下で、農林水産省が発表の基準を変えてしまったからである。飼料まで含めたオリジナル・カロリー・ベース計算による真の食糧自給率は1960年度80%、1971年度52%であったが、それ以後は発表されず、かわりに飼料を除外した食糧のみによる総合自給率が発表され、1960年度91%、1984年度73%とされた。しかし、さすがに穀物自給率は隠しようがなく、1960年度83%、1984年度34%、1998年度(平成10)27%とされている。
農家戸数、農家人口そのものも減少を続けており、1960年の605.7万戸、3441万人から1999年の323万戸、1101万人となった。
しかし、政府はけっして農民保護をやめたわけではなく、それどころか、農民こそ財界と並んで自由民主党の二大支持基盤であるから、莫大(ばくだい)な赤字を抱える米の食糧管理制度はもちろん、農産物の自由化を進めるたびに(残存輸入制限品目は1962年103品目、86年22品目、99年5品目)農業補助金を増加してきた。1999年度予算中の農業補助金等予算は2兆1310億円(農業予算総額の62.6%)であった。
アメリカもEUも農民保護政策を行っており、日本政府だけがそれを行って悪いということはないが、問題は、補助金を増やせば増やすほど食糧自給率が低くなっていくところにある。その原因は、基本的に、伝統的な小農複合経営(中耕農業)を否定して、それを大型単作経営(休閑農業)の方向に誘導しようとする農政にある(たとえば、単作共同経営に対しては最高85%の補助金を出している)。単作経営はまた、連作と化学肥料専用により地味(ちみ)を劣化し、作物を病弱化し、農薬の多用を促している。
しかし最近、農家のなかに、補助金と化学肥料と農薬を拒否し、複合経営に戻ろうとする動きがみえ始め、消費者との産地直結(産直)運動がそれを支えている。1970年代初めには物好きの趣味とみられていた産直運動が、1980年代なかばには全国で400を超えるに至り、ますます増加する傾向を示している。
下がり続ける食糧自給率に対する国民の不安や、農業の担い手不足、農地面積の減少、農村の活力低下などの状況を背景に、農業基本法にかわる新しい基本法として、1999年「食料・農業・農村基本法」が成立・施行された。翌年この法律に基づき「食料・農業・農村基本計画」が策定され、食糧自給率の目標設定、食糧の安定供給、農地の確保、担い手の育成、農村振興等の計画が示された。
[飯沼二郎]
『飯沼二郎著『農業革命の研究』(1985・農山漁村文化協会)』▽『飯沼二郎著『増補 農業革命論』(1987・未来社)』▽『飯沼二郎著『風土と歴史』(岩波新書)』▽『E・ヴェルト著、藪内芳彦・飯沼二郎訳『農業文化の起源』(1968・岩波書店)』▽『C・O・サウアー著、竹内常行・斎藤晃吉訳『農業の起源』(1960・古今書院)』▽『N・I・ヴァヴィロフ著、中村英司訳『栽培植物発祥地の研究』(1980・八坂書房)』▽『中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)』▽『渡部忠世著『稲の道』(1977・日本放送出版協会)』▽『渡部忠世編『稲のアジア史』全3巻(1987・小学館)』▽『渡部忠世著『農は万年、亀のごとし』(1996・小学館)』▽『木下忠著『日本農耕技術の起源と伝統』(1985・雄山閣出版)』▽『佐々木高明著『縄文文化と日本人』(1986・小学館)』▽『『古島敏雄著作集6 日本農業技術史』(1975・東京大学出版会)』▽『大槻正男著『農業における労働生産性と雇用の問題』(『大槻正男著作集 第2巻』所収・1977・楽游書房)』▽『飯沼二郎著『日本農業の再発見』(1975・日本放送出版協会)』▽『『飯沼二郎著作集第3巻 農学研究』(1994・未来社)』▽『レスター・R・ブラウン、ハル・ケイン著、小島慶三訳『飢餓の世紀――食糧不足と人口爆発が世界を襲う』(1995・ダイヤモンド社)』
マルトンヌが考案した乾燥指数
世界における農法の区分〔図A〕
休閑農業と中耕農業における労働生産性〔…
鍬農耕文化複合と犂農耕文化複合
農業の第一次中心地と第二次中心地
三圃式農業における村落共同体の模式図
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字通「農」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…農業を勧めること。
【日本】
[古代]
律令政府はこれを〈勧課農桑〉と表現した。…
※「農業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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