精選版 日本国語大辞典 「近衛文麿」の意味・読み・例文・類語
このえ‐ふみまろ【近衛文麿】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)の長男として東京市に生まれる。母衍子(さわこ)は文麿の生後8日目に死去し、衍子の実妹前田貞子(ともこ)が篤麿の後妻となる。指揮者秀麿(ひでまろ)は異母弟。1904年(明治37)父が死去し、不幸な少年時代を過ごした。学習院初等科・中等科から第一高等学校、京都帝国大学法科大学に学んだ。京都帝大在学中の1913年(大正2)毛利千代子と結婚。河上肇(かわかみはじめ)の教えを受け、イギリスの作家オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳して『新思潮』1914年5月号と6月号に発表し、発売禁止処分を受けたこともある。卒業後内務省に入り、1919年西園寺公望(さいおんじきんもち)全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。五摂家(ごせっけ)の筆頭、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)から数えて46代目という名門の出身であるところから、若くして華族界のホープと目された。1916年10月満25歳になると同時に貴族院議員となり、1922年9月研究会入会を経て1927年(昭和2)11月火曜会を結成、1931年1月貴族院副議長、1933年6月同議長に就任した。若くして論文「英米本位の平和主義を排す」(『日本及日本人』1918年12月号)を発表し、「正義人道に本(もとづ)く世界各国民平等生存権の確立の為(ため)」、「英米本位の平和主義」と「経済的帝国主義を排して各国をして其(その)植民地を開放せしめ」、日本の進路を確保すべきであると論じていた。こうした現状打破的な考えから、満州事変や国際連盟脱退などの日本の政策を高く評価したことが、当時のファッショ化しつつあった時流に投じ、首相候補の一人に数えられるに至った。陸軍の皇道派に親近感をもち、1936年の二・二六事件直後には組閣の大命を受けたが、健康を理由に拝辞した。
翌1937年6月与望を担って第一次内閣を組織したが、7月7日に日中戦争が勃発(ぼっぱつ)した。政府は初め不拡大方針をとったが、軍部に押し切られて全面戦争に突入した。1938年1月16日「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明して平和への道を自ら閉ざし、11月3日「東亜新秩序建設」が日本の戦争目的であり、国民政府が「更生ノ実ヲ挙ゲ」てこれに参加するなら歓迎すると声明、さらに12月22日近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)を発表して汪兆銘(おうちょうめい)政権擁立工作を進め、中国侵略継続の意図を明らかにした。1939年1月総辞職して枢密院議長に就任、同時に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣の無任所大臣を務めた。1940年7月第二次内閣を組織し、新体制運動を展開して、10月大政翼賛会を結成、日本ファシズムの中心組織をつくりあげた。
また日独伊三国同盟締結後、日米交渉を進め、これに反対する松岡洋右(まつおかようすけ)外相を排除するためいったん総辞職、1941年7月第三次内閣を組織したが、東条英機(とうじょうひでき)陸相の反対にあって日米交渉は行き詰まり、10月総辞職した。
1944年東条内閣打倒を図り、1945年2月近衛上奏文を天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。敗戦後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣に副首相格の国務相として入閣、憲法改正などにあたったが、戦犯に指名され、12月16日服毒自殺した。長身端麗にして聡明(そうめい)、「聞き上手」は有名で多くの支持者を得た反面、気力と決断力に欠け、彼自身は内心日中戦争の拡大に賛成ではなかったが、断固たる処置をとらず、戦争拡大を許した政治責任は重大であった。
[木坂順一郎]
『矢部貞治著『近衛文麿』上下(1951~1952・近衛文麿伝記編纂刊行会)』▽『矢部貞治著『近衛文麿』(1958・時事通信社)』▽『共同通信社『近衛日記』編集委員会編『近衛日記』(1968・共同通信社開発局)』▽『筒井清忠著『近衛文麿――教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1891.10.12~1945.12.16
昭和前期の政治家。東京都出身。公爵近衛篤麿の長男。京大卒。1916年(大正5)から貴族院議員。19年のパリ講和会議に随員として参加。31年(昭和6)貴族院副議長,33年同議長となり,首相候補と目されるようになった。37年(昭和12)6月,第1次近衛内閣を組織。翌月盧溝橋事件が勃発して始まった日中戦争は,和平交渉に失敗して泥沼化した。40年に第2次近衛内閣を組織して新体制運動を展開,「革新」政策を実施した。対外的には日独伊三国同盟を締結して「南進」政策をとった。41年7月,対米調整に反対する松岡洋右外相を放逐するため総辞職し第3次近衛内閣を組閣。しかし南部仏印進駐により日米交渉を破局に陥れ,外交と開戦の二者択一を迫られて10月に総辞職。敗戦後,戦犯指定をうけ,自決。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…戦争終結をめざす民間人の動きは,1942年からあったが,いずれも政府を動かすにはいたらなかった。しかし日本の敗北が決定的となるにしたがい,近衛文麿らの宮中グループを中心とする和平工作活動が強まり,45年2月近衛は〈国体護持〉の立場から早期終戦を提案した近衛上奏文を天皇に提出した。5月のドイツ降伏を契機に,最高戦争指導会議構成員会議でソ連を仲介とする和平工作が検討され,東郷茂徳外相の委嘱をうけた広田弘毅元首相は,6月3日から駐日ソ連大使マリクY.A.Malik(1906‐80)との会談を開始した。…
…1940年に第2次世界大戦の拡大に対処して総力戦体制を急激につくりだすため近衛文麿を中心に推進された政治運動で,日本型のファシズム体制を確立させた。 第1次近衛内閣の末期からすでに日中戦争の行詰りを打開するため強力政権をつくろうとする新党運動ないし国民再組織の動きがおこっていた。…
…日中戦争開始後に設置された国務と統帥の連絡調整機関。日中開戦後国務(政府)と統帥(陸軍参謀本部と海軍軍令部)の矛盾対立,政戦両略の不一致に悩んだ近衛文麿首相は,首相の大本営出席を要求したが軍部に拒否され,政府はやむなく1937年11月20日大本営設置と同時にこの会議を設置した。おもな構成員は首相,外相,蔵相,陸相,海相,参謀総長,軍令部総長などであり,必要に応じて他の閣僚や枢密院議長などが出席し,とくに重要国策決定のさいには天皇が出席する御前会議として開催された。…
…英仏側が考えていたような賠償要求額は実行不可能であり,これが実行に移されれば,ドイツ経済を完全に破壊するばかりでなく,ヨーロッパ全体の経済を破壊してしまうであろう,と予言した。また,これとは別の視角からの批判として注目に値するのは,1918年11月に近衛文麿が雑誌《日本及日本人》に発表した論文《英米本位の平和主義を排す》である。この論文を近衛は,西園寺らに同行してパリ講和会議に出発する直前に執筆した。…
※「近衛文麿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
1 日が照っているのに、急に雨がぱらつくこと。日照り雨。2 夜、山野で狐火が連なって、嫁入り行列の提灯ちょうちんのように見えるもの。[類語](1)狐日和びより・天気雨・雨天・荒天・悪天・雨空・梅雨空・...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新