遊びは、生きるための日常生活と対置されるものである。日常の生活が、束縛され、生産的であり、目的をもったものであるのに対して、遊びは、自由で、非生産的で、目的をもたない。この実世界に対する虚(きょ)の世界としての遊びは、日常の世界から切り離された時間と空間のなかで確保される。競争的な遊びのように個人の能力差を完全に認めるか、逆に、偶然や運に基づく遊びのように能力差を否定するか、いずれにせよ、実社会にはない絶対的な平等条件がルールとして確立されていることが遊びの特徴である。遊びという虚構の世界で、自らを何かの象徴物と化し、ただの棒切れを名刀に化してしまう、これは人間の象徴的行動能力なくしてはなしえない。
[板橋作美]
人間はホモ・サピエンス(知恵の人)ではなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)であるとしたのはJ・ホイジンガである。遊びとは自由の行為であり、実生活の外にあり、物質的な利益や効用と無関係で、自らつくりだす限定された時間と空間のなかで、一定のルールに従って秩序正しく行われるものである。
これを批判的に継承したR・カイヨワは、自由で、隔離され、未確定の、非生産的な、ルールをもった虚構の活動が遊びであると定義した。遊びとは、人間の活動のうち生存に直接関与しないもの、労働から解放された自由な時間、つまり余暇の行動である。しかし、労働と余暇の境界はしばしばあいまいである。
遊びが日常性、つまり俗に対するものとするならば、聖(せい)との関係が問題になる。ホイジンガは、聖なる行為が、隔離された場所で特定の規律に従い、実生活の外の一時的な仮の世界で行われることから、遊びと聖なる行為の類似を指摘している。そのうえで彼は、遊びこそが人間の基本的行為であり、聖なる行為はその表現として表れたものと考えた。
しかし、これとは逆に、聖なる行為から遊びが発生したとする考えも成立する。日本には「神あそび」ということばがあるように、本来は神を遊ばせることが神まつりであったのが、のちには人間の側が遊ぶようになった。本来、日本の祭りは神を迎える厳粛な宵宮(宵祭り)と、無礼講(ぶれいこう)で騒ぐ本祭りからなるが、後者がしだいに祭りの中心行為へと移行してきたことが、それを端的に物語る。とくに子供の間に伝わる伝統的な遊びには、神事に起源をもつものが少なくない。
このように、遊びも、聖なる行為も、反日常性を特性としているため、形式上では区別しにくいということがいえよう。人類学者V・ターナーは、宗教儀礼が生み出す世界で人間はいっさいの日常世界の秩序から解放され、一個の人間としてその全体性を確保することができるといっているが、これはそのまま遊びにもあてはまる。カイヨワによれば、遊びと聖なる行為はともに日常(俗)生活と対置されるが、遊びと聖なる行為とは、俗なる行為を軸として対称的な位置にある。彼は、聖なるもの―世俗―遊び、というヒエラルキーを考える。遊びは世俗(生活)を恐れ、世俗は聖なるものを恐れ、逆に人間は、聖なる世界より俗世界が、さらに遊びの世界のほうが気楽であり、より自由であるとする。
[板橋作美]
カイヨワは、遊びを、アゴーン(競争)、アレア(機会、運、偶然)、ミミクリー(模擬)、イリンクス(眩暈(めまい))の4種に大別した。アゴーンは、人為的な平等の条件を設定して、そのもとで速さ、忍耐力、体力、記憶力、技、そして器用さなどを競う。スポーツや碁、将棋、チェスなどがこれにあたる。アレアとは、ラテン語のさいころ遊びであり、遊戯者の技能、知力、訓練などは意味をなさず、ただ運に頼るのみ、賭(か)けがその一例である。ミミクリーとは、遊戯者自身が自分を変身させる遊びで、子供の「ごっこ遊び」がその好例である。イリンクスは、めまいの追求、つまり知覚を不安に陥れ、意識にパニックを引き起こさせ失神状態を楽しむ。遊園地のジェットコースターなどの遊びがこれに属する。
カイヨワは、遊びのなかにパイディアとルドゥスという対立する概念を導入した。パイディアは解放、気晴らし、気ままなどの自由への欲求であり、逆にルドゥスとは困難、苦痛に喜びをみいだすことである。たとえば、ルールのない競争は前者の、サッカーなどスポーツ競技一般は後者の要素が大きい。
[板橋作美]
子供の遊びは、一人前の社会人になるための学習の意味も内包している。遊びを通して子供は肉体を鍛え、またルールに従うことを学ぶ。「ごっこ遊び」によって大人の役割や技術を習う。いくつか例をあげれば、南アフリカの採集狩猟民サンの男の子たちは、小さいときからおもちゃの弓矢をつくり、的に当てる競争をし、彼らの生活手段である狩猟の技術を修得していく。日本に子捕(こと)ろ子捕ろ(子とり)とよばれる遊びがある。親の役の子供の後に数人の子供が一列に並び、鬼が一番後の子供を捕まえようと追いかけ、親は両手を広げて子供をかばいながら逃げる遊びであるが、これに類似した遊びが世界各地にあり、ヨーロッパではキツネとガチョウ、中国ではタカとニワトリ、インドでは糸売り、イランではオオカミと子ヒツジ、メキシコではトムペーテの通り、北アメリカの先住民プエブロの社会ではコヨーテとヒツジなどとよばれている。
このようなちょっとした遊びも、子供にとっては身体的運動となっている。メキシコ南部のマヤ人のチャムラ村では、子供たちはイタチ遊びをする。4人の子供が人間、ニワトリ、イヌ、イタチの役になり、決まったせりふをいい、イタチの攻撃から人間とイヌがニワトリを守るドラマを演じる。この遊びは一面では身体的運動であるが、他方ではことば遊びでもあり、ことばの学習にもなっている。さらに、野生動物のイタチと家畜のニワトリ、イヌ、そして人間との対立から、チャムラの世界観にとって重要な自然と文化の対立を子供たちは学ぶと考えられる。一般に遊びには知力、体力、技術を競うものが多く、子供たちは遊びを通してそれらの力を磨くのである。
また、子供の遊びによくみられるものは大人の模倣である。東アフリカのンゴニ人では、男の子は首長や長老たちが行うのと同じように裁判ごっこをして遊び、女の子はトウモロコシの茎で小屋をつくったり穀粒をついて料理のまねをし、人形をつくって食物を与えたり、子守歌を歌ってあやしたりするなど、母親のまねをして遊ぶ。メラネシアのトロブリアンド諸島の子供たちは森の隠れた場所に棒や木の枝で小さな小屋をつくり、家庭生活のまねをして遊ぶ。一組の男の子と女の子が食物を用意し、夫婦ごっこをする。トロブリアンド諸島では子供の性的遊戯が許容されており、子どもたちは小さいときから遊びとして性行為のまねをする。また男の子たちが集まって、大人が行うクラ(首飾りと腕輪の儀礼的交換)やサガリ(食物分配の儀礼)のまねをして遊ぶこともある。このように、子供たちは遊びのなかで社会のしきたりを学んだり、大人の役割や義務を学ぶのである。しかし、子供の遊びを大人の遊びと同列に扱うことはできない。子供は社会に確たる位置を占めていない周辺的な存在であり、また子供にとって遊びは仕事でもあるからだ。大人は日常生活のあらゆる束縛から解放されて、自由になれるからこそ遊ぶのである。遊びのなかで、日常生活がもたらしたさまざまのストレスを解消させることができる。
遊びは、その非日常性のゆえに、秩序に支えられた世界では生じえない新しい創造力を生み出す力をもっている。学問や芸術にとって遊びの精神が重要だというのは、このことをさしている。
[板橋作美]
遊びとは何か、そして人間はなぜ遊ぶのか、などについては諸説があり、現在においても定説をみるまでには至っていない。しかし、人間は遊ぶ生命体であるということについては、古今異論はない。人間は時代のいかんを問わず、有史以前から遊んでいたわけで、日本には日本人なりの民族的固有の遊びがあったはずである。しかし、このような太古の世の遊びを知ることは不可能に等しい。考証的に可能なことは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古典的文献をひもときながら、遊事にちなんだ事項を丹念(たんねん)に収集することによって、その当時の様相を窺知(きち)することである。だが、この当時の諸文献の記載事項は、天皇・貴族階級つまり殿上人を中心とした記述が主であるところから、おのずと限界があり、一般民衆の生活や遊事の全貌(ぜんぼう)を知ることはきわめてむずかしい。
かかる世にあって、遊事を項目的に集録した名著がある。それは承平(じょうへい)年間(931~938)に成立したわが国最古の「百科事典」ともいえる『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(源順撰(みなもとのしたごうせん))である。本書「巻四雜藝(ぞうげい)類第四十四」に23種の遊びが記載してある。遊戯史研究の参考までに数種を示すなら、競馬(くらべうま)(和名久良閉宇麻=くらへうま)、鞦韆(しゅうせん)(和名由佐波利=ゆさはり。ブランコのこと)、雙六(すごろく)(俗云須久呂久=すくろく)、相撲(和名須末比=すまひ)など。さらに、「雜藝具四十五」に10種あげてある。数種を示すなら、鞠(まり)(和名萬利=まり)、紙老鴟(しろうし)(世間云師勞之=しろうし。凧(たこ)のこと)、獨樂(こま)(和名古末都玖利=こまつくり。こまのこと)など。記述内容はおもに名称についてであるが、わが国における遊戯史研究にはかけがえのない貴重な史(資)料文献である。
一般民衆の生活や遊事の様相が文献上に具体的に明記されるようになったのは、江戸期、とりわけ中期以降である。それらのなかには、遊事を集成した形での著作も刊行されるようになった。
後記参考文献を兼ね、前記同様江戸期・明治期の代表的名著をあげるなら下記のごとくである。
(1)『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』正徳(しょうとく)2年(1712)自序。寺島良安(てらじまりょうあん)著 本書は革新的教育思想家・直観教育の創始者でも知られ、かつ一世を風靡(ふうび)したかのJ・コメニウスの名著『世界図絵』Orbis sensualium pictusに匹敵する日本版といっても過言ではない、わが国最初の「図説百科事典」である。本書は105巻・81冊をもって刊行された大著であり、画期的労作である。その巻17「嬉戯(きぎ)類」が遊事をまとめ一部類として集成した巻で、総じて22種の遊事が記載してある。数種を示すなら、棊=ご(碁のこと)、象戯・象棊=しやうぎ(将棋のこと)、八道行成=やさすかり(十六武蔵(むさし)のこと)、彈碁=はじき(おはじきのこと)、樗蒱=かりた(カルタのこと)、海螺弄=ばいまはし(後世のべいごまのこと)など。記述内容は中国の文献をも引用し、歴史・遊具・遊事法についても言及してあり、当時の典型的伝承遊びの概要を窺知することができる。
(2)『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』文政13年(1830)自序。喜多村信節(のぶよ)著 本書は12巻・付録1巻よりなる大作で、その巻6下が「児戯部」である。本巻に230余種の遊事が記され、さらに巻4「雜技(ざつぎ)部」に150余種を記してある。それらのなかには、巻6下の記と多少重複する遊び種目もあるが、400余種にも及ぶ遊事種目を明記したのは本書が最初である。記述内容は多くの文献を引用し、かつ各地方の遊びの実態にも言及され、考証的見地からかなり詳述してある。したがって、本書は伝承遊び研究には欠かせぬ必読の名著といっても過言ではない。
(3)『守貞漫稿(もりさだまんこう)』嘉永(かえい)6年(1853)。喜田川守貞著 本書は前集巻30、後編巻4よりなる。明治の後年になり『類聚(るいじゅう)近世風俗志原名守貞漫稿』の書名にて刊行された。第25編が「遊戯部」で70余種の遊びを記し、第32編追補の項に10余種が記され、総じて80余種の遊事が記載してある。遊事の種目数・内容面においては、前記『嬉遊笑覧』に及ばない。しかし、著者喜田川守貞は、文化7年(1810)に大坂に生まれ、その後31歳で江戸に移住して生活しているところから、江戸中心の記述にとどまらず、京坂地方と比較しながら筆を進めている。この点は高く評価されてしかるべきである。
上記3書の記述を総括的にとらえることによって、江戸期における伝承遊びの種目・名称・遊具・史的背景などが推察される。
明治期は、江戸期の遊事をそのままの姿で継承した時代であるとともに、近代的遊びとの接点の時代であり、遊び近代化の黎明(れいめい)期でもあった。したがって、明治期における遊事の世界を、考現に基づく考証的見地から追究することは、伝承遊び研究のかなめであり、解明の鍵(かぎ)でもある。
「遊び」の概念をいかに規定するか、ということとかかわるが、それはともあれ、明治年間における遊びを多種にわたって記述した大著は、1910年(明治43)仁礼景助(にれけいすけ)著の『現代娯樂全集』である。本書はその書名が暗示するように、遊びを娯楽・レクリエーションの面から広義的・多面的に解し、800余の種目をあげ、概要的ではあるが遊び方についてもかなり詳述してある。したがって、本書の記述から明治期における遊事近代化の実相を推察することができる。
1896年(明治29)刊行の『酒席遊戯』は、(1)一人所作の部、(2)二人相戯の部、(3)数人共遊の部と、遊びを遊ぶ人数によって類別し、210種の遊びを図示しながら遊事法を明記してある。『酒席遊戯』というこれまで見聞したことのない書名であるが、記載されたそれらの遊事は、かならずしも酒席に限定された特有の遊びだけではなく、通俗的一般の遊事もかなり記述してある。しかもそれらのなかには、童遊びとして全国津々浦々に散見される遊事も記されてある。したがって、酒席という特殊な世界における大人の遊びと、子供たちの世界における童遊びとの相関関係を知るには、ほかに類例をみない貴重な珍本である。
[半澤敏郎]
遊びの実態を求めて、1968~1973年(昭和43~48)、男女別、時代別、都道府県別の全国調査を試みた。その結果、総人数2万0926人(男1万0064人、女1万0862人)の協力を得て、童遊びに関する貴重な資料を収集することができた。この調査結果を基にし、概要的ではあるが、童遊びの実態について一考を進めることにする(調査結果は『童遊(どうゆう)文化史』による)。
[半澤敏郎]
調査の結果4000以上の遊事名を手元に収集することができた。これらを、遊びの形式・方法の内容面と、遊具面とから類型的に分類し、それを男女別、時代別にまとめて頻数の多い50種目を選びだしてみた。その結果を極言するなら、童遊び100年(明治から昭和前期まで)の歩みと、その実体を把握することができた。
[半澤敏郎]
どんな遊びであろうと、それが成立するには時間と場所は絶対的必須(ひっす)条件であるが、これらの条件は、なんらかの形で制約を受け、かならずしも自由ではない。こうした制約のなかで、子供たちは遊びの場をどこに設定し、何時間ぐらい遊んでいたのか。
男児の場合、明治、大正、昭和前期、昭和後期を通じて空地(広場)が一貫して遊びの場として多用されてきた。
明治期 21.0%
大正期 19.9%
昭和前期 21.1%
昭和後期 25.0%
空地以外では路上が多く、とくに大正期、昭和前期はそれぞれ20.1%、20.5%と双方ともに上位を占めている。しかし、昭和後期になると13.2%に急低下し、かわって校庭が19.4%と上昇している。
女児の場合は、明治、大正期は部屋(39.2%、29.8%)が多く、時代が下がるにつれて校庭(昭和後期21.5%)、空地(昭和後期16.8%)が上位を占めるようになった。
また「遊びの時間」は、昭和後期になると急減した。男児を例にとると、2時間以上遊んでいるのが、明治33.5%、大正31.7%、昭和前期38.6%に対し、昭和後期になると23.8%となっている。この傾向は、女児も同様である。調査時以降、これらの遊びの場所と時間の制約はますます強化され、子供たちは遊びたくても遊ぶことのできない生活を余儀なくされているといっても過言ではない。
[半澤敏郎]
遊ぶということは「何か」をして遊ぶことであり、その「何か」を成立させるために必要な物が遊具である。換言するなら、子供たちの現実の世界と、夢の世界との掛け橋、つまり媒介的存在が遊具である。したがって、遊ぶ者が遊ぶために自ら創作するのが遊具本来の姿である。他方、遊具をつくることそれ自体が遊びでもあり、これがいわゆる創作の遊びである。子供たちはこの種の遊びを通じて創作の楽しみと喜びを満喫できるのである。しかし、創作の遊びは時代の推移に伴って漸次伝承の道を絶たれ、手作りの遊具による遊びは年ごとに姿を消すばかりである。したがって、もっぱら市販の既製玩具(がんぐ)を買い求め、それを操作することによって玩具に遊ばされている、という感を抱かないでもない。
以上、童遊びの実態を、遊び種目、遊びの時間と場所、遊具の面から簡述したにすぎないが、このことを総括的にとらえることによって、時代の推移に伴う遊事の変貌(へんぼう)の一端が窺知されよう。
[半澤敏郎]
遊びの名称、形式、方法、遊具面において、多かれ少なかれ変遷はあったものの、伝承遊びは即興的に創作された遊びではなく、伝承と継承との繰り返しによって、遊事生命を保持してきた遊びである。したがって、それぞれにそれなりの史的背景が秘められている。
このことを念頭に置き、前述の調査結果に基づいて「明治前期の遊び」を瞥見(べっけん)すると、新たに登場した遊びは、野球、それにちなんだボール投げ、幻灯などである。その他は明治以前の遊びを継承した、いわゆる伝承遊びである。一例をあげるなら相撲。「すもう」は往昔に「すまひ」とよばれ、系譜的には「力競(ちからくらべ)」が前身である。創始の時代は不詳であるが、記録的には神話時代にさかのぼる。『古事記』に「然欲為力競(しからばちからくらべせん)」とあり、『日本書紀』に「頓得争力焉(ひたぶるにちからくらべせん)」、「令角力(すまひとらしむ)」(ここでは「角」の字を使ったが、『日本書紀』では手へんに角の字をあてている)、「相撲於翹岐前(ぎょうきがまえにすまひとらしむ)」とある。以下、参考までに周知の遊事名をあげるなら、同書に、雙六(すごろく)、木登り、弓などがあり、『万葉集』には雙六、乗馬(走馬)、雪遊び、草花摘みなどが明記されている。これらの遊びは、時代的に盛衰はあったものの、その名称のままに継承され、現在も遊事生命を保持し、各地に散見される。
しかし、同じ名称の遊びでありながら、その形式、方法や遊具面において、完全に変身した遊びも数多くある。このことは、単なる遊びの現象的変遷だけではなく、遊びと人間とのかかわりをも変化させ、新たな遊びの世界をつくりあげてきた。その典型的時代は明治期で、遊戯史上かつてみることのなかった、子供の世界と遊びの世界を形成した。それは明治の文明開化の思想と相まって、1872年(明治5)に公布された「学制」に基づく学校教育が一大要因である。つまり子供の管理下にあった遊びの世界が、中央集権に基づいた教育意図のもとで管理されるようになったのである。その結果、遊びたいから遊ぶという遊び本来の姿から、教育的遊びの世界へと無意識のうちに移行させられ、変身を余儀なくされたのである。その是非はともあれ、これが近代的遊びの一大変革であり特性でもある。
[半澤敏郎]
伝承遊びの史的背景考察の一事例として、わが国最古の室内遊戯、盤上遊戯とされる双六遊びを取り上げてみる。双六はいつごろ日本に伝来されたか不詳である。双六の2文字が明記された最古の文献は『日本書紀』で、同書に「禁断雙六(すごろくをきんだんす)」とある。当時(持統天皇3年=689年)すでに双六遊びの禁令が発せられるほどにまで流布し、盛況を呈していたことから、その伝来はかなり以前であったことは疑う余地がない。
ところで、双六といえば、だれもが絵の描かれた紙上での双六遊びを思い起こすであろうが、『日本書紀』に記載の双六は、盤上遊戯の一種で、俗にいう盤双六であり、これが双六本来の姿で、しかも大人中心の賭博(とばく)戯の一種であった。それが室町中期以降になり、盤にかわって紙双六(文字双六)が創作された。当初の紙双六がどんな形式・内容のものであったかつまびらかでないが、現存の資料を基に推考するなら、紙面を枡目(ますめ)で区画し、そこに文字を書き入れた文字双六であったことは確かである。仏法双六、官位双六の類がこのことを実証している。その後この文字双六にそれなりの絵が添えられるようになるや、これを契機に各種各様の新たな絵双六が創案されるようになった。それにつれて、浮世絵界を代表する著名な絵師たち、たとえば歌川豊国(とよくに)、葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(ひろしげ)などによる、絵双六が市販されるようになった。まさに「日本の遊具の美」の典型といっても過言ではない。こうして、絵双六は民衆の人気と好評を博し、江戸後期に最盛期を迎えた。
かかる風潮は明治の世にも継承されたが、やがて絵双六の内容構成に一大転換が余儀なくされ、明治ならではの新たな絵双六の世界が形成されるようになった。それは、国粋主義と軍国主義のもとに、八紘一宇(はっこういちう)を錦(にしき)の御旗(みはた)として掲げ、忠孝一本の富国強兵策を意図した、明治の教育理念に基づく「教育双六」が創案されたことである。このことにちなんで、これまで調査した1000余点の絵双六のなかから、おもな双六名のみを示すにとどめるが、それらの名称から教育双六の内容のなんたるかを推察されたい。
教育勅語雙六(すごろく)、少女教訓日本孝女雙六、女子教育双六、女子教育お稽古(けいこ)雙六などの教訓双六。小学校教授双六、児童教育双六、単語の図寿古呂久(すごろく)などの学習双六。日清(にっしん)双六、征清双六、日露戦争雙六、軍事教練双六などの戦争双六。また地理や歴史にちなんだ各種双六などである。
こうした双六の内容構成の変身傾向は、大正、昭和へと時代が進むにつれてますます顕著になり、本来は大人の遊びで、しかも賭博性の濃厚な双六遊びは、完全に子供の遊びに変貌し、彼らによって管理される遊びとなった。したがって、最古の盤上遊戯であった盤双六は姿を消すことになり、現在では盤双六の名称すら知る人はまれになっている。ほかの伝承遊びも大同小異で、双六と同じような道をたどっている。
[半澤敏郎]
明治になってからの新しい遊びは、野球、ボール投げ、ビー玉、スキー、スケート、ドッジボール、テニス型の遊び、ゴム風船などである。これらの遊びを総括的に考えてみると、渡来遊具によってもたらされた新たな遊びであることがわかる。これまでの日本における伝承遊びの遊具を素材の面から分類すると、木製、竹製、紙製、布製、土製などであり、渡来遊具は金属製、ゴム製、セルロイド製などで、かつてのわが国の伝承遊具にはなかった素材である。このことによって、伝承遊びと渡来遊びとを併合させた複合型の新たな遊び、換言するなら、和洋折衷型の遊びが創案され、新たな遊びの世界が形成された。このことは伝承遊びの変身でもあり、同時に遊びの近代化としてとらえることができる。ビー玉遊びはその好例である。
ビー玉遊びは、名称的にも遊具面においても、江戸期までの伝承遊びにはみられなかった遊びである。ビー玉とは、ビードロvidro(ポルトガル語)の玉、つまりガラス玉のことである。ガラス製品はギヤマンdiamant(オランダ語)の名でもよばれ、江戸期には南蛮渡来の高価な品として人気を博し、きわめて珍重されていた。明治期になってガラス製品が多量に国産化され、中期ごろには遊具としてのビー玉までが量産化されるようになり、ビー玉遊びは男児の代表的遊びとして完全に定着した。しかし、ビー玉遊びとして定型的な遊び方があったわけではない。また名称的にも地方的別称が多く、統一的呼称があったわけでもない。ビー玉遊びを内容面からみると、的中(てきちゅう)と投入(とうにゅう)の遊びであり、小石、木の実、貝殻、絵銭(えせん/えぜに)、泥面子(どろめんこ)などを遊具とし、「あないち(穴一)」「きず」「寄せ」「当て」などの名称で江戸期にも行われていた伝承遊びである。
さらにそれらの前身を探るなら、古代中国において、紀元前100年ごろすでに行われていた、銭を投げて当て合う意銭(ぜにうち)(銭打)の遊びがそれである。したがってビー玉遊びは、名称、遊具を異にするものの、系譜的には伝承遊びの変身した遊びと解されるべきである。ビー玉遊びのこの一事例から、各種各様の伝承遊びには、それぞれにたどってきた変遷の道があり、それなりの史的背景が秘められていることは十分うかがえる。
[半澤敏郎]
これまでの考察を踏まえて、伝承遊びの史的変遷過程を次の4期に大別し、その概要の一端を述べることにする。
[半澤敏郎]
日本に新たな遊びが伝来し、わが国固有の遊びに画期的一大変遷をもたらしたのは、大陸文化の渡来に始まる。とりわけ6世紀末の隋(ずい)・唐からの中国文化伝来の影響は多大である。先にあげた双六、意銭をはじめとし、囲碁、将棋、弾棊(だんぎ)、唸り独楽(うなりごま)などはその好例である。
[半澤敏郎]
1543年(天文12)ポルトガル船が種子島(たねがしま)に漂着したのを契機に、その後のルソン船、イスパニア船、オランダ船などの渡来に伴う南蛮文化の伝来である。他方、庶民的江戸文化が進展するにつれて、変身した遊びや遊具が創作され、庶民的遊びの新たな世界が形成された。俗に「カルタ」の名称でよばれるカード遊び、紙双六、小将棋(詰め将棋)、投扇興(とうせんきょう)、十六武蔵(むさし)、花火など枚挙にいとまがない。
[半澤敏郎]
1871年(明治4)の散髪脱刀令が物語るように、文明開化一色の明治の世である。一方、明治思想と富国強兵を中心とした国策は、遊びの世界にも多大の影響を与えて、新たな遊びを形成した。
[半澤敏郎]
昭和後期、とりわけ昭和50年(1975)以降である。それまでは、遊びの形式、方法や遊具面において、時代的変遷や盛衰のあったことは既述のとおりである。それでも伝承遊びはなんらかの形で継承され、遊事生命を保持してきた。しかし、昭和後期以降、伝承遊びは年ごとに姿を消すばかりで、なかには完全に遊事生命を失った遊びも少なからずみられる。それにかわって現在は、マイクロコンピュータを使ったテレビゲームなど、高価なエレクトロニクス玩具を使っての室内遊びが中心になってきている。こうした遊具の近代化は、単に遊びの現象的な面での変遷だけではない。子供たちの生活はもちろんのこと、彼らの世界それ自体の変容を余儀なくしたのである。遊びの世界と子供の世界が、今後一大転換期を迎えることは確かである。たとえば、1999年に世界初のロボット玩具(ロボット犬)が創作され、限定発売されたことはその好事例である。おそらくこのことが一大契機となり、ロボット玩具の新たな時代を迎えるであろうことは十分思惟(しい)される。その反面かつての子供たちの世界には、餓鬼(がき)大将を中心とした、彼ら自身の管理する世界と遊びがあった。このような遊びの世の到来を、夢ならぬ夢として再現することは無理であろうかという想念を抱かないでもない。
[半澤敏郎]
『J・ホイジンガ著、高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)』▽『R・カイヨワ著、多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』(講談社文庫)』▽『青柳まちこ著『遊びの文化人類学』(1977・講談社)』▽『半澤敏郎著『童遊文化史』4巻・別巻1(1980・東京書籍)』▽『日本レクリエーション協会監修『遊びの大事典』2巻(1989・東京書籍)』▽『山田敏編著『遊び研究文献目録』(1996・風間書房)』