中国の地方行政区画制度。厳密には秦から唐初まで郡県制が実施され,それ以後は州県制に代わるが,ここでは一つに取り扱う。郡県は周代の封建に対する語。周では王族,功臣らに土地が分封,世襲されたが,前221年,秦の始皇帝は国土をすべて皇帝直轄地とし,中央から官員を任命して統治する郡県制に改めた。起源的には県は秦の武公の10年(前688)に,〈冀の戎(じゆう)を伐(う)って初めてこれを県にする〉と《史記》に見えるのが最も古い。秦,楚,斉などの大国は,領内の新開地を直轄地として中央に懸(か)ける意味で県と呼んだ。これがしだいに封邑の再編成にも使われ,秦の孝公時代には封建領地に41の県が作られている(前350)。郡はさらに辺境の未開地の区域名であったようで,前493年の《春秋左氏伝》の記事が最も古い。郡が開発されてゆくと,その下にいくつか県が置かれ,やがて郡県の上下関係ができたと想定される。こうした趨勢を一気に全国に拡大したのが秦の始皇帝で,全国を36の郡(のち48まで増加)に分け,数多くの県を統轄させた。この郡県には中央の丞相(民政),太尉(軍政),御史(監察)に対応して,郡守,郡尉,監御史と県令,県尉,県丞の官が置かれた。
この改革があまりに性急であったため,秦をついだ漢は封建制の封国を加味した郡国制を敷き,郡と同格の王国,県と同格の侯国を設けたが,武帝の時代には実質的には郡県制と大差なくなった。紀元2年(元始2)の統計では郡国103(王国20),県など1578(侯国241)を数える。武帝の前106年(元封5),全国は13の州部に分けられ,刺史を置いて郡県を監督することが始まった。州はやがて郡の上級区画としての性格を強くするが,4世紀以後,異民族の侵入,国内の分裂とともに地方行政区画も混乱し始める。とくに中原から江南に逃れた漢民族支配階級は故郷と同名の郡県を創置し,一方,州の数もいちじるしく増加した。南北を再統一した隋の文帝は583年(開皇3),241州608郡をあわせ,190州1255県に整理した。唐代一時的に郡が復された期間もあったが,こののち郡県は州県へと変わる。
さらに唐以後は,州の特殊なものを府,監,軍などに分けることも一般化した。唐代740年(開元28),州は328,県は1573あった。なお漢の刺史州部に相当する郡県を統轄する監察区画として唐は道(10~15),宋では路(15~23)を設けたが,元になって行省(こうしよう)ができると,それが最高の行政区画となり,その下が路,府州,県の3段階に変わった。明・清から民国時代までは省(本部18)の下で府州・県制がしかれ,明代では府140,州193,県1138を数える。民国に入って府は廃され,人民共和国はかつての府州に代わって専区,現在は地区制を採用し,省直轄市と地区が県を統轄している。清代以来領域が拡大したため,省,県の数は増加し,1983年現在,省は30,地区178,県級2080がある。唐以後,州県は人口,重要度により等級が設けられることが定制化したが,県は人口1万,方40kmが平均であった。
執筆者:梅原 郁
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中国、周の封建制が崩壊するなかで、春秋期以降に現れ、秦(しん)朝に確立した行政制度。『史記』秦本紀にみえる武公10年(前688)の記録が初見であるが、その後は『春秋左氏伝』などにも頻出する。最初は辺境地方に郡や県が顕著に現れるが、しだいに中原(ちゅうげん)諸国にも県設置がなされる。春秋の県は後の郡県制のそれとは違って、周代封建制の封邑(ほうゆう)と本質的には変わらない。郡県制の県は、秦の孝公が商鞅(しょうおう)を登用して、41県を咸陽(かんよう)を中心とする地方に配置したのが始まりと考えてよい。郡については、秦国では他国を併合したときその領域を郡と称している場合が多く、そののちに県を置くようになる。したがって最初から郡県が上下の統属関係として設けられたわけではない。整備されたのは秦の始皇帝の時代である。
商鞅の県制の内容をみると、彼は、君主が直接人民を支配できる場として県を想定していたことがわかる。「小都、郷邑、聚(しゅう)を集めて」県とした(『史記』「商君列伝」)というように大族を分解し、おもに開拓地を中心に成立した小邑群を集めて、中央政府直轄の県を設けたのである。郷とか聚の基本単元は『管子』では軌であり、商鞅では伍(ご)であり、睡虎地(すいこち)秦墓竹簡の示すところでは隣であり、いずれも小宗族(そうぞく)であると考えられる。伍は5戸によって構成されるが、商鞅によって戸別直接支配を意図したものの、そこまで支配できず、伍制という宗族の小単位把握にとどまったものである。その意味では商鞅の意図にもかかわらず「変法」による県制の成立は封建制の改編という結果に終わったといえよう。
秦の始皇帝の天下統一によって郡県制は全国に及ぼされた。紀元前221年には東方6国を滅ぼし、36郡を設けて行政を統括した。郡には郡守、郡尉、郡監を置き、県には県令、県尉、県丞(けんじょう)を置いて、行政、軍事、監察の分野をそれぞれ担当した。彼らは中央派遣で地位を世襲することなく、随時転任させられた。したがって原則的には、周代にみる職官、土地を基本とする封建制は消滅したのである。しかし、県の下部単位の郷には父老、里には里典、伍には伍老などの宗族の代表者があって、官吏と共同して統治しているという実状にあった。秦朝の中央集権体制もこのような意味では小宗族の群に支えられているのであって、封建制の再編という結果は先の「変法」の場合と同様である。
漢の高祖は官制など多くの面で秦制を踏襲しながらも、権力奪取の必要から異姓、同姓の諸侯を封国せざるをえなかった。これが郡国制である。異姓諸侯は高祖死去までにほとんど排除したが、同姓諸侯は文帝、景帝を経てようやくこの分権勢力を弱化することができた。郡県制が前漢中期に完成したといえよう。後漢(ごかん)を通じて郡県制は宗族を核とする豪族層によって支えられた。王朝はこれによって文治政治を達成することができた。魏晋(ぎしん)南北朝に入ると郡県の名はあるが、実体はなくなった。漢族が南渡すると本籍地の郡県を寄留地に設けたため混乱を起こすに至った。隋(ずい)の文帝はこのため郡を廃して州の下に県を直属させることにしたので郡県制は終わった。
[好並隆司]
中国の中央集権的な地方統治の機構。秦が天下を統一して,のち(前220年)全国的に施行したが,その萌芽は戦国時代の各国にみられる。秦の郡県制は全国を36郡(のちに48郡)に分け,郡の下に多くの県を設け,郡に郡守,郡尉,監御史(かんぎょし),県に県令,県尉,県丞(けんじょう)を置き,民政,軍事,監察の3権を分掌させ,これを中央が統轄した。漢初ではこれに封建制を併用した郡国制をしき,武帝のときさらに州を加え,やがて州郡県制となった。隋では郡を廃して州県制,唐では道,宋では路,元では省が,かつての郡の単位として設けられるなど,時世の推移に応じて変遷しているが,郡県制的な行政区画を通じての地方統治方式に変わりはなく,清末まで続いた。
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…したがって近代になって日本人に知られるようになった,日本とはひじょうに異なる朝鮮の親族・家族制度は歴史とともに古いものではなく,国家の政策や社会のあり方に対応して変遷をたどってきた,すぐれて歴史的な産物であった。(3)独特の郡県制 支配層のあり方と,民衆の親族・家族制度のあり方とを結びつけるパイプの一つである地方行政制度も,時代によって大きく異なっている。前近代の地方行政制度でもっとも興味深いのは,高麗時代の郡県制である。…
…その間,高祖や武帝を筆頭に文帝,宣帝,光武帝などのすぐれた為政者が現れてよく治世につとめたため,秦の始皇帝の描いた統一国家の理想は漢によって実現されたのみならず深く根をおろし,それはたんに政治のみならず文化,社会などの上でも中国の基礎をきずいた。なかでもとくに注目されるのは皇帝による中央集権的な官僚制と郡県制の施行であり,さらには儒教の国教化である。その後2000年にわたる中国において,前者は中国の政治組織の基本形態として継承され,後者は各王朝の国教として政治・社会の指導理念となり,学術・思想など精神文化を規律した。…
… 帝国は五行のうちの水徳となし,これにもとづき歳首は十月,黒色を尊び,数は6をもって文物制度を規格し,黄河を徳水と名をあらため,また庶民を黔首(けんしゆ)(黒頭)と呼んだ。天下を36郡に区画し,領土の拡張に伴い42郡,さらに48郡に編成し,郡県制を全国に施行した。郡ごとに守(民政)とその丞(補佐),尉(軍政)とその丞および監(監察)を,県には令(または長,民政),丞および尉を置き,いずれも中央政府から派遣する中央集権体制を確立し,また什伍の法を全土に適用させた。…
…地方を貴族に与え領地として支配させる封建制に代わり,郡県として地方官を派遣して支配するようになる。これを郡県制とよび,秦・漢以後の地方行政の基本となるものであり,春秋後半には開始される。戦国初期の魏の文侯が政治改革に登用した李悝や西門豹などは官僚の先駆である。…
…前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し,中国最初の統一帝国となる。統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制を制定,官僚組織を整備するなど中央集権的国家体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになる。また秦は法律による統治を理想として,法家思想に基づく信賞必罰主義をとった。…
…それが徳の対立物たる〈力〉主義によって陥った〈戦国〉の分裂抗争という過渡期(春秋戦国時代)を秦の始皇帝が再び統一(前221)して以後の郡県の時代,これは法律と官僚の支配した中央集権の時代。秦以後,清朝の滅亡(1911)まで2000年,郡県の制度というものはもはや動かすべからざる情勢となったが,しかも国家の教学としては道徳と礼楽を原則とする儒教が採られたので,聖人たる周公の定めたところであり,儒教経典の記載するところである封建の世は後々まで政治の理想としての魅力を失わず,封建に帰れ,とか,郡県制の中に封建の意を寓せしめよ,とかの声は事あるごとに繰り返された。徳川時代の漢学者の中には,郡県制下の中国よりも日本の方が優越している,なぜなら封建制だから,と主張したものもあった。…
…
[秦・漢時代]
秦はわずかに15年間で終わったが,始皇帝は後の中国の国家体制に決定的な刻印を残した。それは周の封建制を廃して郡県制を樹立したことである。周の封建制では,諸侯はもちろん,その家臣の大夫や士もその身分を世襲した。…
…したがって近代になって日本人に知られるようになった,日本とはひじょうに異なる朝鮮の親族・家族制度は歴史とともに古いものではなく,国家の政策や社会のあり方に対応して変遷をたどってきた,すぐれて歴史的な産物であった。(3)独特の郡県制 支配層のあり方と,民衆の親族・家族制度のあり方とを結びつけるパイプの一つである地方行政制度も,時代によって大きく異なっている。前近代の地方行政制度でもっとも興味深いのは,高麗時代の郡県制である。…
※「郡県制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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