被差別部落(同和地区)およびその出身者に対する差別の撤廃(部落問題の解決)すなわち被差別部落の完全解放をめざす自主的・大衆的な社会運動。その本格的な展開は1922年(大正11)に全国水平社(水平社)が創立されてからであるが,それ以前にも部落差別の解消・撤廃を求める動きはあった。解放運動の歩みと密接な関係をもつ被差別部落の全体的な歴史については〈被差別部落〉の項目を参照されたい。ここでは,おもに近代以降における部落解放運動の歴史を述べる。
前近代の幕藩体制の下でも,封建的身分制度の最下層に組み込まれた賤民身分の人々は,人間としての自覚を強め,身分の廃止を求めて努力したたかった。とくに江戸時代後期には,岡山藩で起こった渋染一揆をはじめ,厳しい支配と差別に対する抵抗が強まった。また幕末期には,加賀藩の千秋藤篤(有磯)や日出(ひじ)藩の帆足万里らが身分解放論を唱え,明治維新期には,加藤弘之や大江卓らが賤民身分の廃止を主張した。明治政府は1871年(明治4),その富国強兵政策の一環として,太政官布告により封建的賤民身分の廃止を宣言した(いわゆる〈解放令〉)。この布告によって,封建的身分制における賤民身分は廃止され,以後の部落解放運動のよりどころの一つとなったが,同時に明治維新が近代的な改革として不十分であったことに関連して,旧賤民身分の人々に対する差別は解消せず,〈新平民〉などの差別呼称による新たな差別の出発点となった。〈解放令〉によって〈平民同様〉とされた被差別部落の人々は,各地で村行政,寺社の祭礼,さらに学校教育などにかかわるさまざまの差別に反対し,人間(村民)としての平等の扱いを求める運動を起こした。明治政府の富国強兵政策に対抗した自由民権運動には,これと結びついて自由・平等の実現をはかろうとする被差別部落もあらわれた。福岡,熊本,大分県の被差別部落有志は81年に復権同盟を結成して〈国民当然の権利〉の回復をはかった。同年には兵庫県内の被差別部落が,神社の祭礼への平等な参加を要求して裁判所に訴え,翌年自由党に大挙入党した。また神奈川県内(現在は東京都)の被差別部落でも,指導者が自由党に参加して,三多摩地方の自由民権運動に一定の役割を担った。しかし,自由民権運動の側は部落問題をみずからの主要な課題とするにはいたらなかった。その中で,中江兆民は88年に《新民世界》を書き,民主主義と平等社会の実現における部落解放の意義を明らかにし,近代の部落解放思想の一源流となった。兆民は90年,大阪の被差別部落の後援をも受けて,第1回衆議院議員総選挙に当選した。兆民の死後,その遺志は門下生の前田三遊らに受けつがれた。
資本主義の発達にともなって被差別部落の内部でも階層分化が進み,部落の貧困化によって差別が厳しさを増した。こうした状態の中で日清戦争の前後から,各地の被差別部落で有産者層を中心に自主的な部落改善運動が起こされた。この運動は差別の原因が被差別部落の側にあるとし,まず生活改善と風俗改良に努めて差別の解消をはかろうというものであった。岡山県の三好伊平次らが1902年に組織した備作平民会のように,各地に部落改善団体が設立され,翌年にはその代表者が大阪で大日本同胞融和会を開いて運動の拡大をはかった。このような自主的な部落改善運動が差別の原因を社会の側に見いだし,反体制の方向に進むことを恐れた政府は,日露戦争後,地方改良運動の一環として部落改善政策を進め,上から指導・統制する部落改善団体をつくらせていった。しかし差別の責任を被差別部落の側に押しつけるだけでは被差別部落の人々の支持を得られなくなり,1910年の大逆事件の衝撃もあって,明治末期からは被差別部落外の人々にも差別の反省を促し,被差別部落出身者への同情融和を求める融和政策がとられはじめた。1914年(大正3),大江天也(卓)らは帝国公道会を設立して,融和運動にのりだした。
1918年の米騒動には各地で多数の被差別部落住民が参加した。厳しい差別と貧しい生活に対する反発からであった。政府は大きな衝撃を受け,社会政策の一環として融和政策に力を入れはじめた。また帝国公道会は,19年と21年の2回にわたって東京で同情融和大会を開き,各府県にも融和団体が設立されていった。しかし被差別部落の人々は,米騒動とその後の社会運動の発展,またロシア革命や民族自決の思想の影響もあって,人間の誇りと勤労者の自覚を強め,恩恵的な部落改善や欺瞞(ぎまん)的な同情融和を批判して,自主的な解放の必要を強く意識するようになった。21年,当時,社会主義者で早大教授の佐野学が雑誌《解放》に発表した《特殊部落民解放論》は,被差別部落出身者自身の自主的な解放運動と,無産者運動との連携の必要を主張して,この方向をめざす被差別部落の人々に強い刺激を与えた。
こうして1922年3月3日,〈6000部落300万人〉の解放をめざす全国水平社の創立大会が京都で開かれ,部落解放運動の本格的な歩みが開始された。西光万吉(さいこうまんきち)の起草になる〈水平社宣言〉は,人間の尊厳,自由・平等の原理にもとづいて一切の差別・抑圧とたたかい,被差別部落の人々だけでなく全人類の人間解放をめざす決意を明らかにした。全国水平社の創立が〈日本における人権宣言の日〉といわれるゆえんである。
全国水平社の初期の運動は,部落差別の原因が人々の因襲的な観念にあると考え,これを打破するために徹底的糾弾の戦術をとった。この差別糾弾闘争は,差別した個人はもとより,国家権力による差別に対しても行われ,多くの被差別部落の人々を奮起させた。やがて,部落差別が政治・経済・社会的諸関係に根ざすことに注目するようになり,階級的な観点から政治・経済闘争を展開し,労働者・農民の運動と結合する方向へと進んだ。また植民地朝鮮の衡平社の運動(衡平運動)との連帯もはかられた。しかし,全国水平社の階級闘争への進出は,おりからの社会主義運動をめぐるアナ・ボル論争の影響も加わって,反対の意見も強く,その一部は1927年(昭和2),〈純水平運動〉を標榜して別に日本水平社を結成した。また28年の三・一五事件と29年の四・一六事件の日本共産党に対する大弾圧によって,水平社運動の活動家も多数検挙・投獄された。30年の昭和恐慌が被差別部落の生活と経済にも深刻な打撃を与える中で,水平社運動の階級闘争への傾斜はさらに強まり,31年の全国水平社第10回大会では,左派から水平社解消の意見も提出された。32年,政府の農山漁村経済更生運動の一環として,融和運動(中央融和事業協会)が部落経済更生運動を展開した。全国水平社も先の解消意見を克服して,33年の第11回大会では,生活改善と差別撤廃の闘争を通じて労農運動との連携をはかるという部落委員会活動の方針が採用された。身分闘争と階級闘争を統一させるこの新方針は,同年の高松地方裁判所による差別判決(被差別部落の青年が,その出身を秘して婚約したことが結婚誘拐罪にあたるとされた)に対する糾弾闘争に実質的に勝利したことによって,その正しさが証明され,全国水平社の運動と組織は全国の部落の人々の60%を影響下に置くほどに拡大・発展をとげた。
こうして全国水平社は,おりからのファシズムと戦争政策に反対する民衆のたたかいに重要な役割を果たした。また政府・融和団体の融和事業の不十分さ,欺瞞性とファッショ性に鋭い批判を加え,部落問題の根本的な解決のための徹底的な対策を要求した。しかし1937年,日中戦争の全面化にともない,水平社運動は後退を余儀なくされ,国家総動員体制に接近する動きも生まれたが,全国水平社自体はなお荆冠旗を掲げつづけ,42年思想結社の届出をしないまま自然解消の道を選ぶことによって抵抗の姿勢を示した。
第2次大戦後,労働者・農民の運動をはじめさまざまの社会運動が復活する動きの中で,部落解放運動も再発足した。1946年(昭和21)2月,松本治一郎,朝田善之助,北原泰作ら旧水平社運動と,武内了温,梅原真隆,山本政夫ら旧融和運動の各指導者が発起人となり,両者の大同団結の下に全国水平社の伝統を受け継いで部落解放全国委員会(解放委員会)が結成された。解放委員会は,財閥資本に奪われた産業の奪還と部落産業の全面的振興を訴え,また日本国憲法の制定にあたり,華族制度の廃止と身分差別の撤廃などを積極的に主張した。しかし,民主化の徹底による部落解放を求めはしたが,極度のインフレに困窮する被差別部落の人びとの生活要求を,差別の撤廃に向けて組織したたかう力は弱かった。
やがて1951年,京都市の職員が雑誌《オール・ロマンス》に市内の被差別部落の実情を誇張し,その住民を犯罪者のように描いた差別小説を載せたことに対し,解放委員会は,被差別部落の劣悪な生活の実態こそ差別のあらわれであり,差別観念を生み出す根元であり,行政の停滞と怠慢が差別を温存させてきた大きな原因であると,市当局の責任を鋭く追及した。この《オール・ロマンス》事件以後,部落解放運動は地方公共団体に対する行政闘争の展開によって発展をとげ,組織も拡大した。また,各地の学校教育の場における差別事件を通して,被差別部落の学童が義務教育の過程においてさえ差別を受け,進学,就職などの進路を保障されていない実態が明らかにされた。52年,広島県の吉和中学校における差別事件を契機に,同和教育は被差別部落の学童の進路を保障し,教育行政の責任と課題を提起していく運動として質的な転換をとげ,53年には全国同和教育研究協議会が結成された。
解放委員会は1955年,大衆組織にふさわしい部落解放同盟(解放同盟)と改称した。解放同盟は58年から〈部落問題を全国民の課題へ〉というスローガンの下に,日本社会党,日本共産党などの革新政党や民主団体,地方公共団体と共同して,部落解放国策樹立要求運動を展開した。また57-58年の勤評闘争,60年の安保闘争,三井三池争議支援などに積極的に参加した。部落解放国策樹立要求運動の成果として,60年内閣に同和対策審議会の設置が決まり,65年に同審議会の答申(同対審答申)が提出された。答申は人権問題としての部落差別の厳存を公に認め,〈その早急な解決こそ国の責務であり,同時に国民的課題である〉という認識を明らかにした。解放同盟はこの答申の完全実施を求めて,政府と国会に対する要請と請願の運動をくりかえし,広く世論にも訴える活動を行った。こうして69年に同和対策事業特別措置法(1982年地域改善対策特別措置法に継承)が公布された。同法はさまざまな問題を内包するものの,これにもとづく同和対策事業の実施によって,部落問題の改善は進捗(しんちよく)をみせた。しかし,60年代の狭山事件,70年代の《部落地名総鑑》問題など,部落差別事件はあとをたたず,現在でも,生活・環境・仕事・教育の改善の遅れている地域が少なくない。そこで解放同盟は,地域改善対策特別措置法の期限切れ(1987)後を展望して,部落解放基本法の制定要求運動に取り組みはじめている。
解放同盟が部落解放国策樹立要求運動を展開中の1960年,自由民主党の影響の下に融和運動家や解放同盟の離脱者が集まって全日本同和会(同和会)を結成した。同和会は革新的な部落解放運動に反対する立場から,〈対話と協調〉を基本に同和問題(部落問題)の解消をめざした。また解放同盟の内部では,行政闘争の方針,〈政党支持の自由〉問題,同対審答申の評価などについて意見の対立が激しくなり,さらに日本社会党,日本共産党,民社党など革新政党の動向の影響も加わり,1965年の第20回大会においてその対立が表面化した。この対立は69年の〈矢田事件〉,74年の〈八鹿(ようか)高校事件〉などを経てさらに激しさを増した。この間に,中央本部の方針に批判的な同盟員は日本共産党の影響下にある人々が中心になって,70年,部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連)を組織し,76年には全国部落解放運動連合会(全解連)を結成した。
全解連は,戦後日本の民主化の進展の中で,部落差別は基本的には解消の方向に進みつつあるとして,〈封建的身分差別の残存物の根絶と部落内外の国民的融合〉の実現をめざす立場をとっている。また解放同盟は,被差別部落の出身者がなお〈階級搾取〉と〈身分差別〉によって〈屈辱と貧困と抑圧の中に呻吟(しんぎん)させられている〉として,各被差別部落の実情に即した解放運動の展開と完全解放の達成をめざしている。
各運動団体はいずれも部落問題の根本的解決を目的としているが,それぞれの現状認識と運動方針には大きな開きがあり,その歩み寄りにはかなりの努力と時間を必要とする。しかし,部落問題の解決が日本における人権擁護,民主主義と平和にとっての重要な課題である以上,部落解放運動の一層の前進と発展のために,各運動団体の協力と提携が強く期待されている。
→同和教育 →同和対策
執筆者:川村 善二郎
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部落差別撤廃をめざす自主的・大衆的な社会運動。1871年(明治4)の解放令以降,祭礼参加・分村独立運動などが各地でおこった。明治20年代には部落内部の階層分化により,部落有産者による部落改善運動が展開され,政府が進める部落改善政策とも呼応した。これに対し,部落民大衆は米騒動や社会運動の高揚をへて恩恵的な部落改善や融和政策を批判し,1922年(大正11)全国水平社を結成。差別糾弾闘争を展開する一方,無産政党との提携をはかった。第2次大戦後は部落解放全国委員会をへて部落解放同盟と改組し,行政闘争による生活実態の改善に取り組んだ。やがて現状認識や運動論,政党支持をめぐって内部対立がおこり,部落解放同盟と全国部落解放運動連合会とに分裂した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…前述のように,その絶対数を低下させるのは容易ではないが,この運動は人々に人間的権利の自覚や民主的社会関係創造への積極的参加を促す働きかけとして注目されている。 日本では学校教育の整備により非識字率を引き下げた裏側で,社会的差別の下,貧困な生活を強いられた被差別部落の人々の識字教育は放置されてきたが,部落解放運動は現実的差別の撤廃と人間的権利の自覚に立ち,1960年代以降,差別・貧困をもたらす社会構造の変革に結びつく識字運動を生みだした(〈被差別部落〉の項目の[教育条件の改善]を参照)。それは差別を見ぬく眼,科学的思考を育て,連帯のたいせつさを理解させようとするものであり,公教育における同和教育にも影響をあたえた。…
…被差別部落の人々が,差別と貧困からの解放を求めて,1922年に結成した自主的・大衆的な部落解放運動の団体。正式には全国水平社という。…
…しかし,これらの呼称はまだ必ずしも全国的に普及しきっているとはいいがたく,ことに,被差別部落に対する差別の撤廃のための啓発活動が行政,教育などの面で積極的に推進されていない地方では,伝統的に受け継がれてきた独特の差別呼称が,こんにちもなお日常生活の陰陽両面で用いられているのが実情である。また,集落,村落,在所などと同義の語として〈部落〉の語を適用している地方が多いので,場合によっては誤解をまねきやすいが,被差別部落を略して〈部落〉とも称し,被差別部落に対する差別を〈部落差別〉,被差別部落にかかわる社会問題を〈部落問題〉,部落差別からの完全な解放をめざす社会運動を〈部落解放運動〉という。
【被差別部落の成立】
被差別部落の沿革が,個々の被差別部落にそくして明らかになることは,部落差別の根源を客観的に照らしだし,差別の不当性をいっそう明確にしていくためにも望ましいが,なにぶんにも,ほとんどの被差別部落については伝来の文献史料が過少で,とくにその成立事情については口碑のほかに頼るべきものがない場合が圧倒的に多い。…
※「部落解放運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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