江戸後期の寄席の音曲(おんぎょく)師。初代。医師岡玄策の次男として常陸(ひたち)国佐竹村(茨城県常陸太田市)に生まれる。幼名を子之松、のち福次郎と改めた。1820年(文政3)ごろから諸国を放浪し、30年代の初め(天保(てんぽう)初期)には名古屋の寄席へ、また38年(天保9)には江戸の藁店(わらだな)席へ出演。なぞ解き唄(うた)や「トッチリトン」で好評を博した。都々逸としては「白鷺(しらさぎ)が小首かしげて二の足踏んで、やつれ姿の水鏡」ほか数首が伝わっている。墓碑は石岡市の国分寺千手院に現存。没年については45年(弘化2)説もある。なおこの名を名のった者は以後7代を数えるが、この初代がもっとも名高い。
[倉田喜弘]
1804~52.10.29
江戸末期の音曲師。常陸国生れ。江戸へ出て船遊亭扇橋(せんきょう)に入門。美音で当意即妙,謎解き歌や俗曲「とっちりとん」で人気を得た。天保の改革で寄席の鳴物や音曲が禁じられたが,相変わらず三味線いりの謎解きを演じていたことが1846年(弘化3)の市中風聞書で知られる。晩年は江戸を去って放浪のうちに没した。名跡は現在まで7世を数える。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…この歌は明和(1764‐72)ころから江戸で流行していた《潮来節(いたこぶし)》に似た曲調で,まもなく地元ではすたれたが,江戸や上方に流れて《名古屋節》と称された。1838年(天保9)江戸の寄席音曲師だった都々逸坊扇歌(?‐1852)が,同じ《潮来節》を母体とした《よしこの節》の曲調を変化させ,名古屋節の囃し詞を加えて〈どどいつ節〉を大成し,旗揚げしてから〈どどいつ〉の名称でもてはやされるようになった。 七・七・七・五調4句26文字の詞型を基本とするが,〈どどいつ形式〉などと呼ばれて,歌詞を新作するなどのことが行われた。…
…《よしこの節》は京坂地方でも盛んに歌われるようになり,名古屋で起こって流行していた〈名古屋節〉を駆逐する勢いで広がった。1838年(天保9),江戸の都々逸坊扇歌が《よしこの節》に〈名古屋節〉をとり入れて〈どどいつ節〉(都々逸)を大成しもてはやされたが,京坂では長く《よしこの節》を残した。徳島県の阿波踊の歌は《よしこの節》を民謡化したものである。…
※「都々逸坊扇歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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