デジタル大辞泉
「酒田市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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酒田市
さかたし
面積:一七五・〇〇平方キロ
県の北西部、庄内平野の西部に位置し、北西の日本海に飛島がある。市街地は最上川河口右岸にあり、日本海に面している。東は飽海郡八幡町・平田町、東田川郡余目町、南は鶴岡市・東田川郡三川町、北は飽海郡遊佐町に接する。昭和八年(一九三三)飽海郡と東田川郡・西田川郡の一部が合併して成立。鳥海山を源流とする日向川、出羽山地から流れる新井田川、出羽山地朝日連峰から流れる赤川が市域で日本海に注ぎ、出羽山地から流れ出す京田川・藤島川が市域で最上川に合流する。新井田川は日向川の支流荒瀬川の旧路であった。市域の西側を国道七号、東側山麓を同三四五号、八幡町との間を同三四四号、余目町との間を同四七号が通り、JR羽越本線が南北に縦断する。
〔原始・古代〕
酒田市には七二ヵ所の遺跡がある。古代の遺跡が約七割を占めるが、原始から近世までの時期が含まれている。東部の出羽山地からナイフ形石器や有舌尖頭器が採集されており、後期旧石器時代と中石器時代の人間の営みがみられる。縄文時代の遺跡も東部丘陵に点在するが、飛島の蕨山・葡萄崎両遺跡が発掘調査された。飛島の土器には早期末葉からのものがあり、前期末から中期初頭にかけては東北地方南部の土器に北部の土器が入っており、文化の交流が知られる。庄内平野の東端にある生石2遺跡から、弥生時代前期の北九州に源をもつ遠賀川式系土器が発見された。籾痕土器と炭化米も出土しており、稲作をもつ弥生文化波及の研究に再考をうながすことになった。赤川下流の砂丘中にある黒森遺跡で地下約三〇メートルの泥炭層から、縄文時代晩期・弥生時代後期・平安時代前半の遺物と樹木の根株などが出土し、砂丘形成上の好資料となっている。庄内平野中央部の関B遺跡からは庄内で初めての古墳時代前期の土師器が出土した。
新井田川上・中流域には生石2遺跡や手蔵田2遺跡など、奈良―平安時代の官衙や集落跡の複合遺跡が調査され、標高一〇メートル以下の低い沖積平野から奈良時代後半の遺物が出土している。日向川中流南部の平野に城輪柵遺跡があり、平安時代の出羽国府説が有力である。同遺跡の西には豊原遺跡・庭田遺跡、南には境興野・北田・関B・高阿弥陀の各遺跡があり、八幡町域も含めて周辺には多くの官衙・寺院・集落・祭祀跡がある。条里制の施行と関連しながら、古代村落の計画的な地割りによる配置が推定されている。出羽山地には願瀬山・泉谷地池両窯跡群が官窯として稼働し、須恵器などの焼成品は平野部の城輪柵などに供給されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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酒田〔市〕
さかた
山形県北西部,庄内平野にある市。最上川河口に位置し,西は日本海に臨み,北で秋田県と接する。 1933年市制。 1941年に西平田村,1950年に飛島村,1954年に西荒瀬村,新堀村,広野村,袖浦村,東平田村,北平田村,中平田村,上田村,本楯村,南遊佐村を編入。 2005年八幡町,松山町,平田町と合体。戦国時代から日本海沿岸や内陸河川交通の要地として多くの豪商を生んだ。河村瑞賢が寛文 12 (1672) 年に瑞賢蔵と呼ばれた貯米場を設けて下関,瀬戸内海経由で直接大坂と取り引きしてから,米の回漕の根拠地となりいっそう繁栄した。明治以後は太平洋側の海運業が盛んになり衰微した。第2次世界大戦頃から臨海工業地区が形成され始め,1951年酒田港が重要港湾に指定された。 1974年には酒田北港が開港,おもに重化学工業が行なわれている。また 70万 kWの火力発電所もある。庄内米の産地で,海岸部の庄内砂丘では果樹,花卉などの栽培も行なわれる。日本海沿岸は庄内海浜県立自然公園に,南東部の最上川流域は最上川県立自然公園に属する。酒田港の北西方,日本海に浮かぶ飛島は鳥海国定公園に属し,ウミネコ繁殖地は国指定天然記念物。本間家旧本邸付長屋門や新田目城跡など歴史的遺産も多く,商家造りの旧鐙屋 (あぶみや) ,城輪柵跡 (きのわさくあと) ,堂の前遺跡は国の史跡に,總光寺庭園は国の名勝に指定されている。また,酒田市出身の写真家土門拳の作品を収蔵する土門拳記念館,庄内米歴史資料館などの文化施設がある。南西部の鶴岡市との境界付近に庄内空港があり,JR羽越本線が西部を縦貫。国道7号線,47号線、112号線,344号線,345号線が通り,山形自動車道のインターチェンジがある。面積 602.97km2。人口 10万273(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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