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鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゅんじょうぼう)と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。1133年(長承2)醍醐寺(だいごじ)で出家し、密教を学ぶ。また高野山(こうやさん)に登り、法然(ほうねん)(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯(おおみね)、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城(かつらぎ)など深山幽谷を跋渉(ばっしょう)して修行した。1167年(仁安2)入宋(にっそう)、栄西(えいさい)とともに天台山に登り、浄土五祖像を請来(しょうらい)する。1181年(養和1)造東大寺大勧進(ぞうとうだいじだいかんじん)職となり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没するまで、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。その間、再三にわたり入宋するとともに、1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いたという。また周防(すおう)(山口県)阿弥陀寺、播磨(はりま)(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(びぜん)(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)、極楽寺(ごくらくじ)の忍性(にんしょう)に劣らず社会救済事業に尽くした。
[納冨常天 2017年9月19日]
『小林剛編『俊乗房重源史料集成』(1965/復刊・2015・奈良国立文化財研究所)』▽『南都仏教研究会編・刊『重源上人の研究』(1955)』▽『小林剛著『俊乗房重源の研究』(1971/改版・1980・有隣堂)』▽『中尾堯・今井雅晴編『重源 叡尊 忍性』(『日本名僧論集 第5巻』1983・吉川弘文館)』
平安時代後期の僧。紀季重(一説には季良)の子。刑部左衛門尉重定と称し,13歳で醍醐寺に入り,真言宗修験道開祖の聖宝(しようぼう)の流れをくむ。上醍醐の円明房に止住,俊乗房重源と称した。青年期は大峰,熊野などの霊山を巡り,喜捨を進めて如法経書写や不断念仏を行った。1176年(安元2)までに3度宋に渡航したと伝えるが,その事跡は定かでない。80年(治承4)平重衡の兵火により東大寺が炎上したが,翌81年(養和1)8月造東大寺大勧進の宣旨を受けると直ちに勧進を開始,宋の鋳物師陳和卿らの協力で84年(寿永3)6月には大仏の鋳造をほぼ終わり,85年(文治1)8月大仏開眼会を行った。86年周防国が東大寺造営料にあてられたため番匠を率いて下向,みずから良材を探して巨木を搬出した。90年(建久1)大仏殿棟上が終わると,堂内荘厳のため仏師院尊,康慶,運慶,快慶や宋の石工伊行末を動員して南大門の金剛力士像などを造立,1203年(建仁3)11月東大寺総供養を行った。東大寺再建は,ここに一応の完成をみたが,重源がこのように迅速に再建を成功させた背後には,以下のような条件が具備されていた。(1)醍醐寺以来の遊行による各地での庶民勧進の実績が,大勧進重源の素地を形成した。(2)入宋3度の経験が,大仏様(天竺様)の建築様式をはじめとして,陳和卿による鋳造技術,宋風の絵画・彫刻・工芸などの迅速な導入を可能にした。(3)再建事業の母体として東大寺,播磨,周防など各地に別所を設け,重源特有の三角五輪塔(大日如来)を中心に,阿弥陀如来像を造り,堂宇を建てて不断念仏,迎講などを行い,人々に阿弥陀名号を付し,同朋衆としての一体化を図った。また別所には必ず湯屋を設け,付近の難所には道を開き,橋を架けるなど,労務管理,荘園経営,社会事業などの総合施策を成功させた。(4)各種小勧進網の要所に腹心の同朋衆を配し,重源自身が大勧進としてその頂点に位していたがゆえに,土木,建築,美術工芸,日宋貿易などのさまざまな再建集団を円滑に統御しえた。なお重源が83歳(1203年)ころに著した《南無阿弥陀仏作善集》には,この間の事跡が詳細に記されている。
執筆者:石田 尚豊
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(土谷恵)
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1121~1206.6.5?
平安末~鎌倉前期の僧。俊乗房と号し南無阿弥陀仏とも称す。東大寺再建の大勧進。京都生れ。父は紀季重。醍醐寺で密教を学び,四国や大峰・葛城・熊野などで修行した。1167年(仁安2)入宋し,翌年帰朝した。前後3回渡海したと伝える。80年(治承4)焼失した東大寺の再建事業の勧進職に任じられ,85年(文治元)に大仏開眼供養,95年(建久6)大仏殿落慶供養,1203年(建仁3)には総供養を遂げて完成させた。この間造営料を求めて周防国阿弥陀寺,播磨国浄土寺,伊賀国新大仏寺などを経営し,造像や建築に運慶・快慶に代表される南都仏師や陳和卿(ちんなけい)らの宋人技術者を登用した。一代の行跡は自著「南無阿弥陀仏作善(さぜん)集」に詳しい。
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…法号として阿弥陀仏名を用いることは11世紀はじめにみられるが,空也の流れをくむ〈阿弥陀聖〉たちの間から名のられたようである。俗人が使用するようになったのは俊乗房重源(ちようげん)が1183年(寿永2)大仏再建勧進の手段として,貴賤にひろく付与してからのことである。《黒谷源空上人伝》によれば,重源は,閻魔の庁において道俗が名を聞かれたとき,阿弥陀仏の名号が唱えられるように,法名に阿弥陀仏号をとりいれたという。…
…1186年(文治2)後白河法皇により周防国は焼失した東大寺の造営料国に寄進された。造営責任者で周防国務をゆだねられた大勧進重源上人が,国衙領経営と造営用材伐採の拠点として国庁東方に設けた周防別所(南無阿弥陀寺)が同寺の前身である。堂宇が完成をみた97年(建久8)重源は鉄製多宝塔(国宝として現存)を鋳造し,同寺創建の由来を刻みこんだ。…
…その後,東大寺は交換した3荘を手放さず,国衙と紛争がおこり,62年(応保2)5月に東大寺領として確定。治承・寿永の内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。…
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[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。90年(建久1)に大仏殿が上棟,96年には大仏をめぐる脇侍や四天王などの巨大な木像群と同種の石像群がつくられた。…
…勧進聖(ひじり)はこれを衆庶に読み聞かせたり,閲覧させたり,頒布して一紙半銭の喜捨を求めた。重源(ちようげん)が1181年(養和1)に始めた東大寺大仏殿再建のための勧進文は著名。彼はこの勧進文を一輪車の右に貼り,左には後白河法皇の〈一粒半銭といへども,寸鉄尺木といへども,これを施す者は,世々生々在々所々,必ず妙力に依りて,長く景福を保つ云々〉という詔書を貼り,諸国を歴訪した。…
…古いものとして,《東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記》《熊野御幸(くまのごこう)記》などがあるが,伊勢参宮に関するものが中世,近世を通じて多い。《東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記》は,1186年(文治2)4月俊乗坊重源が東大寺建立祈願のため,同寺の僧綱以下衆徒を率いて参宮,大般若経を転読供養した次第を,一行中の慶俊の記した書。《熊野御幸記》は藤原定家の《明月記》の一部で,1201年(建仁1)後鳥羽上皇の熊野御幸のときの記録で,別に途中の藤代王子,滝王子での和歌会の詠草をつけている。…
…山号は極楽山。もと東大寺領播磨国加東郡大部荘(おおべのしよう)内の鹿野原に,俊乗房重源(ちようげん)が播磨別所として開いた念仏別所。1190年(建久1)東大寺再興料所として大部荘を拝領した重源は,これを宋人鋳物師陳和卿に預け,甥の観阿,弟子の如阿を当地に派遣して播磨別所の建設に当たらせた。…
…新たに鎌倉幕府から地頭に補任された者には,島末(しますえ)荘・安下(あげ)荘・屋代荘等の大江広元,久賀保・日前(ひくま)保・由良保の江所高信,小周防保・勝間村の内藤盛家,得善(とくぜん)保・末武保の筑前太郎家重,末武・久米方面の内藤盛経,三奈木守直,久米国真,仁保(にほ)荘の平子(たいらこ)重経,椹野(ふしの)荘の白松資綱などがある。いっぽう1186年(文治2)3月周防国は東大寺造営料国とされ,大勧進重源(ちようげん)に国務管理がゆだねられた。以後歴代の大勧進は名国司(みようこくし)と別に国司の任務をつとめ,国司上人と称せられた。…
…鎌倉初期に東大寺再建のため,宋から大勧進俊乗坊重源(ちようげん)が取り入れた建築様式で,そのため大仏様(だいぶつよう)ともいう。後に禅宗建築に採用された唐様(からよう)(禅宗様(ぜんしゆうよう))が宋の中央様式であったのに対して,天竺様は江南,福建などの地方様式であったらしい。…
…鎌倉時代初期の東大寺再建に活躍した俊乗房重源(ちようげん)(南無阿弥陀仏)が,造寺・造仏・写経・法会遂行等にわたるみずからの作善活動の事跡を,備忘録風に書き上げたもの。本書は1203年(建仁3)造営料国備前国衙より東大寺に送付された散用状の紙背に,重源みずから墨書したもので,美術史,建築史にも重要な素材を提供する。…
…平安時代の遺構としては,室生寺金堂,醍醐寺五重塔,平等院鳳凰堂,中尊寺金色堂,富貴寺本堂,宇治上神社本殿など,京都を中心とするが,広く全国的に残っている。
[中世]
鎌倉時代の初め,東大寺の再建に当たって僧重源により南宋の建築様式である大仏様(天竺様)が伝えられた。大仏様は東大寺や重源が建てた寺院に用いられ,構造的な美しさに重点をおいた力強い様式で,挿肘木(さしひじき),木鼻(きばな),貫を新たに用いた。…
…なお国内の平家没官領(へいけもつかんりよう)には関東御家人が地頭として配置されるが,美福門院領矢野荘例名(れいみよう)地頭に相模の海老名能季(えびなよしすえ)が任命されたことなどその例である。戦後の播磨で活躍したのは俊乗房重源(ちようげん)で,東大寺領大部荘を管理し荘内に浄土寺をひらいたほか,96年(建久7)魚住泊の修築を上申して許可されている。93年幕府の奏請によって播磨は東寺の造営料国とされ,文覚に与えられたというから,彼が目代に一時就任したのであろう。…
…元服後,北面武者となったが,《平家》の読本系諸本では,渡辺橋の供養のとき,渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに18歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し,異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。《平家》諸本は,文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが不動明王の童子に助けられ,諸国の霊山を修行して〈やいばの験者〉と呼ばれたといい,やがて,神護寺復興のため,法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ,投獄されたが放言悪口が止まないため,伊豆に流されたという。…
※「重源」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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