金剛峯寺(読み)こんごうぶじ

精選版 日本国語大辞典 「金剛峯寺」の意味・読み・例文・類語

こんごうぶ‐じ コンガウ‥【金剛峯寺】

和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗総本山。山号は高野山。弘仁七年(八一六)空海が嵯峨天皇からこの地を賜わり、草庵を結んだことに始まる。承和二年(八三五)空海が入定(にゅうじょう)。一〇世紀以降、真言宗の最大道場として多くの信仰を集めた。長承元年(一一三二勅願所となる。国宝不動堂・金剛三昧院多宝塔や、沢千鳥螺鈿(らでん)蒔絵小唐櫃・仏涅槃図・八大童子立像・法華経色紙)などがある。古来女人禁制で知られた。高野山。南山

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日本歴史地名大系 「金剛峯寺」の解説

金剛峯寺
こんごうぶじ

[現在地名]高野町高野山

壇上伽藍の東方、小田原おだわら谷の北側西端にあり、高野山真言宗の総本山。本尊大日如来・弘法大師像・薬師如来。本来、金剛峯寺の名は空海が開山した高野山一山の総称であるが、明治二年(一八六九)それまで学侶方・行人方・聖方の三派に分れていた一山の中心寺院として、学侶方の寺務をつとめていた青巌せいがん寺と、行人方の中心とされた興山こうざん寺を合体して総本山寺院とした(一山の総称としての金剛峯寺については「高野山」の項を参照)。現寺地の東半分が旧青巌寺境内、西半分が旧興山寺境内で、主殿は旧青巌寺本殿。興山寺跡には別殿・奥殿・新奥殿の三棟があり、廊下で主殿とつながる。後庭には二世座主真然を祀る真然しんぜん堂と護摩堂がある。

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百科事典マイペディア 「金剛峯寺」の意味・わかりやすい解説

金剛峯寺【こんごうぶじ】

和歌山県高野山にある高野山真言宗総本山。空海が816年開山,819年寺塔を建立。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争って敗れ,東寺長者の管轄を受けて勢いが衰えたが,末期には復興,白河・鳥羽天皇の崇敬厚く,1132年覚鑁(かくばん)が伝法院を建て隆盛におもむいた。このころより宗派を越えた納骨,造塔の風習が盛んとなり,高野版の開板なども始められた。鎌倉〜室町時代には法性,道範,宥快(ゆうかい),長覚などの学僧が出て宗学が栄えた。戦国時代には織田軍の部将の攻撃を受けた。豊臣秀吉も当初攻撃したが,その応対をした応其(おうご)に帰依し,かえって保護を加えた。全山は12区に分かれ,中心は壇場と呼ばれ,金堂,根本大塔がある。奥の院は空海の遺体を安置したところで,経蔵には高麗(こうらい)版一切経を納める。金剛峯寺本坊は秀吉寄進の青巌寺で,主殿・書院とも大建築である。高野山現存最古の建築である不動堂は,平安時代和様建築の様式を伝える鎌倉初期の名作。2004年紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストに登録された。
→関連項目相賀荘高野[町]近木荘真言宗美里[町]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金剛峯寺」の意味・わかりやすい解説

金剛峯寺
こんごうぶじ

和歌山県伊都(いと)郡高野(こうや)町高野山にある高野山真言(しんごん)宗の総本山。816年(弘仁7)空海の開創。寺名は『金剛峯楼閣瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくゆがゆぎきょう)』によって空海が名づけたもので、高野山の一山の総称でもあった。古くは青巌寺(せいがんじ)ともいった。1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の援助を受けて木食応其(もくじきおうご)が青巌寺を再興し、その左隣に興山寺(こうさんじ)を建立した。1869年(明治2)この両寺を併合して金剛峯寺と改称。主殿は1863年(文久3)の再建で、東西30間、南北35間ある。大広間・梅の間の襖絵(ふすまえ)は狩野探幽(かのうたんゆう)の筆、柳の間は豊臣秀次(ひでつぐ)の自刃の間を再現したもので、狩野探斎(たんさい)筆の柳の襖絵がある。主殿に付属する建物に、奥殿、新別殿、別殿、経蔵(きょうぞう)、鐘楼、勅使(ちょくし)門、上門、下門、真然(しんぜん)堂、護摩堂、阿字観(あじかん)道場、高野山真言宗宗務所などがある。奥殿、別殿は1934年(昭和9)、新別殿は1983年(昭和58)の建立。六時の鐘の梵鐘(ぼんしょう)は1618年(元和4)に福島正則(まさのり)が寄進したもの。鐘楼は1835年(天保6)の建立。大師教会本部の建物は1925年(大正14)の建立で、1983年に増築された。金剛峯寺所蔵の国宝・国重要文化財などは高野山霊宝館に収める。

[宮坂宥勝]

『『古寺巡礼 西国1 高野山金剛峯寺』(1981・淡交社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金剛峯寺」の意味・わかりやすい解説

金剛峯寺
こんごうぶじ

和歌山県高野町にある高野山真言宗の総本山。本来,金剛峯寺は高野山一山の総称であるが,明治以降は山内寺院としての本坊をさす。弘仁7 (816) 年空海が真言密教の道場として創建。平安時代以後寺領が全国に広がったが,豊臣氏の上地令により,寺領は周辺の2万 2000石に縮小。それでも諸大名の寄進により寺坊は 2000を数えたが,現在は約 50を残すだけである。建久9 (1198) 年行勝上人によって建立されたといわれる不動堂は,高野山の現存最古の建造物で,国宝に指定されている。霊宝館および大宝蔵に収蔵されている寺宝にも,応徳3 (1086) 年作の絹本着色『仏涅槃図』,平安時代末の絹本着色『善女竜王像』,8体のうち6体が運慶作といわれる木造『八大童子立像』,空海請来といわれる木造『諸尊仏龕』,藤原清衡発願の『紺紙金銀字一切経』,空海真筆の『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』など,数多くの国宝がある。

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世界大百科事典 第2版 「金剛峯寺」の意味・わかりやすい解説

こんごうぶじ【金剛峯寺】

和歌山県伊都郡高野町高野山にある。816年(弘仁7)空海が修善の地として嵯峨天皇の勅許を得て開創した。金剛峯寺の名は《金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経》による。金剛峯寺とは壇上伽藍を中心とする一山の総称で,塔頭(たつちゆう)子院はすべて金剛峯寺に属した。 金剛峯寺は空海によって開かれたが,その経営は代々紀伊国司が俗別当としてこれにあたった。889年(寛平1)伽藍がほぼ完成した時期に,空海の弟子真然は弟子の寿長を初代座主に補任し,以後真然直系で高野山に常住する僧をこれにあてることにした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「金剛峯寺」の解説

金剛峯寺
こんごうぶじ

和歌山県伊都郡高野町にある真言宗の総本山
816年空海により創建され,根本道場として信仰を集め,院政時代には,法皇の崇敬厚く,以来貴賤道俗を問わず参詣,納骨する者が多かった。その後,織田信長に敵対したため迫害をうけたが,豊臣秀吉の保護により復興,江戸時代には徳川家が帰依した。『赤不動』『聖衆来迎図』など密教美術の貴重品を多数所蔵している。

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デジタル大辞泉プラス 「金剛峯寺」の解説

金剛峯寺

和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗の総本山。816年、弘法大師(空海)の開山。高野山全域を境内地とする。山内には大本山宝寿院のほか117社もの子院があり、多くが宿坊を兼ねる。明治時代までは女人禁制。国宝の不動堂ほか、数多くの文化財を保有。「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。

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世界大百科事典内の金剛峯寺の言及

【官省符荘】より

…紀伊国伊都郡(現,和歌山県橋本市,伊都郡高野口町,九度山町,かつらぎ町)の荘園。高野山金剛峯寺の根本寺領で,政所荘,高野本荘,金剛峯寺荘などともいう。紀ノ川をはさんで,北は河内国南堺から南は高野山麓におよび,東は相賀(おうが)荘,西は桛田(かせだ)荘に接する広大な荘園である。…

【紀伊国】より

…式内社31座のうち,13座が名神大社であった(《延喜式》《和名抄》)。古代,紀ノ川流域に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ),粉河寺(こかわでら)等が開創され,南部の熊野大社とともに貴賤の信仰を集め,平安中期以降は院や摂関家による高野山,熊野参詣がさかんに行われた。同じころから,これらの寺社領をはじめ多数の荘園が設立された。…

【空海】より

…このころ《弁顕密二教論》2巻を著し,816年5月,泰範の去就をめぐって,最澄との間に密教理解の根本的な相違を表明してついに決別した。 同年7月,勅許を得て高野山金剛峯寺を開創したが,819年ころから《広付法伝》2巻,《即身成仏義》《声字実相義》《吽字義(うんじぎ)》《文鏡秘府論》6巻,820年《文筆眼心抄》などを著述して,その思想的立場と教理体系を明らかにした。820年10月伝灯大法師位,821年5月には請われて讃岐国満濃池を修築し,土木工事の技術と指導力に才能を発揮した。…

【高野山】より

…周囲の山塊は紀ノ川支流の丹生川,貴志川と有田川,十津(とつ)川の源流となっている。9世紀に空海がこの地に真言宗金剛峯寺を創建し,以後比叡山延暦寺と並ぶ山岳仏教の中心地として現在に至っている。明治末までに和歌山線が開通し,大正末までに南海電鉄高野線が極楽橋まで,昭和初めに南海高野ケーブルが高野山まで開通して京阪神からの交通の便がよくなり,観光客も多数訪れる。…

【高野山文書】より

…高野山金剛峯寺ならびに山内の各子院に伝来した古文書の総称。このうち最も重要なものが宝簡集,続宝簡集,又続(ゆうぞく)宝簡集と呼ばれる文書群で,宝簡集54巻692通,続宝簡集77巻・6帖831通,又続宝簡集167巻・9帖1979通からなっている。…

【寺院建築】より

…平安京の京内は,東寺,西寺の2官寺のみとして他に官私の寺は建立させず,京郊外に多数の私寺ができた。唐から密教を伝えた最澄は比叡山に天台宗の延暦寺を,空海は高野山に金剛峯寺を建てる。山上なので一定の伽藍配置をもたず,宝塔などを中心に講堂,灌頂堂,常行三昧堂,法華三昧堂などを院ごとにまとめて置き,100余年後に完成した。…

【密教美術】より

… 美術工芸では,最澄請来の遺品は,延暦寺の災火により失われ,わずかに〈七条刺納袈裟〉が存するにすぎない。これに対して空海の請来品には,《真言五祖像》,密教法具,犍陀穀糸(けんだこくし)袈裟(すべて教王護国寺),木造諸尊仏龕(金剛峯寺)等があり,それぞれに唐朝様の特色がよく現れている。また空海は帰国後高雄山寺(神護寺)を拠点としたが,天長年間(824‐834)淳和天皇の発願により,灌頂堂のために,請来の〈両界曼荼羅〉をもとに金銀泥絵でこれを描かせた。…

【木食応其】より

…1572年(元亀3)高野山で出家し客僧となり,木食苦行して小野,広沢の2法流を受け,また仁和寺任助親王の室に入って阿闍梨位(あじやりい)を得た。85年(天正13)豊臣秀吉と高野山金剛峯寺との間を斡旋して豊臣政権下における高野山の地位を安泰に導き,91年の検地に際し非法が発覚した際にもとりなした。秀吉が深く信任して,“高野の木食”ではなく,木食の高野であると称したことは有名。…

※「金剛峯寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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