鉄鋼業(読み)てっこうぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鉄鋼業」の意味・わかりやすい解説

鉄鋼業
てっこうぎょう

狭義には鉄鋼そのものの生産分野を、広義にはその加工分野をも含むが、通常前者をさし、おもな工業国の基幹産業となっている。近代鉄鋼業は、技術的にいえば「間接製鉄法」の技術体系といわれ、その生産工程は(1)製銑(せいせん)工程、(2)製鋼工程、(3)圧延工程の三つからなっている。

 鉄鋼業を構成している企業の形態はこの3生産工程との関係から、(1)高炉メーカー前述の3工程をもち、高炉銑転炉・電気炉鋼→圧延鋼材順序で鉄鋼の大規模一貫生産を行っている。銑鋼一貫企業ともいう)、(2)電炉メーカー(3工程のうち、製鋼、圧延工程をもち、銑鉄・屑(くず)鉄を原料として鋼材を生産)、(3)単圧メーカー(圧延工程のみをもち、鋼・半成品を購入して鋼材を生産)、(4)単独高炉メーカー(製銑工程のみをもち、高炉で銑鉄を生産)、(5)伸鉄メーカー(おもに製鉄所から出る屑鉄を購入しその再圧延を行う)の五つに分かれる。高炉メーカーと電炉メーカーのうち、いくつかのメーカーは普通鋼と特殊鋼両者を生産しているが、特殊鋼のみを生産している企業を特殊鋼専業メーカーとよぶ場合がある。

 歴史的には、主要工業国の鉄鋼業では前記の企業のうち、少数の大規模高炉メーカーが鉄鋼生産の主要部分を占め、残りを電炉メーカーなどの諸企業が生産していることが多かった。いいかえるならば、鉄鋼業は大規模高炉メーカーの生産集中度の高い典型的な寡占産業であった。ただし20世紀末に最大の製鉄国となった中国では、大規模・中規模の高炉メーカーが多数存在しているなど、国ごとの独自性も観察される。

 地球温暖化防止が世界的課題となった21世紀には、鉄鋼業は、製造業における最大の二酸化炭素(CO2)排出源として注目されざるをえなくなった。製鉄プロセス内の主要な排出源は、鉄鉱石の還元に石炭・コークスを用いる高炉である。高炉・転炉法よりは電炉法のほうがCO2排出量が少ないため、当面、電炉法の適用を拡大する動きがある。また、高炉での還元剤の一部を水素に切り替える技術の開発も進められている。決定的にCO2排出を減らすためには、まず水素によって鉄鉱石を直接還元し、ついで還元鉄を、再生可能エネルギーによって発電された電気を用いる電炉で精錬する方法が、もっとも有望とされている。このため世界では、水素還元法の研究を進めながら、先行して直接還元炉を建設する動きが広がっている。これらの技術転換により、鉄鋼メーカーと鉄鋼業のあり方が変化する時期が訪れつつある。

[松崎 義・川端 望 2023年1月19日]

世界の鉄鋼業

前史

鉄の生産そのものは人類史とともに古い歴史をもつが、近代産業としての鉄鋼業は18世紀末のイギリスにおける産業革命期に成立した。この時期には、コークス高炉技術(1735年操業)、パドル法(1784年特許取得)、圧延法(1783年特許取得)の諸技術が完成し、銑鉄―錬鉄―圧延の一貫生産技術体系が整った。しかしながら、この段階では、パドル法(現在の製鋼段階にあたる)にみられるように生産できるのは錬鉄(可鍛鋳鉄)であり、鋼の大量生産技術は未確立であった。また、錬鉄生産工程、圧延工程とも手工業的性格を色濃く残していた。この時期の鉄鋼生産の中心国はイギリスであった。

 この生産技術段階を革新し現代鉄鋼技術と産業組織に道を開いたのは、19世紀中葉以降の一連の製鋼技術――ベッセマーの転炉製鋼法(1855年特許取得、以下同)、トーマスの塩基性転炉製鋼法(1878)、シーメンズとマルタンの平炉製鋼法(1864)――の発展であった。これらの新技術は炉内温度を高め、銑鉄・屑鉄を溶融状態で直接に鋼に精錬することを可能とし、パドル炉の技術的限界(炉内温度が低く飴(あめ)状で精錬せざるをえず、また生産物も鋼でなく錬鉄)を突破した。いわゆる「近代溶鋼法の成立」である。この時期に開発された転炉・平炉技術はその後大幅な改良を加えられつつも現代鉄鋼業の基本的技術となっている。新製鋼法は、また、鉄鋼業の産業組織に大きな影響を与えた。転炉法・平炉法によって鋼の生産が可能となるや、これらの製鋼炉の炉容がしだいに拡大され大量生産が可能となり、同時に、高炉―平・転炉―圧延機という3工程の生産の連続性が高まった。このことは、鉄鋼業が安価な金属材料の大量供給を行い、産業の重工業化を進める条件をつくるとともに、巨額の固定資本を要することともなった。投下資本の巨大化を条件に鉄鋼業では資本の集積・集中が進み、大企業の覇権が確立した。鉄鋼業が独占的巨大企業出現の舞台となり、独占資本主義の産業的土台となったのである。19世紀中葉から第二次世界大戦に至る時期の鉄鋼生産量の推移をみると、1880年ごろまではイギリスが圧倒的地位を占めているが(錬鉄時代)、1890年以降ドイツ、アメリカの進出が著しい(鋼の時代)。このドイツ、アメリカ両鉄鋼業の発展のなかで、USスチール(1901年成立)に代表される巨大独占企業が形成された。

[松崎 義]

第二次世界大戦終了から1970年代まで

第二次世界大戦後の世界の鉄鋼業の動向は、ほぼ1970年ごろを境に大きく変化した。第一に、第二次世界大戦によってアメリカを除く各国鉄鋼業は大打撃を受けたが、ほぼ1950~1955年の間に復興し、その後、世界経済の拡張と歩調をあわせ急速に発展した。第二に、このなかで、資本主義国では日本、西ドイツを中心としたEC(現、EU)の、社会主義国ではソ連の発展が著しく、アメリカ、イギリスの停滞と対照的であった。とくに、日本、ソ連の生産量の急増は戦後鉄鋼業の状況を一変せしめた。この結果、第三に、1970年ごろの世界の鉄鋼生産基地はアメリカ、ソ連、EC、日本の四極であり、その生産規模はそれぞれ約1億トン強であった(1970年の世界の生産量は約6億トン)。第四に、生産における状況変化は貿易にも反映し、日本、西ドイツを含むEC諸国が世界の鉄鋼輸出基地となった。1970年の世界各国の鉄鋼輸出量(28か国)は約8800万トンであったが、このうち、日本は約1700万トン(20%)、西ドイツは約1200万トン(約14%)、ベネルックス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)は約1600万トン(約18%)、アメリカは約640万トン(約7%)、ソ連は約750万トン(約8.5%)であった。注目すべきは、アメリカの輸入量が漸増し、1970年には輸出量の3倍に達して純輸入国に転じたことである。

 1970年ごろまでほぼ順調に拡大してきた世界経済、とくに資本主義国の経済は、1971年8月のニクソン声明(金とドルとの交換停止をはじめとする一連のドル防衛政策)、1973年秋のオイル・ショックによる原油価格の急騰とを契機として長期の停滞に入った。

 この時期の鉄鋼業の動向は次の2点に要約できる。第一に、主要国の鉄鋼生産は程度の差はあれまったくの停滞局面に入った。日本、アメリカのピークは1973年(それぞれ1.2億トン、1.4億トン)、西ドイツ、EC6か国のピークは1974年(それぞれ5300万トン、1.3億トン)、ソ連はすこし遅く1978年(1.5億トン)であったが、いずれも横ばいないしは絶対的減少を示した。第二に、先進資本主義国の停滞とは対照的に、韓国、台湾、スペイン、ブラジルなどの、NIES(ニーズ=新興工業経済地域)の発展が著しい。これら諸国の鉄鋼業の生産規模自体はこの時期ではまだ小さいが、その発展が工業化政策と先進諸国からの技術移転とに支えられているだけに技術水準はかなり高く、先進国の競争相手になってきた。

 1970年代の鉄鋼貿易の特徴は次の2点に要約できる。第一に、日本鉄鋼業の国際競争力は前期以上に強まり、生産量が1973年をピークに停滞局面に入ったにもかかわらず輸出量は伸び続け、1976年には約3600万トン、世界市場での輸出シェアは30.1%にも達した。第二に、アメリカ鉄鋼業の衰退が明白になり、輸入比率(国内見かけ消費量に対する輸入品の比率)は1965年に10%を超えて以来増加傾向をたどり、1978年には18.1%となった。ほぼこの時期から、日本とアメリカ、西ヨーロッパ諸国との間で貿易摩擦が重大化し始め、各国、とくに日本の主要市場であるアメリカで輸入制限を求める声が強くなり、トリガー価格制度が導入(1977)されるとともに、日本も自主的に輸出規制を行うに至った。鉄鋼貿易の管理貿易化が強まったのである。この時期のもう一つの特徴は、新興鉄鋼生産国が世界市場に進出し始め、日本、EC諸国と競合し始めたことである。この競争関係は、一部の高級品種(パイプ、高級薄板、造船用規格材など)を除くとほぼ全品種に及び、とくに中・低級品では、低い労働条件を武器に十分な価格競争力をもつに至った。

 このように、1970年以降の先進工業国の鉄鋼業では生産・貿易両面で停滞と対立が際だったが、他方で新興工業国との競争が激化した。この後者の競争は、一方でいわゆるブーメラン効果を考慮した技術輸出抑制の動向を生みつつ、他方では国際的な産業構造の調整問題をも浮かび上がらせた。

[松崎 義]

1980~1990年代

この時期の世界の鉄鋼業の特徴は、日欧米・ソ連の停滞と新興工業国の比重の増大である。世界の鉄鋼生産量は7~7.5億トン(粗鋼)に達したが、日本は1974年をピークとしてその後1億トン前後、EUは1.5億トン前後、アメリカは7500万~9500万トンで停滞傾向が明瞭となった。アメリカでは1980年代に製造業の衰退が進み、他方ではミニミル(電炉メーカー)の進出により電炉鋼の比率が高まり(1997、43.8%)、高炉メーカーの再編成が進んだ。また、EUでも設備能力の過剰と企業合併が問題となった。これら先発工業国の経済成長率の低下と産業構造の転換(電子技術関連分野とサービス経済化の進展)がおもな理由である。一方、ソ連(1992以降はCIS=独立国家共同体)は、ベルリンの壁崩壊後のソ連圏の崩壊と市場経済への移行に伴って経済体制そのものが混乱し、生産量は1.6億トン(1989)から約8000万トン(1997)へと半減した。他方、1960年代にNIESに始まった開発途上国の工業化は、1970年代にはASEAN(アセアン=東南アジア諸国連合)諸国に、1980年代には中国にまで波及し、これら諸国の鉄鋼生産量は飛躍的に伸びた。たとえば、韓国では約860万トン(1980)から約4200万トン(1997)に、中国では約3700万トン(1980)から約1億トン(1997)に増加した。中国は日本を抜いて世界でトップの鉄鋼生産国になった。このように1980~1990年代を通じて後発工業国の比重が高まり、世界市場でもその競争力は強まってきた。ただ、1997年夏のアジア通貨危機を契機にして、その経済成長は転機を迎えていったというのが20世紀末の20年間の概況である。

[松崎 義]

2000年以降

2000年以降の鉄鋼業の特徴は、世界最大の製鉄国、中国がさらに急速に成長したことと、地球温暖化問題の深刻化である。世界の粗鋼生産量は、2000年に初めて8億トンを突破した。以後、2004年に10億トンを突破、2011年に15億トンを突破し、2021年には19億5800万トンに達した。このうち中国の鉄鋼生産は2000年に1億2900万トンであったが、2021年には10億3300万トンに達した。世界粗鋼生産の半分以上を中国が占めるに至ったのである。同じ時期に、インドの粗鋼生産も2700万トンから1億1800万トンに増加し、世界第2位の製鉄国となった。以下、日本、アメリカ、ロシア、韓国、トルコ、ドイツ、ブラジル、イランが上位の製鉄国である(2021)。

 2000年以降、設備投資と合併・買収による鉄鋼メーカーの再編が進行した。2021年において粗鋼生産規模が世界最大のメーカーは中国宝武(ほうぶ)鋼鉄集団であり、1億1995万トンを生産した。また、3000万トンを超える企業は10社あり、うち中国企業が6社、ルクセンブルク、日本、韓国、インド企業が各1社であった。ただし、世界粗鋼生産に占めるシェアは上位10社で27.4%、上位20社でも39.1%にとどまっている。鉄鋼業では比較的激しい国際競争が行われており、これがアンチ・ダンピング訴訟など通商摩擦の多発にもつながっている。

 地球温暖化問題の深刻化を受けて、先進諸国各国は2050年、中国は2060年にカーボンニュートラルを達成することを目標として掲げている。これらの諸国では電炉法の適用拡大、直接還元炉の建設、水素製鉄法の研究開発が進められつつある。

[川端 望 2023年1月19日]

日本の鉄鋼業

前史

日本における鉄の生産自体は「たたら」製鉄法による「和鉄」とともに長い歴史をもつ。しかし、近代鉄鋼業は、官営八幡(やはた)製鉄所の操業(1901)をもって始まった。八幡製鉄所は、建設資金の一部を日清(にっしん)戦争の賠償金に、技術をドイツに、鉄鉱石を中国にそれぞれ求めつつ、国営製鉄所として出発した。後発資本主義国としての日本では、民間資本による鉄鋼業の自生的発展は不可能であったからである。この八幡製鉄所の設立後、軍需を含む鉄鋼需要の増大に刺激され、日露戦争・第一次世界大戦期に民間鉄鋼企業が続々と設立された。現在の日本の主要鉄鋼企業の大部分はこの時期に設立されている。こうして、1934年(昭和9)には、鋼材の輸・移出量が輸入量を上回り、鉄鋼の自給が達成された。しかしながら、発展速度が著しかったとはいえ、戦前日本の鉄鋼業はその後発性をついに脱却しえなかったといってよい。一つは、民間企業の設立・発展にもかかわらず、そのなかで銑鋼一貫企業になりえたのはようやく日本鋼管(NKK)1社のみで、他はすべて中小規模の平炉・単圧メーカーにとどまったことである。したがって第二次世界大戦以前においては、銑鋼一貫メーカーである八幡製鉄所をトップに多数の中小メーカーが存在するという二重構造を脱却できず、その技術水準は高いものではなかった。1934年、官営八幡製鉄所と民間6社が合併して大トラスト、日本製鉄株式会社が成立したが、この合併自体が、第一次世界大戦後の長期の不況下で疲弊した民間企業の救済策であり、日本製鉄株式会社自体も事実上は半官半民の企業であった。二つには、発展スピードが速かったとはいえ、その生産規模は先進資本主義国に比べ著しく小さかったことである。第二次世界大戦前の最高生産量は、銑鉄で426万トン(1942)、粗鋼で765万トン(1943)であったが、同時期のアメリカは8059万トン(粗鋼、1943)、ドイツは2076万トン(同)、イギリスは1324万トン(同)であった。

[松崎 義]

第二次世界大戦終了から1970年代まで

大戦後、戦前・戦中の立ち後れの回復、国際競争力確立を目的に巨額の設備投資が実施された。欧米諸国からの技術輸入に依存しつつ、第一次合理化投資(1951~1955)、第二次合理化投資(1956~1960)が進められ、欧米諸国との格差を解消し、さらに1961年(昭和36)以降の投資(最新の生産・管理技術による粗鋼年産1000万トン前後の大型臨海立地型製鉄所の建設)によって国際競争力を確立し、最大の鉄鋼輸出国となった。

 この過程における投資と技術革新、産業組織、原料需給、貿易の動向は次のとおりである。第一に、設備投資が生産技術、経営管理技術の革新を伴って進められたため、鉄鋼業の労働生産性は飛躍的に上昇した。銑鉄生産工程における高炉の大型化、操業技術の進歩によって諸原単位(銑鉄1トンを生産するに要する原料、エネルギー)が低下し、銑鉄コストが低下した。製鋼工程では1957年ごろから、オーストリアから輸入されたLD転炉(純酸素上吹き転炉)が普及し、従来の平炉にとってかわった。これによって製鋼時間が約3.5時間(平炉の場合)から約30分(LD転炉の場合)に短縮され、同時にエネルギーコストが急減した。また、連続鋳造技術の導入によって、生産工程の短縮、歩留りの改善、エネルギーコストの低下が画期的に進んだ。圧延工程では、ストリップミル(連続広幅帯鋼圧延機)に代表される大量生産型の圧延技術が導入され、生産時間の短縮、品質の改善に画期的意味をもった。生産技術の革新とともに生産・経営管理技術も変革された。1960年前後におけるアメリカ流のライン・スタッフ制の導入、その後のコンピュータを利用した企業全体の一貫管理の進展は、生産技術の革新に劣らぬほどの意味をもった。つまり、これらの生産技術、経営管理技術の革新と規模の経済性(生産規模が大きいほど費用が節約され収益が増えること)の追求とが戦後鉄鋼業の生産性水準を変革し、国際競争力を築いた最大の要因となった。

 第二に、この投資過程は鉄鋼業の産業組織に大きな変化をもたらした。その一つは、戦後の財閥解体と需要の拡大過程を背景として戦前の平炉メーカー3社が高炉分野に参入し、1950、1960年代に高炉大手6社(八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、住友金属工業、川崎製鉄、神戸製鋼所)が激しい設備投資・価格競争を展開し(競争的寡占)、中小メーカーを圧倒した。その結果、大手6社が生産量の70%近くを占めるようになり、また主要な中小メーカーは大手高炉メーカーの系列下に入った。鉄鋼業は典型的な寡占産業となったが、その後、八幡・富士両社の合併による新日本製鉄(新日鉄)の成立(1970)を契機として協調的寡占産業の色彩が強まった。

 第三に、生産量が年間1億トンを超えるに至った日本鉄鋼業の原料輸入量は急増し、同時に輸入先も大きく変化した。鉄鉱石についてみると、輸入量は1960年では1486万トンであったが1970年には1億トンを超えるに至った。輸入先も1960年ごろまでは東南アジア、インドが中心であったが、その後南米諸国、オーストラリアの比重が急速に高まり、1984年ではオーストラリア、ブラジルの2国で全輸入量の約70%を占めるに至った。コークス用原料炭の場合も同様で、輸入量は1960年の617万トンから1970年には4673万トンに達し、その後は6000万トン前後。輸入先も1960年にはアメリカがおもな供給国であったが、その後オーストラリア、カナダが急増している。原料輸入面からみても日本鉄鋼業は世界市場と不可分の関係にある。

 第四に、鉄鋼の販売市場が変化した。国内では建設、造船、自動車、電気機械などの諸産業が主要な市場であり、1950年代、1960年代では国内市場がおもな市場であった。しかし、1960年代後半から輸出の比重が高まり始め、1970年の直接輸出は約25%、1980年には約36%(いずれも粗鋼換算)に達し、世界最大の輸出国となった。輸出相手国は、1970年では東・東南アジア、北米、その他地域がそれぞれ3分の1を占めていた。1970年以降、日本鉄鋼業は低コストを武器に世界市場を席巻(せっけん)し、輸出量は、1976年には国内不況も手伝い史上最高の3704万トンに達し、対米輸出も1970年以前に輸出自主規制が始まっていたにもかかわらず、1977年に同じく760万トンに及んだ。他方、アメリカの鉄鋼輸入量は1977年に1941万トン(国内見かけ消費量の17.8%)、1978年に2133万トン(同18.1%)に及び、アメリカ鉄鋼企業の工場閉鎖、労働者の解雇が続出した。同時にアメリカの対日貿易赤字も増大し始めたことから、アメリカに保護貿易の気運が高まり日米政府間の政治問題にまで発展した。その結果「トリガー価格」制度が導入され、対米輸出の自主規制が始まった。以後、日本の対米輸出も全輸出量も横ばいに転じた。

 以上述べたように、第二次世界大戦後の日本鉄鋼業は未曽有(みぞう)の発展を遂げたが、その結果、1970年代後半から、一方では先進国との貿易問題に直面して輸出を制限せざるをえず、他方では新興工業国との競争に直面するに至った。産業としての成熟段階に入ったといってよい。

[松崎 義]

1980~1990年代

この時期の日本鉄鋼業は、1970年代に引き続いて世界最大規模の生産量と高い技術水準とを維持してきたが、他方では成熟期に入った産業として多くの課題に直面した時期でもある。まず、二つのオイル・ショック後の産業構造の変化、鉄鋼需要産業による海外直接投資の増大などの要因を背景に、国内需要が停滞し、経営多角化と大規模な合理化(リストラクチャリング)に取り組まざるをえない状況が生じた。これに拍車をかけたのが、1985年のプラザ合意以後の円高による鉄鋼輸出への影響であった。

[松崎 義]

経営多角化政策とその見直し

まず、本体の鉄鋼分野の停滞を背景に、大手高炉メーカーはそろって、エンジニアリング事業の強化、半導体生産への投資、コンピュータ利用技術の独立事業化、海外での製鉄所建設と操業技術の輸出などの経営多角化政策に取り組んだ。しかし、コンピュータの利用技術や技術輸出など、戦後の多数の製鉄所の建設と操業による技術蓄積が豊かな分野を除いて新規事業は成功せず、1990年代なかばには、半導体生産からの撤退にみられるように経営多角化戦略が大幅に見直された。これと前後して進められたのが合理化政策であるが、これは、まず効率の高い製鉄所への生産の集中と、それに伴う鉄鋼設備の統廃合の形で進められた。とくに製鉄所の数が多い新日本製鉄では、古い製鉄所における高炉の操業停止が相次いだ。釜石製鉄所(岩手県釜石市)の高炉操業の停止はその象徴であった。さらに、いわゆるバブル景気(1986~1989)の一時期を除いて鉄鋼業の苦境は続き、1990年代前半にはコスト削減のために本社など管理部門の合理化にまで及び、ホワイトカラーが大量に出向あるいは転籍・退職を余儀なくされ、大手鉄鋼企業の従業員数は大幅に減少した。これまでの人員合理化が現業部門中心に進められてきたことを考えると、鉄鋼業の置かれている状況が推察される。この苦境は高炉メーカーのみにとどまらず、電炉メーカーにも及んだ。

[松崎 義]

バブル経済の崩壊と過剰設備問題

バブル景気の崩壊後、日本経済は長期の不況のみならず、不良債権の処理など構造的な問題の解決に時間を要したが、これをいっそう深刻にしたのがタイの通貨危機(1997)のアジア諸国への波及とその経済成長の頓挫(とんざ)である。1980~1990年代を通じて日本とアジア諸国との経済関係はいっそう深まったが、それだけに貿易・投資の両面で大きな影響を受けている。アジア諸国の経済危機は国内需要の減少と相まって、高炉・電炉メーカーを問わず鉄鋼業の過剰設備問題を表面化させたのが1990年代末の状況であった。

[松崎 義]

2000年以降

この時期の鉄鋼業は、業界再編成、国内から海外への生産シフト、地球温暖化問題への対応によって特徴づけられる。

(1)業界再編成 1990年代の経営困難は、すでに新日鉄成立以来の高炉メーカー6社による協調的寡占体制を困難に陥れていた。日本鋼管(NKK)と川崎製鉄は経営統合を敢行し、2002年(平成14)に持株会社JFEホールディングスを、2003年に傘下の鉄鋼メーカーJFEスチールを設立した。2012年に新日本製鉄は住友金属工業と経営統合を行い、新日鉄住金を発足させた。さらに新日鉄住金は日新製鋼を2017~2019年にかけて子会社化し、2020年(令和2)に合併した。この間、2019年に商号を日本製鉄に変更した。これらの再編成により、日本の高炉メーカーは、粗鋼生産高の大きい順に日本製鉄、JFEスチール、神戸製鋼所の3社となった。同時期に電炉メーカーの経営格差がしだいに広がり、廃業や業務提携、買収が相次いだ。

(2)グローバル経営 この時期には、日本の鉄鋼メーカーが生産能力を国内から海外へシフトさせる動きが本格化した。

 国内鉄鋼需要は、2008年のリーマン・ショックを境に8000万トン前後から7000万トン前後に縮小した。一方、海外市場は中国を先頭として新興国で拡大した。日本メーカーは、まず国内向け出荷量の減少を輸出の増加で補い、1億トン以上の粗鋼生産高を2018年まで維持した。しかし採算は悪化し、2020年に日本製鉄とJFEスチールは高炉休止を含む大規模な設備集約を発表した。

 一方、海外生産は、当初は圧延・加工工程に投資する形で進められた。海外の拠点で圧延・加工を行うためには、スラブ、熱延コイルなどの中間製品を日本から輸出する、または海外の提携先高炉メーカーから調達する必要があった。しかし、前者では生産量を十分に拡大できず、後者では粗鋼生産に関する主導権を握れないという弱点があった。そこで、次の選択肢として浮上したのが、海外の大規模メーカーを傘下に入れる合併・買収であった。2019年に日本製鉄とアルセロール・ミッタル社が共同で行ったインド企業エッサールの買収は、高炉メーカーのグローバル化が新たなステージに入ったことを告げるものであった。

 一部の電炉メーカーも、海外市場に活路を求めて直接投資や買収を行った。共英製鋼のように、売上高の海外比率が50%を超える電炉メーカーも現れた(2021年度)。

(3)地球温暖化問題への対応 2015年に締結されたパリ協定の枠組みのもとで、日本の鉄鋼業界は二酸化炭素(CO2)排出削減の取り組みを求められている。日本鉄鋼連盟は2050年にカーボンニュートラルを実現する方針を策定し、高炉でのCO2排出低減、CO2回収・利用・貯留(CCUS)技術の開発、水素還元製鉄の開発などの取り組みを推進している。

[川端 望 2023年1月19日]

『松崎義著『日本鉄鋼産業分析』(1982・日本評論社)』『川端望著『東アジア鉄鋼業の構造とダイナミズム』(2005・ミネルヴァ書房)』『佐藤創編著『アジア諸国の鉄鋼業――発展と変容』(2008・アジア経済研究所)』『川端望著「日本鉄鋼業の現状と課題」(『粉体技術』12巻10号・2020・日本粉体工業技術協会)』『一柳朋紀著『最新 鉄鋼業界大研究(第2版)』(2021・産学社)』『中沢護人著『鋼の時代』(岩波新書)』『鉄鋼統計委員会編『鉄鋼統計要覧』各年版(日本鉄鋼連盟)』

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改訂新版 世界大百科事典 「鉄鋼業」の意味・わかりやすい解説

鉄鋼業 (てっこうぎょう)

鉄鋼業はしばしば〈産業の米〉といわれる基礎素材としての鉄鋼材を諸産業に供給する基幹産業である。鉄鋼材には純鉄,銑鉄,鋼,フェロアロイ(合金鉄)などがあるが,最も広範に使用されるのは銑鉄と鋼である。銑鉄は炭素含有量1.7%以上であり,固くてもろいので,圧延,鍛造などの加工が困難であるが,融点が低く,溶かして鋳物にするのに適している。鋼は銑鉄をさらに精錬したもので,炭素含有量は1.7%以下(0.035%以上)である。展性や延性があるので圧延・鍛造が容易であり,鋳物にすることも可能である。近代鉄鋼業の生産工程は,高炉(溶鉱炉)による銑鉄生産,転炉または平炉による粗鋼生産および各種圧延機械による普通圧延鋼材の3工程を基本としている。3工程を同一工場内において連続作業する企業を銑鋼一貫経営(銑鋼一貫メーカー)という。そのほか副次的に鍛鋼品,鋳鋼品の生産と電気炉等による特殊鋼生産が行われる。

鉄鋼業の歴史は人類の歴史とともに古いが,高炉(溶鉱炉)は15世紀ころ,ライン川上流地方に出現したのが始まりといわれている。それまでの製鉄法は土坑・低シャフトのレン炉Rennfeurによるものであり,鉄鉱石は低温で還元されたため,半溶状の鉄塊(Luppe(ドイツ語),bloom(英語))が製造された。この鉄塊には多量のスラグ(鉱滓)が混入していたので,鋼製品を製造するには,スラグをしぼりだすために鉄塊を繰り返し加熱・鍛錬する方法が採られた。高炉の出現によって,鉄は溶解して炉底に集まり,スラグは表面に浮かんで鉄と分離された。鉄の大量生産への道がここに開かれた。とくに18世紀の前半,イギリスにおいて燃料の木炭がコークスに代えられて高炉内の温度は高められ,生産性も向上した。コークス高炉の発展はイギリス産業革命を促進する重要な一契機となった。しかし,高炉によって製造されるのは銑鉄であり,鍛造がきく鋼を製造するためには新たに製鋼という工程を別に経過することが必要になった。古代・中世の鉄鋼技術が直接製鉄法であったのに対し,高炉出現後の近代鉄鋼技術の基本体系は,製銑→製鋼という2段階の精錬を要する間接製鉄法に転換したのである。これに圧延または鍛造・鋳造という鋼加工の生産工程が後続して,今日の支配的な鉄鋼生産の体系,3段階の作業工程が形成された。今日までの世界の鉄鋼技術の発展過程は,この3工程のもとでの発展である。

 しかし,19世紀半ばまで製鋼技術は比較的停滞的に推移した。18世紀後半のパドル法puddling processの発明にもかかわらず,その方法によっては溶鋼を生産することができず,しかも,製造過程において人間の手労働によるかくはん(攪拌)puddlingという重労働を伴っており,生産性も低かった。その隘路(あいろ)を一挙に解決したのがベッセマー法(転炉製鋼法,1856)およびシーメンズ=マルタン法(平炉製鋼法,1856,64)として知られる製鋼法であり,またリン分を多く含む鉄鉱石・銑鉄の精錬に有効なトーマス法(塩基性転炉法,1879)も発明された。これらの近代溶鋼法は,欧米各国で鉄鉱資源の状態に応じて選択・採用され,19世紀末までにパドル炉は駆逐された。こうした溶鋼の大量生産化に伴い,圧延工程の機械化,自動化,大量生産化が要請されることになった。20世紀に入ってからの鉄鋼技術の発展は,既成の製銑→製鋼→圧延の各工程の大型化,高速化,連続化の積重ねである(ただし,電気炉製鋼法による特殊鋼の製造は別)。とくに1920年代のアメリカにおいて出現したストリップミル(連続式圧延機)は圧延工程の連続化,高速化,大能力化を飛躍的に進めた。圧延工程の技術革新に伴って分塊(鋼の塊を適当な大きさに切断する)工程の能力も拡大した。製鋼工程の画期的技術革新はLD転炉(純酸素上吹転炉,1952年オーストリアで工業化)であり,従来の平炉に比して生産性は一段と高く,しかも良質の鋼を製造することができたので,以後,日本を先頭として急速に普及することとなった。製鋼・圧延工程の大容量化に伴い高炉規模の巨大化も要請され,日産1万t規模まで可能となるに至った。さらに現代では,分塊工程を省略する連続鋳造法が普及し,また,複合吹錬法(上・底吹転炉)も採用されている。そのほか,設備容量の巨大化を伴わない技術革新も,たとえば原料の事前処理法,重油・酸素などの燃料吹込み,高圧操業などの形で進展している。そして,近年はオートメーション化が徹底し,全製造工程を1ヵ所のコンピューター・コントロール・センターで制御する完全オートメーション化も実現するに至っている。また産油国などでは,豊富な天然ガスを利用した直接製鉄法も行われているが,原子力製鉄の本格的な工業化はなお今後の課題である(〈製鉄・製鋼〉の項参照)。

近代鉄鋼生産の発展はコークス高炉の出現以降のことであり,とくに転炉,平炉により大量の溶鋼が生産されるようになってからのことである。コークス高炉の発展は当初イギリス産業革命の展開と結合して進展したが,技術的にはパドル炉の存在がネックとなり,資本的にはイギリス資本主義の自生的展開に起因する資本規模の限界に妨げられていた。これに対し,イギリス資本主義の側圧のもとに産業革命を経過したドイツ,アメリカにおいて,むしろ大量溶鋼生産技術としての転炉法および平炉法が採用され,急速な発展をみせた。製銑→製鋼→圧延の3工程(銑鋼一貫作業)を有する鉄鋼業の経済的特徴としては,工場規模が大きく,多量の原料消費を要するため大資本が必要であり,しかも生産財中の基礎資材産業として多くの産業に密接に関連し,景気変動の波を受けやすい。こうした特徴をもつ鉄鋼業において独占資本の形成が典型的にみられ,〈独占資本の本場〉といわれるドイツ,アメリカにおいて,近代鉄鋼業の本格的展開がなされたのである。

 アメリカでは1893-97年の不況を契機に企業合同が促進され,鉄鋼業においても10余りのトラストが結成されたが,依然激しい競争が行われ,そのなかから1901年に世界最大のトラストであるUSスチール社が設立された。同社は当時の全アメリカ粗鋼生産の約65%を占め,基準地点価格制度basing point systemを採用して,プライス・リーダーとしての役割を果たした。ドイツでは,カルテルコンツェルン形態の独占組織が発達し,とくに鉄鋼業において典型的に現れた。ティッセン,ドルトムント,ヘルデ,ヘッシュ,クルップなど,炭鉱・運輸・製鉄・機械部門を結合し,銀行資本と癒着したコンツェルン形態の金融資本がライン・ウェストファーレン石炭シンジケート(1893)や全国粗鋼カルテル(1904)を組織した。やや遅れて1900年代には,イギリスにおいても集中が進み,フランス鉄鋼業もカルテル化した。そして,第1次大戦後のドイツ鉄鋼業の再編成過程で,ヨーロッパ最大のトラストである合同製鋼会社が誕生した(1926)。また同年にはベルギー,ドイツ,フランス,ルクセンブルクおよびザールの鉄鋼業者グループにより国際粗鋼組合が結成され,鉄鋼輸出価格の安定化が企図され,さらに32年には,ドイツ,フランス,ベルギー,ルクセンブルクの4国間で国際粗鋼輸出組合が結成され,のちにイギリス,アメリカの鉄鋼企業も参加して文字どおり国際鉄鋼カルテルに発展した。

日本における近代的鉄鋼業は,釜石(岩手県)の洋式高炉の操業(1857)に始まるが,本格的には官営の八幡製鉄所の設立(1896年製鉄所官制公布)によってもたらされた。釜石の製鉄所は,技術的失敗を繰り返しつつ,明治政府の官営を経て,民間の釜石鉱山田中製鉄所となり,その銑鉄生産高は1894年以降,旧来の砂鉄銑を上回った。また陸海軍工厰においても,小規模ではあるが,るつぼ製鋼法や酸性平炉法により鋼の生産が行われていた。八幡製鉄所は1901年に操業を開始し,日本初の銑鋼一貫経営が官業(国有国営)として成立した。操業当初の八幡製鉄所は,高炉の故障等により不振であったが,日露戦争時の拡張を経て生産は軌道に乗り,10年には創業以来初の黒字を計上した。

 当時における銑鋼一貫経営は官営の八幡製鉄所のみであったが(釜石製鉄所も1903年に製鋼・圧延生産を開始するが銑鉄生産が主),民間鉄鋼企業も日露戦争を契機として勃興し,第1次大戦前には後の主要製鋼企業が出そろった。住友金属工業の前身である住友鋳鋼場および住友伸銅場の鋼管事業,神戸製鋼所川崎製鉄の前身である川崎造船所兵庫工場,日本製鋼所日本鋼管などである。しかしながら,これら民間の製鋼企業の多くはまだ小規模な鍛鋳鋼品メーカーであり,日本鋼管を除いていずれも海軍需要に依存するか,鉄道国有化(1906)に基づく鉄道用品国産化政策と関連して勃興したものであった。

 第1次大戦期には,鉄鋼材の輸入困難,鉄鋼価格高騰という条件のもとで民間鉄鋼諸企業の設立と拡張が相次ぎ,八幡製鉄所の拡張も相まって生産高の急増がもたらされた。民間鉄鋼諸企業の発展にとっては,製鉄業奨励法の制定(1917)も寄与している。また第1次大戦前から大戦期にかけて,植民地朝鮮および半植民地〈満州〉(中国東北部)に原料基盤を求めた製鉄経営が成立している。大倉財閥による本渓湖煤鉄公司,三菱財閥による兼二浦製鉄所および半官半民の満鉄(南満州鉄道株式会社)による鞍山製鉄所の3社である。さらに,中国桃冲鉄鉱石の買鉱を前提として東洋製鉄も設立された。こうして日本鉄鋼業における原料資源の大陸依存が確定していく(八幡製鉄所は当初から中国大冶鉄鉱石依存)。

 第1次大戦後,欧米鉄鋼材輸入の復活と鉄鋼価格下落とにより,日本鉄鋼業は深刻な不況に陥る。大戦期に新設・拡張された民間鉄鋼諸企業のうち基礎薄弱な中小鉄鋼諸企業は消滅したり,大資本の傘下に入った。他方,官営の八幡製鉄所は,拡張工事を不況下にも続行し,国内生産に占める地位を上昇させただけでなく,輸入鉄鋼材との対抗上,低価格政策を実施した(〈外注値段追随主義〉)。そのことにより,〈官〉と〈民〉との〈競合〉ないし〈対立〉という事態が引き起こされた。日本鉄鋼業は欧米先進鉄鋼業国に対する対抗という課題のみならず,国内的には〈官民調整〉という課題をかかえることとなった。しかも,民間鉄鋼業内においては依然として銑鋼一貫経営はほとんど存在せず,日本鉄鋼生産構造の〈銑鋼分離〉という特徴が形成・固定化された。そのもとで,製鋼企業(平炉・圧延メーカー)は安価良質なインド銑鉄などの輸入銑鉄や屑鉄に依存して比較的発展しえたが,製銑企業はそれだけ困難が増大し,両者の対立が引き起こされた。1929年における鋼材の国内生産高は203万t,自給率は77%に上昇したが,銑鉄はそれぞれ109万t,58%にとどまり,〈銑鋼アンバランス〉が拡大した。

 こうした状況を背景として,関税改正,奨励金交付などによる民間鉄鋼業保護と輸入防遏(ぼうあつ)政策が実施され,また〈官民製鉄合同〉政策が打ち出された。関税については,鋼材関税率は1921年,26年と引き上げられたが,銑鉄については低率に据え置かれ,製鋼企業に有利に作用した。26年には製鉄業奨励法の改正による銑鉄奨励金の交付という施策も実施されたが,これも銑鋼一貫奨励という趣旨を果たすうえではきわめて不十分であった。製鉄合同問題については,臨時財政経済調査会答申(1921)および製鉄鋼調査会答申(1925)において合同方針は打ち出されつつも,実際に採られた措置は製鉄所特別会計の制定(1926)やカルテル助成策などの準備的諸施策にとどまった。臨時産業審議会答申(1930年11月)を受けた合同案も政府部内における不一致により頓挫し,昭和恐慌下にはむしろ各種鉄鋼カルテルの結成と活動が本格化した。

 合同問題が新展開をみせたのは,31年9月満州事変,12月金本位制離脱などにより日本鉄鋼業をとりまく環境が大きく変化してからであり,32年6月銑鉄関税の大幅引上げが実現したのち,製鉄合同案が再度作成され,33年3月日本製鉄株式会社法として成立した(翌1934年1月日本製鉄株式会社設立)。日本製鉄(略称,日鉄)は,官営八幡製鉄所を中心とし,三井・三菱財閥系製銑企業をはじめとする民間鉄鋼企業を結集して成立した半官半民の一大鉄鋼トラストであり,日本鉄鋼業の全生産能力に占める日本製鉄1社の比率は銑鉄97%,粗鋼58%ときわめて高い(後者の比率が相対的に低いのは日本鋼管をはじめとする製鋼企業が資産評価問題などを理由に合同不参加となったためである)。

 1934年の生産高は鋼材332万t,銑鉄173万tと増大し,国内自給率はそれぞれ105%,69%に上昇した(朝鮮,〈満州〉からの輸移入高を含めた銑鉄の〈自給率〉は92%)。しかしながら,そのころから軍需インフレ傾向のもとで鉄鋼需要は急速に増大しつつあり,鉄飢饉(ききん)的状態さえ発生した。政府は日本製鉄の設備拡充を中心に鉄鋼増産計画を推進したが,他方では,日本鋼管等の高炉申請に対して認可を遅らせるなどの〈日鉄中心主義〉的製鉄行政を行っていたため,事態の急進展に対応できなくなっていた。

 1936年二・二六事件,37年7月日中戦争の勃発により,日本鉄鋼業はさらに新たな局面を迎える。日本製鉄以外のアウトサイダーを含めた鉄鋼増産計画が商工省の政策として打ち出され,41年目標の増産計画がつぎつぎと引き上げられていった。1936年の生産実績が銑鉄200万t,圧延鋼材426万tであったのに対し,小川商相案(1936年7月)がそれぞれ400万t,500万t,伍堂商相案(1937年3月)が同517万t,550万t,吉野商相案(1937年8月)が同775万t,832万tというごとくである。この鉄鋼増産計画は伍堂案以来〈日満一体〉の計画として樹立され,38年3月には〈北支〉を含む〈日満支鉄鋼増産計画〉としてさらに肥大化する(銑鉄1250万t,鋼材1100万t計画)。そして,増産計画達成のために製鉄事業法が制定され(1937年8月),鉄鋼業を全面的に国家の統制下に置く戦時鉄鋼統制が本格化した。

 戦時鉄鋼増産計画は,国家総力戦遂行のための〈生産力拡充計画〉の眼目として樹立されたものであったにもかかわらず,すでに普通圧延鋼材の生産は1938年の532万tをピーク(〈満州〉を含めると568万t)に減少傾向に陥った。とくにアメリカの対日屑鉄禁輸措置(1940年10月)は,いまだ屑鉄製鋼法を脱却しきれない日本鉄鋼業にとって決定的打撃となった。銑鉄の飛躍的増産計画も原料資源と輸送能力の両面から制約され,42年の458万tをピーク(〈満州〉を含めると614万t)に急速に縮小傾向に陥った。こうして,太平洋戦争突入当初にはすでに日本鉄鋼業は崩壊の危機に瀕しており,銑鋼一貫体系を基本とする近代鉄鋼業の本格的定着は戦後に持ち越されることとなったのである。

第2次大戦後の世界鉄鋼業は大きく変貌した。ソ連をはじめとする社会主義国の鉄鋼業の拡大,発展途上国における新興鉄鋼業の登場によって,鉄鋼業はもはや少数先進国の独占物ではなくなった。資本主義諸国のなかでは日本の急成長が目覚ましいが,日本を除く各国の鉄鋼業においては国家の関与が増大している。

 アメリカ鉄鋼業は,USスチール社がその地位を後退させつつも,依然プライス・リーダーとして強力な管理価格を成立させてきた(基準地点価格制度は廃止し,工場渡し価格を採用)。そのことは,アメリカ鉄鋼企業(独占的大企業)にとっては,独占利潤を維持し,設備投資資金を自己金融によって賄うことを可能とさせたが,同時に,他方では,アメリカ鉄鋼価格を国際的に高水準とさせ,日本および欧州鉄鋼材の国内流入をもたらすことになったのである。こうして,アメリカ鉄鋼業は国際競争力を減退させ,1960年代後半以降,対外的には日・欧鉄鋼企業に対し輸出自主規制を要求し,国内では価格決定への国家関与を受け,さらに脱鉄鋼=非鉄鋼分野への多角化に傾斜していった。

 ヨーロッパでは,鉄鋼諸設備の多くは破壊され,残存設備も老朽化していたので,鉄鋼業の再建は設備の更新・近代化という形で進展した。イギリスはいちはやく鉄鋼第1次近代化計画を実施し,近代的銑鋼一貫工場を建設したが,その過程で,鉄鋼価格と設備投資は国家の強力な監督・管理下に置かれた。イギリス鉄鋼業は,国有化,民有への還元を経て67年には再国有化され,イギリス鉄鋼公社British Steel Corporationが全国粗鋼生産の92%をその支配下に置いた。西ドイツ,イタリアなどの敗戦国では,設備の破壊・撤去がなされていたが,1948年以来,マーシャル・プランによりアメリカの新鋭設備が導入され,設備の近代化・更新が進んだ。そして,1952年には,西ドイツ,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ルクセンブルクの6ヵ国によりヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成され,鉄鉱石,鉄屑,石炭,鉄鋼の域内関税が廃止され,広大な共同市場が開設された。そのもとで,各国の鉄鋼業はそれぞれの形態で集中を進めた。戦後細かく分割された西ドイツ鉄鋼業は1950年代に再結合を遂げたのち,ティッセン,ヘッシュの巨大資本グループのもとで強力なカルテルが再構築された。フランス鉄鋼業は国家の政策的誘導下で二大グループに再編成され,イタリア鉄鋼業は,IRI(イリ)(産業復興公社)が60%出資するフィンシデルFinsider(鉄鋼金融公社)が全国生産の60%を支配し,国家資金の計画的投入によって近代化と拡張を遂げた。

 日本鉄鋼業は敗戦によって壊滅的打撃を被ったが,傾斜生産方式の採用,朝鮮戦争による好況などにより急速に復興し,1953年には粗鋼生産は戦前戦時を通じての最高水準に回復した。この間,1950年には〈過度経済力集中排除法〉の適用により日本製鉄が八幡製鉄と富士製鉄に分割され,以後の日本鉄鋼業は戦前とは異なり,また多くの欧州鉄鋼業とも異なって,純然たる民間の鉄鋼会社間の競争を通じて発展していくことになった。日本鉄鋼業は,3次にわたる合理化投資によって目覚ましい発展を遂げた。すなわち,まず第1次合理化計画(1951-55年度)は,川崎製鉄の千葉における高炉新設=銑鋼一貫メーカーへの仲間入りを除いては,ホットストリップミル導入などの主として圧延設備の近代化にとどまったが,第2次合理化計画(1956-60年度)では6227億円を投資して本格的な設備拡張・更新が行われた。この時期の特徴は,各社いっせいに本格的な銑鋼一貫製鉄所を建設したことであり,大型高炉,ストリップミル,LD転炉などの世界鉄鋼技術の最先端を行く新鋭設備が導入された。さらに,第3次合理化計画(1961-70年度)では,製鉄所建設・設備投資競争はエスカレートし,新規立地の製鉄所建設など一段と積極的な拡張・近代化投資が行われた。そして粗鋼生産高は1960年に2000万t,65年に4000万t,67年に6000万t,69年に8000万t,さらに70年には9000万tを相次いで突破した。こうして日本鉄鋼業は1960年代後半には,大型化,連続化,自動化,高速化という現代鉄鋼技術において世界の最先端に位置するに至った。

 原料資源の海外依存度がきわめて高い日本鉄鋼業の急速な発展をもたらした条件として,戦後世界における原料需給の緩和のほかに,臨海立地型の大規模製鉄所の建設と大型鉄鉱石専用船の発達を指摘することができる。ところで,この日本鉄鋼業の飛躍的な発展は,日本経済の高度成長をもたらすものであったし,その発展のメカニズムは高度成長のメカニズムの典型例といえるものであった。すなわち,鉄鋼諸資本間の設備投資競争→鉄鋼増産→鉄鋼コスト低下→価格低下による需要拡大→設備投資競争,という循環であり,また,いわゆる〈鉄が鉄を呼ぶ〉メカニズムであった。この鉄鋼諸資本の競争構造は,八幡製鉄,富士製鉄,日本鋼管の先発一貫メーカー3社に対して,川崎製鉄,住友金属,神戸製鋼の後発関西3社が一貫メーカーに仲間入りしつつ激しく追い上げるという寡占資本間の競争構造であり,いわゆる〈独占品種のつぶし合い競争〉であった。しかしながら,こうした大手6社の競争的寡占体制は,70年3月八幡製鉄・富士製鉄の合併による新日本製鉄(新日鉄)の成立により,新日鉄をプライス・リーダーとする大手高炉メーカー5社の協調的寡占体制に移行した。

現代の世界鉄鋼業は,ソ連,アメリカ,日本,ECの4極構造であるが,先進鉄鋼業国の生産が概して停滞傾向にあるのに対して,カナダ,インド,オーストラリア,ブラジル,メキシコ,韓国などの〈中進製鉄国〉や発展途上国の鉄鋼生産が上昇傾向にあり,石油危機後の世界不況のもとで,世界の鉄鋼市場をめぐる競合は複雑な様相を呈している。また近年は,中国鉄鋼業の発展が顕著である。日本鉄鋼業は,粗鋼生産高において1964年に西ドイツを抜いて世界第3位となり,以後輸出比率を高めつつ,アメリカ,東南アジアなどに輸出を増大させてきた。その結果,70年代には国内生産高の3割以上が輸出に振り向けられ,鉄鋼業は最大の輸出産業としての地位を占めるに至った(ただしその後自動車に首位の座を譲った)。また日本の鉄鋼輸出は,世界の鉄鋼輸出市場においては,すでに1969年に西ドイツを抜いて第1位の地位を占め,さらに76年,77年には日本のシェアは3割にまで増大した。このことは同時に,日本鉄鋼業がアメリカ,ECなどにとっては脅威的存在にまで成長したことを意味した。

 事実,アメリカは,対日鉄鋼輸入規制をさまざまな形で試みてきている。すなわち,1969年の日本側の〈自主規制〉に始まり,76年の〈日米合意〉(政府間交換公文)による規制を経て,78年からはトリガー価格制度trigger price mechanismが導入された(1980年に一時停止されたが,すぐ復活)。この制度は,一定の基準価格を下回る輸入鋼材に対して,反ダンピング法による手続を経ずして自動的に引金triggerを引くという,実質的な一方的輸入規制である。またECも,78年からベーシック価格制度basic price systemと2国間協定という形で輸入規制を実施した。こうした鉄鋼輸入規制の強化は,当初は日本鉄鋼業にとって打撃となったが,やがて輸出数量の伸び悩みに対して輸出価格上昇が顕著になるに及んで,鉄鋼大資本は歓迎の態度を示すようになった。世界の鉄鋼貿易は,日本,EC,アメリカ間での管理貿易的様相となり,各種の鉄鋼輸入規制による貿易秩序は一種の国際カルテルとしての役割を果たすに至ったのである。

 日本鉄鋼業は,新日鉄の成立を一転機とし,さらに1971-73年の世界および日本経済の構造変化を決定的条件として,一大転換期に入った。とくにエネルギー多消費型産業である鉄鋼業に対する石油危機の及ぼした影響は大きく,日本鉄鋼業も,エネルギー・原料費高,需要減退,過剰生産力の〈三重苦〉に悩まされることになった。新日鉄成立直後から,同社主導による価格引上げが行われ,しかも粗鋼減産下での値上げが実施された。とくに73年秋の石油危機後は毎年のように価格が引き上げられてきた。その場合,カルテルは表面上は形成されず,新日鉄のリーダーシップのもとできわめて協調的な価格形成がなされたことに特徴があり,とりわけ,自動車,造船,電気機械,産業機械などの大口需要者向けのいわゆる紐付き価格の引上げが主要鋼材価格値上げの突破口としての役割を果たしている。近年は,たとえば新日鉄とトヨタ自動車との価格交渉にみられるごとく,大手高炉メーカーと大口需要者との個別交渉が主要な鋼材価格を事実上決定するに至っているほど,メーカー,ユーザーともに協調的な寡占行動を示している。こうした独占的大資本の協調行動は,日本経済のスタグフレーションをいっそう深刻化させる要素ともなっている。

 日本鉄鋼業は,中国や中進製鉄国の追上げを受けつつも,その生産性において依然世界鉄鋼業の最先端を走っている。アメリカ鉄鋼業の凋落は激しく,80年,82年,83年と日本の粗鋼生産高を下回った(アメリカの1982年の生産高6766万tは前年比40%減で第2次大戦直後の水準)。日本のトップ・メーカー新日鉄の粗鋼生産高は,すでに1971年にUSスチール社の生産高を凌駕して世界第1位であり,世界の上位10社中の4社を日本のメーカーが占めている(1995年。なお2006年には10社中の2社を占め,新日鉄が第3位,JFEスチールが第4位)。実生産高は73年に1億1932万tを記録したのち,減少・停滞を繰り返し,82年には再び1億tを割り,以後毎年1億t前後の生産である。日本経済の高度成長も終焉(しゆうえん)し,資源・エネルギー条件の悪化,公害問題の深刻化のもとで,日本鉄鋼業は,その活路を一方ではさまざまな〈国際化〉に求め,他方国内的には〈減量経営〉下の技術改善を試みている。

 〈国際化〉の事例としては,前述のごとき欧米輸出市場での協調的行動のほかに,オーストラリアなどにおける原料資源の開発輸入方式の拡大,アメリカや韓国の浦項製鉄所(浦項総合製鉄はめざましい成長を遂げ,1995年の粗鋼生産量は2343万tで新日鉄に次ぎ世界2位となった),ブラジルのツバロン製鉄所など中進国に対する技術協力,海外拠点における製鉄所建設などがそのおもなものである。石油危機以降の技術改善は,とくに省エネルギー効果の高い分野(工程省略,熱管理強化,エネルギー回収)で進展している。歩留り向上と省エネ効果の著しい連続鋳造法の一層の普及,ダイレクトローリング(直送圧延),ホットチャージ(加熱炉燃料の節約),高炉炉頂圧発電,転炉ガス等各種廃熱ガスの回収・利用などであり,また,高炉のオールコークス操業やコークス・タール操業などによるオイルレス製鉄所への転換・改造も進展している。そして,大手高炉メーカーを中心とする日本鉄鋼業は,付加価値の高いエンジニアリング部門の比重を増大させつつ,〈国際化〉と技術革新をいっそう進めている。

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鉄鋼業は火力発電所とともに工業地帯における最大の大気汚染源である。銑鋼一貫工場についてこれを工程別にみると,硫黄酸化物については全排出量の50%を焼結工程が占め,重油燃焼によるものが30%強,コークス炉ガスの燃焼によるものが10%強であり,窒素酸化物についても焼結工程が30~40%を占めるのが普通である。これへの対策としては,コークス炉ガスについては脱硫技術が古くから確立しており,重油その他の燃料についても低硫黄分のものを使用することができるが,焼結については原料の低硫黄化に限界があり,排煙脱硫設備が必要である。また窒素酸化物については低NOx燃焼法が種々考案されているが,いずれも限界があり,排煙脱硝設備を設置する必要がある。コークス製造工程や焼結および製鋼工程などでは集塵装置が不可欠であり,これらが不備であれば,ばい(煤)塵の発生はきわめて多量のものとなる。水汚染については,コークス製造工程からフェノールやシアンを含む排水が放出され,酸洗工程からは廃酸が放出されるため処理施設が必要である。また湿式集塵法が採用されている場合には,その排水を処理しなければならない。なお以上のほか,銑鋼一貫工場はコンビナートの一員として立地したり,電力会社やガス会社と共同の設備をもつことが多く,共同火力発電所やガス会社のコークス炉からの公害にも責任があるといえる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「鉄鋼業」の意味・わかりやすい解説

鉄鋼業【てっこうぎょう】

産業分類上は,製銑を行う製鉄業,製鋼圧延業,製鋼を行わない鋼材製造業などに分ける。しかし巨大設備による大量生産を特色とする今日の鉄鋼業では,製銑から圧延までを一貫する(銑鋼一貫作業)大製鉄企業が生産の大半を集中し,製鋼業以下の諸企業を系列下に入れて業界の動向を牛耳っているのが特徴である。そして鉄鋼は生産財として,また近年は消費財としても,国民経済上きわめて重要な物資であるため,鉄鋼業は金属工業の主力をなし,代表的な基幹産業として産業構造高度化の基盤に位置している。 近代的鉄鋼業は18世紀のコークス高炉出現を機にその第一歩を踏み出し,産業革命推進の一翼をにないつつ地歩を固めて,19世紀の鋼量産法の確立後ますます規模を拡大,資本主義発展の中心的地位に立った。この間世界鉄鋼業の首位は英国が占めたが,急速に拡大された米国鉄鋼業は19世紀末葉には英国を抜いた。また19世紀後半には独・仏の鉄鋼業も確立され,これら先進国では20世紀を迎えるとともにカルテルトラストなどによる独占体制が確立された。第1次大戦後にはソ連で鉄鋼生産が急速に進展し,第2次大戦後,今日にかけて中国,インドなど新興の鉄鋼生産国が台頭しつつある。 日本の近代的鉄鋼業は,釜石鉱山の高炉操業(1857年)に始まり,軍工廠における製鋼技術導入などがあったが,本格的発展は八幡製鉄所の操業(1901年)以後である。日露戦争から第1次大戦にかけ民間企業も相次いで発展,1934年日本製鉄が成立し経済体制軍事化の一翼となった。第2次大戦後は傾斜生産方式により重点的に復興され,朝鮮戦争後,設備の拡充合理化を推進,新鋭の銑鋼一貫製鉄所建設が相次いだ。鉄鋼年産の戦前最高は,銑鉄426万t(1942年),粗鋼765万t(1943年)であるが,1997年の生産は銑鉄7852万t,粗鋼1億455万tに達している。同年の世界の粗鋼生産は7億9700万t,主要国では中国1億757万t,米国9849万t,ロシア4844万t,ドイツ450万tで,日本鉄鋼業は世界の13.1%を生産,中国についで第2位を占める。輸出も鋼材を中心に2353万tに達する。日本の鉄鋼生産のこのような急成長は,銑鋼一貫の巨大企業5社に集中し(銑鉄は90%以上,粗鋼は80%以上),1970年の新日本製鐵成立は寡占強化の傾向に拍車をかけてきたが,このような急発展も,激烈な設備拡張競争のとがめや需要の落ち込みがあって,鉄鋼メーカーを経営多角化へと向かわせている。なお日本は製鉄原料の産出が乏しく,戦前は中国からの輸入に依存したが,今日では鉄鉱石年間1億2660tをオーストラリア,インド,南米などから,原料炭6242万tをオーストラリア,カナダなどから輸入している。
→関連項目金属工業工場排水重化学工業装置工業

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鉄鋼業」の意味・わかりやすい解説

鉄鋼業
てっこうぎょう
iron and steel industry

銑鉄,鋼鉄などの製造とそれに付随する圧延,2次加工などを行う産業。一般に製鉄業は製鋼業を伴い,銑鋼一貫作業が行われるが,製鋼業は単独でも企業として成立する。鉄鋼業の歴史は,1856年 H.ベッセマーによる近代溶鋼法ともいうべき酸性底吹き転炉の開発に始るといわれ,以後の発展はめざましい。日本の鉄鋼業は 1951年度以降,約3兆円に上る巨費を投じ,3次にわたる大規模な合理化を実施した結果,生産設備は全面的に近代化され,世界のいずれにも劣らぬ良質かつ多量の,しかも低価格の鉄の供給が可能となった。これはすべて圧延部門の近代化を中心に原料事前処理,酸素製鋼法などの充実をはかったあと,高炉建設,LD転炉など,国際競争力の強化に努めた結果である。技術的には,世界最大級の超大型高炉をもち,炉容積 4000m3以上のものさえある。しかし 1973年の粗鋼生産量1億 2000万tを最盛期として,70年代以降,2度の石油危機,産業構造の変化などにより低迷期を迎え,鉄鋼業界は積極的な経営の合理化と多角化で対応した。 90年には落込んでいた粗鋼生産量は1億 1000万tにまで回復を見せたが,むしろ多角化により進出した新素材,エレクトロニクス,情報通信,サービス,レジャーなどの各産業部門の動向が注目される

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