鎌倉時代というのは、政権の所在地による時代称呼の一つである。1885年(明治18)田口卯吉(うきち)が『日本開化之性質』で初めてこの称を用いた。
この時代に政権が鎌倉幕府にあったとはかならずしもいいきれないが、鎌倉に幕府が置かれた時代を鎌倉時代といっている。
[上横手雅敬]
鎌倉時代の終わりが幕府の滅亡した1333年(元弘3・正慶2)であることに異論はないが、幕府の成立時期については次の諸説があり、したがって鎌倉時代の始期についても、種々の見解が可能である。
(1)1180年(治承4)説 治承4年10~12月における東国独立国家の成立、とくに12月、源頼朝(みなもとのよりとも)の住居が完成し、頼朝がここに移ったとき。
(2)1183年(寿永2)説 寿永(じゅえい)二年十月宣旨(せんじ)によって、頼朝が東国における国衙在庁(こくがざいちょう)指揮権を認められたとき。
(3)1185年(文治1)説 頼朝が守護(しゅご)・地頭(じとう)の補任(ぶにん)を勅許されたとき。
(4)1190年(建久1)説 頼朝が朝廷によって日本国総追捕使(そうついぶし)・総地頭の地位を確認されたとき。
(5)1192年(建久3)説 頼朝が朝廷から征夷(せいい)大将軍に任命されたとき。
次にこれらの時点に注目しつつ、幕府の成立過程を述べる。
1180年8月、頼朝は伊豆で平氏打倒の兵をあげた。最初は相模(さがみ)の石橋山の戦いで敗れたが、やがて勢力を回復して鎌倉に入り、富士川の戦いで平氏の追討軍を破った。頼朝は上洛(じょうらく)することなく、そのまま鎌倉で東国経営を進め、御家人(ごけにん)支配のために侍所(さむらいどころ)を置き、12月には頼朝の住居も完成、移住した。建築的にいえば頼朝の住居こそ幕府であるが、新邸移転の儀式に際し、御家人たちは頼朝を「鎌倉の主」に推したと『吾妻鏡(あづまかがみ)』にみえる。当時頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を東国支配の根拠としていたが、それには平氏に支持された高倉(たかくら)上皇・安徳(あんとく)天皇の朝廷を倒して即位する意志が述べられていた。したがって以仁王の令旨に基づく頼朝の政権は、単に東国軍事政権というよりも、京都の朝廷とは共存できない独立国家であり、新邸移住の儀式は、独立国家の国王戴冠式(たいかんしき)を意味している。(1)の説はこのときをもって幕府が成立したとみるものである。
頼朝の挙兵の動機は、以仁王の令旨を得たことのほかに、文覚(もんがく)を介して平氏打倒を命ずる後白河(ごしらかわ)法皇の密旨を得たことにもあった。したがって1183年、平氏が都落ちし、法皇が政権を回復すると、法皇と頼朝の提携は急速に進み、同年10月法皇は、寿永二年十月宣旨によって、これまで頼朝が「国王」として支配してきた東国における国衙在庁指揮権を認めるという形で、その支配を公認した。その結果、これまでの東国独立国家は消滅し、頼朝は朝廷の承認下に東国を支配することになった。この時期を幕府の成立とするのが(2)の説である。
平氏を追って上洛した木曽(きそ)の源義仲(よしなか)は、後白河法皇と対立した。とくに法皇が頼朝との提携を進めると、法皇と義仲との関係は険悪化し、ついに義仲は法皇を幽閉した。頼朝は弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を派遣して義仲を討たせた。範頼・義経はさらに一ノ谷(いちのたに)、屋島(やしま)で平氏を討ち、1185年、壇ノ浦(だんのうら)で平氏を滅ぼした。その後、頼朝と義経とは対立し、法皇も義経を利用して頼朝を牽制(けんせい)しようとし、頼朝追討の宣旨を義経に与えたが失敗した。逆に頼朝は義経追討のために、守護・地頭を置くことを法皇に承認させた。これを幕府の成立とみるのが(3)の説である。
頼朝に追われた義経は奥州(おうしゅう)藤原氏を頼ったが、1189年、藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に屈して義経を討った。頼朝はさらに奥州藤原氏を滅ぼし、全国に支配を及ぼした。翌1190年、頼朝は上洛し、法皇から権大納言(ごんだいなごん)・右大将に任ぜられるとともに(頼朝はやがてこの両職を辞任したが)、守護・地頭の元締めとしての日本国総追捕使・総地頭の地位を確認され、御家人を率いて「諸国守護」(日本国の軍事・警察)を担当することになった。これを幕府の成立とみるのが(4)の説である。
(5)の説は古くから行われており、改めて説明するまでもない。
幕府の成立について諸説が分かれるのは、幕府の本質をどうとらえるかの差異によるものである。しかしもっとも伝統的な学説である(5)だけは、幕府の本質に触れていない。すなわち「幕府」ということばが本来出征中の将軍の幕営(テント)を意味するところから、頼朝の征夷大将軍就任を幕府の成立とみたのである。足利(あしかが)氏や徳川氏も、征夷大将軍として幕府を開いたのは確かであるが、この説そのものは「幕府」の語義からの論議にすぎない。それ以外の説では、(3)(4)が守護・地頭の面から幕府の成立時期を考え、守護・地頭制の成立・確立の時期を問題にしているのに対し、(1)(2)では幕府を東国政権としてとらえ、東国独立国家の成立、朝廷による東国支配権公認と、それに伴う独立国家の消滅の時期が問題になっている。また(1)以外の諸説は、頼朝が朝廷から一定の権限を与えられたり、官職に任命されたことを幕府成立の指標としている。(1)の東国独立国家の成立は別として、幕府は朝廷によって存在を保障され、その下で一定の国家的機能を果たしているのである。(2)は幕府が朝廷から初めて権限を与えられた時期を問題にしているが、幕府の国家的機能という視点にたてば、幕府の軍事・警察機能が朝廷によって確認された(4)が妥当であろう。現在もっとも一般に行われている(3)の説は、鎌倉殿(将軍)が御家人を守護・地頭に任ずることによって、土地を媒介とする御恩(ごおん)・奉公(ほうこう)の関係としての封建制が成立した時期を取り上げたものである。ただ成立時期論が本質論である以上、どれか一つを正しいとして、他を否定するのは誤りである。ここでは、いちおう、もっともポピュラーな(3)によって、1185年を鎌倉時代の始期としておく。
[上横手雅敬]
鎌倉時代には朝廷や貴族は形式的存在にすぎず、実権は幕府が握っていたと考え、鎌倉幕府史=鎌倉時代史とみるのは誤りである。少なくとも鎌倉中期までは、国家全体の支配者は依然として朝廷であり、幕府は朝廷によって存在を保障され、国家の軍事・警察を担当していたにすぎなかった。朝廷では平安後期、1086年(応徳3)に始まる院政が引き続き行われ、鎌倉末期、1321年(元亨1)後宇多(ごうだ)法皇が院政を停止し、後醍醐(ごだいご)天皇の親政が実現するまで、鎌倉時代のほぼ全体を通じて継続した。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後は、院政の機能の相当部分は幕府に移ったが、それでも院政が継続し、幕府の存在を保障するという原則は変わらなかった。院政成立のころから、武家の棟梁(とうりょう)という軍事貴族が登場し、武士を率いて国家の軍事・警察を担当するようになったが、鎌倉幕府の首長である鎌倉殿は、その発展したものである。鎌倉殿は日本国総追捕使として、従者である御家人を率い、国家を守護する機能を担ったが、朝廷は鎌倉殿に征夷大将軍などの官職を与えた。鎌倉殿―御家人の軍事組織は、単に幕府だけを守るのではなく、国家全体の守護にあたるのであり、このことは御家人の重要な義務である大番役(おおばんやく)が、朝廷の警固を任としていることからも明らかである。武士の首長が従者たる武士を率い、国家的軍事・警察にあずかる構造は、院政期以来、鎌倉時代になっても本質的に変化はなく、ただ幕府の成立によって、武士の地位が強固なものとして安定したにすぎない。
国家機構ばかりか、社会体制においても、鎌倉時代の社会は、平安後期以来の継続にほかならない。この時代の社会の基礎をなす荘園(しょうえん)制の原型は、平安後期、寄進地系荘園の形成によって築かれたもので、荘園領主(本所(ほんじょ)、領家(りょうけ)など)、在地領主(下司(げし)、地頭など)の二元支配を特色としていた。この二元支配は、貴族と武士が並んで国家機構を構成する政治形態と照応している。幕府の成立によって国家体制が本質的に変化しなかったのと同様、荘園体制にも基本的な変化は生じなかった。幕府が地頭を設置しても、荘園制は消滅しなかったし、地頭の権限や得分(とくぶん)(収入)は、前任の下司のそれを踏襲するのが普通だったのである。
院政期に続く鎌倉時代は、権力が多元的に分裂した時代である。貴族や寺社は荘園の不入権をはじめとして、公権力から独立した家政を行っており、朝廷もその家政の内部には干渉できず、幕府もまた介入しなかった。一方、在地領主たる武士も独立した領主権をもっており、子供を勘当したり、郎党を制裁したり、農民を支配したり、私領を処分したりすることには、幕府の干渉を受けなかった。
分裂は国家権力自体にもみられた。朝廷では、形式的主権者である天皇と、天皇の父祖として政治の実権を握り院政を行う治天の君(ちてんのきみ)(上皇)との分裂である。幕府でも、鎌倉殿、執権、得宗(とくそう)(北条氏の家督)の間に権力の分裂がみられた。
このような多元的支配のなかで、鎌倉後期になると、一元化、集権化の傾向が現れる。荘園では地頭の勢力が強まり、荘園領主の権力を排して一円支配化を進めた。幕府は得宗に権力を集中し、朝廷の政治への干渉、本所領への介入を進め、御家人領に対する統制を強めた。これに対して朝廷でも、後醍醐天皇が院政を廃止し、治天の君と天皇との分裂を解消し、さらに幕府を倒し、建武(けんむ)新政によって天皇への集権を実現させた。
[上横手雅敬]
1185年(文治1)頼朝は守護・地頭設置を要求するとともに、右大臣九条兼実(くじょうかねざね)を内覧(太政官(だいじょうかん)の文書を天皇に奏聞する以前に内見する職)に推薦し、後白河(ごしらかわ)法皇の独裁を抑えようとした。頼朝の支援を受けて兼実は法皇と対立したが、奥州(おうしゅう)藤原氏が滅び、頼朝と法皇との対立が緩和されると、頼朝にとって兼実の利用価値は減じた。1192年(建久3)法皇の死後、兼実は一時政治の実権を握ったが、1196年には、法皇の旧側近であった内大臣源(土御門(つちみかど))通親(みちちか)の讒言(ざんげん)にあい失脚した。これは兼実が頼朝の支持を失ったためであるが、兼実の失脚によって、頼朝も朝廷の政治に発言する窓口を失う結果となり、その後は通親が権勢を振るった。
幕府では頼朝の死(1199)後、頼家(よりいえ)が鎌倉殿を継いだが、その母北条政子(まさこ)、政子の父時政(ときまさ)は、頼家の外戚(がいせき)である比企(ひき)氏の台頭を恐れ、1203年(建仁3)比企氏を滅ぼし、頼家を退け、その弟実朝(さねとも)を鎌倉殿にたて、同時に時政は執権(政所別当(まんどころべっとう))となった。ここに執権政治が成立した。さらに、のち子息義時(よしとき)は1213年(建保1)侍所(さむらいどころ)別当の和田義盛(よしもり)一族を滅ぼし(和田合戦)、政所別当とともに侍所の別当をも兼帯した。一方、京都では1202年に通親が没し、後鳥羽(ごとば)上皇が権力を握った。上皇は通親時代に逼塞(ひっそく)していた九条良経(よしつね)(兼実の子)・道家(みちいえ)父子を重用するとともに、公武融和を図り、実朝との関係を密にし、彼を介して幕府を従えようとした。しかし幕府の実権を握る北条氏は、御家人の支持を得るため、御家人権益擁護の方針をとって上皇と対立し、実朝は上皇と北条執権との板挟みとなって苦悩した。1219年(承久1)実朝が甥(おい)の公暁(くぎょう)に暗殺されると、幕府は九条道家の子の頼経(よりつね)を鎌倉殿に迎えた(頼経はのち1126年に将軍となり、摂家(せっけ)将軍とよばれた)が、実質的な鎌倉殿は政子であり、俗に「尼将軍」とよばれた。実朝の死によって、幕府との妥協を断念した上皇は、討幕を決意し、1221年に挙兵したが大敗した(承久(じょうきゅう)の乱)。幕府は後鳥羽以下三上皇を流し、仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃して後堀河(ごほりかわ)天皇をたて、後堀河の父後高倉(ごたかくら)法皇に院政を行わせた。
[上横手雅敬]
承久の乱後、幕府は安定期を迎え、1225年(嘉禄1)の政子の死を契機に、執権北条泰時(やすとき)は独裁政治から合議政治への転換を行い、執権を2名(うち1名がいわゆる連署)とし、10余名の評定衆(ひょうじょうしゅう)がこれを助ける集団指導方式をとった。1232年(貞永1)には『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』がつくられ、裁判の基準が定められた。一方、承久の乱後も、朝廷では引き続き院政が行われたが、従来院政が果たしてきた国家的機能の相当の部分は幕府に移った。幕府は皇位にも干渉し、1242年(仁治3)四条(しじょう)天皇が没すると、貴族たちの意向を抑えて、後嵯峨(ごさが)天皇を即位させた。
[上横手雅敬]
この時期の幕府では得宗(とくそう)専制政治が行われたが、それは北条時頼(ときより)・時宗(ときむね)が得宗(北条氏の家督)であった第一段階と、貞時(さだとき)・高時(たかとき)の第二段階とに分かれる。
第一段階では、専制の対象は貴族・寺社に向けられ、公家(くげ)政治に対する干渉が強められた。時頼は陰謀を理由に、1246年(寛元4)には前将軍頼経を京都に追い、1252年(建長4)にはその子の将軍頼嗣(よりつぐ)をも追放し、新たに宗尊(むねたか)親王(後嵯峨上皇の皇子)を宮将軍として鎌倉に迎え、鎌倉殿の傀儡(かいらい)化を決定的なものとした。また1247年(宝治1)には頼経の支持者であった有力御家人三浦氏を滅ぼし(宝治(ほうじ)合戦)、また北条一門中での得宗への敵対者を粛清するなど、得宗とその被官(家臣)が政治の実権を握るようになり、公的な執権よりも私的な得宗の地位が優先するに至った。
摂家将軍の追放は、朝廷の政治にも深刻な影響を及ぼした。頼経の追放によって、その父として、さらに公武を媒介する関東申次(もうしつぎ)として権勢を振るっていた九条道家は失脚した。その後、幕府は摂関の交代や、さらには後嵯峨上皇の院政にまで干渉を加えた。先に後嵯峨が幕府に推戴(すいたい)された際は、なお幕府が治天の君や天皇の選定権を握っていたとはいえなかったが、後嵯峨は自分のあとの治天の君の選定を幕府に一任し、この後は幕府がこの権限を掌握した。
蒙古(もうこ)襲来も得宗専制強化の契機となった。蒙古(元)は1268年(文永5)以来、日本に服属を求めてきたが、幕府はこれに応ぜず、1274年(文永11)、1281年(弘安4)の再度にわたる襲来を退けた。この蒙古襲来を通じて、幕府の権限は大いに拡大した。従来幕府は貴族・社寺など本所の支配には干渉しなかったが、蒙古襲来にあたっては、西国の本所領の年貢などを兵粮米(ひょうろうまい)として徴発したり、御家人以外の武士である非御家人にも動員を加えたりする権限を獲得した。蒙古の国書に対する朝廷の回答を握りつぶしたり、かってに使者を斬(き)ったりしたのは、朝廷の外交権を幕府が奪ったことを意味している。
このように得宗専制の第一段階は、貴族・寺社を対象とする専制であった。幕府はそのためには御家人の支持を得る必要があり、引付衆(ひきつけしゅう)の設置(1249)による裁判の迅速化、大番役の半減など、御家人保護の政策をとっていた。しかし第二段階では専制は御家人に向けられ、その結果、幕府と御家人との対立が強まった。1285年、御家人勢力を代表する安達泰盛(あだちやすもり)が、得宗被官の代表である平頼綱(よりつな)の讒言(ざんげん)によって滅ぼされた霜月(しもつき)騒動は、得宗専制が第二段階を迎える契機となった。御家人は幕府権力に干渉されない強い領主権をもっていたが、幕府はしだいにその領主権、とくに所領の処分権に干渉を加えるようになった。1297年(永仁5)の徳政令は、貨幣経済の進展、蒙古襲来の戦費などによって困窮し、所領を失った御家人を救済するため、御家人領の無償取り戻しを命じたものであるが、同時に、一時的にせよ御家人領の売買・質入れをいっさい禁じたものであり、御家人領に対する幕府の統制強化の現れであった。また北条一門による幕府要職の独占(評定衆・引付衆など)、守護職の集積、物資流通の拠点(港湾など)の支配も進み、得宗家とその被官に権力が集中された。こうして多元的な支配関係が得宗によって一元化されていったが、それは貴族・寺社・武士などの利益に反する面があり、反荘園的、反幕府的な悪党的行動も各地で表面化し、このような動きを克服するには幕府は弱体であった。専制に伴う腐敗も現れ、諸階層において幕府への不満がますます強まった。
これらの反幕府勢力を結集したのは、後醍醐(ごだいご)天皇による皇権回復の動きであった。後嵯峨天皇ののち、その皇子後深草(ごふかくさ)・亀山(かめやま)両天皇が相次いで即位したが、後嵯峨の没後、後深草・亀山のいずれを治天の君とするかについて争いが起こり、その後、後深草系の持明院(じみょういん)統と亀山系の大覚寺(だいかくじ)統とは、互いに皇位や治天の君の地位を争って幕府に働きかけ、幕府もこれに介入し、両統内部にも分裂が生じた。1317年(文保1)幕府の提案で両統間に話し合いがもたれ、その結果花園(はなぞの)天皇(持明院統)が退位し、後醍醐天皇(大覚寺統)が即位することなどが決められた(文保(ぶんぽう)の和談)。
こうして後醍醐天皇が即位し、父の後宇多(ごうだ)法皇が院政を始めたが、後醍醐がその皇子を即位させ、自ら治天の君となることは困難であり、幕府への不満を強めた。後醍醐は1321年(元亨1)後宇多院政を止め、ほぼ250年にわたった院政を廃し、天皇親政を実現させた。1324年(正中1)倒幕の計画が漏れ(正中(しょうちゅう)の変)、1331年(元弘1)には再度の計画も漏れて天皇は隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)が、皇子の護良(もりよし)親王や楠木正成(くすのきまさしげ)の活躍で、反幕の武士が各地に蜂起(ほうき)し、ついに1333年足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らの活躍で、幕府は滅んだ。院政廃止によって治天の君と天皇との分裂を克服し、さらに幕府を滅ぼしたことは、幕府側からの集権化(得宗専制)に対する朝廷側からの集権化であって、天皇の事業は、単なる復古、反動とはいえない。
[上横手雅敬]
中国で宋(そう)が金(きん)に追われ、江南に南宋の王朝を建てたのは、平安後期の1127年であった。鎌倉前期、13世紀の初めにモンゴル高原に現れたチンギス・ハン(成吉思汗)とその後継者は、朝鮮半島から東ヨーロッパにわたる大帝国を建設し、金をも滅ぼした。チンギス・ハンの孫のフビライ(忽必烈)は、朝鮮の高麗(こうらい)を従え、国号を元(げん)と改め、のちには南宋をも滅ぼした。彼は1274年、1281年の再度、日本を襲ったが失敗した。鎌倉末期には元、高麗ともに衰え、南北朝時代の終わりの1368年、1392年には、それぞれ明(みん)、朝鮮王朝(李氏(りし)朝鮮)によって滅ぼされた。
894年(寛平6)の遣唐使(けんとうし)停止以来、日本は中国・朝鮮と正式の国交をもたず、日本人の海外渡航を禁じており、わずかに宋の商人が大宰府(だざいふ)を訪れ、朝廷の管理下に貿易を許されるにすぎなかった。この間、国風(こくふう)文化が発達した反面、日本人の国際的視野は狭まった。しかし平安後期以来、密貿易が盛んになり、とくに平氏は日宋貿易で巨利を博した。
鎌倉時代の対外関係は、平安後期のそれの発展である。正式の国交は開かれなかったが、貿易はいっそう盛んになり、宋船の渡来も増え、日本船も渡宋した。日本からは砂金・硫黄(いおう)などの原料品、蒔絵(まきえ)・屏風(びょうぶ)などの工芸品、刀剣などを輸出し、織物、陶磁器、宋銭、香料、薬品などを輸入した。遣唐使時代の外交が朝貢であったのに対し、いまや貿易と宗教が中心となった。宋代には南海貿易が盛んで、中国にはアラビア商人も訪れたが、これに誘われた中国商人が海外に活動し、日本にも香薬など南海の産物をもたらした。日本は東アジア通商圏の東端に位置していたのである。
元の大征服は、東西文化の交流を盛んにした。イタリアのマルコ・ポーロの体験記『東方見聞録』は、東洋事情を西洋に伝えたが、そのなかで日本のことを「黄金の島ジパング」と紹介している。こういう状況下では、蒙古(もうこ)襲来も、日本をめぐる通商関係に大きな打撃を与えなかった。その後も日元貿易は盛んであり、幕府も建長寺(けんちょうじ)造営費を得るため、貿易船の派遣を公認していた。こうして、室町時代に日明貿易が活発に行われる基礎が築かれつつあった。
[上横手雅敬]
鎌倉時代の社会の基盤は荘園体制であり、荘園領主、在地領主の二元支配を特色とする。農民には名主(みょうしゅ)、作人(さくにん)、下人(げにん)(所従(しょじゅう))などの階層があり、年貢、公事(くじ)、夫役(ぶやく)などの税が課せられ、名主はその負担責任者であった。作人は荘園領主や国司(こくし)に対し租税を負担するほか、小作料としての加地子(かじし)を在地領主や名主に納め、下人は在地領主、名主などに隷属し、彼らの直営地の耕作に駆使された。荘園制では、同一の土地に対し、領主的、農民的な多様の権利が行使され、それらは本所職、領家職、領所(あずかりどころ)職、下司(げし)職、地頭職、名主職、作職などの「職」として表現され、排他的な土地所有は存在しなかった。地頭が置かれても、その権限や得分(とくぶん)は前任者のものを継承したから、荘園領主は打撃を被らないはずであったが、荘園領主は地頭の任免権をもたなかったし、地頭は農村に館を構え、所領を直接経営し、年貢を押領(おうりょう)し、農民支配を強め、荘園侵略を進めていった。荘園領主側は現地の管理を地頭にゆだね、定額の年貢を確保する地頭請(うけ)、一半の地を地頭に与え、荘園領主、地頭が互いに相手に干渉せず、所領を経営する下地中分(したじちゅうぶん)などの解決策をとった。いずれにしても、こうして荘園領主、在地領主の二重支配は一元化する傾向がみられた。
[上横手雅敬]
鎌倉中・後期には農業生産が大いに向上した。荘園の複雑な支配関係は、灌漑(かんがい)用水の円滑な利用を妨げたが、水車や用水池の利用も盛んになった。それらは名主・地頭の指導によるものであったが、多くの農民も参加した。苅敷(かりしき)(苗草(なえくさ))、草木灰(そうもくばい)などの肥料も利用され、牛馬を耕作に使用することも多くなった。農業技術の改良で農業生産は向上し、生産地帯では米・麦の二毛作が行われるようになった。農業生産の発達は農民の地位を向上させ、下人の独立、作人の名主への成長、名主の領主化がみられ、荘園制の基盤を動揺させた。
農村では農業のかたわら手工業製品を納めたり、手工業のために領主に労役を提供する農民もいた。高度の手工業技術者は、貴族・寺社の保護下に座をつくっていたが、農業生産が発達すると、農村でも専門の手工業者が現れ、一般庶民の需要にも応じるようになった。とくに鍛冶(かじ)・鋳物師(いもじ)が活躍し、農具や日用品を民間に提供した。農業や手工業の発達につれ、荘園の中心、交通の要地では定期市(いち)が開かれ、在地領主や名主が年貢米を銭にかえたり、物々交換を行ったりした。行商人によって、中央の製品は地方にももたらされた。都市では常設の小売店舗として店が現れ、専門商品別の店も増えた。京都や鎌倉では町という商業地域が生まれた。物資輸送もしだいに発達し、馬借(ばしゃく)、車借(しゃしゃく)など専門の運搬業者が現れた。得宗被官や律宗の僧侶(そうりょ)によって港湾施設が整備され、また淀(よど)川などの河川や港湾には問丸(といまる)が発達した。彼らは最初は荘園領主のために運送、保管、委託販売にあたったが、しだいに領主から離れた独立の運送仲介業者となり、一般商品を扱うようになった。宋(そう)との貿易によって、宋銭が広く流通し、貨幣の使用が増すと、年貢は地方の市で銭にかえ、中央の荘園領主に送られることが多くなり、代金決済の方法として為替(かわせ)も始まった。借上(かしあげ)という金融業者も現れ、民間の相互扶助的な金融としては頼母子(たのもし)(無尽(むじん))が行われた。
[上横手雅敬]
鎌倉時代、とくにその前期には武士の文化水準は低く、依然として貴族文化が盛んであった。武士の台頭は、情緒的で優美な貴族文化に、意志的で剛毅(ごうき)な武士の気風を吹き込み、貴族文化の革新をもたらした。武士も貴族文化を摂取して文化水準を高めた。寺院の勢力は強大で、仏教の占める位置は大きかった。とくに新仏教の興隆などによって、仏教は庶民生活のなかに入っていった。中国との交渉で、禅宗をはじめとする宋元(そうげん)文化が輸入されたことは、幕府上層を中心とする武家文化の向上に大きな影響を与えた。鎌倉文化は多方面で発達したが、ここでは重要な諸点を指摘するにとどめたい。
[上横手雅敬]
1180年(治承4)平氏に焼かれた東大寺の復興は、国家的な文化事業であった。それは、戦乱で失われた国家の威信を回復するとともに、民衆の素朴な信仰心にこたえる面をももっており、民間僧重源(ちょうげん)を勧進職(かんじんしき)とし、広く信者の寄付を募り、再建の費用を集める方法がとられた。源頼朝が熱心な援助者であったのは、国家の軍事・警察を担当する彼の立場の現れである。東大寺復興は鎌倉美術の出発点ともなった。重源は武士の時代にふさわしく豪快な作風をもつ奈良仏師を起用し、運慶(うんけい)・快慶(かいけい)らによって多くの秀作がつくられた。彼らは天平(てんぴょう)彫刻や宋の様式をも取り入れ、新しい作風をつくりあげた。宋人陳和卿(ちんわけい)が大仏を鋳造し、宋の建築様式である豪放な大仏様が採用されたように、この事業には宋の影響が大きかった。貴族だけの国風(こくふう)の文化として成立した前代の文化とは違って、庶民をも包摂し、中国文化を取り入れ、平安時代を超えて天平のいにしえに戻ろうとするスケールの大きさが、東大寺復興の特色であった。
[上横手雅敬]
武士の台頭に対する貴族側の対応は、とくに文学において顕著にみられる。武士と合戦を主題とする『保元(ほうげん)物語』『平治(へいじ)物語』『平家(へいけ)物語』などの軍記物語の成立は、その一例である。とくに『平家物語』はそれらの白眉(はくび)であり、興りと亡(ほろ)びの交錯する変革期の歴史を躍動的に描き、新興の武士に対する共感をも示している。『平家物語』は琵琶法師(びわほうし)の語りによって、文字を読めぬ階層にまで享受され、感動を与えた。慈円(じえん)の『愚管抄(ぐかんしょう)』も源平合戦への反省から出発している。現実を末法・乱世と認識した彼は、乱世に至る歴史の理法としての「道理」を追究した。同書は歴史哲学を述べるとともに、政治のあり方に及んでいる。幕府の成立を「道理」として是認する彼は、力づくで幕府を倒そうとするのを誤りだとし、公家(くげ)・武家が協力して天皇を助けるのを政治の理想としている。慈円は「鏡(かがみ)もの」のように、歴史を観照・賛美する立場を捨て、乱世における生き方を求める実践的立場にたっている。貴族社会の内紛や公武の対立を主導的に克服しようとした後鳥羽上皇は、『新古今(しんこきん)和歌集』編纂(へんさん)の中心となった。それは貴族文化の原点である延喜(えんぎ)(『古今和歌集』の時代)への回帰を目ざしており、上皇の政治方針と対応するものであったが、上皇の理想主義的情熱や、波瀾(はらん)の世を生きる歌人たちの緊張は、歌壇の停滞を打破している。
[上横手雅敬]
平安時代以来、仏教の基本的課題は、末法の世における往生のあり方であった。前代の貴族的浄土(じょうど)教を批判的に継承した法然(ほうねん)(源空(げんくう))は、往生浄土の道は、人々の救済を誓った弥陀(みだ)の本願を信じ、ただ念仏を唱えることだと説き、持戒(じかい)や作善(さぜん)を無用とし、浄土宗を開いた。その弟子親鸞(しんらん)は徹底した信の立場にたち、行(ぎょう)や戒律を否定した。また弥陀の本願は罪深い悪人の救済にあり、仏の他力を信ずれば、悪人も往生できるという悪人正機(しょうき)説を唱えた。その宗派を浄土真宗(しんしゅう)という。浄土宗の一派から出た一遍(いっぺん)は時宗(じしゅう)を開いた。彼は諸国を遊行(ゆぎょう)し、踊念仏(おどりねんぶつ)によって布教し、また従来の浄土宗と違って、神祇(じんぎ)信仰をも布教に利用した。これらの念仏の教えに対して、法華経(ほけきょう)の題目を唱えて往生することを主張し、法華(ほっけ)(日蓮(にちれん))宗を開いたのが日蓮である。中国からは禅宗が伝わった。鎌倉前期に栄西(えいさい)は宋から臨済(りんざい)禅を伝え、源頼家、北条政子の帰依(きえ)を得、鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)、京都に建仁寺(けんにんじ)を建立した。臨済宗はとくに幕府上層武士に信仰され、宋・元の禅僧も渡来した。栄西の弟子道元(どうげん)は、師と異なる道を歩んだ。彼は宋から曹洞(そうとう)禅を伝え、権勢を退け、坐禅(ざぜん)によって自力で悟りを開くことを勧めた。
新仏教の興隆に対しては、法相(ほっそう)、華厳(けごん)、律(りつ)などの南都仏教を中心に反省が生まれ、時代に即した教義の改革が試みられた。東大寺の復興、天平彫刻の復活にみられるように、奈良文化への回帰は鎌倉文化の一つの特徴であった。念仏系新仏教の戒律否定に対し、南都仏教系では逆に戒律が尊重された。法然を批判した貞慶(じょうけい)(解脱(げだつ))、高弁(こうべん)(明恵(みょうえ))によって法相宗、華厳宗が再興され、俊芿(しゅんじょう)は泉涌寺(せんにゅうじ)を中心に京都で、叡尊(えいぞん)は西大寺(さいだいじ)を中心に奈良で、律の復興に努めた。
[上横手雅敬]
武士の生活は質素であったが、実際上の必要と美を競う気持ちから、刀剣、弓矢、甲冑(かっちゅう)などの武具にはくふうが凝らされた。武士は武芸に励み、狩猟、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、笠懸(かさがけ)などの武技が盛んであった。平安時代以来、「武者の習(むしゃのならい)」という武士の生活倫理が形成されたが、その中核は、親への孝をはじめとする家族倫理と、主君との結合における主従倫理とであった。婚姻形態は基本的には嫁入り婚であるが、女性の地位は比較的高く、所領の相続権をももっていた。武士は合戦に加わるだけでなく、狩猟・漁労を行い、殺生(せっしょう)を業(ぎょう)とするだけに、罪障感に襲われ、救済を求め、仏教を深く信仰し、氏寺(うじでら)も多く建てられた。法然、高弁、一遍をはじめ武士出身の僧侶(そうりょ)も多かった。
幕府は剛健な武士の気風の維持に努める一方、貴族文化を積極的に摂取し武士独自の文化をもつくっていった。北条泰時が制定した『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』は最初の武家法典であり、「武者の習」に基づいてつくられている。
北条時頼のころ得宗専制が成立し、幕府の政治的地位が向上した結果、幕府の指導者の間には治者の自覚が生まれ、文化への関心が高まり、武家文化は著しく向上した。時頼が宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招き、建長寺を建て、その子時宗は無学祖元(むがくそげん)を招き円覚寺(えんがくじ)を建てるなど、幕府は臨済禅に保護を与えた。幕府は単に禅という宗教にだけ関心をもっていたのではなく、禅に伴うさまざまの宋元文化を受容し、公家(くげ)文化に対抗して武家古典文化をつくろうとしていたのであり、禅とともに禅宗様建築、頂相(ちんそう)(禅宗の肖像画)、水墨画、儒学なども伝えられている。浄土宗も関東に伝わり、念仏僧によって鎌倉大仏(阿弥陀(あみだ)像)がつくられたが、幕府はこれを援助し、造営費を得るため、元に貿易船を派遣した。律宗では叡尊の弟子忍性(にんしょう)が40年間鎌倉で布教し、北条氏に帰依(きえ)され、社会事業にも努めた。これら諸宗は優れた土木技術を伴っており、その点でも幕府に有用であった。念仏僧は大仏をつくり、和賀江島(わかえじま)を築き、律僧は橋を架け、道をつくった。和賀江島が修築され、鎌倉に大船が入港できるようになると、鎌倉と九州とは水路で結ばれ、ここに鎌倉は中国文化の輸入において、京都に先んじることとなった。
幕府の歴史である『吾妻鏡(あづまかがみ)』も編纂され、金沢実時(かねさわさねとき)が金沢文庫を建てて和漢の書を集めるなど、学問・文学に関心をもつ武士は少なくなかった。
[上横手雅敬]
蒙古(もうこ)襲来に対する勝利のゆえもあって、鎌倉後期には神国思想が盛んになった。伊勢(いせ)神宮、とくに外宮(げくう)(豊受大神宮(とようけだいじんぐう))の神官を中心に伊勢(度会(わたらい))神道(しんとう)が形成され、従来教義をもたなかった神祇(じんぎ)信仰は、ここに理論をもつようになった。また藤原氏一門の総力をあげて制作された絵巻物『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』では、藤原氏の氏神である春日神社の神威が説かれた。『日本書紀』、とくに神代巻(じんだいのまき)の研究も進められ、卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に集大成された。
神国思想は、従来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説とは逆に仏に対する神の優位を説いている。また念仏系新仏教にみられる神祇不拝の傾向に対して、神祇崇拝を強調し、神威によって幕府や悪党に対抗することを主張するなど、朝廷側の皇権回復の動きに連なるような政治性をも備えている。
[上横手雅敬]
平安時代に下級の役人が着用した狩衣(かりぎぬ)・水干(すいかん)は武士の正装となり、武士は平素は直垂(ひたたれ)を着用した。上層農民、有力商人も直垂で、庶民は小袖(こそで)に括袴(くくりばかま)を用いた。豪族の女性は小袖に袿(うちき)や打掛(うちかけ)を着用、平素は小袖の着流(きなが)しであった。庶民の女性は、小袖に褶(しびら)(腰裳(こしも))か、小袖着流しが普通であった。被(かぶ)り物では一般に烏帽子(えぼし)を用いたが、一部ではなにもかぶらない風習もあった。髪型は普通髻(もとどり)が行われたが、身分によりさまざまであった。女性は市女笠(いちめがさ)をかぶったり、被衣(かずき)を羽織ったりした。従来、はだしであった庶民も、足駄(あしだ)や草履(ぞうり)を用いるようになった。衣服、被り物、髪型は身分によって異なっており、ある種の身分標示として機能していた。
[上横手雅敬]
食事は1日2回が原則であったが、労働の激しい人々は、1、2回の間食をとった。貴族社会では食生活が形式化し、故実(こじつ)が生まれたり、動物性食品を忌む風習がおこったりしたが、庶民の生活はこれとは関係なく、貧しいながらも健康なものであった。彼らは米穀のほか、雑穀や芋類をいっしょに煮炊きし、山野河海からとれるすべてのものを食用に供し、主食と副食との区別は困難であった。調味料は塩、酢、味噌(みそ)、煎汁(いろり)(カツオなどを煮つめた汁)を用い、甘味料には飴(あめ)、蜂蜜(はちみつ)、甘葛煎(あまずらせん)(葛草(つるくさ)の煮汁)、干柿(ほしがき)の粉があった。貴族が飲む酒の種類は増えたが、庶民の酒は濁(にごり)酒であった。旅行の際には、焼米(やきごめ)、糒(ほしいい)、干物(ひもの)、海藻などの保存食を用いた。
[上横手雅敬]
貴族は前代からの寝殿造(しんでんづくり)の住宅に居住した。武士の住居は、高台や交通の要地に建てられ、周囲に堀、土塁、垣根を巡らし、堀の内、土居(どい)とよばれた。主人である武士の居室(主殿)を中心に、警固の武士が詰める遠侍(とおざむらい)のほか、厩(うまや)、櫓(やぐら)など武士の生活に必要な設備を備えていた。屋根は萱葺(かやぶ)き、板葺きで、主殿にも一部しか畳を敷いていなかった。京・鎌倉などの町屋は切妻(きりづま)の板葺きが多く、内部は板の間、一般農民の家は掘立て小屋で、土間に籾殻(もみがら)や藁(わら)を敷き、上に蓆(むしろ)を敷いており、屋根は萱葺き、藁葺きであった。
[上横手雅敬]
都市の祭りは華麗の度を加えた。村落でも名主(みょうしゅ)を中心とする座の神事が行われ、さらに多くの村人も加わるようになり、都市の祭りが農村にも受け入れられた。芸能の主流を形成したのは、身分的に賤視(せんし)された人々である。琵琶法師(びわほうし)は琵琶にあわせ『平家(へいけ)物語』などの語物(かたりもの)を語った。白拍子(しらびょうし)は歌舞を演じた。鎌倉後期にはそのなかから曲舞(くせまい)がおこり、能楽(のうがく)の形成に影響を与えた。田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)も盛んで座をつくって上演し、のち能(のう)・狂言(きょうげん)に発展した。貴族が独占していた遊戯も庶民に広まり、大陸から伝わっていた囲碁(いご)、将棋(しょうぎ)、双六(すごろく)も盛んになった。とくに双六は貴族から庶民まで行われ、賭博(とばく)化したため、幕府や朝廷はしばしば禁令を出した。また民間では印地打(いんじうち)(石打)がおこったが、争闘となって禁止されることもあった。出産は坐産(ざさん)で、妊婦が腹帯を巻く習慣もあり、宮参(みやまい)りも行われた。育児には乳母(めのと)、里子(さとご)、子守など、他人の助力を借りることもあった。成人の儀にあたり、武士などでは烏帽子親(えぼしおや)をたてる習俗が普及した。葬制については、民間では死体遺棄に近いことも行われたようで、葬地と離れて別に祭地を設け、そこで供養を行う風習があったと思われる。
[上横手雅敬]
『三浦周行著『日本史の研究 新輯一』(1982・岩波書店)』▽『石井進著『日本の歴史7 鎌倉幕府』(1965・中央公論社)』▽『黒田俊雄著『日本の歴史8 蒙古襲来』(1965・中央公論社)』▽『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』▽『黒田俊雄他著『岩波講座 日本歴史5』(1975・岩波書店)』▽『大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館)』▽『網野善彦著『日本の歴史10 蒙古襲来』(1974・小学館)』▽『上横手雅敬編『図説日本文化の歴史5 鎌倉』(1979・小学館)』▽『佐藤進一著『日本の中世国家』(1983・岩波書店)』
政権所在地による時代区分の一つ。鎌倉に幕府があった時代。室町時代と合わせて中世と呼ぶことも多い。終期が鎌倉幕府の滅亡した1333年(元弘3)であることに異論はないが,始期は幕府成立時期に諸説があることと関連して一定しない。ただし1185年(文治1)の守護・地頭の設置に求める説が最有力であり,92年(建久3)の源頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は支持を失っている。しかし鎌倉時代を理解するには,少なくとも80年(治承4)の頼朝挙兵にさかのぼって考えることが必要である。
鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。院政期以来,武家の棟梁が登場し,国家機構に組織され,武士を率いて国家全体の軍事・警察を担当するようになった。院政は平安後期だけではなく,鎌倉末の1321年(元亨1)後宇多法皇が院政をやめるまで,鎌倉時代のほぼ全体を通じて行われていたのである。武家の棟梁(将軍,鎌倉殿)が武士を率いて国家的な軍事警察にあずかるという方式も,本質的には平安後期から鎌倉末まで変わっていない。鎌倉時代に武士の地位が向上したのは事実であるが,日本全体の支配者はやはり朝廷(院政)であり,幕府は朝廷によって存在を保障され,国家的な軍事警察(諸国守護)にあたっていたにすぎない。したがって鎌倉時代史を正しく理解するには,公家・武家の関係の総合的把握が必要である。平安後期と鎌倉時代との連続性は,社会体制にも指摘できる。平安後期~鎌倉期は寄進地系荘園の時代である。その特色は,貴族・社寺などの荘園領主と武士的な在地領主とが,対立しながらも補完し合って支配を貫徹している点にある。鎌倉時代になって地頭が置かれて後も,このような体制は本質的に変わっていない。
平安後期,鎌倉時代は権力が多元的に分裂した時代である。有力貴族(大社寺もこれに準ずる)は権門として,院政・幕府などの公権力から独立した家政を行っており,公権力はその家政の内部には干渉できなかった。権門は知行国・荘園などを経済的基盤とし,その家政は政所(まんどころ)などの家政機関によって行われ,権門に従属する下級貴族が家司(けいし)として家政を運営した。院や幕府も知行国・荘園をもち,院庁・政所などの家政機関をそなえる権門であったが,同時に超権門的な公権力としての面をもそなえていた。幕府は諸国守護の担当者であり,院は全貴族階級の統轄者,日本国の支配者だったのである。権力の多元的分裂は在地領主(武士)の領主権の強固さにおいても認められる。子どもを勘当したり,郎等を処罰したり,農民を支配したり,所領を処分したりするのは領主の権限であり,朝廷・幕府・荘園領主などはこれに干渉できなかったのである。分裂は権力機構自体にも見られた。朝廷では形式的主権者である天皇と,執政者である治天の君との分裂である。幕府では鎌倉殿・執権・得宗(北条氏の家督)の間に権力の分裂が認められる。このような権力の多元的分裂のなかで,鎌倉後期になると集権化,一元化の傾向が見られるようになり,平安後期以来の荘園制的秩序,公武関係の秩序は動揺する。
古い秩序を動揺させた条件のなかで,経済的なものを挙げておこう。鎌倉後期における経済の発達には注目すべきものがあった。農業技術の進歩で生産は向上し,先進地帯では二毛作も行われるようになった。生産の向上は農民の地位を高め,下人・所従はしだいに隷属から離れて自立し,荘園体制をゆさぶった。商業も発達し,荘園の中心地や交通の要地では定期市が開かれた。物資輸送も盛んになり,河川や港湾では問丸(といまる)が発達した。問丸は元来荘園領主のために年貢輸送,保管,委託販売にあたる荘官であったが,一般商品をもあつかうようになり,商人的性格を強めた。日宋貿易で輸入された宋銭がしだいに流通し,訴訟費用・年貢米の輸送,貸借の決済を安全迅速に行うための為替もさかんになり,年貢を貨幣にかえて納めさせる銭納も多くなり,高利貸業者として借上(かしあげ)があらわれた。貨幣経済の発達に対応できず,所領を失って困窮する御家人がふえ,幕府体制を動揺させた。地頭の荘園侵略が進むと,荘園領主との間で,下地中分(したじちゆうぶん)・地頭請(じとううけ)などの解決策がとられたが,その結果,荘園領主,在地領主の二重支配が一元化するようになった。
前述の趣旨に関連し,おもに公武関係の変遷に基準を置き,鎌倉時代を3期に分けて述べる。
1180年(治承4)の源頼朝の挙兵から1221年(承久3)の承久の乱まで。1180年8月,以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた頼朝は,数ヵ月のうちに遠江以東の東国を支配下に入れ,朝廷の支配を離れた独立国家を建設した。12月には新造御所(幕府)への移転の儀式を盛大に行ったが,これは独立国家の成立を宣言する意味をもっていた。しかし83年(寿永2)平氏が都落ちし,後白河法皇が機能を回復すると,頼朝は朝廷と妥協して東国の独立を放棄し,もとどおり院政の下に吸収されるとともに,頼朝の東国支配は朝廷の公認を得ることとなった。85年(文治1)平氏は滅亡したが,その後は頼朝・義経兄弟の対立が激化し,法皇が義経に頼朝追討の宣旨を与えると頼朝はこれを口実に朝廷を圧迫して守護・地頭の設置を認めさせ,朝廷の政治に対しても発言するようになった。奥州藤原氏を頼った義経が,89年藤原泰衡に討たれ,さらに頼朝が泰衡を滅ぼした結果,源平争乱以来の内乱状態は終わり,公武の対立も緩和された。90年(建久1)頼朝は朝廷によって日本国惣追捕使の地位を確認され,ここに諸国守護の担当者としての立場が確立した。後白河法皇や頼朝の没後,後鳥羽上皇は自己の主導による公武融和をはかり,将軍実朝を通じて幕府を服従させようとした。この融和政策によって,一時は円満な公武関係が実現した。しかし将軍実朝は無力で,実権は母の北条政子や執権北条義時が握っており,彼らが上皇の方針に従わなかったため,上皇の施策は障害に直面した。1219年(承久1)実朝が殺されると,上皇は幕府との妥協をあきらめ,21年,討幕の兵を挙げたが敗北した(承久の乱)。
承久の乱から1246年(寛元4)まで。承久の乱の結果,後鳥羽上皇らは流されたが,後高倉法皇が院政を行い,院政は継続した。しかし院政と幕府との国家的機能の分担関係は変化し,日本国の支配者として朝廷(院政)が果たしてきた機能の若干は幕府に移行した。従来在地領主としての御家人の権益を擁護してきた幕府が,乱後は荘園領主と在地領主との対立の調停者となり,在地領主の荘園侵略を厳しく抑圧するようになったのも,幕府の政治的位置が変化したためである。僧兵の強訴などにあたっては,従来は朝廷が作成した収拾案の下で,幕府は防御を担当するだけであったが,乱後は収拾案までも幕府が提示し,事態解決の中心的役割を果たしている。1232年(貞永1)執権北条泰時の時代には《御成敗式目》が制定された。この式目は幕府の勢力範囲に限って適用されたものであり,朝廷の支配下では律令の系統をひく公家法,貴族・社寺の支配下では本所法が行われていたし,《御成敗式目》も国司・領家の支配に幕府が干渉しないことを規定している。しかし換言すれば幕府の支配下では公家法が排除されたことになり,武家法の独立が宣言されたといえよう。
確かに承久の乱後も院政は継続しているが,その実質は変化し,治天の君はかつての独裁権を失っていた。乱後の朝廷の政治を指導したのは実は治天の君ではなく,幕府と関係の深い西園寺公経とその女婿の九条道家であった。公経は頼朝と姻戚関係にあり,承久の乱にも幕府を支持し,幕府の絶対の信頼を得ていた。道家と公経の娘との間に生まれた頼経は,実朝の死後,鎌倉殿(将軍)として鎌倉に迎えられていた。道家の権勢の基盤は,将軍の父であり公経の女婿である点にあったが,幕府の信頼は薄かった。道家は承久の乱に後鳥羽上皇を積極的に助けた順徳上皇の外戚であり,そのうえ後鳥羽上皇の還京を画策したりして,幕府の疑惑を買った。42年(仁治3)四条天皇の死後,道家は順徳上皇の皇子忠成王を即位させようとしたが,幕府は強硬に反対して強引に土御門上皇の皇子(後嵯峨天皇)を即位させた。土御門上皇が承久の乱の際,討幕に賛成でなかったためである。46年執権となった北条時頼は,執権(得宗)への権力集中をはかった。陰謀のゆえに一門の名越光時を流し,前将軍九条頼経を京都に追放した。翌47年(宝治1)には,この事件に関連して,北条氏に対抗しうる有力御家人であった三浦氏を滅ぼした(宝治合戦)。これら強硬な力の政策の波紋はそれにとどまらず,頼経の父の道家までが,公武の連絡にあたる関東申次(かんとうもうしつぎ)の地位を奪われて籠居を余儀なくされ,道家の子の実経も摂政を罷免されるなど,幕府の干渉は朝廷の政治にまで及んだ。52年(建長4)には頼経の子の将軍頼嗣も,陰謀を理由に鎌倉を追われ,ここに摂家将軍の時代は終りを告げ,親王将軍がこれに代わった。
九条家は勢威を失ったが,打撃を受けたのは九条家だけではなかった。九条家のライバルであった近衛家を含めて摂関家全体の地位が低下し,摂関の人事に幕府が干渉するようになったうえ,五摂家が分立し,摂関が5家でたらいまわしされるなど,摂関職はまったく形骸化した。西園寺家だけは関東申次と天皇の外戚の地位を独占し,摂関家にかわる勢威を誇った。道家失脚事件を契機として,院政に対しても幕府の干渉が強まった。幕府の要求によって院評定衆が新設されたが,その人選には幕府の承認が必要であり,また彼らの評議は治天の君に対する独立性が強かった。即位のとき幕府の推戴を得,退位後26年間院政をしいた後嵯峨法皇は,その没後の治天の君の選定を幕府に一任した。だから形式的には院政が行われ,摂関家が存続していても,それらは幕府の意のままになってしまったのである。1246年の道家の失脚という小事件を契機として,従来は治天の君が握っていた次代の治天の君,天皇の選定権が幕府側に移ったのである。
1246年(寛元4)以降,1333年(元弘3)の幕府滅亡まで。北条時頼の時代になって,幕府が治天の君の選定権まで奪うほどに,朝廷の政治に干渉するようになったのは,得宗権力強化の動きにほかならない。従来得宗専制は幕府内部の問題として,得宗およびその被官(家臣)と御家人との対立だけが強調されてきたが,実は得宗専制の初期の段階では,朝廷や貴族側に対して皇位選定権の奪取を含む強い干渉を行っているのである。得宗は実質的に将軍となり,時には国王とさえ呼ばれるようになった。1274年(文永11),81年(弘安4)の2度にわたるモンゴル襲来において,戦い全般の指導者は幕府であった。幕府は朝廷が伝統的に握ってきた外交権を奪取し,朝廷の意向を無視して強硬な外交政策を打ち出した。また本所領の年貢米などを兵糧米として徴発したり,本所一円地の荘官などの非御家人を動員する権限を獲得したりした。従来貴族・寺社の成敗に干渉しなかった幕府は,外敵襲来という緊急時にあたり,その原則を放棄して幕府(得宗)への集権を進めていったのである。初期の得宗専制政治は,朝廷・貴族・寺社に対して強硬な政策を行ったが,そのためには御家人の支持を必要とし,御家人保護の政策をとった。しかし次の段階になると,北条氏一門で守護・地頭の独占を進めたり,得宗被官である御内人(みうちびと)が権勢を振るったりするようになり,得宗や御内人に対する御家人の反発は強まった。85年には御家人勢力を代表する安達泰盛が御内人の勢力と争って滅ぼされ(弘安合戦),この結果,得宗専制は新しい段階を迎えた。
前述のように,元来,幕府は御家人の領主権に干渉しなかった。御家人の所領には,先祖相伝の本領と,勲功によって新たに給与された恩領とがあったが,幕府は恩領の売買を禁ずるのみで,領主権の強い本領では,売買・質入れなどの処分は領主の自由であった。しかし1239年(延応1)以来,幕府は御家人領が失われて他に移ることを恐れて保護を加える一方,この自由な処分権を制限しはじめた。97年(永仁5)の徳政令は,モンゴル襲来の防備などで困窮を深めて所領を失った御家人を救うため,失われた所領の無償取戻しを命じたものであるが,同時に一時的にせよ,本領・恩領を問わず,御家人領の売買・質入れをいっさい禁止した。こうして所領処分権の制限という形で,幕府は御家人の領主権に干渉し,専制を強めていったのである。得宗専制に対する御家人の反発が強まる一方,幕府支配をゆるがす現象が次々におこった。貨幣経済の発達のなかで困窮する御家人はふえたが,幕府の救済策は成功しなかった。惣領の統制下にあった庶子の独立が進み,惣領を通して御家人を支配してきた体制は動揺した。血縁的結合が薄れ,地縁的結合が強まるなかで,地縁的結合を基礎とする守護の強大化は,幕府の脅威となった。荘園領主に対する悪党の反抗は,荘園領主と癒着した幕府支配への反抗へと展開していった。
前述のように,後嵯峨法皇が後継者について意思を示すことなく没したため,その皇子の後深草上皇と亀山天皇の間で治天の君をめぐる紛糾が生じ,後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立に発展した。大覚寺統の後醍醐天皇は,治天の君や天皇の地位に対する幕府の干渉に不満を抱き,幕府の動揺を見て幕府打倒を決意した。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも幕府方に知れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵は各地におこり,33年,ついに幕府を滅ぼした。
得宗専制は,権力の多元的分裂を克服する集権化の試みであったが,後醍醐天皇の政治も同様の性格をもっていた。武家側からの集権化と,公家側からの集権化とが競合したのであって,後醍醐天皇の政治を復古・反動とのみ見ることはできない。天皇は後宇多法皇の院政を停止して治天の君と天皇との分裂を克服し,さらに幕府を滅ぼして公武の分裂を解消させ,朝廷への集権化(公家一統)を実現したのである。公家側からの集権化の一時的成功をもって,鎌倉時代は終わった。
→鎌倉幕府 →中世社会
執筆者:上横手 雅敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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鎌倉に幕府があった時代。1185年(文治元)の守護・地頭設置前後から1333年(元弘3)の幕府滅亡までの期間。武士が歴史の主役としての地位を固めたが,京都の朝廷や寺社の勢力はいぜん強く,多元的な権力によって複雑に入り組んだ支配が行われた。承久(じょうきゅう)の乱や皇統の分裂などによって幕府の政治的な力は大きく伸びたが,社会や経済構造の変化には幕府は必ずしも有効な手をうてなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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