デジタル大辞泉
「鏡」の意味・読み・例文・類語
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鏡【かがみ】
古くは金属や黒曜石をみがいた鏡があったが,現在一般に用いる鏡は,硝酸銀溶液をガラス板に塗って銀膜を作り,光明丹(四三酸化鉛)で保護する。理化学用や反射望遠鏡,バックミラーには銀,アルミニウム,鉛等を真空蒸着する。銀の厚さが数百オングストローム以下なら半透明になり,暗所から明所を見れば透明で,逆に見れば鏡になる(マジックミラー)。平面鏡のほか凹面鏡,凸面鏡がある。 鏡は姿見の道具としてだけでなく,宗教的な呪力(じゅりょく)をもつという考えから古くから用いられていたが,中国系の円形で鏡背に鈕(ちゅう)のあるものと,エジプトに始まりギリシア・地中海沿岸を中心とする柄鏡とに分けられる。中国の鏡は青銅,鉄などを材料とし,春秋初期から戦国(春秋戦国時代),漢代(漢鏡),三国,唐代(唐鏡),宋元代(宋元鏡)とそれぞれ特徴をもっている。鏡背につけられた文様も神獣鏡,画像鏡など種々あり,唐代には海獣葡萄(ぶどう)文鏡,騎馬狩猟文鏡なども見られる。 日本では,弥生(やよい)時代や古墳時代の遺跡から漢鏡が出土するが,古墳時代から舶載鏡を模した【ぼう】製(ぼうせい)鏡も作られ宝器とされたり,権威の象徴とされた。幾何学文様で飾った直弧文鏡,家屋文鏡,狩猟文鏡等に独自の意匠が見られる。奈良時代,唐鏡の影響をうけた鏡がつくられ,平安時代には優雅な草花やチョウ,鳥等をあしらった日本独特の和鏡が完成,鎌倉・室町時代を経て江戸時代までさかんにつくられた。
→関連項目青銅器|先秦鏡
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鏡
かがみ
mirror
一般に光をよく反射するようにした滑らかな面をいう。面の形によって平面鏡,凹面鏡,凸面鏡などがある。現在一般に使われる鏡は,ガラスの裏面に水銀アマルガムをつけ,その上に保護膜をつけたものである。科学的な目的にはガラスの表面に真空蒸着でアルミニウム,銀,プラチナなどの膜をつけ,その金属面のほうを鏡面として用いる。これを表面鏡という。真空蒸着法で鏡をつくるとき,膜を薄くつけて光が半分透過するようにしたものを半透明鏡という。鏡の歴史は古く,現在発見されている世界最古の鏡は,アナトリアのチャタル・ヒュユク遺跡から出土した黒曜石をみがいた円鏡で,前 6000年頃と推定されている。 15世紀にベネチアでガラス鏡がつくられる以前は,青銅,白銅,鉄などを磨き上げた金属鏡が使われた。形はおもに円鏡,方鏡,柄鏡で,西洋ではエジプト第 11王朝の浮彫に残された鏡以来柄鏡が伝統で,中国では円鏡が圧倒的に多く,裏 (鏡背) に文様が鋳出される。その文様によって細線鋸歯文鏡,内行花文鏡,人物画像鏡,神獣鏡,海獣葡萄鏡などと呼ばれたり,製作技術によって螺鈿鏡,玻璃鏡,鍍金鏡といわれたりする。在銘のものは多く吉祥句,故事が書かれ,紀年銘のあるものもある。日本では弥生・古墳時代以来,中国鏡 (舶載鏡) を盛んに輸入したが,これを型にしたり,模倣したものを 仿製鏡という。平安後期以後のものは日本的な秋草,流水,花,鳥などの文様をつけたので和鏡と呼ばれ,そのうちでも室町末期には柄鏡が使われはじめた。また物を映すだけでなく,凹面鏡などの光を集める作用から,太陽神崇拝,それに付随する権力者の象徴,神宝などに,さらには現実世界の投影という意味から歴史書の意味にも使われる。
鏡
かがみ
熊本県中南部,八代市北西部の旧町域。八代平野中部にある。 1889年町制。 1955年有佐 (ありさ) 村,文政 (ぶんせい) 村と合体。 2005年八代市,坂本村,千丁町,東陽村,泉村の5市町村と合体して八代市となった。鏡,文政,有佐の3地区からなり,そのうち文政地区は文政4 (1821) 年に干拓された地域。八代海に面する地域ではノリの養殖が行なわれている。イグサ栽培,米作,野菜の促成栽培のほか,イグサ加工による畳表の製造が盛ん。
鏡
かがみ
高知県中部,高知市北西部にある鏡川中流域の旧村域。 1889年村制。 2005年高知市に編入。第2次世界大戦前は養蚕が盛んであったが,その後農林業が主産業になった。 1966年高知市の用水と防災機能などを目的とした鏡ダムが鏡川に建設された。雪光山や平家の滝などの景勝地があり,南東部は北山県立自然公園に,北部は工石山陣ヶ森県立自然公園に属する。
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かがみ【鏡】
われわれが日常使っているガラスの鏡の以前に,金属の鏡があり,金属の鏡が使われる以前に,水の鏡があった。いま,かりに原始人がどこかの水たまりで,自分の姿を見たとする。乱れた髪を直すよりも,汚れた顔を洗うよりも,この原理のわからない〈自己〉の出現に恐怖を感じて,遠くの方に逃げてしまったり,水をかき回したりするかもしれない。鏡に映った姿を人間が平然と見ることができるようになったのは,実にごく近ごろのことである。
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鏡
フランスの作曲家モーリス・ラヴェルのピアノ曲集(1904-1905)。原題《Miroirs》。全5曲。第3曲『洋上の小舟』、第4曲『道化師の朝の歌』はラヴェル自身による管弦楽編曲版がある。
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世界大百科事典内の鏡の言及
【鏡作部】より
…日本古代の職業部の一つ。鏡の製作に従事した。伴造(とものみやつこ)は683年(天武12)に連(むらじ)姓を与えられた鏡作造で,その本拠は《和名抄》にみえる大和国城下郡鏡作郷であろう。…
【鏡磨ぎ】より
…鏡を磨ぐことを仕事とした旅職のこと。鏡は材質にガラスが用いられる以前は,長い間銅または青銅であったから,たえずその曇りを磨ぐ必要があった。…
【鏡像】より
…鏡面に神仏の姿や梵字などを線刻または墨書し,社寺に奉納,礼拝したもので,御正体(みしようたい)とも呼ばれる。日本では平安時代から江戸時代まで盛んに製作された。…
【古墳文化】より
…少なくとも,古墳発生直前の日本は,東アジアにおける孤立した存在ではなく,中国のすすんだ文化に畏敬の念をもって対していた。その社会においては,弥生時代に輸入した漢の鏡が,神宝的な器物として,首長のあいだで伝世していたし,大量に将来した魏の鏡は,さらに大きな憧憬の的となった。しかし,国産品をもって新しい宝器を作る風習は,まだ顕著でなかった。…
【室内装飾】より
…イスラム世界の住宅では,婦人などが室内にいて外が見えても,外からは内部が見えないように,目の細かい木格子を窓につけた。 鏡は,はじめベネチアの独占工芸であったが,17世紀にはフランスで生産されるようになり,室内装飾にも用いられるようになった。そのもっとも豪華に実現されたのは,ベルサイユ宮殿の〈鏡の間〉である。…
【隋唐美術】より
…6世紀末が李和墓,張盛墓,7世紀初頭が李静訓墓,姫威墓,7世紀中葉が鄭仁泰墓,李爽墓,そして8世紀初頭の状況が永泰公主墓,章懐太子(李賢)墓,懿徳(いとく)太子(李重潤)墓によって知られる。 漢代以来の伝統工芸である鏡鑑は,漢三国時代に完成し,六朝時代はそのおそらく亜流にとどまったが,隋・初唐になると,まず四神鏡,規矩鏡などの在来形式を基礎にしつつ,銘文字体や施文に新たな動きをみせて製作され,次いでまったく新しい形式である団華文鏡をはじめとする新形式が生まれ,また西方の文様の消化吸収のうえに白銅の葡萄鏡が出現して好まれた。この中には方形鏡もある。…
【梵鐘】より
…中帯と下帯の間の横長の区画を草の間(くさのま)と呼ぶ。撞座は鏡とも八葉とも呼ぶが,普通,蓮華文を浮彫に表す。蓮華文はその時代の瓦当や,磬(けい),鰐口(わにぐち)などの撞座と共通した意匠をとるが,八弁蓮華文が多く,少ないものは四弁,多いものでは十六弁まである。…
※「鏡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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