長井長義(読み)ながいながよし

精選版 日本国語大辞典 「長井長義」の意味・読み・例文・類語

ながい‐ながよし【長井長義】

  1. 薬学者。徳島県出身。日本の薬学化学創始者で、エフェドリンの合成に成功。東京帝大教授。学士院会員。弘化二~昭和四年(一八四五‐一九二九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長井長義」の意味・わかりやすい解説

長井長義
ながいながよし
(1845―1929)

薬学者。日本最初の理学博士(1888)、薬学博士(1899)。徳島の生まれ。父は藩医で本草(ほんぞう)家。22歳のとき藩命長崎精得館のオランダ人医師に学び、写真家上野彦馬(ひこま)より化学を習得した。1869年(明治2)大学東校(東京大学医学部の前身)を経て1871年海外留学生となり、ベルリン大学ホフマン教授の下で有機化学を学んだ。ドクトルを得て1884年政府管掌の大日本製薬会社技師長となる。翌1885年漢薬麻黄(まおう)の有効成分塩基エフェドリンを発見した。1893年帝国大学教授就任。薬化学講座を創設し、実験第一の指導方針でその基礎を確立した。帝国学士院会員、東大名誉教授、日本薬局方調査会長、初代日本薬学会会頭、日本化学会会長などを歴任。日独間の学術友好に貢献し、ドイツ薬学会名誉会員、日独協会創立副会長であり、女子科学教育の創始にも力を尽くした。

[根本曽代子]

『金尾清造著『長井長義伝』(1960・日本薬学会)』

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20世紀日本人名事典 「長井長義」の解説

長井 長義
ナガイ ナガヨシ

明治・大正期の薬学者 東京帝大名誉教授。



生年
弘化2年6月20日(1845年)

没年
昭和4(1929)年2月13日

出生地
阿波国徳島(徳島県)

学位〔年〕
理学博士,薬学博士

経歴
慶応2年藩より選ばれて長崎に留学、明治3年藩学生として上京、大学小学寮長に挙げられた。4年第1回海外留学生としてドイツ留学、ベルリン大学でホフマンに師事、ドクトル・フィロソフィの学位を得、ホフマン教授の世話でテレーゼ夫人と結婚。16年帰国、東京帝国大学教授となり薬学講座を担当。18年大日本製薬社長を務めた。19年渡米、エクエドリン合成に成功、21年理学博士、32年薬学博士となった。また日本薬学会創立と共に会頭、39年学士院会員。正三位勲一等。

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化学辞典 第2版 「長井長義」の解説

長井長義
ナガイ ナガヨシ
Nagai, Nagayoshi

日本の薬化学者.阿波藩の典医の長男として,弘化2年6月20日徳島に生まれる.1866年から2年間長崎に留学し,1870年,藩からの貢進生として大学東校に入学する.翌年ドイツに留学し,専攻を医学から化学に変更した.以後13年間にわたってドイツに滞在,ベルリン大学のA.W. Hofmann(ホフマン)のもとで学び,のちには助手を務めた.1883年に帰国して東京大学教授に就任.翌年には大日本製薬会社製薬長,内務省衛生局東京試験所所長を兼任する.1885,1886年に教授,試験所所長を辞任するも,1893年に東京帝国大学教授に復帰し,1921年までその職にあった.1885年に麻黄の成分エフェドリンを発見するなど,漢方生薬の化学分析研究がおもな業績で,1886年東京化学会会長,日本薬学会創立(1888年)にあたって会長に選出されるなど,明治期の日本の代表的な薬化学者である.女子の理科教育の発展にも貢献した.夫人テレーゼはドイツ人.

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長井長義」の意味・わかりやすい解説

長井長義
ながいながよし

[生]弘化2(1845).6.20. 阿波
[没]1929.2.4.
薬学者。日本の薬学の創始者。長崎で蘭方を学んだのち大学東校に入り,在学中の明治5 (1872) 年にベルリン大学入学,化学を専攻して 1877年に卒業。 84年,大日本製薬会社創設のため求められて帰国し,東京大学薬学科教授,内務省衛生局東京試験所長となる。 85年,漢方薬麻黄の成分エフェドリンの抽出に成功した。 86年ドイツ婦人と結婚。 98年,赤坂に双葉会を創立しその会長となる。 1901年創立時から日本女子大学で化学を教えるなど女子教育に尽力した。帝国学士院会員。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長井長義」の解説

長井長義 ながい-ながよし

1845-1929 明治-大正時代の薬学者。
弘化(こうか)2年6月20日生まれ。明治4年第1回官費留学生としてドイツにわたり化学をまなぶ。17年帰国し,東京大学教授となる。エフェドリンを発見し,その合成に成功した。日本薬学会を創立し初代会頭。日本女子大の創立にもつくす。昭和4年2月20日死去。85歳。阿波(あわ)(徳島県)出身。大学東校卒。初名は直安。

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百科事典マイペディア 「長井長義」の意味・わかりやすい解説

長井長義【ながいながよし】

薬学者。徳島の人。1866年徳島藩から選ばれて長崎に遊学,1869年東京に出て大学句読師となる。1871年―1879年ヨーロッパ留学,帰国後東大教授となり,1887年マオウから有効成分として一種のアルカロイドを取り出して,エフェドリンと命名。日本女子大,日本薬学会の創立に寄与した。

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367日誕生日大事典 「長井長義」の解説

長井 長義 (ながい ながよし)

生年月日:1845年6月20日
明治時代;大正時代の薬学者。東京大学教授;大日本製薬会社社長
1929年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長井長義の言及

【アイ(藍)】より

…これに対処して五代友厚の朝陽館による製藍法の改良事業などが興り,徳島でも五代友厚が1874年名東郡下に工場を設置し,精藍事業に着手した。さらに99年には長井長義の指導のもとに精藍伝習所が設置され,いわゆる長井製藍が始まった。しかし,この前後から人造藍(化学染料)がドイツから大量輸入されるに及び,国内藍・インド藍を駆逐して日本の市場を制圧した。…

【アルカロイド】より

…なかでもキナ皮からのキニーネの単離(1820)が重視される。日本では,長井長義の麻黄からエフェドリンを単離した研究が有名である。植物体内でのアルカロイドの生成経路についても知見が集積されつつある。…

【エフェドリン】より

1892年長井長義によりマオウ(麻黄)から単離されたアルカロイド。チェンK.K.Chen(1923)によって薬理作用が検討され,喘息(ぜんそく)の治療に使われるようになった。…

【化学】より

…アトキンソンRobert William Atkinson(1850‐1929),E.ダイバース(ともにイギリス人),ケルナーWilhelm Körner(1839‐1929),ロイプOscar Loew(1844‐1941)(ともにドイツ人)らが理学部,工学部,農学部等にいて,よく学生を育てた。一方,初期の留学生のなかから,日本の化学の中心となった松井直吉(1857‐1911),桜井錠二,長井長義(1845‐1929),柴田承桂(1850‐1910)らが出た。1878年今日の日本化学会の前身である化学会が,81年には日本薬学会,98年には工業化学会が設立され,この間,1886年には帝国大学令が施行されるなど,教育研究の体制は徐々に整備されていった。…

【生薬】より

…一方,実証主義,経験を主とする古方医学――日本独自の漢方医学が発達した。明治時代に入り江戸時代に培われた実証主義を基盤に近代科学のとりこみが急速に行われたが,生薬学の領域では漢薬の基原植物の解明および成分研究がなされ,1892年長井長義(ながいながよし)(1845‐1929)は漢薬の麻黄からエフェドリンを単離した。これ以降,和漢薬および近縁植物の成分研究が行われ,生薬学の主流となっている。…

※「長井長義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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