近世、長崎を通じて行われた対外貿易。1570年(元亀1)ポルトガル船が初めて長崎に来航し、翌年から定期的に入港すると、長崎には大村、島原、平戸など周辺各地の商人が来住して町が発展し、畿内(きない)、江戸などの商人も集まり、ポルトガル貿易の中心地としての地位を確立した。1604年(慶長9)長崎来航のポルトガル船に対して行われた糸割符(いとわっぷ)は、この後の貿易統制の端緒となった。長崎商人のなかには、末次平蔵(すえつぐへいぞう)(代官)、荒木宗太郎(そうたろう)など、自ら朱印船貿易を営む大商人があり、また小口の資本をポルトガル船に投じた人も多く、その返済をめぐって、たびたびポルトガル人と紛争があった。1635年(寛永12)日本人の海外渡航がいっさい禁止されると、この投資はますます盛んになり、末次平蔵を中心として、39年ポルトガル船の来航が禁止されるまで続いた。このころ中国船の長崎来航は年間30~97隻に上り、1641年幕府はオランダ商館の出島(でじま)移転を命じたので、長崎はこの後幕末に至るまで、外国貿易を許される唯一の港となった。
鎖国体制の完成直後、オランダ貿易、中国貿易はともに取引高では最盛期を迎えたが、長くは続かなかった。平戸時代オランダ人は20万斤近くの生糸を輸入していたが、生糸が完全に糸割符商人の支配下に置かれると、5、6万斤しか輸入せず、パンカドpancado(一括購入による価格決定)が行われないインド、ベトナム産の生糸がこれにかわった。また生糸の価格は毎年秋に決定され、1年間据え置かれたため、中国人は秋にわずかな生糸をもたらして価格を引き上げ、その後多量に舶載した。この弊害を除くため、1655年(明暦1)糸割符は廃止され、相対(あいたい)貿易とよばれる自由貿易が行われた。しかし輸入品の価格は高騰し、銀が大量に流出したので、幕府は1664年(寛文4)に、これまでオランダ人に禁止していた金の輸出を許可し、金の輸出はやがて輸出品の半分に達した。
幕府は輸入品の価格を引き下げてこれらの貴金属の流出を防ぐため、1672年市法(しほう)売買とよばれる貿易統制を行った。これは、オランダ人、中国人のもたらした品物を、五か所(長崎、京、堺(さかい)、大坂、江戸)商人の目利(めきき)(鑑定人)が評価し、これに基づいて長崎奉行所(ぶぎょうしょ)が決定した価格を通知したうえ取引を行うもので、先に生糸に行われたパンカドをすべての商品に適用するものであった。また利益は市法増銀(ましぎん)として長崎の諸役人の給料にあてられ、長崎の町にも配分されたので、この制度は長崎の町に多くの利益をもたらした。オランダ人は輸入品の価格が下がり、利益が減少したため、輸入量を減らすことにより価格の引き上げを図ったが、これはかえって中国船の輸入額を増やすだけで効果がなかった。
1685年(貞享2)市法売買は廃止され、生糸には糸割符が復活され、その他の商品は相対売買とし、貿易総額の枠が定められた。これは定高(さだめだか)貿易とよばれ、オランダ船には年額3000貫、中国船には6000貫が割り当てられた。1698年(元禄11)長崎会所が設けられ、貿易を統轄し、幕府に運上金を納めることになった。この間、金銀の輸出については規制がしだいに強められ、また貨幣改鋳によりその質が下落したため、これを補うため、オランダ人、中国人の銅輸出がしだいに増加した。とくに、1696年銅の代物替(しろものがえ)の制度が始まり、金銀にかわる貿易決済手段として銅が公式に認められると、銅の輸出額は急激に増加し、年間800万~900万斤に達した。当初銅の集荷は、江戸の商人伏見(ふしみ)屋四郎兵衛、桔梗屋又八(ききょうやまたはち)などに、運上金上納を条件に請け負わせたが、大坂の銅吹屋(鋳造人)の協力が得られないため行き詰まり、1701年大坂に銅座が設置されて、輸出銅の集荷にあたった。また中国向けの輸出として、銀2000貫目の俵物(たわらもの)(干鮑(ほしあわび)、煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかのひれ))、諸色(しょしき)(昆布(こんぶ)、鯣(するめ)、鶏冠草(とさか)など)の代物替が認められ、長崎問屋がその集荷にあたった。
しかし、銅の需要の急激な増加は、各地の銅山をたちまち枯渇させ、また輸入品の価格を引き下げるため、長崎輸出銅の価格は市価より非常に安く据え置かれたので、銅の集荷はつねに困難を極めた。俵物も、問屋にかわって俵物役所による直仕入れ制となったが、価格が不当に安いため、漁民の生産意欲を減退させ、輸出品の確保がむずかしかった。輸出品の不足のため、オランダ船、中国船の取引は進まず、期限を過ぎても船が出帆できず、貨物を積み戻すこともあり、他方輸入品の価格は騰貴し、抜荷(ぬけに)(密貿易)も頻発した。1715年(正徳5)「正徳(しょうとく)新例」(海舶互市新例)が発布され、金銀の流出を防止し、銅の取引額を実情にあわせて制限し、中国船は出帆地別に船数と取引高を規制した。
この後も貿易額の制限はたびたび行われたが、生糸、絹織物、薬種、砂糖などの奢侈(しゃし)品を輸入し、貴金属が流出するという貿易の構造は江戸時代を通じて変わらず、新井白石(あらいはくせき)らの貿易無用論がおこった。
[永積洋子]
『矢野仁一著『長崎市史 通航貿易編東洋諸国部』(1938・長崎市)』▽『箭内健次著『長崎』(1959・至文堂)』▽『山脇悌二郎著『長崎の唐人貿易』(1959・吉川弘文館)』
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい,(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代,(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代,(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代,に区分される。
(1)南蛮貿易期 開港後まもなく,一時イエズス会領になったので(1580),それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や,マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり,江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明,ついで清朝船だけでなく,東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し,さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。これに対し後発のオランダ,イギリスは,それぞれ1609年(慶長14),13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが,直轄地長崎での糸割符制,キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は,しだいに平戸へも拡大された。
(2)鎖国貿易期 1633-41年の間に,日本人の出入国禁止,唐船貿易の長崎限定,対ポルトガル断交と,空屋になった出島へのオランダ商館移転がおこなわれ,長崎は唐,オランダ船に限る外国貿易の唯一の開港場となった。もっとも,鎖国期には取引額は少ないが対馬藩による釜山の倭館での朝鮮貿易,実質は薩摩藩経営の琉球国による福州琉球館での中国貿易,松前藩による蝦夷地貿易があり,江戸中期には朝鮮貿易,末期には薩摩藩の交易が長崎貿易に大きな影響を与えた。唐,オランダ船が長崎に入港すると,奉行所役人や唐通事,オランダ通詞が乗船して海外の情報を聴取し,人別改めや唐人は踏絵をして,上陸や荷揚げとなる。唐人ははじめ市内に分宿したが,元禄以降は身柄は唐人屋敷,貨物は新地蔵に収容され,出島とともに日本側の厳重な管理下におかれた。取引方法は,糸割符,相対(あいたい)貿易法,市法貿易法,糸割符復活,代物替(しろものがえ)併用などと変化し,海舶互市新例(正徳新例)で確立したが,要は主要輸出品である銀や金の流出抑制のための買手市場化,年間取引額(定高)の設定であり(定高貿易法),元禄期からは長崎会所を通じて貿易利潤の幕府財源化と銅輸出,後期には海産物(俵物,諸色)の輸出強化が注目される。しかし輸出銅の不足を理由に1742年(寛保2),90年(寛政2)の〈半減令〉をはじめ,漸次取引を縮減し,和糸や砂糖などの競合国産品の台頭,海外の戦乱などにより衰退した。
(3)開港後 唐船貿易は引き続き長崎会所が管掌したが,長崎の独占は崩れ,武器・雑貨の輸入と茶・石炭の輸出を特徴とする,イギリスを主体とする欧米諸国貿易が活発化した。しかし,関税は輸入2割,輸出5分が平均的で,開港前の総平均18.5割にははるかに及ばず,横浜・箱館などの取引に抑えられて,地位の低下は否めなかった。
執筆者:中村 質
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中世末~近世の長崎における海外貿易。1571年(元亀2)当時はポルトガル船との貿易。江戸時代に入ると1635年(寛永12)唐船の来航が長崎に限られ,39年のポルトガル人の追放後,41年出島にオランダ商館が移転,以後幕末期に至るまで唐・オランダ貿易が行われた。この間,04年(慶長9)の糸割符制度をはじめとして,72年(寛文12)の市法貨物商法,85年(貞享2)の定高(さだめだか)貿易法,98年(元禄11)の長崎会所の創設をへてしだいに幕府による統制が強まり,幕府の財政と深く結びつくようになった。また1715年(正徳5)には正徳長崎新例によって貿易高・船数が制限され,その後もたびたび削減が行われた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…正徳新例(新令)ともいう。1715年(正徳5)1月幕府が下した新井白石の立案になる長崎貿易の制限令23通と,これをうけて出された長崎奉行大岡備前守(清相)名の細則の総称。おもな内容は,(1)改革に関する奉行以下の諸役人・長崎町民・外国人への諭示,(2)唐船は従来の年59艘・取引銀高1万1000貫目を,30艘・6000貫目(最大限9000貫目)・銅渡し高300万斤に減じ,通商許可証として〈信牌〉を給す,(3)オランダ船は年2艘・金5万両(銀3000貫目)・銅渡し高150万斤で,ほぼ従来どおり,(4)輸入品の評価は商人の入札制をやめ,長崎会所役人等の査定価格を基礎に協議する〈値組み〉,である。…
…朱印船制度にもとづく東南アジア諸地域との相互交通の推進は,日本を中心とした公的通交秩序の形成を意図したものといえる。ポルトガルの長崎貿易に対しては京都,堺,長崎3ヵ所商人を主体とする糸割符制度を施行して生糸貿易の統制をはかるとともに,イスパニアに対しては江戸近辺への来航を促し,通商を求めた。一方,オランダ,イギリスに対しては軍需品貿易を通じ関係を強め,徳川政権確立への戦略的布石とした。…
…江戸時代の長崎貿易で1685‐1858年(貞享2‐安政5)にとられた,金・銀建てで決済する年間の取引額に一定の上限〈定高〉を設けた制度。幕府は来航唐船の激増を契機に,輸入単価・金銀流出の抑制のために,1685年から唐船は年間取引額を銀で6000貫目,オランダ船は金で5万両(銀3400貫目)に限り,唐船へは各船の積荷高・出帆地・乗組員数などを勘案して1艘ごとの取引高を定高に達するまで割り付け,残りは積み戻らせた。…
…江戸初期の長崎貿易における1672‐84年(寛文12‐貞享1)の取引法。当時は市法貨物商売の法,貨物仕法といった。…
…江戸中期の長崎貿易の取引方法の一つで,銀・金流出抑制のための舶載品と銅,海産物などとの物々交換。1685年(貞享2)から年間取引高を唐船は銀6000貫目,オランダ船は金5万両(銀で3000貫目)の〈定高(さだめだか)〉に限ると,積戻りの荷物が増え,抜荷(ぬけに)が激増した。…
…江戸中期の長崎貿易の取引方法の一つ。実質はそれまでの代物替(しろものがえ),有余売と同じで,1729年(享保14)から唐船30艘,銀4000貫目の定高(さだめだか)取引後,1艘平均銀30貫目分の雑物替がなされた。…
…いりこ,干しアワビ,フカのひれなどの海産物を俵に詰めて輸送したために起こった呼称。近世長崎貿易において中国貿易で銅代替輸出品として重要な地位を占めていた。これらの海産物は中国の高級食品として需要が多く,日本のみならず東南アジア,南太平洋諸地域でも生産され,中国市場へ輸出されていた。…
…この経過で中国,九州などの西日本の銅山は比較的早期に開かれたが,尾去沢鉱山,阿仁鉱山が銅山として発足したのは1660年代,足尾の開坑はやや古いが発展したのは同じころで,別子銅山の開坑は1691年(元禄4)であった。銅は17世紀中期ころより長崎貿易の重要輸出品となり,同世紀末に輸出高は最多に達した。幕府は鎖国後も銀の海外流出がはなはだしいので1668年(寛文8)その外国持出しを禁じ,やがて銀に替え持出しを認めた金の流出をも警戒し,市法貿易法により輸入貨物銀高を多少とも抑えようとし,さらに85年(貞享2)輸入貨物銀高を制限した(定高(さだめだか)貿易法)。…
…なお1774年の記録によると,前掲の輸出銅値段にたいし,銅座の銅買上げ値段は100斤当りで秋田銅銀156匁52と150匁64,南部銅銀139匁48,別子立川(たつかわ)銅銀139匁48,吉岡銅銀144匁であった。したがって銅座の銅売買はまったくの逆ざやであったのであり,このことは,銅輸出が単なる商品輸出ではなく,長崎貿易維持のための手段にほかならなかったことを示している。【佐々木 潤之介】。…
…その後1722年(享保7)に道修町薬種中買仲間124軒が成立し,貿易品として幕府のきびしい統制下にあった唐薬種の全国的な流通構造の中枢を掌握した。それは長崎貿易で輸入される唐薬種はすべていったんは大坂の唐薬問屋に荷受けされ,道修町薬種中買仲間が品質と容量を検査したのち優先的に買い付け,全国各地の薬種問屋や大坂市中の他の薬種屋,合薬屋に売りさばくというもので,中買といっても実質的には独占的な仕入問屋であった。また国産の和薬種についても一手に取り扱い,彼らから薬種を仕入れて売薬をつくる合薬屋や小売の薬種屋も多数居住して,薬屋の町として発展した。…
…公定の貿易資格を持たぬ者の取引と,正規の手続によらずに取引する場合がある。1671年(寛文11)から商人の長崎貿易への参加は,公定の有資格者が公定の場所で行うこととされ,それ以外の取引は抜荷であった。また唐・蘭船の輸入品は正徳新例(海舶互市新例)公布後はすべて,蘭貨は出島で唐貨は長崎会所で会所役人が値組と呼ばれる評価方法で買い取り,有資格の商人に入札させて落札者に輸入貨を引き渡すことになっていたから,この手続を犯して唐・蘭船と直接取引するのは抜荷であった。…
※「長崎貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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