九州地方の北西部を占める県。東京からおよそ1400キロメートルの距離がある。東シナ海に突出する半島部と離島部からなる海洋県で、面積4130.98平方キロメートル、うち離島部が約4割を占める。半島部は北松浦(きたまつうら)、西彼杵(にしそのぎ)、島原(しまばら)、長崎の四つの半島に分岐し、その中央部に多良岳(たらだけ)火山の西半分が介在する。離島部は朝鮮半島に向かって飛び石状に配列する壱岐(いき)、対馬(つしま)と、東シナ海に向かって延びる平戸島(ひらどしま)、五島列島(ごとうれっとう)が分布し、その県域は広く、九州島の広がりに匹敵する。離島群が古代より大陸との文化交流の窓口となったことは先史時代の数多い遺跡や遣隋使(けんずいし)・遣唐使の史実に明らかである。この地理的原理は中世、近世、近代にも継承され、中世末平戸、長崎が開港し、鎖国時代、長崎の出島(でじま)が海外文化導入の窓口をなし、日本の近代化に大きな役割を果たした。近代に入ると、帝国海軍の軍事基地となり、産業面では造船・石炭業などの近代工業や一部で漁業手段の近代化が他県に先行し、長崎市、佐世保市(させぼし)の近代都市化が先駆した。
その反面、中央からの隔絶性は農漁村の後進性につながり、本県の産業は跛行(はこう)的二重構造を示している。水揚げ量が北海道に次ぐ水産県で、大・中資本の指定漁業(以西底引(いせいそこびき)、大・中型巻網)による水揚げ量が70%を占めるのに対し、零細資本による一般漁業(小型網、釣りなど)の水揚げは小さく、その経営体は本県総数の90%余を占め、指定漁業と対蹠(たいしょ)的である。農業は水田に乏しく、段々畑が象徴的で、本土ではジャガイモ、ミカン栽培の集約的経営が進み、離島の過疎化地帯ではサツマイモ、麦の粗放的経営が主で、島牛(しまうし)を産する。
人口は1960年(昭和35)の176万をピークに減少を続け、1975年には157万、1980年に159万で微増し、1985年もほぼ同数である。その後、微減を続け、1995年(平成7)には154万強となる。1975年から1980年に至る増減は長崎・佐世保両市の隣接町村、長崎空港を開いた大村市、観光地の島原市、火力発電所を誘致した大瀬戸(おおせと)町(現、西海市)が増加し、閉山の続いた炭田地帯、出稼ぎの多い離島で大きく減少し過疎化が生じたことによる。国勢調査によれば、147万8632人(2005)、142万6779人(2010)、137万7187人(2015)、131万2317人(2020)と、減少傾向は継続している。
2020年(令和2)10月時点で、13市4郡8町からなる。県庁所在地は長崎市。
[石井泰義・貞方道明]
長崎県は半島と離島から成立しているが、約2万年前のビュルム氷期の最大海退期は全県的に陸続きになっていた。現在の地形は、海進によって低地をまったく失い、リアス海岸と多くの分離した急傾斜の山地とが特性として示される。地形区分は、火山区として島原火山区、多良岳火山区、長崎火山区、離島火山区、松浦溶岩台地の5区、非火山区として長崎半島区、西彼杵半島区、諫早(いさはや)地峡区、五島区、対馬区の5区に区分される。
島原火山区には雲仙火山(うんぜんかざん)とその南に南有馬(みなみありま)火山がある。雲仙火山はその中央部に千々石(ちぢわ)、布津(ふつ)、金浜(かなはま)の断層線によって陥没した雲仙地溝があり、地溝内に普賢(ふげん)岳、妙見(みょうけん)岳など山陰系の鐘状火山群を噴出している。明暦(めいれき)~寛政(かんせい)年間(1655~1801)には古焼(ふるやけ)・新焼(しんやけ)の溶岩流を流出、あるいは側火山である眉山(まゆやま)の大崩壊を発生した活火山である。普賢岳(標高1359.3メートル)は、1990年(平成2)11月17日に突然噴火し、1991年5月、溶岩ドームが出現。さらに6月3日、火砕流を発生し、たび重なる火砕流によって焼失した家屋820棟・死者43名に及んだが、1995年やっと沈静化した。この間に溶岩ドームは最高240メートルの高さにまで達した。現在この溶岩ドームは平成新山(標高1483メートル)となっている。南有馬火山は第三紀層上に玄武岩を台状に噴出した火山。多良岳火山区は有明海(ありあけかい)と大村湾の間に噴出した豊肥(ほうひ)系火山で緩傾斜の山腹を示すが、山頂部に山陰系の多良岳、五家原(ごかはら)岳など数峰の溶岩円頂丘を新たに噴出し、急傾斜をなす。中央に黒木(くろき)盆地があり、ここから西流する郡川(こおりがわ)は下流に大村扇状地を形成している。なお、1957年(昭和32)7月の諫早大水害では山腹に多数の崩壊地、泥流を発生している。長崎半島と西彼杵半島との間に噴出した長崎火山区は豊肥系の凝灰岩と溶岩の互層からなり、山腹や山麓(さんろく)には急崖(きゅうがい)をなす凝灰岩の岩場が散在する。1982年7月の長崎大水害には多良岳と同型の大崩壊、泥流を発生している。松浦溶岩台地は本土の北松(ほくしょう)溶岩台地と平戸―壱岐間に散在する離島溶岩台地とがあり、両者ともに第三紀層の上に玄武岩が流出してできた台地である。前者は東高西低で、東の国見(くにみ)山系は佐賀県との境をなし、西は九十九島(くじゅうくしま)のリアス海岸に達している。山腹では第三紀層と玄武岩層の間に湧水(ゆうすい)があり、これに起因する地すべりが多発している。平戸島北部や生月島(いきつきしま)も同型の地すべり多発地だが、鷹島(たかしま)、壱岐は、第三紀層が海面下にあるため地すべりの少ない溶岩台地である。
非火山区の長崎半島は、結晶片岩からなる地塁山地で、高度が半島先端部に向かってしだいに低くなり、その延長は海中に没し、長崎海脚(かいきゃく)をなしている。西彼杵半島も結晶片岩からなる隆起準平原の山地で、これを貫く蛇紋岩、玄武岩が準平原上で円頂丘を形成。西海岸は断層による直線状の急崖をなす岩石海岸で、東海岸は大村湾に臨むリアス海岸である。諫早地峡区は多良岳、雲仙、長崎の3火山地の間にあって第三紀層の丘陵地と干拓平野から成り立っている。五島列島の山地は北東―南西方向の地塁が北西―南東方向の断層によって分断され、その後沈水して四つの瀬戸を生じている。久賀島(ひさかじま)、福江島(ふくえじま)の中央部には花崗(かこう)岩の侵食盆地がある。列島の両翼には鬼岳(おんだけ)、只狩(ただかり)山、京(きょう)ノ岳および宇久島(うくじま)、小値賀島(おぢかじま)の火山が離島火山区をなす。対馬山地は標高400~600メートルの準平原山地で、中央部の一段低い200メートル内外の丘陵地が沈水して浅茅(あそう)湾の溺(おぼ)れ谷を形成している。対馬南部(対馬市厳原町地区)の内山には花崗岩の侵食盆地があり、北部(対馬市上県町地区)の御岳(みたけ)は準平原上の残丘で、北端には海岸段丘が発達している。
自然公園には、西海国立公園(さいかいこくりつこうえん)、雲仙天草国立公園(うんぜんあまくさこくりつこうえん)、さらに玄海、壱岐対馬の両国定公園がある。また県立公園として、多良岳、野母(のも)半島、北松、大村湾、西彼杵半島、島原半島の6か所がある。
[石井泰義・貞方道明]
対馬暖流に洗われ、また海岸から15キロメートル以上離れた所がなく隔海度が小さいため、概して海洋性の温暖な気候を示す。しかし高度差の大きい山岳と海岸、または緯度差の大きい南と北では気候に多様性がある。年平均気温では長崎市の16.6℃に対し北の佐須奈(さすな)(対馬市)は14.3℃、南の女島(めしま)(五島市)では17.6℃である。冬の南北差はさらに大きく、最低気温が零度以下になる冬日(ふゆび)の年間日数は長崎市で10日、対馬では31日に上る。夏の南北差は小さく、各地とも26~27℃である。年降水量は雲仙岳で2400~2600ミリメートル、離島の各地で2000ミリメートル以下、そのほかの各地で2000ミリメートル内外。年によって諫早―長崎―有川線上に梅雨前線の活動による集中豪雨が発生し、1957年(昭和32)の諫早大水害、1982年の長崎大水害を惹起(じゃっき)している。台風は年平均5回程度来襲し、最大風速25メートルを超える台風は4~5年に1回の割合である。大陸に近い本県特有の黄砂(こうさ)現象は「春一番」のあと、3月に入ってから多く、年平均出現日数は5.3日であるが、多い年は18日に及ぶ。
[石井泰義・貞方道明]
約2万年前のビュルム氷期の海退期には、朝鮮半島と陸続きをなし、旧石器人の往来も推定され、福井洞穴遺跡(ふくいどうけついせき)では細石刃(さいせきじん)などの石器が発見されている。また、泉福寺洞穴(せんぷくじどうけつ)では最古の土器とみられる縄文草創期の豆粒文土器(約1万年前)が発見された。越高遺跡(こしだかいせき)の隆起線文土器は縄文早期(約7000年前)のもので、朝鮮半島との交流を実証。岩下(いわした)洞穴や脇岬(わきみさき)遺跡、礫石原(くれいしばる)遺跡なども縄文遺跡で、原山の支石墓(しせきぼ)は朝鮮南部のものと同型である。弥生(やよい)遺跡は塔ノ首遺跡(とうのくびいせき)、原の辻遺跡(はるのつじいせき)などその半数近くが壱岐(いき)、対馬(つしま)に分布。古墳は約500か所を数えるが、いずれも小規模で、強大な豪族が存在しなかったことを示す。なお銅剣、銅矛(どうほこ)の出土は壱岐、対馬の古墳に多い。大和(やまと)朝廷が朝鮮への進出を試みて失敗した結果、本県は国防の第一線となり、壱岐、対馬には防人(さきもり)が置かれた。浅茅(あそう)湾岸にある金田城(かねたのき)は当時の朝鮮式山城(やまじろ)跡である。607年(推古天皇15)に始まる遣隋使船、702年(大宝2)に始まる遣唐使船は、いずれも県内の海上を利用した。律令(りつりょう)制下では、壱岐国、対馬国、肥前国からなり、延喜(えんぎ)式内社は対馬29社、壱岐24社で全九州の半数を占め、肥前国はわずか4社で、当時の壱岐、対馬の重要性と県本土部の後進性が指摘される。平安時代に入ると日本西域では刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)などによる社会不安から、肥前国で松浦党(まつらとう)をはじめとする武士団が発生した。
[石井泰義・貞方道明]
南北朝時代には松浦氏、深堀(ふかぼり)氏など県下の武士の多くは北朝についたが、有馬氏、西郷氏、大村氏などは南朝にくみした。その後、宇久(うく)島の宇久氏や小値賀(おぢか)島・中通(なかどおり)島の青方(あおかた)氏なども松浦党化して、連合的権力を把握したが、室町時代に入ると松浦党の解体が起こり、平戸の松浦氏、五島の宇久氏が独自の勢力を保った。対馬は少弐(しょうに)氏の地頭(じとう)代であった宗氏(そううじ)の支配下となり、壱岐は松浦党解体後、平戸松浦氏の所領となった。中世初頭の対外問題は倭寇(わこう)と朝鮮通交で、これらの問題を解決、終始権力を行使したのは宗氏であった。16世紀に入ると中国人王直(おうちょく)が西海(さいかい)の海賊を傘下に収め、ポルトガル人を誘って平戸松浦氏に貿易を求めた。1550年(天文19)松浦隆信(たかのぶ)は平戸港を開き南蛮貿易を行い、武器などを輸入、かわりにキリスト教の布教を許した。しかし、仏教徒とキリスト教徒との対立抗争が起こったため、貿易は大村氏に移り、港も横瀬浦(よこせうら)に移った。ここでも仏教徒とキリスト教徒の対立によって港や教会が焼打ちされ、長崎港の開港が進展、1571年(元亀2)ポルトガル船の長崎入港が実現した。当時、群雄の包囲の中にあった大村純忠(すみただ)は、貿易の利益と長崎の防衛を確保するため、長崎と茂木(もぎ)を教会領としてイエズス会に寄進した。島原半島の有馬領内でも口之津(くちのつ)が開かれキリスト教が栄えたので、長崎と有馬領は布教の二大中心地となり、またヨーロッパ文化の日本最初の導入地となった。1582年(天正10)の天正少年遣欧使節(てんしょうしょうねんけんおうしせつ)4名のうち3名は長崎県の出生である。1587年豊臣(とよとみ)秀吉は宣教師追放令を出し、教会領だった長崎、茂木を豊臣氏の蔵入地とした。1597年(慶長2)には二十六聖人が西坂(にしざか)で処刑されている。この間1592年(文禄1)、1597年の二度にわたる秀吉の朝鮮出兵があり、その際日本に連行された朝鮮の人々によって九州各地に高麗(こうらい)町、唐人(とうじん)町が形成され、肥前の陶器生産はこのときに起源を有する。
[石井泰義・貞方道明]
豊臣秀吉は1592年長崎奉行(ぶぎょう)所を置き、直轄の貿易港とし、朱印船(しゅいんせん)貿易が始まった。この貿易は鎖国まで続いた。この間355隻以上の朱印船が参加、うち3分の1以上が長崎県下の商人に属していた。かつてポルトガル貿易に失敗した松浦鎮信(しげのぶ)は、1609年(慶長14)徳川家康の通商許可を得て平戸にオランダ商館を、続いて1613年イギリス商館を開いて海外貿易を行い、平戸は「西の京都」とよばれるまでに繁栄した。同年家康はキリシタン禁教令を発布、キリシタンの弾圧が始まり、旧有馬領で過酷を極めたため1637年(寛永14)島原の乱が勃発(ぼっぱつ)した。乱平定後、徳川家光(いえみつ)は鎖国令を発布(1639)、出島(でじま)を構築しオランダと中国だけに貿易を許可した。対馬の宗氏は、朝鮮との国交正常化に努力し、幕府は江戸に朝鮮通信使を迎え、日朝の文化交流が行われ、対馬藩は日朝貿易を独占して潤った。鎖国時代を通じ海外に開かれた窓口は長崎と対馬の二つがあったといえよう。
幕末には天領長崎のほか、厳原(いづはら)、平戸、福江、大村、島原5藩と、佐賀藩(鍋島(なべしま)氏)の支藩として深堀、諫早(いさはや)、神代(こうじろ)の3藩があった。厳原藩は釜山(プサン/ふざん)に倭館(わかん)を置いて日朝貿易を独占、おもに銀を輸出、人蔘(にんじん)、生糸を輸入し、大きな収益を得た。一方、耕地に乏しく焼畑が主で、林業では炭(すみ)の対州白炭(たいしゅうはくたん)を特産した。陶山訥庵(すやまとつあん)(鈍翁(どんおう))は1700年(元禄13)全島に猪鹿追詰(いろくおいつめ)令を出し田畑の被害を防ぎサツマイモ作を奨励して農民生活の安定を図った。鎖国後の平戸藩は、貿易利潤を失ったため財政基盤を農漁業に置き、早岐(はいき)、相浦(あいのうら)などで新田開発を行い、捕鯨業も奨励された。福江藩は藩政中期までは平戸、大村藩とともに西海捕鯨(さいかいほげい)の名を全国にとどろかせ、農政では養蚕、サツマイモ作の普及が計られ、大村藩からの百姓移住を行った。移住者は居着(いつき)とよばれ、隠れキリシタンが主であった。大村藩は財政立て直しのため御一門払いを断行後も地方知行(じかたちぎょう)制から俸禄(ほうろく)制への切り替えなどを行い、一方、1600年代には深沢儀太夫勝清(ふかざわぎだゆうかつきよ)(1584―1663)による捕鯨業が進められ、それによる蓄財を使って溜池(ためいけ)構築による新田開発も進んだ。島原藩は、高力(こうりき)氏が入部、過疎化した領内に幕府の命令によって全国各藩から供出された農民が移住、天下百姓として厚遇され、近隣の各藩からの逃散(ちょうさん)農民も入植し、島原藩での農民層分化の起源をなした。天領長崎には奉行所が置かれ、代官に町人が任命され、行政は町人から出た町年寄(まちどしより)や乙名(おとな)によって行われ、鎖国時代を通じて、毎年の貿易利益金は地下(じげ)配分銀(竈銀(かまどぎん))として町全体に配分された。したがって町民は豊かで、諏訪神社(すわじんじゃ)のくんちやハタ(凧(たこ))揚げ、盆祭り、ペーロン競漕(きょうそう)などの行事を華やかに行った。1715年(正徳5)の「正徳(しょうとく)新令」(海舶互市新例)によって年間入港がオランダ船2隻、中国船30隻に制限されたため貿易は大きく後退した。徳川吉宗(よしむね)の洋学奨励により、オランダ通詞(つうじ)が著した『日蘭(にちらん)辞書』『暦象(れきしょう)新書』などによって物理学、数学、天文学などが紹介された。1824年(文政7)シーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)が開かれ、医学、博物学、地理学などの近代的学問や技術が全国的に広がった。1854年(安政1)の神奈川条約によって鎖国は終わりを告げ、大浦地区は外人居留地となり、1855年には海軍伝習所、1857年には医学伝習所、長崎鎔鉄(ようてつ)所が建てられた。トーマス・グラバーは1865年(慶応1)市内で汽車を走らせたり、日本初の洋式小菅(こすげ)ドック(俗にソロバンドック)を建造、そのほか洋式採炭、缶詰製造、写真技術など日本最初をなすものを多く手がけた。
[石井泰義・貞方道明]
1871年(明治4)の廃藩置県によって平戸、大村、島原、福江、厳原の各藩は県に改められた。天領長崎は天草とともに長崎府を経て長崎県となり、5県を合体して長崎県を形成。同年天草を八代(やつしろ)県に移管。1872年厳原県は伊万里(いまり)県、三潴(みづま)県の移管を経て長崎県に復帰。1876年佐賀県を編入したが、1885年佐賀県は分離再置された。産業面では1871年長崎鎔鉄所を官営長崎造船所と改め、幕末に開かれた炭鉱を工部省の所管とし、高島炭田や佐世保、北松(ほくしょう)の炭田開発を行い、鉱工業における日本の先駆地をなした。1889年長崎に市制が施行され、1902年(明治35)佐世保村に市制が敷かれた。2市は近代的都市として発足、本県における二極性の核をなすに至った。日清(にっしん)・日露そして第二次世界大戦へと日本の軍事化が進むなかで、長崎・佐世保の軍需工業の発達と両市を二つの極とする全県的な要塞(ようさい)地帯化が行われ、広範な県域では産業の停滞や後進性が特徴となった。1945年(昭和20)8月9日浦上(うらかみ)に原子爆弾が投下された。戦後、長崎市は国際文化都市を宣言。県下の要塞地帯は解除され、1955年には西海国立公園、1968年には壱岐対馬国定公園が誕生、雲仙天草国立公園とともに、県下全域が観光の対象地となった。炭田は衰退期を迎え、造船も不況期に突入したため、機械器具工業などへの転換とともに地場産業の活性化やエネルギー(火力発電)開発などによって県工業の再建が計られた。
[石井泰義・貞方道明]
2015年(平成27)時点の耕地面積は4万9100ヘクタール、うち田2万2700ヘクタール、畑2万6400ヘクタール(うち樹園地6250ヘクタール)で、水田率は46.2%にすぎない。農家1戸当りの平均耕地面積は1.45ヘクタール。総農家数3万3802戸のうち、販売農家数は2万1304戸であり、63%を占める。米の主産地は諫早干拓地と北松浦郡の棚田(たなだ)地帯で、県内自給は不可能。畑の大部分は段々畑でサツマイモ、麦を主としたが、1960年代からミカン、ジャガイモに転換し、ミカンは伊木力(いきりき)を中心に大村湾オレンジベルト地帯を形成、ジャガイモは島原半島を中心に全県に拡大している。ミカンの収穫量は5万0200トンで全国第5位(2016)。ジャガイモは、農業・食品産業技術総合研究機構の種苗管理センター雲仙農場を有し、春・秋の二作が導入され、暖地ジャガイモとしては日本有数の収穫量を誇る。茂木(もぎ)ビワは、長崎半島東岸の急傾斜地での特産品。根菜類のタマネギは島原半島、ショウガは諫早近郊に集中する特産品で、ニンジン、ダイコンの栽培も盛んである。福江島は葉タバコの産地として知られている。壱岐では全島ボーリングによる畑地灌漑(かんがい)が行われ、換金作物が主となったが、そのほかの離島地域ではサツマイモ、麦作がおもで、五島牛、平戸牛、壱岐牛など島牛の特産がある。
平坦(へいたん)でまとまった優良農地の創設と高潮や洪水防止を事業目的として、諫早湾の干拓事業の検討が始まったのは20世紀なかばであった。時代の要請に対応して目的や規模にも変遷があった。最初は「国営長崎干拓事業」(1953~1969)、次に「長崎南部地域総合開発計画」(1970~1982)と事業名を改め、さらに、1983年(昭和58)からは締切面積をこれまでの約3分の1(3550ヘクタール)に縮小し、「国営諫早湾干拓事業」として実施計画・事業着手と進み、ようやく1997年(平成9)4月14日潮受堤防(堤長7050メートル・標高7メートル)の締切りが実現した。事業地域は、計画決定時には諫早市・高来(たかき)町・森山(もりやま)町(現、諫早市)、吾妻(あづま)町・愛野(あいの)町(現、雲仙市)に囲まれた諫早湾奥部の海面で、事業面積は2002年(平成14)の計画変更により締切面積3542ヘクタール、そのなかで干陸面積942ヘクタール(うち農用地等面積816ヘクタール)、調整池約2600ヘクタール(調整容量7900万立方メートル、平常時は締切堤防外水面より水位を1メートル下げて管理し、洪水防止と淡水にして干陸地の灌漑(かんがい)用水として利用する)に区分されている。総事業費は2533億円。1993年度に長崎県が策定した新農政プラン(2001年度目標)によると、新しくつくられるこの干拓地は米をつくるのではなく、野菜や畜産などの生産を振興するためのもので、諫早湾干拓事業計画では、周辺農家の増反による野菜経営と肉用牛の肥育経営および入植による酪農経営の三つのタイプの経営が示されている。約580戸の農家で構成する新型の農業地域が誕生する計画であった。2008年には事業が竣工し、営農が始まった。
一方、堤防締切後、タイラギの不漁、ノリの不作などが続き、沿岸漁民を中心に排水門開放の訴訟が起こされた。しかし営農者は塩害による農業被害などを懸念して開門反対を主張。開門の是非をめぐる複数の裁判が起こされたが、2023年(令和5)最高裁判所は「開門せず」の判断を示した。
[石井泰義・貞方道明]
県総面積の58%を占める森林は、対馬、五島を中心に雲仙、多良、国見の各山系に分布し、私有林が72%を占める。私有林のうち人工林は47%で天然林のほうが多い。県の森林面積の26%を占め、林野率88%の対馬では林業公社などによる植林が進められ、人工林率は30%台に上昇、2010年以後の用材生産量年間20万立方メートルを期待し、天然林からパルプ、チップ材として年間5万立方メートルの生産がある。木炭は対州白炭として年間120万俵を出荷したが、1980年(昭和55)5万8000俵に激減。近年ナラ、クヌギなどの原木が豊富なためシイタケ栽培が盛んとなり、干しシイタケの年間生産高は約40トン(2016)。
[石井泰義・貞方道明]
北海道に次ぐ水産県で、年間漁獲量は約54万トンで、そのうち遠洋の以西底引網および近海の大・中型巻網からなる指定漁業によるものが約70%強を占める。以西底引は長崎港を基地として東シナ海、黄海で操業、100トン以上の漁船約200隻が長期出漁、ハモ、エソ、グチなどの底物(そこもの)を漁獲する。大・中型巻網は長崎、奈良尾(ならお)、生月(いきつき)の諸港を基地として五島、済州(さいしゅう)島の近海、山陰沖に出漁、アジ、サバ、イワシなどの浮物(うきもの)を漁獲する。両者とも大・中資本で、漁獲量は全県の54%を占め、本県水産業の中核をなす。一般漁業は中・小規模の沖合、沿岸漁業で、そのうち揚繰(あぐり)網、大型定置網による漁獲量が大半を占め、大型定置網は大手資本によるが、ほかの一本釣り、延縄(はえなわ)などの零細漁業体が漁業経営体数1万4300の95%以上を占める。一本釣りのうちイカ釣り漁業は壱岐、対馬を中心にもっとも盛んで、日本海へも出漁する。水産養殖はハマチ、ブリ、タイのほかノリ、ワカメなどが行われ、真珠の養殖も盛んである。
[石井泰義・貞方道明]
対州鉱山の歴史は古く、国産銀の始まりをなし、江戸中期には産銀の最高を記録した。明治時代より東邦亜鉛の経営となり亜鉛、鉛の産出を主としたが、カドミウム汚染によって1973年(昭和48)閉山。一方、石炭採掘は18世紀に始まり、洋式採炭は幕末、グラバーによって行われ、大正、昭和に向かって発展を続け、1957年の最盛期には炭鉱数166を数えたが、以後閉山が相次ぎ、2001年(平成13)の池島炭鉱(いけしまたんこう)の閉山を最後に稼行炭鉱は姿を消した。
工業は、明治時代以後軍需と結合した造船業とその関連工業が中核をなした。第二次世界大戦後は一時衰退したが、朝鮮戦争以後復活、とくにスエズ運河閉鎖を契機に船舶の大型化が計られ、三菱(みつびし)重工長崎造船所、佐世保重工(旧海軍工廠(こうしょう))では超大型タンカーを次々に進水させ、その進水量は世界一を誇った。しかし、昭和40年代後半の原油輸入規制などによって、造船は大きく後退、機械器具(兵器を含む)など陸上部門への転換が計られ、1983年出荷額では、輸送用機械器具は一般機械器具、食料品に次ぐ第3位に転落している。産炭地振興のために誘致された大島造船所も省エネ船、LNG(液化天然ガス)輸送船の進水を主としている。一方、日本のエネルギー基地としての工業の復活を計るため、大村発電所(2002年より長期計画停止)、松島火力発電所のほか松浦市には大型発電所が建設され、LPG(液化石油ガス)の大型貯蔵基地も完成している。地場産業は、島原の乱後、香川県小豆(しょうど)島からの移住者によって始められた島原素麺(そうめん)がある。秀吉の朝鮮出兵の際、藩主が連れ帰った陶工によって始められた大村藩の波佐見焼(はさみやき)と平戸藩の三川内焼(みかわちやき)は、現在、前者は日用食器の工業的大量生産を行い、後者は料理店向け食器を中心に手工業的生産を行っている。両者ともに国の伝統的工芸品に指定されている。また、長崎市内にはべっこう、カステラの伝統的手工業が続けられている。
[石井泰義・貞方道明]
貿易港には長崎港、佐世保港、松浦港、福島港、厳原港、松島港、そして長崎空港がある。長崎港は日本唯一の開港場という特殊性を失い、明治時代以後その地位は急落し、第二次世界大戦後、貿易は絶えたが、朝鮮戦争後回復の兆しを示し、1950年代後半から大型タンカーの輸出を中心に片貿易が行われていたが、現在は造船不況により船舶の輸出は減少している。佐世保港も船舶輸出の片貿易から長崎港と同じ経過をたどり、松島港、松浦港は石炭輸入、福島港はLPGの片貿易、厳原港は対韓貿易、長崎空港は対中貿易を主としている。1995年(平成7)貿易額総計3068億円のうち、輸出が72%強を占める片貿易で、輸出品目は一般機械、食品、船舶など、輸入品目は鉱物性燃料、機械機器、食料品などである。県内における年間商品販売額は3兆7911億円で、そのうちの63%を長崎・佐世保両市が占める。壱岐、対馬は博多(はかた)商圏に属するので、本県は三大商圏でカバーされる。地方的小商圏の核として、城下町・対馬市厳原、平戸、大村、島原、諫早のほか、本土では松浦市、壱岐では壱岐市郷ノ浦(ごうのうら)と芦辺(あしべ)、五島では五島市と新上五島町が年間60億円以上の販売額を示す商店街を形成している。
[石井泰義・貞方道明]
1898年(明治31)長崎本線、佐世保線が開通、その後、大村線、松浦線、私鉄の島原鉄道を加え、産炭地には世知原(せちばる)線、柚木(ゆのき)線、臼ノ浦(うすのうら)線が敷かれたが、現在、産炭地の鉄道は廃止された。長崎半島、西彼杵(にしそのぎ)半島および離島には鉄道の歴史がない。旧松浦線は現在第三セクター「松浦鉄道」として運行されている。道路は国道34号、35号、202号、204号、205号、206号、251号、383号などが本土でのおもな動脈をなし、九州横断自動車道長崎大分線(長崎自動車道・大分自動車道)は長崎―大分米良(めら)間、西九州自動車道の武雄―佐世保間が開通している。離島では対馬縦貫道路の完成などがあり、瀬戸や湾をまたぐ万関(まんぜき)橋、西海橋(さいかいばし)、平戸大橋、福島大橋、崎戸(さきと)大橋、斑(まだら)大橋、戸岐(とき)大橋、旭(あさひ)大橋、若松大橋、生月(いきつき)大橋などが架けられ、本県交通景観の特色を示す。
海上交通は第二次世界大戦前、上海(シャンハイ)との定期航路を有したが、戦後は閉鎖。1994年(平成6)再開の定期運航も3年で停止に追い込まれた。島原―熊本港間、厳原―壱岐―博多(福岡県)間、比田勝(ひたかつ)―博多間、印通寺(いんどうじ)―唐津東(佐賀県)間が県外と結ばれる海上航路で、離島航路は長崎―福江間、長崎―奈良尾間、佐世保―有川間、佐世保―大島・崎戸間、平戸―大島間、松浦今福―鷹島間などがあり、壱岐、対馬は博多港と結ばれ、いずれもカーフェリーが就航する。
1975年(昭和50)大村空港を箕島(みしま)に移転し、島を掘削、海を埋め立ててつくった長崎空港は世界初の海上空港で、東京、大阪、名古屋、沖縄に定期空路があるほか上海、ソウルへの国際線がある。1963年福江空港の開設に続き、壱岐空港、対馬空港、上五島(かみごとう)空港、小値賀(おぢか)空港が開かれ(上五島・小値賀は2006年から休港)、離島空路も発達している。
[石井泰義・貞方道明]
春の新緑とツツジ、夏に涼を求めて散策し、秋の紅葉(もみじ)、冬の霧氷と四季それぞれの装いをかえる雲仙は、日本で最初の国立公園に指定された。1990年(平成2)に198年ぶりに噴煙をあげ、1996年の「噴火活動終息宣言」までに43名の尊い命と多くの被害をもたらした。いまでは、元気を出して頑張ろうという意味の“がまだす”をスローガンに掲げて復興に取り組み、元のようすを取り戻しつつある。雲仙の麓(ふもと)には、甚大な被災の実態と火山活動を学習できる「雲仙岳災害記念館」が建設され、多くの観光客を集めている。
壱岐(いき)、対馬(つしま)、五島列島に周辺の島々や半島をつなぐ総延長4170キロメートルの海岸線は、北海道に次いで長く、その景観は変化に富み西海(さいかい)国立公園、壱岐対馬と玄海(げんかい)の二つの国定公園となっている。
佐世保(させぼ)の弓張岳(ゆみはりだけ)、展海峰(てんかいほう)などからの九十九(くじゅうく)島の景観を眺望したり、鹿子前(かしまえ)から発着する遊覧船「パールクィーン」で島々の間を巡ったり、カヌーを楽しむ人も多い。
五島列島の美しい景観を眺め、太公望を夢見る釣り人も新鮮な海産物に舌づつみをうち、教会の夕映えと遣隋(けんずい)・遣唐使が最後の寄港地とした浦を巡る観光客もいる。
日本の最西端は、大陸にもっとも近く、早くから国際交流が盛んで、それにつながる遺跡が随所にある。なかでも、江戸時代の長崎は、出島(でじま)を日本唯一の門戸として栄えた。長崎は、いま、出島や長崎奉行所を復元し、修学旅行の生徒たちも楽しみながら歴史学習のできる都市づくりを推進している。
原爆記念日には平和を祈り、夏に爆竹の音が悲しく響きわたる精霊流し(しょうろうながし)、秋は、竜踊(じゃおどり)やふとん型御神輿(おみこし)のコッコデショなどが繰り出し“もってこーい”の掛け声でにぎわう長崎くんち、冬には中国の春節祭にちなんだランタンフェスティバルがある。新地の中華街を中心にランタン(ちょうちん)を灯して曲芸を披露(ひろう)する中国雑技(ざつぎ)や蛇踊りなどが繰り広げられ、歴史に培われた独特の風情を醸し出し、多くの観光客を集めている。
1992年、佐世保に開業した滞在型の大型テーマパーク「ハウステンボス(森の家)」は、県の内外における観光客の動向ルートを変化させることになった。ハウステンボスは「千年の街」を目ざし、建造物は本物志向で総工費152億円をかけ、175ヘクタールの敷地にオランダの古い町並みを忠実に復元し、環境対策に惜しみなく費用をかけた。1996年には420万人の入場者が訪れたが、その後はバブルの崩壊、そしてデフレ経済の影響で入場者を漸減させたものの、県内トップの観光客数を維持している。だが、2003年に会社更生法の適用を受ける手続をするに至った。しかし、地域経済への影響は計り知れないものがあり、長崎県はじめ多くの団体からの支援もあって、営業は従来通り続けられており、来訪者も多い。
2001年の長崎県の観光客は約3163万人で、対前年比0.4%増である。これは、修学旅行などが、アメリカ同時多発テロ事件の影響で、海外旅行から国内旅行に変更されたことや、五島での地引き網などが自然体験学習志向に合致したことなどで、好影響をもたらしたものと思われる。しかし、県全体としては、日帰り客が増加し、宿泊滞在型客は横ばいもしくは漸減となっている。
外国人宿泊客は、訪日団体観光旅行の解禁から中国が漸増し、台湾、韓国、香港(ホンコン)、アメリカ合衆国から41万人で、県内宿泊客の3.2%を占めている。
県内の地域別観光客は、ハウステンボスを含む佐世保地区が23.2%でもっとも多く、次いで歴史に彩られた港町長崎を囲む地区が19.3%、高速自動車道のインターと長崎空港がある大村地区は日帰り客が多いが10.3%、雲仙の火砕流跡や雲仙岳災害記念館のある南高地区が9.7%、温泉のある小浜(おばま)地区8.7%である。さらに五島列島、平戸、壱岐、対馬、島原、松浦、西彼杵(にしそのぎ)など隠された魅力をもつ所が多く、児童・生徒を対象とした体験学習型の開発を含めた観光開発がまたれている。
[松尾義嗣]
中世末、外国貿易やキリスト教の繁栄によって、教会付設の小・中学校(セミナリオ)、高校(コレジオ)が設けられ、語学書、宗教書などの出版も行われていた。鎖国後はオランダ商館、唐館(とうかん)を通じて西洋文化(医学、博物学など)や中国文化(儒学、漢方、算術など)が伝えられた。1824年(文政7)シーボルトの開設した鳴滝(なるたき)塾は全国から集まった多くの英才を教育した。藩校の多くは17世紀中期以後開設され、大村藩の集義館(しゅうぎかん)、対馬藩の小学校(しょうがくこう)・思文(しぶん)館、五島藩の育英館(至善堂(しぜんどう))、島原藩の稽古(けいこ)館・済衆(さいしゅう)館、諫早領の好古(こうこ)館、神代領の鳴鶴所(めいかくしょ)、深堀領の謹申(きんしん)堂が藩士の子弟の教育の場だった。私塾として天領長崎の聖(ひじり)堂(輔仁(ほじん)堂・明倫(めいりん)堂)は儒学を講じ、そのほか寺子屋は九州では熊本、大分に次いで多かった。明治・大正時代における小・中学教育の全県的普及はやや遅れたが、離島や交通に不便な土地を抱えた特殊事情によるもので、今日では有数な教育県と評される。中等教育の萌芽(ほうが)は古く、長崎商業学校(現、長崎商業高等学校)は1885年(明治18)の創立で、その起源は1858年(安政5)の英語伝習所に求められる。大学教育では、長崎大学医学部は1857年設立の医学伝習所にその起源があり、長崎府医学校、長崎医学校、官立第五高等中学医学部、長崎医科大学を経て現在に至っている。薬学部は1890年第五高等中学医学部薬学科として発足。長崎大学はほかに教育・経済・水産・工・歯学・環境科学部、多文化社会学部と9学部を有し、その総合性を発揮している。私立活水女子大学(かっすいじょしだいがく)は1879年日本初の女子高等教育機関をなした活水女学校が母体、長崎純心聖母会創立の長崎純心大学はカトリック系である。ほかに長崎市に私立長崎総合科学大学、私立長崎外国語大学などがある。1967年(昭和42)、佐世保市に長崎県立国際経済大学が新設され、現在長崎県立大学と改称されている。マスコミには県内一紙の『長崎新聞』、民放の長崎放送(NBC)、テレビ長崎(KTN)、長崎国際テレビ(NIB)、長崎文化放送(NCC)、AFN佐世保、FM長崎などがある。
[石井泰義・貞方道明]
「京の女郎に長崎衣裳(いしょう)……」といわれるほど江戸時代の天領長崎の服装は華美ではでなものだったという。外国人と接触する長崎人の体面を保つために配分された竈銀(かまどぎん)に支えられた豊かさもあったためであろう。金銀縫箔(ぬいはく)の衣類を用い、べっこう、珊瑚(さんご)などの髪飾り、それに指鉄(ゆびがね)(指輪)などのトップモードも加わっていた。明治以後、活動的で簡素な服装になったとはいえ、現在でも高級衣料や貴金属の売れ行きはほかの都市より大きいといわれる。
長崎の正月料理には、寒ブリと鯨肉とは欠かせないものとされた。鯨の腸をゆでた百尋(ひゃくひろ)は長寿のめでたい料理。鯨肉に熱湯を通したおばいけの酢みそ和(あ)えも珍味である。島原半島にはガンバ(河豚(ふぐ)料理)や具雑煮(ぐぞうに)、五島の奈良尾には紀州の漁民が伝えた紀鮨(きずし)がある。対馬のそば、五島のかんころ餅(もち)も食品的特産。南蛮、中国料理の導入による長崎の料理には卓袱料理(しっぽくりょうり)、普茶料理(ふちゃりょうり)、ちゃんぽん、皿うどん、南蛮菓子としてカステラがある。
長崎市内の商家は京都風で間口が狭く、細長い敷地の奥深くに部屋をつくり、中間に小庭をつくり、またここで採光している。急な坂の町では道路に沿った2階に玄関を設け、階下に食堂や居間をつくっている。
[石井泰義・貞方道明]
長崎くんちの奉納踊は諏訪(すわ)神社の神事で、竜踊(じゃおどり)など中国の影響を受けたものが多い。平戸市の亀岡神社で奉納される平戸神楽(かぐら)は24番あり、神職だけが伝承する二剣の舞(にけんのまい)は真剣を両手に持ち、白刃を口にくわえて回転する神技が奉納される。壱岐神楽は島内各神社の神職によって伝承され、4種目の神楽のほか湯立(ゆだち)神楽を伴い、二剣の舞も奉納される。いずれも国指定重要無形民俗文化財である。貝津(かいづ)神社(五島市)では神楽に付属していた獅子舞(ししまい)が正月行事として氏子(うじこ)の家を回る。浮立(ふりゅう)は鬼面や仮装で踊る華やかな芸能で、県下至る所で行われる。坂本浮立(東彼杵(ひがしそのぎ)町)は神楽浮立とよばれる大村藩の御用浮立で、井崎まっこみ浮立(諫早市小長井(こながい)町)は諫早領の陣立(じんだて)浮立である。佐世保市黒髪(くろかみ)町には木場(こば)浮立がある。いずれも雨乞(あまご)いや豊年祝いの行事、祭礼に演じられる。勇壮な武家姿が主役をなす踊りに黒丸(くろまる)踊り、沖田(おきた)踊り、鷹島(たかしま)踊りがある。黒丸踊り(大村市)は、武家衆8人が胸に大太鼓を抱き、背中に花からいを差して踊る。花からいはそれぞれ15個の花をつけた長さ3メートルの小竹を81本束ねたもので、踊るたびに華麗な花が空中に舞う。念仏踊りは離島部に独特のものが多く、オーモンデー(五島市)は嵯峨(さが)ノ島に伝承された念仏踊りで南方系のものといわれる。踊り手、鉦方(かねかた)ともに男性。チャンココ踊り(五島市)もオーモンデーと同形の踊りである。ジャンガラ念仏(平戸市)は前二者と同類の念仏踊りであるが、踊り手、鉦方のほかに太鼓、幟(のぼり)が多く加わり、武家色が濃く、30人余が集団をなして踊る。対馬の盆踊りは、歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じょうるり)の影響を受け、盆狂言とよばれる。皿山(さらやま)(波佐見(はさみ)町)には皿山人形浄瑠璃、千綿(ちわた)(東彼杵町)には人形芝居の芸能が継承されている。
[石井泰義・貞方道明]
旧石器~縄文時代の福井洞穴遺跡(佐世保市吉井町)をはじめ、縄文、弥生の遺跡や古墳群が数多く発掘されている。縄文、弥生遺跡は壱岐、対馬に多く、古墳は全県に広がるが、規模の小さいことを特色としている。667年(天智天皇6)に築かれた金田城(かねたのき)跡(特別史跡)は浅茅(あそう)湾岸の城山(じょうやま)(対馬市美津島町(みつしままち))を利用した朝鮮式山城で、石塁が山体を取り巻き、一ノ城戸(きど)、二ノ城戸、三ノ城戸の水門の遺構がある。中世、県北の諸島が大陸との文化交流を行った証左として高麗仏(こうらいぶつ)、仏典、経巻などの文化財がある。海神神社(わたつみじんじゃ)(対馬市峰町(みねまち))の銅造如来(にょらい)立像(国指定重要文化財、以下重文と略す)は8世紀ごろの作である。黒瀬観音堂(くろせかんのんどう)(対馬市美津島町)の銅造如来坐像(ざぞう)は新羅(しらぎ)仏(重文)、安国寺(あんこくじ)(壱岐市芦辺(あしべ)町)の大般若経(だいはんにゃきょう)591帖(じょう)(重文)は高麗版である。また、早田(そうだ)氏が朝鮮王朝の国王から貿易に関連して与えられた辞令、告身(こくしん)3通(重文)がある。中世末の南蛮関係にはキリシタン墓碑(国指定史跡、以下史跡と略す。南島原市西有家(にしありえ)町、東彼杵町、大村市、川棚(かわたな)町、西海(さいかい)市西彼(せいひ)町など)が多い。平戸開港から長崎開港に至る文化財には平戸和蘭(おらんだ)商館跡(史跡)、幸(さいわい)橋(重文)があり、江戸前期では、島原の乱の原城跡(はらじょうあと)(史跡、南島原市南有馬(みなみありま)町)、「天草四郎時貞(ときさだ)関係資料」(重文)、さらに出島和蘭商館跡(史跡)がある。興福寺(こうふくじ)(本堂重文、長崎市)は1620年(元和6)創立の唐寺(とうでら)で、福州系の唐寺崇福寺(そうふくじ)の大雄宝殿(だいゆうほうでん)は1646年(正保3)建立で、第一峰門とともに国宝。眼鏡橋(めがねばし)(重文)は唐僧如定(にょじょう)(1597―1657)によってつくられた。旧円融(えんゆう)寺庭園(国指定名勝、大村市)は現在護国神社内にある石庭。江戸後期の文化財は長崎市に集中し、安政(あんせい)2年(1855)日蘭条約書、シーボルト関係資料、旧グラバー住宅、旧リンガー住宅(以上、重文)などがある。国宝大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は1864年(元治1)の建造物である。
[石井泰義・貞方道明]
〔世界遺産の登録〕2015年(平成27)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、長崎市の小菅修船場跡、三菱長崎造船所関連施設(第三船渠(せんきょ)、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場、占勝閣)、高島炭坑、端島炭坑、旧グラバー住宅が世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。また、2018年には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、南島原市の原城跡、平戸市の春日集落と安満岳(やすまんだけ)、中江ノ島、長崎市南山手(みなみやまて)町の大浦天主堂、外海(そとめ)地区の出津(しつ)集落と大野集落、佐世保市黒島の集落、小値賀町の野崎島(のざきじま)の集落跡、新上五島町の頭ヶ島(かしらがしま)の集落、五島市久賀島の集落と奈留島(なるしま)の江上集落が同じく世界文化遺産に登録された。
[編集部 2018年9月19日]
平戸の周辺は大陸に近いだけに遣唐船、元寇(げんこう)、倭寇など大陸にかかわりのある伝説が多い。平戸は中国徽州(きしゅう)生まれの大海賊王直(おうちょく)の根拠地だった所と伝えている。印山寺(いんざんじ)屋敷は王直の屋敷跡という。王直は、倭寇の松浦三十六党と手を組んで日本海を荒らし回った。また、密貿易にも活躍して巨万の富を積んだが、のち中国杭州(こうしゅう)で捕らえられて処刑された。五島には王直ゆかりの六角井戸、明人堂(みんじんどう)などが残っている。平戸川内浦(かわちうら)の千里ヶ浜には、台湾独立を図った風雲児鄭成功(ていせいこう)(和唐内(わとうない))の児誕石(じたんせき)がある。鄭成功は川内浦の女を母、明人鄭芝竜(ていしりゅう)を父とした混血児で、幼時を川内浦で過ごした。成人ののちオランダに支配されていた台湾を奪い返したが、雄図なかばにして病死した。その事績から近松門左衛門は『国性爺(こくせんや)合戦』という浄瑠璃をつくっている。付近には鄭成功分霊廟(ぶんれいびょう)や碑、手植えのナギの木などがある。佐賀県の陶都有田(ありた)に接している波佐見も、陶磁器で知られている所であるが、ここに鎮西八郎為朝伝説(ちんぜいはちろうためともでんせつ)が根づいている。諫早地峡の御館山(みたてやま)に為朝の城館があったと伝えている。御館山から射た矢が遠く小豆崎(あずきざき)の岩に突き立ったという。為朝がこの地をあとにして京へ上ったのは、自分のために父源為義(ためよし)が朝廷に罰せられるとの知らせがあったからである。大村市に放虎原(ほうこばる)という地名があるが、放虎原とは荒れ果てた土地の意味である。昔、隠れキリシタンが潜んでいると密告した者がいて、このとき長崎奉行に捕らえられた者608名。そのうち牢死(ろうし)を免れた411名がこの地で殉教した。これを俗に郡崩れ(こおりくずれ)という。放虎原には胴塚、首塚がある。信者の首と胴を切り離して埋めたのは、キリシタンの妖術(ようじゅつ)で死霊が蘇生(そせい)するのを恐(おそ)れたからと伝えている。獄門所跡の近くに、妻子が涙したという涙石が残る。長崎市春徳(しゅんとく)寺の境内に、外道井(げどうい)と名づける井戸がある。キリシタンのトードス・オス・サントス寺院の跡地で、弾圧の際に備えて長崎港まで通ずる地下道が井戸の底につくってあったという。毎年水飢饉(みずききん)に悩む長崎でも、麹屋(こうじや)町の井戸は三大美水の一つとしてたいせつにされていた。この井戸の別名を幽霊井戸とよぶ。昔、飴屋(あめや)へ夜更けに通ってくる女客がいた。その女の後をつけて行くと光源寺の墓地の新墓で消え、その墓の下から赤子が掘り出された。女はお礼に涸(か)れることのない美水のありかを教えたという。その幽霊の等身像が光源寺の寺宝となっている。市を東流する中島川の上流には河童(かっぱ)伝説が多い。昔は西山(にしやま)橋の下あたりで、河童が河原で遊ぶのが目撃できたという。河童伝説が著しいのは壱岐島で、いまも壱岐市の郷ノ浦(ごうのうら)や芦辺に河童の墓や供養塔が残っている。ともに河童の霊の祟(たた)りを恐れて供養した跡と伝えている。
[武田静澄]
『『長崎県史史料編』全4巻(1963~1965・吉川弘文館)』▽『瀬野精一郎著『長崎県の歴史』(1972・山川出版社)』▽『吉松祐一著『長崎の民話』(1972・未来社)』▽『『長崎県通史』全3巻(1973~1976・長崎県)』▽『福田清人・深江福吉著『長崎の伝説』(1978・角川書店)』▽『『新長崎風土記』(1981・創土社)』▽『『長崎県大百科事典』(1984・長崎新聞社)』▽『長崎県自然保護協会編『大地は語る』(1996・博文社)』▽『長崎県県民生活部統計課編『長崎県勢要覧』『長崎県統計年鑑』各年版(長崎県統計協会)』
長崎県南部、長崎湾、橘湾(たちばなわん)、大村湾に面した県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。1898年戸町(とまち)、下長崎の2村、1920年(大正9)浦上山里(うらかみやまざと)、上長崎、淵(ふち)の3村、1938年(昭和13)西浦上、小ヶ倉(こがくら)、土井首(どいのくび)、小榊(こさかき)の4村、1955年(昭和30)福田、深堀(ふかぼり)、日見(ひみ)の3村、1962年茂木(もぎ)町、式見(しきみ)村、1963年東長崎町、1973年三重(みえ)村、時津(とぎつ)町の横尾(よこお)地区を編入し、市域は東は橘湾、西は五島灘(ごとうなだ)沿岸に及んだ。1997年(平成9)中核市に移行。2005年(平成17)香焼町(こうやぎちょう)、伊王島町(いおうじまちょう)、高島町(たかしまちょう)、野母崎町(のもざきちょう)、三和町(さんわちょう)、外海町(そとめちょう)を、2006年には琴海町(きんかいちょう)を編入し、南は長崎半島南端と島嶼(とうしょ)部、北は西彼杵半島(にしそのぎはんとう)に至るまでに拡大した。面積405.86平方キロメートル、人口は40万9118(2020)。
[石井泰義]
長崎火山地域を含み、長崎湾の北方は盆地状の浦上低地に続き、北西に中島川(なかしまがわ)の河谷低地が分岐している。前者は原爆被災地で、後者はかつて繁栄した天領長崎の港町である。湾の西岸には稲佐(いなさ)、南東岸には深堀の細長い低地を伴っている。長崎火山地は浦上盆地の西に岩屋(いわや)山(475メートル)を最高峰とする稲佐山山地が南北に走り、その西麓(せいろく)は五島灘に接する。盆地の東に帆場(ほば)岳(506メートル)、烽火(ほうか)山(426メートル)などを配列する金比羅(こんぴら)山地があり、その東麓は八郎(はちろう)川流域の矢上(やがみ)低地に移行し、八郎川の東には普賢(ふげん)岳、戸石(といす)海岸などがある。中島川河谷の南には彦山(ひこさん)山地があり、金比羅山地と接する鞍部(あんぶ)は、旧藩時代に長崎街道が通じた日見峠である。彦山山地の東麓は橘湾に臨み、網場(あば)の砂嘴(さし)や茂木の湾入があり、南は結晶片岩からなる長崎半島へと続き、八郎岳(590メートル)が市内の最高峰をなしている。西彼杵半島域では、東岸は大村湾に面し、西岸は角力灘(すもうなだ)に臨み、海食崖(かいしょくがい)が発達する。1982年7月23日の長崎豪雨に際して時間雨量153ミリメートルの記録を示した長浦(ながうら)岳(561メートル)も含まれる。島嶼部として、伊王島、沖之島、高島、中ノ島、端島(はしま)(軍艦島(ぐんかんじま))、池島などがあり、樺島(かばしま)、牧(まき)島、鵜瀬(うせ)島、辰島は架橋されている。
[石井泰義]
中世末、長崎小太郎は桜馬場(さくらばば)の背後に、現在、城(しろ)の古趾(こし)とよばれる鶴城(つるのしろ)の山城(やまじろ)を構えた。周辺は民家が散在する浦辺で、当時は永崎(ながさき)と書き、長崎の古地名であった。豪族長崎甚左衛門(1548?―1622)は領主大村純忠(すみただ)の命を受けて1570年(元亀1)イエズス会に長崎開港を約し、1571年ポルトガル船が入港、長崎6町の地割を行った。1580年(天正8)長崎と茂木をイエズス会の教会領に寄進した。しかし1587年豊臣秀吉(とよとみひでよし)の宣教師追放令によって、長崎は豊臣氏の蔵入地となった。ついで秀吉は朱印船貿易を行い、朱印船貿易家60氏のうち長崎の豪商が14氏を占めた。長崎の行政は奉行(ぶぎょう)下の代官が行い、内町(うちまち)23町が形成された。
江戸時代に入るとキリシタン文化が再生、教会十余か所が建てられる一方、仏教の勢力も進出し寺院も建てられた。このころ南蛮船のほか唐船も入港するようになった。しかし1613年(慶長18)幕府の大禁教令によってキリシタンの一掃が行われた。長崎は町人から出た町年寄や乙名(おとな)に行政がゆだねられ、この制度は幕末まで続いた。1629年(寛永6)には唐寺(とうでら)崇福寺(そうふくじ)の建立、1634年には諏訪(すわ)神社の「くんち」も始まり眼鏡橋(めがねばし)も完成、1636年には出島(でじま)が構築された。1641年には平戸(ひらど)から出島にオランダ商館を移し、日蘭(にちらん)貿易が始まった。このころ内町25町、外(そと)町49町が形成された。1663年(寛文3)大火によって市街は全焼し、崇福寺には難民のための炊き出しに使用した大釜(おおがま)が残る。鎖国時代を通じて、貿易利益金が町全体に竈銀(かまどぎん)(1戸当り年間銀30匁)として配分され、町民は対外的な体面を保ち、潤いのある生活に努めた。1715年(正徳5)の「正徳(しょうとく)新例」(海舶互市新例)によって年間入港が蘭船2隻、唐船30隻に制限されたため、これ以後幕末まで長崎貿易は大きく後退した。しかし徳川吉宗(よしむね)の洋学研究の奨励が行われ洋学はしだいに台頭、オランダ通詞(つうじ)による『日蘭辞書』『暦象(れきしょう)新書』『三角提要秘算』などによって物理学、数学などが紹介され、その後1824年(文政7)シーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)が開校、医学、博物学、地理学などの近代的学問が開花した。江戸時代には、遠見(とおみ)岳(120メートル)に長崎港口警備の番所が置かれるなど、各地に遠見番所があった。また、16世紀以来のキリシタンの伝統は、禁教時代も「隠れキリシタン」として受け継がれていた。
1854年(安政1)の神奈川条約(日米和親条約)によって鎖国は終わりを告げ、大浦(おおうら)地区は外国人居留地となった。産業面では、1857年長崎鎔鉄(ようてつ)所、1868年(明治1)小菅(こすげ)に洋式ドックが設けられた。文教面では、1857年医学伝習所、宗教面では、1865年(慶応1)大浦天主堂が完成。行政面では、1868年奉行所を廃止し、長崎府を開設、1871年廃藩置県によって長崎県内の長崎区となった。1888年、東京に次いで電灯がともされ、1889年市制施行、1891年上水道の導入など、長崎は鎖国から19世紀に至るまで文明・文化の先駆地であった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)8月9日、アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下、浦上地区をはじめ被爆中心地域は一瞬で破壊された。原爆による死者は推計約14万人とされるが、その後も後遺症など被爆者の被災は世代を経ても続いている。
[石井泰義]
江戸時代は町人の街で第三次産業人口が大部分を占めたが、明治時代以後、造船業およびその関連工業、鉱業などの発展や、広大な縁辺部の農漁村を編入したため、第一次、第二次産業人口が増加した。近年は造船不況、漁業の不振などによって、第一次、第二次産業は漸減、第三次産業が増加。2015年(平成27)の就業人口比は、第一次1.9%、第二次18.5、第三次74.8%と消費都市型の性格であるが、一般機械器具製造、水産業など、第一次、第二次産業も基幹産業のなかに入っている。商店街は、浜ノ町アーケード街が総合的一大中心をなし、そのほかにも40か所以上が分布しており、市場も50か所以上ある(2004)。年間商品販売額は1兆1011億5400万円(2014)で県全体の約40%を占め、うち卸売業の占める割合も大きく、その商圏は県南全域と五島に及んでいる。
造船業は、かつてタンカー全盛期に世界一の進水量を誇った三菱(みつびし)重工長崎造船所とその関連下請工場で現在も続いているが、1970年代の造船不況のあおりを受け、下請工場の多くが機械器具などの陸上部門へ事業転換を迫られた。しかし、港の東岸には現在も多くの中小造船所がみられる。
漁業は、200海里体制の定着と強化、燃油費の急騰によるコスト増大、アジア諸国の漁業の発展に伴った輸入量の増加などから不振が続いており、長崎漁港での年間水揚量は約16万トン(1995)、約12万トン(2004)、約9万トン(2020)と推移し減少傾向にある。長崎漁港は東シナ海・黄海で操業する以西底引網漁業の基地をなす。戸石、網場は橘湾での延縄(はえなわ)、小型底引を主とし、深堀、手熊(てぐま)、式見は五島灘の一本釣りを主とする漁港である。橘湾はトラフグの養殖、大村湾の支湾をなす形上(かたがみ)湾や村松湾では真珠養殖が盛んで、西海(にしうみ)は西海石(にしめいし)(石材)の産地として知られる。農業は、兼業農家が多く、段々畑でのミカンをはじめ、果樹、野菜、花卉(かき)などの栽培が盛ん。とくに全国一の生産を誇る特産品の茂木ビワの栽培が知られる。
出島岸壁を有する長崎港の貿易額は、輸出が407億9000万円、輸入が418億2600万円(2021)で、以前のような極端に輸出に偏った性格から変化しつつある。輸出品目は船舶類、機械機器がおもで、輸入は鉱物性燃料、電気機器などである。
[石井泰義]
古くから陸海交通の要地で、とくに鎖国時代は海外への唯一の窓口となり、陸上では上方(かみがた)、江戸に至る長崎街道が通じていた。現在は、JR西九州新幹線、長崎本線およびその浦上新線が通じ、市内には長崎、浦上、西浦上、道ノ尾(一部は西彼杵郡長与町)、肥前古賀、現川の6駅がある。また、長崎電気軌道(路面電車)が市内を南北に走る。国道34号は旧長崎街道で、矢上から日見トンネルを経て長崎駅前に達し、ほかに国道202号、206号、251号、324号、499号、長崎自動車道、ながさき出島道路が通じる。市内交通の過密を緩和するため長崎バイパスが新設され、長崎駅前の混雑や稲佐地区(造船所所在)に入る道路混雑の解消のため元船(もとふな)町から港をまたいで旭町に至る旭大橋(あさひおおはし)が建設された。鎖国時代に繁栄した長崎港は、1951年重要港湾に指定され、出島岸壁を完成、輸出超過の片貿易を行い、年に数回世界周遊の国際観光船の接岸もある。また、港内は、造船所による船舶の進水や離島航路の船舶および漁船の航行によって交通過密となったため、三重地区に新長崎漁港が建設された。また、2005年には長崎港口(木鉢(きばち)町―戸町)に女神(めがみ)大橋が開通した。
[石井泰義]
緑の山を背景に紺碧(こんぺき)の海が展開する自然美を舞台にエキゾチックな情緒の漂う風物が魅力の中心をなし、また四季を通じて行われる長崎独特の年中行事が観光の魅力をさらに濃厚にしている点はほかに類例をみない。1977年国際観光文化都市に指定され、年間観光客は600万人を超える。名所旧跡・文化財も多く、高島秋帆(しゅうはん)旧宅、出島和蘭(オランダ)商館跡、シーボルト宅跡などは国の史跡。日本二十六聖人殉教地跡、大浦天主堂(国宝)、グラバー園(旧グラバー住宅などの洋風建築群を保存・展示)、大浦居留地の石畳などは往時の西欧文化との交流がしのばれる。東山手(ひがしやまて)には海星(かいせい)学園や活水(かっすい)学院といったミッションスクールがある。寺町にある唐寺の崇福寺、興福(こうふく)寺、館内(かんない)町の唐人屋敷跡、眼鏡橋(国指定重要文化財)や中島川の石橋群など中国との親密な接触がうかがわれ、南山手には孔子廟(こうしびょう)があり、中国歴代博物館を併設している。
崇福寺の大雄宝殿と第一峰門は国宝。その他、旧グラバー住宅主屋・附属屋、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧羅典(ラテン)神学校、旧長崎英国領事館、旧香港上海銀行長崎支店、旧長崎税関下り松派出所、『絹本著色不動明王(ふどうみょうおう)三童子像』(清水寺蔵)、興福寺本堂(大雄宝殿)、旧唐人屋敷門、『紙本著色泰西王侯図六曲屏風(たいせいおうこうずろっきょくびょうぶ)』『安政二年日蘭条約書』(以上2件は長崎歴史文化博物館蔵)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料(シーボルト記念館蔵)、旧本田家住宅など国指定重要文化財は多数。鳴滝町・本河内町の「キイレツチトリモチ自生北限地」は国指定天然記念物。樺島の古井戸には体長2メートル近いオオウナギが生息し、「オオウナギ生息地」として国の天然記念物に指定されている。「みさきの観音」とよばれ信仰を集めた観音寺の木造千手観音(せんじゅかんのん)立像は国指定重要文化財。国選定重要伝統的建造物群保存地区が2か所ある。「長崎市東山手伝統的建造物群保存地区」は、丘陵の東山手町の大部分と、海岸寄りの大浦町を一部含み、東山手十二番館、オランダ坂などがある区域、「長崎市南山手伝統的建造物群保存地区」は、丘陵の南山手の大部分と海岸寄りの小曽根、松が枝町を一部含み、大浦天主堂、グラバー園などがある区域である。
浦上地区には、平和祈念像で有名な平和公園、原爆資料を展示する長崎原爆資料館、長崎市歴史民俗資料館などがある。中心市街地を一望に収める展望絶佳の地に稲佐山山頂、風頭(かざがしら)山北端、金比羅山南端があげられ、稲佐山にはロープウェーが設けられている。多以良(たいら)町には長崎大学の環東シナ海環境資源研究センターがある。
高島は、日本でもっとも古い炭坑の島で、江戸時代以来石炭採掘が行われ、製塩用燃料として瀬戸内にまで売り出したと伝えられる。また、明治時代以来、近代的採炭が盛んとなり、香焼、高島、池島、伊王島などの炭鉱が開かれ繁栄した。しかし、石炭の斜陽化によって、閉山が相次ぎ、1964年に香焼、1972年に伊王島、1986年に高島が閉山。角力灘に浮かぶ海底炭田の島、池島の炭鉱も2001年に閉山し、現在池島炭鉱跡は体験型の観光地となっている。また、長崎半島の西方海上の軍艦島(端島)もまた、日本有数の海底炭田として三菱の経営で発展したが、1974年に閉山、無人島に戻り、アパート群が廃墟(はいきょ)として残っている。遠望すると軍艦に似ているので軍艦島とよばれる。伊王島では、近年リゾート施設を拡充するなど観光開発を推進。真鼻(まばな)のフランス式灯台は1870年(明治3)建設され、日本ではもっとも古い灯台に属する。沖之島の馬込地区には、大天使ミカエル天主堂(カトリック馬込教会)がある。
長崎市域には今もカトリック集落が多い。外海地区の出津(しつ)、黒崎はほとんど全戸がカトリックである。明治初年ド・ロ神父Marc Marie de Rotz(1840―1914)によって布教救済事業が行われ、出津には出津教会や養老院など、神父ゆかりの施設があり、現在一帯は出津文化村となっている。旧出津救助院は、神父が村人たちを救うため、私財を投じて設立した明治初期の授産・福祉施設で、のちに修道院となった。授産場、マカロニ工場、イワシ網工場(現、長崎市ド・ロ神父記念館)の3棟の建物が残り、国の重要文化財に指定されている。また、外海は遠藤周作(えんどうしゅうさく)の小説『沈黙』の舞台となった土地としても知られ、2000年に遠藤周作文学館が開館した。大野教会堂(国指定重要文化財)、黒崎教会は文化財としても貴重な建物。隠れキリシタンの資料などを展示する外海歴史民俗資料館などがある。標高180メートルに及ぶ海食崖の大城(おおじょう)・小城(こじょう)や仁崎(にざき)の景勝地もある。大中尾棚田(おおなかおたなだ)は「日本の棚田百選」に選ばれた。
長崎の年中行事には、春はハタ揚げ、帆船まつり、夏はペーロン競漕(きょうそう)、精霊流し(しょうろうながし)、華僑(かきょう)による中国盂蘭盆会(うらぼんえ)、秋には長崎郷土芸能大会、そして全国的に有名で、市民の熱狂する諏訪神社の「くんち」(「長崎くんちの奉納踊」として国指定重要無形民俗文化財)、晩秋に若宮稲荷(わかみやいなり)の「竹ん芸(たけんげい)」がある。特産品として、べっこう細工、カステラ、からすみ、卓袱料理(しっぽくりょうり)、普茶料理(ふちゃりょうり)、ちゃんぽん、皿うどん、かまぼこなどが有名。
[石井泰義]
2015年(平成27)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、小菅(こすげ)修船場跡、三菱長崎造船所関連施設(第三船渠(せんきょ)、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場、占勝閣)、高島炭坑、端島炭坑、旧グラバー住宅が世界遺産の文化遺産に登録された。また、2018年には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、外海の出津集落と大野集落、大浦天主堂が同じく世界遺産の文化遺産に登録された。
[編集部 2018年9月19日]
『『長崎郷土誌』(1973・臨川書店)』▽『『長崎市史』復刻版(1981・清文堂出版)』▽『『新長崎風土記』(1981・創土社)』▽『『長崎県大百科事典』(1984・長崎新聞社)』
山形県中央部、東村山郡中山町の中心地区。旧長崎町。最上(もがみ)川中流の右岸に位置し、中世には中山氏の長崎城が築かれ、近世初頭からは最上川の舟着き場として発展し、1921年(大正10)の国鉄(現、JR)左沢(あてらざわ)線の開通まで続いた。中山町役場、歴史民俗資料館や、JR羽前(うぜん)長崎駅がある。国道112号が通じ、最上川に長崎大橋が架かる。
[編集部]
長崎県南西部にある市で,県庁所在都市。2005年1月旧長崎市が伊王島(いおうじま),香焼(こうやぎ),三和(さんわ),外海(そとめ),高島(たかしま),野母崎(のもざき)の6町を編入,さらに06年1月琴海(きんかい)町を編入して成立した。人口44万3766(2010)。
長崎市南西部の旧町。旧西彼杵(にしそのぎ)郡所属。人口1035(2000)。長崎市の南西海上10kmの沖合に横たわる伊王島,沖之島両島からなり,両島は橋で結ばれている。標高100m前後の山地が多く,平地に乏しい。かつては半農半漁の寒村であったが,1941年に日鉄伊王島鉱業所によって海底炭田の採掘が開始され,以来炭鉱の町として発展した。しかし,72年に炭鉱は閉山され,最盛期に7792人を数えた人口は激減し,現在もなお減少を続けている。旧長崎市に近接する利点を生かして観光開発に力を入れ,地域活性化を図っている。伊王島の北端にある伊王島灯台は,1866年(慶応2)全国8ヵ所に設置された日本初の公式灯台の一つである。
長崎市北端の旧町。旧西彼杵郡所属。1969年町制。人口1万2507(2005)。大村湾に面し,西彼杵半島の基部に位置する。町の西部には飯盛山系の丘陵が連なり,急傾斜した東斜面を刻んで大小の河川が大村湾に注いでいる。全町が起伏のある丘陵地帯にあり,棚田や段々畑が多く,平地は狭小である。人口は1955年以降減少を続けたが,南部地区に住宅団地ができた72年ころから増加傾向に転じている。主産業は農業で,ミカンを主体とする複合経営が多い。1955年ころまで全就業者の80%を占めていた農業就業者も大きく減り,旧長崎市の近郊農業地域として転換しつつある。一時盛んであった真珠養殖業は生産を減じながらも行われている。
長崎市南西部の旧町。旧西彼杵郡所属。1961年町制。人口4512(2000)。かつては長崎湾に浮かぶ香焼島を町域としたが,香焼と対岸の深堀との間の海面が埋め立てられ,旧長崎市南西部と陸続きになった。明治以降,良質炭を産出する炭鉱の町として発展し,川南造船所もあって第2次世界大戦中は繁栄したが,戦後,造船所が倒産し,炭鉱も1964年に閉鎖され,一時は2万人をこした人口も5000人を割るまでに減少した。72年に三菱重工業長崎造船所の香焼工場が進出し,100万トンドックが完成して再び造船の町となった。
長崎市南部の旧町。旧西彼杵郡所属。人口1万2366(2000)。長崎半島の中央部,旧長崎市の南に位置する。半島中央部には山地が連なり,平地に乏しい。基幹産業は農漁業で,農業ではビワ,ミカン,野菜などの栽培が行われ,特に茂木ビワは全国的に有名。為石,蚊焼両漁港を基地に沿岸漁業が行われるが,近年大型養殖漁場も整備された。旧長崎市や旧香焼町への通勤者も多く,大規模住宅団地の建設が進められ,人口は増加傾向にある。東西の海岸は野母半島県立自然公園に含まれ,夏季は海水浴場としてにぎわう。
長崎市北西端の旧町。旧西彼杵郡所属。人口7405(2000)。西彼杵半島の南西部,旧長崎市の北西に位置し,南西部は角力(すもう)灘に面する。西方の海上に浮かぶ炭鉱の島池島も町域に含まれる。中心集落の神浦(こうのうら)は漁港で,神浦川の上流に神浦ダムがあり,旧長崎市へも給水している。1959年海底炭田の池島炭鉱が出炭を開始して以来,従来の半農半漁の町から石炭産業主体に転換した(池島炭鉱は2001年11月閉山)。半島部では,農漁業が主産業であるが,労働力の流出が続き,過疎化に悩んでいる。南部の出津(しつ),黒崎地区には隠れキリシタンゆかりの集落が多く,明治初年に来日したフランス人ド・ロ神父の記念館などがある。海岸一帯は西彼杵半島県立自然公園に含まれる。
執筆者:松橋 公治
長崎市南西部,長崎半島の西沖合に浮かぶ高島,端島(はしま)(軍艦島),中ノ島,飛島の4島からなる旧町で,西彼杵郡に属する。高島以外の島は無人島で,高島は面積わずか1.36km2の石炭の島である。人口900(2000)。1695年(元禄8)鍋島家の下僕であった深堀村(長崎半島西岸)の五平太が野焼きをしているとき,黒い石が燃えるのに気づき,この燃える石(石炭)の採掘を行ったのが高島炭田の始まりといわれる。後にこの事業は佐賀藩営となり,石炭は瀬戸内各地の製塩用燃料として出荷された。明治に入ってからは端島鉱とともに三菱の経営となり,最盛期には人口2万人をこえた。しかし端島鉱は1974年に閉山,86年には高島炭鉱の閉山により人口は激減した。町の活性化のため,磯釣り公園を目玉にした観光の島づくりを進めている。島には20戸の漁家がいるが,タコ,フグなどの漁獲をあげる専業の漁家はわずかで,多くは遊漁を営む。旧長崎市大波止桟橋から島まで定期船で約1時間を要する。
長崎市中央部,長崎半島の基部に位置する旧市で,県庁所在都市。1887年市制。人口42万3167(2000)。幅1km,奥行き4km,平均水深18mのリアス式湾入の長崎湾を抱くようにして山腹の急斜面にまで市街地が発達し,周縁部は金比羅(こんぴら)山,稲佐山など標高400m前後の長崎火山地によって囲まれている。おもな河川は南から大浦川,中島川,浦上川があり,いずれも小河川で沖積平野の発達は悪く,市街地にみられるわずかな平たん地のほとんどは,河口付近に形成された埋立地である。湾の東岸にある中心市街地は16世紀末,長崎港にポルトガル船が入港して以来,港町として,またキリシタン伝道の中心として発展し,鎖国時代においても日本で唯一の貿易港として栄えた。明治以降県庁がおかれ,政治・経済・文化の中心として市域は拡大し,人口が増加していった。1923年以来,第2次大戦中まで長崎港と中国の上海との間に日華連絡船が就航していたが,戦後は内外貨物船の寄航地として,また離島航路の基地としての役割を保持しているものの戦前の活況はみられない。2000年現在,市の産業別人口の割合は第1次産業2%,第2次産業21%,第3次産業77%で,第3次産業の増加が目だち,なかでも卸・小売業とサービス業の占める割合が高い。中心商店街が都心部の浜町および観光通りにあり,隣接する銅座町,新地町,籠(かご)町は各種料理店,バー,クラブなどの多い歓楽街を形成している。この東に続く丸山町,寄合町一帯は,かつて丸山と呼ばれる花街だったところで,長崎貿易に集まる商人たちを相手に繁栄し,江戸の吉原,京の島原とともに広く知られた。
工業は幕末に起源をもつ造船業が,湾の西岸に建設された三菱重工長崎造船所を中心に発展し,明治,大正,昭和にわたって市の経済を支えてきた。第2次大戦末期に投下された原子爆弾によって湾奥の浦上地区を中心に大きな惨禍をうけたが,その後市は造船業や水産業などの発展により復興した。1973年の石油危機と急激な円高の影響をうけ,造船不況が顕著になってからは火力発電用タービン,ボイラーなど機械部門の生産に力を入れるとともに,付加価値の高い船舶づくり,そして徹底したコストダウンのための合理化に努力し市の基幹産業として重要な役割を果たしている。伝統産業としては,カステラ製造,べっこう細工がある。前者は観光客の増加に伴い順調な発展をみせるが,後者は原材料のタイマイの入手難が予想され,前途に不安がもたれる。水産業は古くから豊富な水産資源に恵まれ,以西底引網漁業や大・中型まき網漁業などの海面漁業の基地として発展してきたが,長崎湾奥にある漁港が手狭になったため,市北西部の三重地区に水産加工団地を伴った新長崎漁港を建設し,1989年開港した。また東部の茂木(もぎ)港では小型底引網漁業が,戸石ではタイ,ハマチの養殖が行われている。農作物では,茂木一帯で栽培されるビワが有名である。
日本の西端に位置する長崎は,首都圏をはじめ日本各地との交通網の整備が課題である。JRについては,博多駅と結ぶ長崎本線の複線化あるいは新幹線の建設が望まれ,航空路については,市内と長崎空港(大村市)とのアクセスの一層の改善が期待される。市街地の交通は,無公害型の路面電車が100円均一料金で運行し人気を得ているが,地形的要因から都心集中型の道路網となり,幹線道路は日常的に渋滞している。バス交通はよく発達し,国道34号,202号,206号,251号線などにより諫早,大村,佐世保,雲仙,島原など県内各地と結ばれている。長崎自動車道のインターチェンジがある。観光資源に恵まれ,内外から多くの観光客を集めているが,最も親しまれているのは,市街地南東部にある国宝の大浦天主堂と,近くのグラバー園である。グラバー園は,幕末・維新期のイギリス商人グラバーの旧邸を核として,旧リンガー住宅,旧オルト住宅(いずれも重要文化財)などの洋館が配置された長崎の明治村といわれる庭園(1974完成)で,ここからは長崎造船所のドックや長崎港が一望できる。また,中国福建省出身の人たちが建立した唐寺崇福(そうふく)寺には,国宝の大雄宝殿と第一峰門がある。1634年(寛永11)興福寺住職の如定(によじよう)禅師が中島川に架けた眼鏡(めがね)橋(重要文化財)は,日本最古の石橋であるが,1982年7月に長崎を襲った集中豪雨により一部破損した。ほかに国の史跡として江戸時代オランダ人居留地であった出島のオランダ商館跡,日本の青年たちに医学を講じたシーボルト宅跡がある。一方,浦上地区には原子爆弾による惨禍を伝える〈原爆落下中心碑〉や国際文化会館,長崎大学などがある。年中行事としては,4月の稲佐山のハタ(たこ)揚げ,6月に長崎港内で行われるペーロン競漕,10月の諏訪神社の例祭〈おくんち(お九日(おくんち))〉などが全国的に有名である。
執筆者:竹内 清文
中世末の長崎は,大村氏に属する在地土豪長崎甚左衛門純景970石の所領で,城下からやや離れた半農半漁の寒村であった。これがポルトガル貿易をめぐる平戸松浦(まつら)氏と大村氏らとの確執の結果,安全な避難港として開港されることになり,1571年(元亀2)最初のポルトガル船が入港し,麦畑をつぶして大村,島原,平戸,横瀬浦,外浦,文知の6町が町立てされた。以来マカオからの大船が定期的に入港し,80年(天正8)大村純忠が長崎と茂木の地をイエズス会に寄進すると,ポルトガル貿易をほぼ独占した教会領長崎では,教会の軍事・行政権のもとに,すべてキリシタンである住民は,数人の牢人を〈頭人〉とする植民地的自治都市を形成した。豊臣秀吉は88年九州平定の帰途,有馬晴純が教会に寄進していた隣接の浦上村とともに収公し,はじめは佐賀藩の鍋島直茂に預けて長崎代官支配地としたが,92年(文禄1)腹心の唐津藩主寺沢広高を初代長崎奉行に任じ,以後明治維新にいたる支配の原型ができ上がった。すなわち,奉行支配の天領長崎は〈市〉と〈郷〉から成るが,市はこのときまでに23町をかぞえる地子免除の〈内町〉で,高木,高島,町田,後藤の,〈頭人〉あらため〈町年寄〉が管し,各町には乙名(おとな)をおいた(その下の組頭は寛永期か)。一方,郷である長崎・浦上両村,高3435石余は長崎町人の村山等安(1616年以降は末次平蔵)を代官として年貢徴収にあたらせたが,長崎村のうち内町隣接地はしだいに市街化して,1642年(寛永19)までに出島を含む43町の地子を納入する〈外町〉として市に編入された。代官廃止期(1676-1739)の郷地は町年寄が兼管した。
市中人口は,開港当時1500人,豊臣秀吉期には数千人といわれるが,江戸幕府初頭の朱印船・唐船貿易の奨励,教会活動の黙許などにより急増し,1616年(元和2)に2万4693人,26年には約4万人となり,そのほとんどがキリシタンであった。1614年(慶長19)日本イエズス会本部をはじめ,各派11の教会やセミナリヨ,コレジヨが幕府の手によって破壊され,その跡地は奉行所,代官屋敷,仏寺などに変わったが,なお鎖国までは,ヨーロッパ諸国の冒険商人,明末の混乱を避けた中国人,文禄・慶長の役で日本各地に連行されたまま帰国の途を失った朝鮮人などの外国人が定住していた。多くは日本人を妻とし,船宿,通詞(つうじ)(通訳),水先案内,医師,諸細工,日雇い,遊女などで,婚姻,職業,土地所有,内外通交などについて特別の制限はなかったようである。ことに中国人は来航者が急増して,稲佐に専用の共同墓地を設け,また出身地別に興福寺(南京地方),福済寺(泉州,漳州),崇福寺(広東)のいわゆる唐寺を建立し,唐僧を招いて住持とした。そのほか来航者には南アジア,インド洋水域のイスラム商人もあり,日本と世界各地の産物が集散する国際都市であった。外国系の言語,食物,遊戯がもてはやされ,眼鏡橋に始まる中国系の石橋群の出現以前には,ヨーロッパ風の屋根付きの木橋が多かった。
寛永鎖国の結果,朱印船などによる日本人の出入国の最大の窓口が閉ざされ,1636年,市内ポルトガル人の出島集住,同国人および妻子287人のマカオ追放,39年ポルトガル貿易禁止,41年空屋になった出島へ平戸オランダ商館の移転がなされ,一方,来航の中国人も新規の定住は禁じられ,半世紀後の89年(元禄2)には唐人屋敷に収容されることになった。こうした外国人隔離策と並行して,踏絵,寺請制度を伴う五人組を単位とする宗門人別改制度が,寛永末期に全国にさきがけて確立した。元亀開港以来,無秩序に発展した都市景観を一変させたのは〈長崎回禄〉とよばれる1663年(寛文3)の大火で,全66町のうち63町が被災した。これを機に道幅を広め,負担や貿易利銀の均等化の意味からも大町を2,3町に割って,明治期にいたる内町26,外町54の近世長崎80町制が確立した。すなわち長崎町人の諸負担は,まず公役として,海側の30町では船手役として役人の通船や水主役(かこやく),山沿いの47町では陸手役として奉行所要の馬,人足を負担し,ほかに奉行への八朔銀,歳暮銀,目付など出張幕吏の宿賃,諸役所の普請・雑用銀,芥捨て・湊浚い賃などを負担した。町役としては,唐船1艘につき,各町が順番で宿町・付町となり,宿泊,荷役,取引出納などに当たり,ほか町預りのための賄(まかない)料,番人給銀,各町の役人(乙名,組頭,日行使,宝役,町火消,門番,借屋惣代)の給銀,雑用銀などである。これらの諸負担に対し,貿易の利銀もまた町単位で支給され,各町内では屋敷地およそ60坪見当を1箇所と定め,〈箇所〉を単位に配当した。例えば1690年内町の一つである平戸町では,1箇所持ちの町人は平均銀1貫090匁の負担額に対し,2貫062匁の配当があった。この箇所銀(かしよがね)に対し,借屋人も少額ながら1世帯ごとに竈銀(かまどがね)の配分があり,この中から芥捨て賃,溜番賃などの公租を納めた。こうした貿易利銀は,外国側と内地商人との間に独占的に介在した,長崎奉行,町年寄管下の市法会所や長崎会所の関税的な取引収益によるもので,人口は1696年に最大の6万4523人に達し,その後は貿易の停滞を反映して1715年(正徳5)に4万1553人,71年(明和8)以降3万人をわずかに上下しながら維新を迎えた。
行政組織は,その確立期にあたる1708年(宝永5)には,奉行4人(在府2,在勤2。毎年9月に長崎で交代)のもとに御用物方(元町年寄の高木氏)以下地役人97人,奉行所付き81人,番方(町使,散使,唐人番,船番など)201人,町年寄6(うち2人は地方支配),各町の乙名,組頭,日行使,筆者などの町方580人,蘭通詞方138人,出島方135人,唐通事方246人,唐人屋敷96人,長崎会所171人,合計1743人の多きに達し,役料銀3200貫目余は,貿易利銀のうち長崎市政経費に充てられる金11万両(残余はすべて収公)の過半を占めた。この地役人の組織,人数,銀高は幕末まで大きな変化はなく,貿易縮減下の長崎会所財政を圧迫した。
執筆者:中村 質 鎖国下の長崎は西洋の文物を摂取する全国で唯一の窓口であった。外国人隔離策によってその受容も初めは吉雄耕牛,志筑忠雄らオランダ人と接触しうる通詞出身者に限られていたが,シーボルトは長崎郊外に鳴滝塾を開くことを許可され,ここに全国各地から青雲の志をいだいた青年たちが集まり,西洋の知識や技術を吸収して,洋学興隆をもたらした。また1855年(安政2)には幕府によって長崎海軍伝習所が設立され,近代的な航海術の伝習が始められた。一方,その前年の54年には日米和親条約によって鎖国に終止符が打たれ,長崎はそれまで唯一の開港場として保ってきた独占的地位を失い,しだいに横浜に主役の座を奪われていくことになる。
執筆者:大沢 正敏
長崎市南端の旧町。旧西彼杵郡所属。長崎半島先端部を占める。人口8101(2000)。半島先端には権現山(198m)と祇園山が陸繫島をなし,前者の陸繫部には良港の野母浦をもつ主集落の野母,後者の陸繫部には県下有数の漁業基地脇岬がある。脇岬の南には樺島が浮かび,その北向きに開く港は近世の風待港であった。東シナ海から台湾まで出漁する漁業が基幹産業であるが,なかでもからすみは特産品として知られ,近世には越前のウニ,三河のこのわたとともに天下の三珍といわれた。旧長崎市茂木と並んでビワも多産する。野母に長崎大学水産実験所(1999年長崎市多以良町に移転。現,環東シナ海海洋環境資源研究センター),脇岬に貝の博物館,野母崎マリンランド,亜熱帯植物園,樺島に大ウナギ生息地(天)がある。
執筆者:松橋 公治
基本情報
面積=4105.33km2(全国37位)
人口(2010)=142万6779人(全国27位)
人口密度(2010)=347.5人/km2(全国17位)
市町村(2011.10)=13市8町0村
県庁所在地=長崎市(人口=44万3766人)
県花=ウンゼンツツジ(ミヤマキリシマ)
県の花木=ソバキ
県の林木=ヒノキ
県鳥=オシドリ
九州北西端に位置する県。半島と島嶼(とうしよ)のみからなり,東は佐賀県に接し,西は東シナ海を隔てて中国大陸と,また北は対馬海峡を隔てて朝鮮半島と相対し,南は熊本県の天草諸島および天草灘に面している。
県域はかつての肥前国の高来,彼杵(そのぎ),松浦地方,および壱岐・対馬両国全域にあたる。江戸末期には長崎が天領として長崎奉行の支配下にあったほか,島原藩,大村藩,平戸藩,福江藩,対馬藩(府中藩。1869年厳原(いづはら)藩と改称)および佐賀藩の飛地が置かれていた。1868年(明治1)長崎裁判所が置かれて旧天領を管轄し,まもなく長崎府と改称,さらに天草県(肥後)を併合して,翌年長崎県となった。71年廃藩置県によって各藩はそれぞれ県となったが,同年厳原県は佐賀県と合併して伊万里県に,他は長崎県に統合され,その際天草地方を八代県(肥後)に移管した。翌72年長崎県は佐賀県(伊万里県を改称)から旧厳原県を編入,さらに76年には三潴(みづま)県(筑後)に併合されていた旧佐賀県分をも併合したが,83年佐賀県再置に伴いこれを分離し,現在の県域が確定した。
長崎県には先土器時代から土器文化発生期にかけての洞窟遺跡が多い。まず福井洞穴(佐世保市)は,先土器時代から縄文時代にわたる文化層が認められ,押型文土器,爪形文土器,隆起線文土器と細石器との共伴関係が明らかになった。百花台遺跡(雲仙市)も先土器時代から縄文時代にわたる文化層をもつオープン・サイトで,台形石器が日本で初めて層位的に編年づけられた。泉福寺洞穴(佐世保市)でも細石器など先土器時代の終末期から土器文化発生期への推移を示す遺物が層序的に出土し,ことに豆粒文土器は目下,日本最古とされる。岩下洞穴(佐世保市)は縄文早期から晩期に及ぶ遺物を出すが,ことに押型文土器の時期の屈葬人骨や多量の磨製石鏃は重要である。下本山(しももとやま)岩陰遺跡(佐世保市)は相浦川沿いで泉福寺洞穴,岩下洞穴の下流に位置し,縄文前期を中心に縄文早期末~弥生時代の遺物を出す。有喜(うき)貝塚(諫早市)は縄文中期を主とする貝塚。筏(いかだ)遺跡(雲仙市)は縄文後・晩期の遺跡で,甕棺墓や土壙墓のほか農耕関連の遺物も出し,山ノ寺遺跡(南島原市)はその遺物から同じく晩期農耕文化を究明するうえで注目される。晩期突帯文土器,山ノ寺式の標式遺跡である。礫石原(くれいしばる)遺跡(島原市)も晩期で,合せ口式甕棺2のほか集石墓10がある。原山遺跡(南島原市)は晩期終末の支石墓群。4群からなり,土壙,箱式石棺などを内部主体とする。里田原(さとたばる)遺跡(平戸市)は晩期末~弥生中期初頭の低湿地遺跡で,2群の支石墓や袋状竪穴,それに多量の木製品を伴う。大野台遺跡(北松浦郡鹿町町)では5地点にわたり晩期後葉~弥生前期中葉ごろの支石墓などの墓群が調査されている。深堀遺跡(長崎市)は縄文後・晩期,弥生中期の遺跡。
カラカミ遺跡(壱岐市)は唐神山の山頂にある弥生時代の遺跡で,中期後半~後期前半の各種金属製品や漢式土器の出土で知られる。原ノ辻(はるのつじ)遺跡(壱岐市)も弥生中・後期の遺跡。上層からは鉄器,貨泉,漢式土器が出土。クビル遺跡(対馬市)は弥生後期の遺跡で,板石組合せ石棺中から銅鍑(どうふく)などの青銅器,漢式土器,弥生式土器が伴出した。シゲノダン遺跡(対馬市)は同じく後期の埋蔵遺跡。各種青銅器,鉄器と貨泉1が出土。塔の首遺跡(対馬市)も後期の石棺群で,とくに8000余個にものぼるガラス小玉が注目される。
→壱岐島 →対馬島 →肥前国
執筆者:狐塚 裕子
県域は対馬海峡,五島灘などの海面を含んで,底辺約170km,高さ約250kmの二等辺三角形の中に広がる。対馬,壱岐,五島列島などの島嶼が県の総面積の45%を占め,常住者のいる島は80,いない島は490を数える。本土側は北松浦半島,肥前半島,西彼杵半島,長崎半島,島原半島が,手の指のごとく分岐する。島嶼部,半島部はいずれも沈水性のリアス式海岸が発達し,湾入が著しい。加えて顕著な火山活動が各地にみられ,島原半島には複合火山の雲仙岳が,北松浦半島や壱岐には玄武岩の溶岩台地が,五島列島には多くの臼状形の火山砕屑(さいせつ)丘や溶岩台地が分布する。県域には海岸線から10km以上内陸に入ったところはないうえに海岸に山地が迫るところが多く,谷底平野の発達はきわめて悪い。平野はわずかに大村湾東岸の郡(こおり)川がつくる大村平野と,諫早(いさはや)湾岸の干拓によって造成された諫早平野があるにすぎない。したがって河谷や入江ごとに,また半島や島嶼ごとに細分化され,交通上の障害によってそれぞれ孤立して小規模な農漁村地域社会を形成し,江戸時代は小藩が分立していた。現在の県域は明治政府によって人為的に形成されたものであり,地域差が大きく,統一性に欠ける。
気候は海洋性を示し,雲仙岳(1359m),多良(たら)岳(996m)などの高所を除けば,年平均気温は16~17℃で大差はないが,年降水量は雲仙岳で2400mm以上,本土北部で2000mm以上,南部で1600~1800mm,島嶼部で1400~2000mmと局地性に富む。梅雨前線の停滞により集中豪雨に見舞われることがあり,1982年7月23~25日の集中豪雨では,1時間雨量としては観測史上最大の187mm(長与町)を記録した。長崎県だけでも299人にのぼる死者・行方不明者を出し,1957年の諫早豪雨以来の大災害となった。また雲仙火山群の主峰普賢岳は198年ぶりに,1990年火山活動を再開し,翌年6月には43人の死者・行方不明者を出す火砕流が発生した。その後も断続的に活動をつづけたが,95年ようやく終息した。
長崎県は水田が少なく,耕地の6割は半島および島の狭小な傾斜地に営まれる畑地である。第1次産業就業人口は14%(全国平均7%。1990)で,漁業とともに農業就業人口の比重が大きい。県の水稲作付総面積の13%を占める北松浦半島の水田は,玄武岩台地上に棚田をつくりながら形成されたものが多い。また県下最大の穀倉地帯と称される諫早平野の水田地帯も水稲作付総面積の11%を占めるにすぎない。平たん地の水田は少なく,1戸当りの水田経営面積は53aと小さく,10a当り平年収量も全国平均の90%前後で,土地生産性は低い。五島列島をはじめ離島に多い肉牛(長崎牛)は,飼育頭数が9万頭(1995)に達し,漸増傾向にある。また肉質が向上したため,子牛としても出荷されるほどである。養豚は飼育頭数22万頭(1996)で90年をピークに減少している。急傾斜地の多い本県では,早くから果樹生産が行われ,とくに長崎市茂木(もぎ)地区のビワは明治末以降商品作物として発展し,全国1位(3割弱。1995)を占める。またミカン栽培は第2次大戦前,すでに大村湾岸に広がっていたが,戦後は島原半島,西彼杵半島など全県下に広がり,なかでも大村湾岸の伊木力(いきりき)地区(諫早市の旧多良見(たらみ)町)は有名である。江戸時代以来代表的な畑作物であったサツマイモに代わって,1960年代からジャガイモの生産が島原半島を中心に急速に増加して日本一の暖地ジャガイモ生産地となり,北海道に次いで第2位の生産額をあげている。半島北部の瑞穂(みずほ)町(現,雲仙市)には,農林水産省雲仙馬鈴薯原原種農場(現,独立行政法人の種苗管理センター雲仙農場)が設置され,全国に種ジャガイモを出荷している。
県の海岸線の総延長は4000km余におよび,北海道の海岸線を上回るほどの長さである。沿岸には対馬海流が北上し,周辺海域には広大な大陸棚が発達して豊かな漁場を形成する。多くの入江は漁村の立地に好適であり,古くから漁業は重要な産業であった。江戸時代から明治時代にかけて五島列島周辺などで捕鯨が盛んであったがしだいに衰微し,代わって大敷網によるブリ,マグロ漁が発展した。しかし一般的に地元漁民は一本釣りによる零細な漁法を行っていた。第2次大戦後は韓国との間の李承晩ラインをはじめ,1977年からの200カイリ規制など,国際間の漁業規制の強化により漁場は縮小している。一方,水産資源も減少しつつあるので,長崎県をめぐる漁場条件は厳しいものの,現在,海面漁業の生産額は全国の8%(1994)を占めており,全国第2位の水産県である。
最大の生産額をあげる大・中型まき網漁業は,ほとんどが県内の中小資本の経営になるもので,戦後,五島灘におけるマイワシの豊漁によって大きく成長した。しかし1952年以降急速に衰退し,代わって中通(なかどおり)島の奈良尾町(現,新上五島町),生月(いきつき)島の生月町(現,平戸市)の漁港を根拠地として,東シナ海でアジ,サバをとる大型まき網漁業へ発展した。70年代には東北地方の三陸沿岸や北海道沖合漁場でも操業するようになった。以西底引網漁業は機械力によって網を引き,底魚類をとるので,漁船の大型化が進み,近代的な機械や設備を必要とする。したがって大企業に限られ,その基地は長崎港に集中する。このほか零細な沿岸漁業や,タイ,ヒラメ,真珠などの海面養殖が全県下に展開し,多様な漁業が営まれている。
県内には北松(ほくしよう)炭田と西彼(せいひ)炭田があり,最盛期の1960年には両炭田あわせて年間660万tの石炭を産出していたが,エネルギー革命に伴って70年までに西彼炭田の2炭鉱を残して閉山した。しかし2炭鉱のうち,高島炭鉱は1986年閉山,現在わずかに松島炭鉱池島鉱業所(長崎市の旧外海町池島)のみが操業している。長崎県では豊富な石炭をもちながら,石炭型工業を形成することはできなかったが,軍需と結合した造船業が成立し発展した。幕末にできた長崎熔鉄所を起源とする三菱重工長崎造船所と,旧海軍工厰を引きつぐ佐世保重工佐世保造船所がそれである。第2次大戦後,大型オイルタンカーの建造によって成長をとげ,一時は両者で県の製造品出荷額の50%内外を占めていた。しかし74年ころから始まった造船不況のため,造船部門の占める比率は低下し,火力発電プラント,産業機械などを製造する機械部門の比率が急速に高まっている。三菱造船内にあった船舶用電気工場は1924年に三菱電機に吸収され,長崎製作所となった。69年には大村湾岸の時津(とぎつ)町にも工場を新設し,車両用冷房装置や大型冷凍機械などを製造している。73年の石油危機以降,輸入石炭が見直され,西彼杵半島の西に浮かぶ松島に,出力100万kWの石炭専焼火力発電所ができ,松浦市にも340万kWのものが稼動している。五島列島青方湾には上五島洋上石油備蓄基地が完成し,88年より操業を始めた。伝統的な地場産業としては,三川内(みかわち)焼(佐世保市),波佐見(はさみ)焼(波佐見町),須川そうめん(南島原市の旧西有家町)などがある。
長崎県の陸上交通は,その地形上の制約によって発達が阻害されている。鉄道は1898年に九州鉄道長崎線(現在の佐世保線,大村線,長崎本線の一部)が全通した。炭田開発に伴ってできた短い鉄道は石炭産業の斜陽化によって廃線となったが,旧松浦線は第三セクターとして民営化(松浦鉄道)された。他に私鉄としては島原半島の東側を走る島原鉄道がある。道路は旧長崎街道(長崎~小倉)にあたる国道34号線のほか,204号,206号,251号線などが通じる。県内には瀬戸に架かる橋が多く,なかでも1955年に針尾瀬戸に架けられた西海(さいかい)橋は,西彼杵(にしそのぎ)半島を縦断して長崎・佐世保間を結ぶ206号線を整備させ,平戸島,生月(いきつき)島を本土とつないだ平戸大橋,生月大橋も離島振興に大きな役割を果たしている。長崎県はその地理的位置から古来,東アジア諸地域とのかかわりが深く,また西洋文化も日本で最も早く受け入れられた。1571年(元亀2)にポルトガル船が入港して以来発展した長崎港は,鎖国時代も全国で唯一の貿易港として栄え,第2次大戦中まで上海航路の基地であったが,現在は佐世保とともに県内離島航路の基地となっている。しかし対馬は南部が博多港,北部が北九州市小倉港と(2008年現在は北部も博多港),壱岐は呼子港(2007年唐津東港に変更。ともに佐賀県)および博多港と,五島は長崎・佐世保両港のほかに博多港とも結ばれ,近接する県外港市との結びつきが濃い。1975年,日本最初の海上空港として大村湾内に完成した長崎空港(大村市)は,中国上海との国際線をはじめ(2008年現在,ソウル便もある),東京,大阪,名古屋,札幌(08年現在,札幌便はなし)の大都市や南九州・沖縄の3都市,そして県内離島の各地との間に定期航空路をもっている。
長崎県は自然的条件と歴史的条件から,まとまった姿は求めがたく,今日でも多くの小地域から構成されているが,大まかに本土側と離島側に分けられ,さらに前者を都市勢力圏から,長崎市を中心とした県南と,佐世保市を中心とした県北に区分することができる。
(1)県南 地形上は長崎市,島原,西彼杵,肥前の4半島を占め,行政上は長崎,大村,諫早,島原,南島原,雲仙,西海の7市と西彼杵郡の全域を含む。県総面積に対しては約4割を占めるが,総人口では約6割に達し,県内で最も高い人口密度を示す。とくに天然の良港長崎港をもち,16世紀末から日本の海外貿易の玄関口として発展した長崎市は明治以降,日本の近代化に歩調を合わせながら港の機能を生かした造船業・水産業の発達によって成長してきた。そして長い鎖国の時代に外国から得られた南蛮文化や中国文化を,また原爆被爆体験を知りうる地として,訪れる人々も多く,長崎は県最大の観光地となっている。諫早市は長崎本線と大村線の分岐点,島原鉄道の起点をなす交通の要地として,また大村市は長崎空港を抱え西九州の玄関口として,両市は電子工業を中核としたハイテク産業を芽生えさせている。雲仙天草国立公園に含まれる島原半島は雲仙岳周辺に温泉が多く,交通の便もよいため観光地化が進んでいる。また交通の便が悪く陸の孤島ともいわれた西彼杵半島は,長崎・佐世保両市を結ぶ国道202号,206号線が整備されたため,観光地化・住宅地化が進んだ。
(2)県北 地形上は北松浦半島,九十九島,平戸諸島を含め,行政上は佐世保,松浦,平戸の3市と,東彼杵郡,小値賀(おぢか)町を除く北松浦郡の全域を含み,県総面積,総人口のともに約1/4を占める。佐世保市は戦前旧海軍軍港として,戦後はアメリカ海軍基地として発展してきたが,造船業を核とする工業や,県北一帯を商圏とする商業が市の基幹産業になっている。また大村湾に面した市南東部にオランダの町並みを再現した大型テーマパークのハウステンボスが1992年に開業し,国内外から多くの観光客を集めている。松浦市は炭鉱の閉山により活気を失っていたが,縫製・食品などの工場誘致に努めるとともに,最近大型の石炭火力発電所(九州電力70万kW,電源開発100万kW)が建設された。1955年には弓張岳,九十九島,平戸島などが西海国立公園に指定され,77年には平戸大橋,91年には生月島を平戸島につなぐ生月大橋が完成して,平戸島と生月島は本土と陸続きとなり,オランダ商館跡など史跡の多い観光地として重要性を高めている。
(3)離島 県内には500余の島嶼があるが,本土から遠く25km以上離れた主要な島々は五島列島,壱岐,対馬である。行政上は五島列島が五島市と南松浦郡新上五島町,北松浦郡小値賀町,佐世保市の旧宇久町からなり,壱岐は壱岐市,対馬は対馬市よりなる。県総面積の27%,総人口の13%を占めるにすぎない。離島の特徴として孤立性が高く,経済力が低く,かつ過疎化の進むなかで高齢化が著しい。いずれの島も農漁業を主とするが,離島振興法に基づく港湾の整備は零細漁業の発展をもたらした。しかし一方では,港湾の整備は本土資本の流入を招き,観光開発とあいまって島の自給経済の崩壊をうながした。
執筆者:竹内 清文
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
長崎県南西部,長崎半島の基部に位置する。県庁所在地。1571年(元亀2)ポルトガル人宣教師と大村純忠(すみただ)が長崎港を貿易港とし,港に続く岬上に都市を建設。80年(天正8)には長崎をイエズス会領とし,長崎は貿易とキリスト教の都市となった。近世の鎖国時代は幕領として長崎奉行がおかれ,オランダ・中国に開かれた貿易港として発展。1868年(明治元)長崎府,69年長崎県として一時政府の直轄領とされたが,78年長崎区となり,89年市制施行。江戸幕府が造った長崎製鉄所(のちの長崎造船所)は87年三菱に譲渡され,長崎は重工業都市として発展した。1945年(昭和20)8月9日,原子爆弾が投下されたが,戦後廃墟の中から復興した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…東部は最上川と支流の須川にはさまれた平たん地で肥沃な水田地帯が広がり,西部は出羽山地南端の白鷹丘陵に属する山地で,リンゴ,オウトウの果樹園と山林が広がる。中心集落の長崎は,中世には中山氏が城を構え,近世には最上川水運の拠点となり,馬市なども立つ市場町としてにぎわった。米作を中心とする農業地域で,かつては反別収量日本一になったこともあるが,1970年に山形広域都市計画地域に指定されてからは,山形市のベッドタウンとしての色彩が強まり,人口も増加している。…
…また1543年に偶然ポルトガル人が漂着した日本にもポルトガル船が渡航するようになった。これに伴って布教活動も行われ,71年には長崎が開港し,これがイエズス会の所領となった(1587年豊臣秀吉が没収)。 ポルトガル船が中国,日本に進出したということは,ポルトガルが中国と日本,東南アジアとの間の国際貿易に進出したことを意味している。…
…肥州。現在のほぼ佐賀県,長崎県に当たる。
【古代】
西海道に属する上国(《延喜式》)。…
…対馬はこのような意味で対馬口と呼ばれる。 長崎は幕府奉行の直接の管理の下で,ヨーロッパ人と中国人を受け入れる長崎口として定置された(〈長崎貿易〉の項目参照)。ヨーロッパ人はオランダ人に限定されたが,オランダ国とは朝鮮国のような外交関係にはなかった。…
…一般に広島,長崎に投下された原子爆弾に起因すると考えられる疾病のことで,原爆症と略称することが多い。原爆被災者の実数を正確にとらえることは,第2次大戦終戦直前の混乱期であったことから難しいが,広島の原爆投下時(1945年8月6日)に市内にいた約42万人の市民のうち約15万9000人(約38%)が,4ヵ月後の1945年12月末までに死亡した。…
…面積=4090.66km2(全国37位)人口(1995)=154万4934人(全国26位)人口密度(1995)=378人/km2(全国15位)市町村(1997.4)=8市70町1村県庁所在地=長崎市(人口=43万8635人)県花=ウンゼンツツジ(ミヤマキリシマ) 県木=ヒノキ 県鳥=オシドリ九州北西端に位置する県。半島と島嶼(とうしよ)のみからなり,東は佐賀県に接し,西は東シナ海を隔てて中国大陸と,また北は対馬海峡を隔てて朝鮮半島と相対し,南は熊本県の天草諸島および天草灘に面している。…
※「長崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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