開元は中国唐の玄宗時代の年号(713-741)。このとき唐朝は安定と繁栄を見たので,〈開元の治〉といい,太宗の〈貞観(じようがん)の治〉に擬せられる。玄宗李隆基は2度にわたるクーデタによって韋后と太平公主(則天武后の娘)の勢力を一掃し,712年(先天1)帝位についた。以後姚崇,宋璟らの名臣を用いて政権の公的性格を回復することにつとめた。則天武后の革命は貴族政治の因循さを打破して能力主義の政治を切り開くことに寄与したが,それは一方で皇后,公主,外戚,寵臣などの側近勢力を通じて行われたので,政権の私物化を伴った。とくに韋后時代は官職・度牒の売買が盛行して,政府・教団の機構を乱し,公課の負担者を減少させた。玄宗はこれらの冗官や偽濫僧を整理し,奢侈を禁ずるなど政権の公正・質実化をはかり,貞観時代に帰ろうとする趣があった。それはまた律令政治の再建を意味したが,開元時代の後半にもなると社会の新しい現実に抗しきれず,政権の私化現象はいっそう深まって天宝期(742-755)に至った。
執筆者:谷川 道雄
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中国、唐の第6代玄宗の治世前半29年間(713~741)、開元の年号をもつ時代を、よく治まった理想的時期とみなしてこうよぶ。則天武后以来の女人政治の弊害を一掃した玄宗は、姚崇(ようすう)、宋璟(そうえい)らの賢相に補佐され、官紀の粛正と財政緊縮に努め、人民の負担軽減を図った。比較的内外の平和に恵まれ国威もあがり、盛世をうたわれたが、目に見えぬ社会の変質が進行し、税制、兵制など国制の改革を余儀なくされた。
[池田 温]
唐の玄宗の治世。その前半の開元年間(713~741年)は,則天武后以来の混乱を克服し,宰相姚崇(ようすう),宋璟(そうえい)らが官紀の粛正,農民の保護に努め,唐朝の支配を再建したのでこの名がある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…712年(先天1)28歳で即位した玄宗は,対立する太平公主らを倒し年号を開元と改めると,姚崇,宋璟ら有能な人材を任用し,官界の粛清をはじめ内政刷新に着手した。721年(開元9),宇文融に行わせた括戸政策や土地兼併の処理,さらに地方行政制度の改革,府兵制にかわる募兵制の採用など,その積極策にはみるべきものが多く,極力外征をおさえつつ富国強兵につとめたかいあって,世に開元の治あるいは〈開元・天宝時代〉と称される華やかな時代を現出し,長安の都は繁栄の極に達した。 この盛世はしかし,新しい時代の到来という現実に対処しながらも,崩れゆく貴族社会への回帰,立て直しを志向する矛盾に満ちた政策,悪くいえば姑息な策を弄してバランスを保ったつかの間の輝きであったともいえる。…
…それは羈縻関係よりもゆるやかな関係であるが,唐への朝貢の義務を負う臣属関係なのである。
[武周革命と開元の治]
高宗は,在位6年目の655年(永徽6),高句麗討伐を再開したまさにその年の10月に,皇后の王氏を廃して昭儀の武氏を皇后に冊立する詔を出し,ここに則天武后の政権掌握への道が開かれた。武氏が皇后になったということは,南北朝時代以来の貴族社会の変質過程において画期的な意味をもつものであった。…
※「開元の治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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