精選版 日本国語大辞典 「間宮林蔵」の意味・読み・例文・類語
まみや‐りんぞう【間宮林蔵】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
江戸後期の探検・測量家。間宮海峡の発見者。生年には1775年(安永4)説もある。名は倫宗(ともむね)。常陸(ひたち)国筑波(つくば)郡上平柳(かみひらやなぎ)村(現、茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋(たがや)に生まれる。子供のころより算術の才があったといわれる。地理学者村上島之丞(むらかみしまのじょう)(1760―1808)に規矩(きく)術(三角測量)を学び、1800年(寛政12)蝦夷地御用掛雇(えぞちごようがかりやとい)となる。同年箱館(はこだて)で伊能忠敬(いのうただたか)に会い師事、のち天測術(緯度測定法)を学ぶ。1806年(文化3)択捉(えとろふ)を測量、1808年調役下役元締松田伝十郎(1769―1843)と樺太(からふと)に派遣され、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査。翌1809年アイヌの舟で海峡を渡り黒竜江下流地方を探検、樺太が島であることを確認した。1812年再度蝦夷地に渡り、伊能忠敬の未測量地域の海岸を実測、1821年(文政4)完成した忠敬の『大日本沿海輿地(よち)全図』には、林蔵の測量が生かされているといわれる。1822年江戸に帰り普請(ふしん)役、1824年安房(あわ)上総(かずさ)御備場掛手附(おそなえばがかりてつき)を命ぜられ、東北地方の東海岸を巡視、以後、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密(おんみつ)活動に従事。1828年林蔵の届出により、シーボルトと幕府天文方高橋景保(かげやす)との交流が明らかになり、これがシーボルト事件の発端となるが、シーボルトの著作『日本』により間宮海峡は世界的に有名になる。1834年(天保5)以降、林蔵は海防問題を通じて水戸藩と接触、藤田東湖(とうこ)らと交わったが、弘化(こうか)元年2月26日に没する。おもな著書は『東韃(とうだつ)紀行』(『東韃地方紀行』)、『銅柱余録』など。
[船津 功]
『洞富雄著『間宮林蔵』(1960/新装版・1986・吉川弘文館)』▽『赤羽栄一著『間宮林蔵』(1974・清水書院/清水新書)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(秋月俊幸)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1775~1844.2.26
近世後期の北方探検家。常陸国筑波郡上平柳村の箍(たが)職人の子。名は倫宗。1799年(寛政11)蝦夷地にはじめて渡り,翌年蝦夷地御用雇となる。この年箱館で伊能忠敬(ただたか)に会い測量術を学ぶ。1807年(文化4)ロシア船の択捉(えとろふ)侵攻事件により取り調べられたが咎めなく,御雇同心格となる。08年松田伝十郎とともに樺太に渡り,樺太が島であることを確認。翌年単身で海峡を大陸に渡り,黒竜江を遡り満州仮府所在地デレンに至る。その様子は「東韃(とうだつ)地方紀行」に詳しい。22年(文政5)勘定奉行属普請役,24年房総御備場掛手付。シーボルト事件の密告者といわれ人望を失い,その後幕府隠密として行動。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…冬には結氷して徒歩で結ばれる。1808‐09年(文化5‐6)江戸幕府の命で樺太を探検した間宮林蔵は,09年夏にサンタン船で海峡を西に渡り,樺太が島であることを明らかにした。シーボルトがこの海峡を〈マミヤの瀬戸〉の名で西欧に紹介したことはよく知られている。…
※「間宮林蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
常に身に迫る一触即発の危険な状態をいう。シラクサの僭主ディオニュシオス1世の廷臣ダモクレスが王者の幸福をたたえたので,王がある宴席でダモクレスを王座につかせ,その頭上に毛髪1本で抜き身の剣をつるし,王...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新