関東郡代(読み)かんとうぐんだい

精選版 日本国語大辞典 「関東郡代」の意味・読み・例文・類語

かんとう‐ぐんだい クヮントウ‥【関東郡代】

〘名〙 江戸幕府職名一つ関東にある幕府直轄地を支配した郡代。はじめ伊奈氏世襲するところであったが、寛政四年(一七九二)からは勘定奉行兼務に改められ、文化三年(一八〇六)廃止され、その管轄地は代官支配となった。しかし、元治元年(一八六四復活して専任郡代三人が置かれ、慶応二年(一八六六)には関東在方掛改称された。代官頭
※禁令考‐前集・第四・巻三三・慶応元年(1865)一二月一日「関東郡代被仰付候に付御書付」

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デジタル大辞泉 「関東郡代」の意味・読み・例文・類語

かんとう‐ぐんだい〔クワントウ‐〕【関東郡代】

江戸幕府の職名。関東の幕府直轄領を支配した。

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百科事典マイペディア 「関東郡代」の意味・わかりやすい解説

関東郡代【かんとうぐんだい】

江戸幕府の地方行政官の職名。関東地方幕府直轄領の支配(訴訟民政・年貢徴収)に当たる。1590年徳川家康の関東入国の折には,代官頭伊奈忠次(いなただつぐ)が領国の地方(じかた)支配を任せられた。忠次の次男伊奈忠治(ただはる)は兄忠政(ただまさ)の死後代官頭を継ぎ,1642年には新たに関東代官統轄河川改修築堤専管することを命じられた。ここに事実上の関東郡代が成立。以後伊奈家が世襲したが,1792年伊奈忠尊(ただたか)が処罰されて世襲制は廃止された。その後,勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の兼帯を経て,1806年には廃止,1864年に復活。当初は勘定奉行支配下であったが,復活後は老中支配。
→関連項目板倉勝重岩鼻関東総奉行栗橋関郡代西国筋郡代

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関東郡代」の意味・わかりやすい解説

関東郡代
かんとうぐんだい

江戸幕府の職名。関東の幕府直轄領の民政を担当した地方官。1590年(天正18)徳川氏の関東入国後、代官頭(がしら)伊奈忠次(いなただつぐ)の系譜を引く伊奈家の世襲となった。1642年(寛永19)忠次の次男忠治(ただはる)のとき関東代官を統括し、河川の改修や築堤の専管を命ぜられ、事実上、関東郡代が成立した。1653年(承応2)忠克(ただかつ)のとき知行(ちぎょう)地3900石に固定。元禄(げんろく)期(1688~1704)に代官頭から関東郡代と正式に称するようになり、25万石を支配、江戸馬喰(ばくろう)町に郡代屋敷があった。勘定奉行(ぶぎょう)支配であるが、1733年(享保18)忠逵(ただみち)のとき老中支配、勘定吟味役の上首となる。忠宥(ただおき)は勘定奉行を兼任。家臣は年寄衆、番頭、勘定頭、目付役などがあった。1792年(寛政4)忠尊(ただたか)のとき家事不行届の理由で罷免される。そのため勘定奉行久世広民(くぜひろたみ)、ついで中川忠英(ただてる)が郡代を兼務し、5人の郡代付代官により支配する。1806年(文化3)郡代制を廃止したが、64年(元治1)復活、郡代3名を任命し、67年(慶応3)には関東在方掛(ざいかたがかり)と改称した。

[村上 直]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「関東郡代」の解説

関東郡代
かんとうぐんだい

江戸幕府の職名。関東の幕領支配のほか,水系の整備・治水灌漑・検地など広域行政にあたった。1590年(天正18)徳川家康の関東入部の際,伊奈忠次が任命され,以後伊奈氏の世襲となる。当初は代官頭とよばれ約100万石を支配したが,元禄期に関東郡代が正式名称となり,享保期以降は関東において25万石前後を支配した。役宅は江戸の馬喰(ばくろ)町。1792年(寛政4)伊奈忠尊(ただたか)が罷免され,同職は勘定奉行の兼職となった。その後1806年(文化3)に一時廃止,64年(元治元)に再設された。67年(慶応3)関東在方掛と改称。

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世界大百科事典 第2版 「関東郡代」の意味・わかりやすい解説

かんとうぐんだい【関東郡代】

江戸幕府の地方行政官の職名。代官頭伊奈忠次の系譜を引く伊奈氏が世襲で郡代職を継いだが,江戸後期に勘定奉行の兼任後,一時,廃止されたが再置,幕末に関東在方掛と改称された。徳川氏の関東入国後,代官頭伊奈忠次が100万石を支配したが,その子忠政の弟忠治が引き続き地方(じかた)支配した。1642年(寛永19)に幕府は忠治に対し関東代官の統轄と河川の改修,築堤の専管を命じ,これによって関東郡代が事実上成立した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「関東郡代」の意味・わかりやすい解説

関東郡代
かんとうぐんだい

江戸幕府の職名。初めは代官頭,慶応2 (1866) 年には関東在方掛といった。関東地方の幕府領を支配するもので,天正 18 (1590) 年徳川家康の関東入封に際して伊奈忠次を任じたのに始る。約 100万石の地を管轄し,伊奈家が世襲した。初めは勘定奉行支配であったが天明期 (1781~89) 以降から老中支配に移った。役宅は江戸馬喰町にあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「関東郡代」の解説

関東郡代
かんとうぐんだい

江戸時代の職名
上野 (こうずけ) (群馬県)・下野 (しもつけ) (栃木県)を除く関東6カ国の天領を支配し,徴税・訴訟・民政にあたった。勘定奉行,のち老中に所属。伊奈氏が世襲したが,18世紀末職を免ぜられ,勘定奉行が兼務した。のち一時廃止されたが,幕末に復活し,3名で分担した。支配区域の最高は石高100万石をこえたこともあり郡代中の別格であった。

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世界大百科事典内の関東郡代の言及

【江戸幕府】より

…大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。 幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。…

【飛驒郡代】より

…1692年(元禄5)幕府は高山藩主金森氏を出羽上山に移封し,豊富な山林・鉱山資源を有する飛驒一国を直轄化して,高山に陣屋を置き代官支配を開始した。初代から3代までの代官は関東郡代伊奈氏が兼任,4代森山実道から専任となる。7代長谷川忠崇の1738年(元文3)以降,常時高山に在陣となった。…

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