精選版 日本国語大辞典 「院政」の意味・読み・例文・類語
いん‐せい ヰン‥【院政】
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院すなわち上皇の執政を常態とする政治形態。上皇がときとして政務に関与したことは、すでに奈良時代からしばしばみられた現象であるが、上皇の執政が常態となったのは、1086年(応徳3)譲位した白河上皇(しらかわじょうこう)に始まる。鎌倉初期に著された『愚管抄(ぐかんしょう)』に、後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)は譲位後摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)にかわって国政をとる意向であったが、まもなく崩御してそれを果たさなかったので、白河上皇が父帝の遺志を継いで院中に政務をとったと記述して以来、これによって院政の成立を説明するのが通説とされたが、この説は具体的に裏づける明確な根拠に乏しいため、近年ではほとんど行われなくなった。後三条天皇は皇位を、藤原氏所生の貞仁(さだひと)親王(白河天皇)から源氏所生の実仁(さねひと)親王、さらにはその同母弟輔仁(すけひと)親王に伝える構想を抱いていたらしく、まず貞仁親王に位を譲り、実仁親王を東宮にたてて、その構想の実現を促進するのが、天皇の譲位の第一の理由であったと考えられる。そして白河天皇の譲位も、この皇位継承問題に強く結び付いている。その譲位の直接の動機は、1085年(応徳2)皇太弟実仁親王が病死した後を受け、皇弟輔仁親王を退けて、皇子善仁(たるひと)親王(堀河天皇(ほりかわてんのう))を皇位につけ、皇統が確実に子孫に伝えられるのを見定めることにあったと思われる。しかし譲位後も幼少の新帝を擁護後見する必要に迫られ、おのずと政務に関与するようになり、しだいにそれが常態化して一つの政治形態に固定し、後世それを院政と名づけたのである。院政は名目的には江戸末期の光格上皇(こうかくじょうこう)まで続いたが、いちおう政権としての機能を保ったのは、鎌倉末期の後宇多(ごうだ)院政までの250年間で、それは保元(ほうげん)の乱(1156)と承久(じょうきゅう)の乱(1221)を境として3期に分けられる。
[橋本義彦]
第1期は白河・鳥羽(とば)院政で、院の政治権力が国政全般を主導した時期である。白河上皇の執政は、国政の主導権を摂関(せっかん)の手から天皇のもとに取り返した後三条、白河2代の親政を継承するものであったが、天皇と摂政、関白とは、制度的にも慣習的にも密接な関係をもったのに対し、それらにまったく拘束されない上皇の立場は、院政に専制的な色彩を強く与えた。政務はほぼ在来の機構と方式によって運営されたが、院はその背後にあって最終的な裁断と指示を与え、国政を領導したのである。そしてその院の手足となって活躍したのが、中流以下の貴族層に属する院近臣(いんのきんしん)である。彼らは有力院司として院中の実務を掌握するとともに、院の側近に常侍して諸人の奏請を取り次ぎ、院の指示を下達した。また院政開始以来、院庁(いんのちょう)の機構は拡充強化され、武士をもそのなかに組み入れて、院の政治権力の拠点としたが、この時期ではまだ院庁が直接国政に関与し、政務処理の機関となった事実はない。院の側近が命を奉じて書く私的な書状形式の院宣には、国政に関する内容のものも数多く含まれたが、この時期の院庁文書(下文(くだしぶみ)、牒(ちょう))はもっぱら院中の諸務に関するもので、国政一般にわたるものがないのもそれを裏づける。院政は院宣をもって旧来の太政官(だいじょうかん)組織を動かすことにより遂行された政治であるとする説明も、こうした事実を根拠としており、院政を単純に院庁政治と表現するのは適切でない。
[橋本義彦]
第2期は後白河(ごしらかわ)・後鳥羽(ごとば)院政で、短期間の親政期を除いても、両者あわせて約60年に及ぶ。この時期はあたかも武家政権の成立期にあたり、いわゆる平氏時代と源氏将軍時代とに重なり、公武両政権の対立期といってよい。国政の主導権は、保元・平治の乱で実力を自覚した武士勢力の手にしだいに移っていったが、反面、院は武士勢力に対抗する貴族、社寺などの旧勢力の結集点となり、その限りでは院の権威を高め、安定させた。もともと院に付属する家政機関であった院庁が、直接国政運営の一端を担うようになったのもそのためである。1181年(養和1)九州大宰府(だざいふ)に菊池高直(きくちたかなお)追討の宣旨を下すにあたり、院庁から使者を派遣したこと、その翌々年奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に源頼朝(みなもとのよりとも)追討の院庁下文を遣わしたことなどは、その顕著な例である。しかし公武両政権の対立は妥協と抗争を繰り返しながら、しだいに破局へ進み、ついに承久の乱によって公家(くげ)政権は決定的な打撃を被り、武家政権の優位が確立した。
[橋本義彦]
第3期は1221年(承久3)に始まる後高倉(ごたかくら)院政から、1321年(元亨1)に終わる後宇多(ごうだ)院政までをいい、この1世紀間に約80年間院政が行われた。その院政は武家政権の監視と保障のもとで、社寺を含む公家社会を支配し、一定の役割を果たしたのである。なかでも27年間に及んだ後嵯峨(ごさが)院政では、評定衆(ひょうじょうしゅう)と伝奏を2本の柱として政務を処理する体制が確立し、院文殿(いんのふどの)も雑訴の調査、予審などを中心とする重要な役割を与えられた。しかし一面、国政一般にかかわる重要問題はもちろん、皇位継承をはじめ、公家政権内部の重要人事なども、実際には武家政権の意向に大きく左右されたのである。南北朝時代に入って、北朝の朝廷ではふたたび院政が行われ、文殿庭中などの動きも知られるが、室町幕府が安定するに伴い、武家政権による国政の一本化が進み、院政の実質はさらに失われていった。ついで後陽成上皇(ごようぜいじょうこう)以下の江戸時代の各上皇についても、当時「御治世」とか「御政務」の称が用いられたが、それに国政上の機能が認められないことはいうまでもない。そして1840年(天保11)光格上皇の崩御とともに、院政の名目もまったく消滅したのである。
なお院政時代とは、白河・鳥羽院政70年間をさすのがもっとも的確であるが、約20年にわたる後三条・白河天皇親政期は院政前史として位置づけられるべきであろうし、平氏政権の武家政権としての未熟さを考慮して、鎌倉幕府成立までを院政時代に含める見解も一般に行われている。
[橋本義彦]
『宮内庁書陵部編『皇室制度史料 太上天皇3』(1980・吉川弘文館)』
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譲位した天皇である上皇あるいは出家した上皇である法皇が,院庁において実質的に国政を領導する政治形態。院政の萌芽は,すでに平安前期の宇多上皇の時代にみられるが,本格的に展開するのは,1086年(応徳3)の白河上皇の院政開始に始まる。以後,鳥羽・後白河と3代の院政が続き,法にとらわれない専制的政治が定着した。この時代は院政期とよばれる。以後,中世を通じて天皇親政よりもむしろ院政がふつうとなり,形式的には1840年(天保11)の光格上皇死去まで継続する。院政においては,院宣・院庁下文(くだしぶみ)といった院の発給文書が国政上重要な機能をはたすようになり,それらの発給を通じて太政官の機構が動かされるというかたちで国政が掌握された。摂関家におさえられた受領(ずりょう)層などの中下級貴族が王権のもとに結集し,武士とともにまき返しを図ろうとした点に院政成立の最大の要因があり,これに父系血統を通じて自分の意のままに天皇の位を廃立しようとする王権の意図が結びついて,院政という政治形態が出現したと考えられる。のち武家政権と対立してその専制力を弱め,承久の乱以後は形式化していった。
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…他方,仏教が伝わると,至尊としての仏とその国土という思想が輸入され,王法と仏法との関係が問題となったが,その対立は神仏習合の思想によって回避された。 しかし,平安時代末になり,律令制の解体とともに天皇のあり方が大きく変わりはじめると,院政政権の担い手の間で王土王民思想が強調されるようになった。新しく国政の中心に立った上皇は,摂関家藤原氏を中心とする上層公家や,徐々に力を持つようになった武家,さらに大寺社などの勢力に対して,一元的な支配を行おうとし,王土思想をよりどころとしたと考えられる。…
…しかし鎌倉時代を理解するには,少なくとも80年(治承4)の頼朝挙兵にさかのぼって考えることが必要である。
【時代概観】
鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。…
…実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。院政が開始された背景には古代以来存在した太上天皇の権威や,直接には師実が完全な外戚となりえず,上皇や村上源氏と協調的であったという事情のほか,貴族社会の婚姻形態の変化から,母系より父系が優位となった傾向も関係があるらしい。…
…その一体性を強固に支えたのが,天皇と摂関との姻戚関係であり,摂関政治の全盛期には,天皇が摂関家にとり込まれる様相を呈した。
[院政と天皇]
しかしその反面,外戚関係が失われ,天皇の独立性が強まると,摂関の権勢は急速に後退した。もちろん後三条,白河と個性の強い天皇が続いたのも,摂関勢力の後退に拍車をかけた原因であろうが,基本的には社会的,経済的変革の流れが,貴族勢力を再編成し,結集させる強力な権威を求め,生み出したとみるべきであろうし,それが専制的な院政権力の出現となったのである。…
…しかもこの新政は,権門勢家の上に立つ天皇の全国支配権を強く印象づけることになった。これを受け継いだ白河天皇親政期においても,朝廷は引き続き天皇を中心として回転し,院政成立の素地を作った。 いわゆる院政は,白河天皇のいだいた皇位継承の構図を実現することを目的とした譲位が契機となって始まったが,さらに1107年(嘉承2)堀河天皇の没後,幼少の鳥羽天皇が践祚するや,白河上皇の執政はいよいよ本格化し,常態化した。…
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