デジタル大辞泉 「陸奥国」の意味・読み・例文・類語
むつ‐の‐くに【陸奥国】

現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県域にあった旧国名。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新の国郡制により
和銅元年(七〇八)の現状を示す陸奥国戸籍(正倉院文書)によれば、大宝二年(七〇二)に戸籍が作られたこと、「郡上里」と称する里があったことが判明する。和銅五年九月に出羽国が建置され、同年一〇月には陸奥国のうち
陸奥国はもと道奥国と書き、「みちのおくのくに」とよばれた。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に、「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新のすぐ後には道奥国が成立したとみられる。道奥とは
創立期の陸奥国の範囲は明らかでないが、従来の地方豪族が中央の支配下に入って国造となり、国郡制をとるようになると、従来の国造の支配した領域が郡に編成されることが多いので、当地方の国造をみれば範囲の推測の手掛りとなる。「国造本紀」に道奥菊多・道口岐閇・阿尺・思・伊久・染羽・浮田・信夫・白河・石背・石城の一一国造がみえ、伊久・思以外は現在の茨城県・福島県内である。伊久は
仙台市の名取川左岸の
陸奥国はもと道奥国と書き、「みちのおくのくに」と読まれたが、その確実な文献上の初見は「日本書紀」斉明天皇五年三月是月条の「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」という記事である。このうち後半の郡領(郡の長官と次官)や主政(郡の三等官)という表現は、明らかに後の大宝令の知識によって修飾されたものであるから、史料としての信憑性に問題が残るが、斉明天皇の時代にすでに東のフロンティアに位する国として道奥国、北のフロンティアに位する国として越国が存在していたことまでを疑う理由はない。とすれば道奥国が初めて設置されたのは他の諸国と同様、大化改新後あまり時を経ない時期であったとみるべきであろう。この道奥国という命名は、他の諸国の国名とは多少異なった命名法で、東海・東山二道の奥という意味で名付けられたものと思われる。二道の最末端に位置する国、すなわち東限(地理的には北限)の国という意味である。道奥国はその北限が本州最北端の津軽海峡に到達するまで前進していく可能性を秘めた国として、設置されたわけである。ということは南の方の常陸国や下野国との国境は確定できるが、北方の
道奥国は天武天皇五年以前の某時点で「陸奥国」と表記法が変わり、のち変わることはなかった。ただしその読み方は八―九世紀を通じて正式には「みちのおくのくに」(「和名抄」には「三知乃於久」)であったらしいが、これと並んでその約称たる「みちのくのくに」(「万葉集」に「美知能久」「美知乃久」などの用例)も行われた。そしてさらに九世紀末までに「みちのくに」(古今集、伊勢物語)、やや遅れて「むつのくに」(「柿本集」にみえるものが最古か)という読み方が成立した。最後の二つは九世紀の宮廷における漢詩文の盛行に伴って、陸奥国を唐風に「陸州」と表記したことに由来するらしい。すなわち陸州をそのまま和訓で読めば「みちのくに」となり、一方、「
近世までの陸奥国は現在の岩手県および青森・宮城・福島三県と秋田県の
「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新後あまり時を経ない時期に道奥国(みちのおくのくに)が成立したと考えられる。陸奥国はもと道奥国と記し、東山道の奥の意と思われる。東山道が国家支配の及んだ地域であるのに対し、その領域外の地域の呼称で、支配が及んだのちもその名が使用されたとみられる。同書天武天皇五年(六七六)正月二五日条に「凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とあり、この頃までに「陸奥国」と表記を改めたものと思われる。しかし「和名抄」による読み方は「みちのおく(三知乃於久)のくに」で、「万葉集」においては「美知乃久」「美知能久」などの「みちのくのくに」の呼称が用いられている。九世紀頃には陸奥国を唐風に「陸州」と表記し、「みちのくに」と読んだようであるが、「陸」の借字「六」を用いて「六州」とも表記したため、「むつのくに」の読み方が生じたと考えられる。「みちのく」の呼称は、旧出羽国を含む東北地方全体の汎称として、現在も使用されている。
創立期の陸奥国の範囲は明らかではない。従来地方豪族が中央政権の支配下に入って国造となり、国造の支配した領域が郡に編成されることが多いとされる。「国造本紀」にみえる陸奥国一一国造のうち伊久が
「日本書紀」景行天皇二七年二月一二日条によると、東国の視察を終えた武内宿禰は「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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旧国名。現在の福島、宮城、岩手、青森の各県と秋田県の一部にあたる。『日本書紀』斉明(さいめい)元年(655)条に「道奥」とみえ、東海・東山両道の奥という意味で「みちのおく」と読まれた。のちに読み方は「みちのくのくに」「みちのくに」などを経て、9世紀末ごろ「むつのくに」が成立した。天武(てんむ)5年(676)条にはすでに「陸奥」と表記され、畿内(きない)、長門(ながと)とともに高位者が国司として任命されたが、辺境防備のために重視されたものとみられる。712年(和銅5)出羽(でわ)国の設置に伴い最上(もがみ)、置賜(おきたみ)両郡を割き、また718年(養老2)石城(いわき)、石背(いわしろ)両国の設置により、現在の福島県と宮城県の一部にあたる地域を割いたが、数年足らずで陸奥国に復旧した。719年全国に設置された按察使(あぜち)では、陸奥按察使が置かれ、出羽国も所管し、他が廃止されたあとも、陸奥、出羽だけは残された。律令(りつりょう)制では、北辺に接する軍事的意味が重視されて、戸令の現住に従って本貫を定めるとか、軍防令の帳内(ちょうない)・資人(しじん)の任用を禁じた、いわば例外的規定の対象となった。『延喜式(えんぎしき)』では、東山道に属する大国で、白河(しらかわ)、菊多(きくた)、磐城(いわき)、標葉(しねは)、行方(なめかた)、宇多(うだ)、亘理(わたり)、伊具(いぐ)、刈田(かりた)、会津(あいづ)、耶麻(やま)、磐瀬(いわせ)、安積(あさか)、安達(あだち)、信夫(しのぶ)、柴田(しばた)、名取(なとり)、宮城(みやぎ)、黒川(くろかわ)、賀美(かみ)、色麻(しかま)、玉造(たまつくり)、栗原(くりはら)、新田(にゅうた)、長岡(ながおか)、遠田(とおた)、小田(おだ)、志太(しだ)、桃生(もものう)、牡鹿(おしか)、登米(とよね)、気仙(けせん)、磐井(いわい)、江刺(えさし)、胆沢(いさわ)の35郡を管轄し、国府は多賀城(たがじょう)、現在の宮城県多賀城市に置かれていた。『和名抄(わみょうしょう)』には、大沼郡が加わり、36郡を管したとみえる。
律令政府の蝦夷(えぞ)支配の前線基地となった陸奥では、反乱と鎮圧が繰り返され、797年(延暦16)の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、811年(弘仁2)の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)をそれぞれ征夷(せいい)大将軍に任命して行った鎮圧が、胆沢(いさわ)城、志波(しわ)城を築くなど効果をあげ、支配も拡大した。しかし、律令国家の衰退とともに弛緩(しかん)し、平安時代中期以降、在地勢力を形成した安倍(あべ)・清原両氏らが支配の実権を握り、安倍氏が前九年の役で、また清原氏が後三年の役で滅亡すると、平泉(ひらいずみ)を根拠地とする藤原清衡(きよひら)の支配が確立し、その子基衡(もとひら)、孫秀衡(ひでひら)の3代にわたる奥州藤原氏の政治と独自な地方文化が展開した。1189年(文治5)全国に支配を拡大しつつあった源頼朝(よりとも)は、弟義経(よしつね)の追捕(ついぶ)を機会に、これをかくまった奥州藤原氏を征討し、奥州総奉行(そうぶぎょう)を置いた。このとき任ぜられた伊沢家景(いえかげ)は、陸奥国留守職(るすしき)とも称し、のち伊沢氏がこの職を世襲した。建武(けんむ)新政(1334)では、陸奥将軍府を設置し、北畠顕家(きたばたけあきいえ)が皇子義良(のりよし)親王(後村上(ごむらかみ)天皇)を奉じて赴任した。ついで室町幕府は奥州探題を設置、奥州管領(かんれい)として足利(あしかが)氏一門の石塔義房(いしどうよしふさ)を派遣し統治したが、のちに吉良(きら)、畠山、斯波(しば)の諸氏が加わり混乱、奥州管領も廃止され、陸奥国は鎌倉府の管轄となった。その後、大崎五郡を根拠とする大崎氏が支配権をもち、戦国時代に入ると、伊達(だて)、蘆名(あしな)、葛西(かさい)、大崎、南部の諸氏が割拠、抗争し、豊臣(とよとみ)秀吉の奥州仕置(しおき)では、津軽、南部、伊達、相馬(そうま)、岩城の諸氏がそれぞれ所領を封ぜられ、蒲生(がもう)氏が会津へ入部した。
江戸時代には、津軽郡の黒石藩・弘前(ひろさき)藩、岩手郡の盛岡藩、宮城郡の仙台藩、白河郡の白河藩、白川郡の棚倉(たなぐら)藩、磐城郡の磐城平(たいら)藩、会津郡の会津藩、信夫(しのぶ)郡の福島藩などが置かれ、産業と交通も飛躍的に発展した。幕末・維新期に、諸藩は、奥羽越(おううえつ)列藩同盟を結んで、明治新政府に抵抗したが、会津戦争に敗れ、崩壊した。新政府は、1868年(明治1)12月7日付けの太政官(だじょうかん)布告によって、陸奥国を磐城、岩代(いわしろ)、陸前、陸中、陸奥の5国に分割、分割後の陸奥国は現在の青森県と岩手県の一部にあたり、二戸(にのへ)、三戸、北、津軽の4郡からなり、1871年の廃藩置県を迎えた。
産業は、古来、砂金と馬が著名であり、近世には材木、俵物(たわらもの)、米、蚕種、生糸、鉄、銅などの産物が移出されることが多かった。
[菊池克美]
東山道の国。現在の福島・宮城・岩手・青森県と秋田県の一部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では白河・磐瀬・会津・大沼・耶麻(やま)・安積(あさか)・安達・信夫(しのぶ)・菊多・磐城・標葉(しば)・行方(なめかた)・宇多(以上現,福島県),刈田(かった)・柴田・名取・伊具(いぐ)・亘理(わたり)・宮城・黒川・賀美・色麻(しかま)・玉造・志太・栗原・新田・長岡・小田・遠田・登米(とよめ)・牡鹿(おしか)・桃生(ものう)(以上現,宮城県),気仙(けせん)・磐井(いわい)・江刺(えさし)・胆沢(いさわ)(以上現,岩手県)の36郡からなる。8世紀初めに多賀城(たがじょう)(現,宮城県多賀城市)が造営され,ここに国府・鎮守府がおかれた。鎮守府はのち胆沢城(現,岩手県奥州市水沢区)に移転。国分寺・国分尼寺は宮城郡(現,宮城県仙台市)におかれた。一宮は塩竈(しおがま)神社(現,宮城県塩竈市)といわれる。「和名抄」所載田数は5万1440町余。「延喜式」では調庸は布・米など。古くは道奥(みちのおく)国といわれ,676年(天武5)に陸奥国とみえる。718年(養老2)に石城(いわき)国・石背(いわせ)国を分立したが,まもなく再併合した。律令政府は以後も蝦夷(えみし)征討と併行して多数の移民を導入し,国域を北へ拡大した。中世には現青森県域まで国域が広がり54郡といわれた。砂金・馬の産地として知られ,平安後期には奥州藤原氏が陸奥・出羽両国を支配した。鎌倉時代には鎌倉将軍家知行国となり,伊沢(留守)氏・葛西氏をおいて支配した。戦国期には伊達(だて)・蘆名(あしな)・南部氏らが栄えた。江戸時代には北に外様,南に譜代大名がおかれ,要所に幕領があった。1868年(明治元)磐城・岩代(いわしろ)・陸前・陸中・陸奥の5国に分割された。分割後の陸奥国は現在の青森県域にあたり,当初は津軽・北・三戸(さんのへ)の3郡が属した。1871年(明治4)7月の廃藩置県により弘前・黒石・斗南(となみ)・七戸・八戸・館の諸県が成立。同年9月5日,これらの諸県を弘前県に合併。同月18日には県庁を青森に移し,青森県と改称した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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