中国、明(みん)代の王陽明学派の学問。王陽明(守仁(しゅじん))は、当時の支配思想であった朱子学に対抗して、思想界の底流にあった思想傾向を継承し、人間平等観に基づいた主体性尊重の哲学をたて、万物一体の理想社会の実現を目ざし、心即理、知行合一(ちこうごういつ)、致良知(ちりょうち)のテーマによって情熱的な講学活動を行った。
門下には知識人のほか製塩労働者出身の王艮(おうごん)なども参加し、幅広い信奉者が得られた。王艮のもとには多くの庶民も参集し、主体的実践を重んずる泰州(たいしゅう)学派が形成された。陽明の生前死後の約50年間は、偽学とされて陽明学派の活動に制約が加えられたが、門下は教説の宣伝に努め、やがて陽明学は公認されて、明代末期の思想界に大きな影響を及ぼした。
後継者の間にはさまざまな思想傾向が生まれ、心を至善無悪とみなし、修養を重んずる一派は陽明学正統派、右派などとよばれるが、そのなかには朱子学の修養法に接近する者も現れた。心を無善無悪とみなし、束縛を脱した絶対自由な人間の生き方を求めた王畿(おうき)や、主体的実践を重んじた王艮などは陽明学左派とよばれ、そのなかには人間の存在性の認識のために、仏教や老荘思想を摂取して儒仏道の三教(さんぎょう)一致の立場をとる者、社会的実践を重んじて共同生活組織をつくる者、大胆な社会批判を行う者などが現れた。この傾向の到達点に李贄(りし)が現れ、日常感覚に立脚して旧来の価値体系の形而上(けいじじょう)学性、虚構性を徹底して批判した。この結果、経済生活の向上を背景にして、明代末期には主体意識が高揚し、自由主義的、批判主義的傾向が強まる一方で、官憲による弾圧、伝統的立場をとる者からの批判が加えられ、社会的な問題となった。
清(しん)代に至ると、ふたたび朱子学を正統とする思想統制が加えられ、また陽明学の非実用性が指摘されて、その勢力は急速に衰え、実証を尊ぶ客観主義的学風が生まれたが、人間の主体性の尊重、既成の価値に対する批判意識などの陽明学の成果は、思想的遺産として継承されていった。
中国で陽明学がしだいに普及するようになったころ、朝鮮半島にも伝えられ、17世紀の鄭齊斗(ていせいと)(号は霞谷(かこく))などの信奉者が現れたが、そのころは程朱学が盛んであって、陽明学はあまり振るわなかった。
[佐野公治]
日本に陽明学が本格的に紹介されたのは江戸初期であるが、中国の朱陸(朱子(しゅし)と陸象山(りくしょうざん))論争のあおりを受けて、陳清瀾(ちんせいらん)(陳建(けん))の『学蔀通辨(がくほうつうべん)』など陽明学排斥の書の影響が大きく、「陽明学は誤れる思想体系である」という理解が先行した。その典型は林羅山(はやしらざん)である。陽明学は不幸な出発を強いられたのである。しかし、中国大陸との文物交流が飛躍的に増大したこの時期に輸入された陽明学関係書を介して信奉者が生まれる。中江藤樹(とうじゅ)がその先駆者である。藤樹は明(みん)代の末流朱子学に反発して陽明学に転向し、数多くの門人を養成した。熊沢蕃山(ばんざん)、淵岡山(ふちこうざん)などが著名である。17世紀中葉は、藤樹一門の活躍をはじめ、王陽明の主著『伝習録(でんしゅうろく)』『伝習則言』『王陽明先生文録鈔(しょう)』が相次いで和刻されて、陽明学ブームを将来した。これに反発したのが羅山の『陽明攅眉(さんび)』である。
藤樹同様に末流朱子学に反発して山崎闇斎(あんさい)、山鹿素行(やまがそこう)、伊藤仁斎が登場する。闇斎は『大家商量集』を著して原朱子学を基に陸象山・王陽明を批判し、素行、仁斎は程朱陸王の外に古学をおこした。非陽明学が優勢であった思想界のなかで、崎門(きもん)三傑の一人佐藤直方(なおかた)に朱子学を学んだ三輪執斎(みわしっさい)が陽明学に転向し、『標註(ひょうちゅう)伝習録』を1712年(正徳2)に著して大反響をよび、陽明学関係書を次々に刊行して陽明学を中興した。その門下に川田雄琴(かわだおこと)(琴卿(きんけい))が出た。陽明学の隆盛する兆しがみえるや、身内から転向者を出した崎門一派は陽明学に対する総攻撃を敢行した。その所産が豊田信貞(とよたのぶさだ)が編集した『王学弁集』である。18世紀初期に三輪執斎が活躍し、古文辞(こぶんじ)学を提唱した荻生徂徠(おぎゅうそらい)が登場し、程朱学派・陽明学(陸王学)派・古学派・古文辞学派の四大学派が勢ぞろいしたが、ひとり陽明学派が不振であった。
日本で陽明学が隆盛を誇ったのは幕末維新期である。その先駆者は佐藤一斎で、林家の塾頭として朱子学を講じたが、個人的信念としては陽明学の信奉者であった。幕末期の学術思想界の大御所であった一斎の門には全国から俊秀が馳(は)せ参じ、その影響力は破格のものがあった。公朱私王の一斎と異なり、大塩平八郎は明末清(しん)初の陸隴其(りくろうき)に代表される陽明学排斥論に鋭く反発して『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』を著した。この時期の著名な陽明学者は吉村秋陽、林良斎、山田方谷(ほうこく)、春日潜庵(かすがせんあん)、池田草庵、東沢瀉(ひがしたくしゃ)などである。陽明学運動が組織的に行われたのが明治期の陽明学の特色で、東正堂、吉本譲などが中心的役割を果たし、この期の活動が契機となって逆に中国の陽明学運動を刺激した。
[田公平]
『大西晴隆著『王陽明』(1979・講談社)』▽『山下龍二著『王陽明』(1984・集英社)』▽『島田虔次著『朱子学と陽明学』(1967・岩波書店)』▽『岡田武彦編著『陽明学の世界』(1986・明徳出版社)』▽『木村光徳著『日本陽明学派の研究――藤樹学派の思想とその資料』(1986・明徳出版社)』
狭義には中国,明代の人王守仁の学術思想をいう。広義には王守仁とその継承者の学術思想を包括していう。これを陽明学と呼称したのは,王守仁の号が陽明であることに起因する。陽明学という呼称は,日本の明治期に陽明学信奉者である東敬治,吉本譲などが《陽明学》《陽明主義》《陽明》などの機関紙を発行したことに淵源し,普及した。それ以前は,王学,姚江(ようこう)の学(姚江は王守仁の出身地)などと呼称された。
朱子学を基調とした三大全(《性理大全》《四書大全》《五経大全》)が1413年(永楽11)に刊行されたことと,朱子学が科挙に採用されたこととが相まって15世紀は朱子学が学術思想界の主座を占めた。この時期の朱子学徒は広大な朱子学体系のうち,特に心性論に関心を集中した(性論)。朱子学が準備した自力による自己救済の方策を討究したのである。このような思想界の風潮の中で,王守仁は朱子学の実践論を実験して心疾にかかり,朱子学のいう自己救済の方法を完遂するほどの能力をもたないと観念して朱子学を離脱した。この挫折体験を契機として,王守仁は万人が本来もつ自己能力により自己救済する実践論として,心即理・知行合一説を提唱した。《朱子晩年定論》を著して朱子学と決別したのち,さらに致良知説を開発して強化した。良知とは万人が本来的に固有する完全なる自己実現・自己救済能力をいう。良知は外在する権威や伝統的規範にいっさい依存しない。いっさいの外なる者から解放されていることを〈無善無悪〉と表現した。朱子学の性即理・性善説に対する反措定として,陽明学では心即理・無善無悪説を提起したのである。だからといって,陽明学では性即理・性善説を否定したのではなく,それを論理構築の大前提としながらも思想構造を異にしたのである。朱子学では心の背理可能性を危惧して性と分別し,完全なる性が心を支配制御するとした。陽明学では心と性を分別せずに両者を渾一とみた。心のもつ自力能力を性という。性はもはや心の支配者ではない。朱子学といえども自力による自己救済を目ざしたけれども,なお外なるものに依存する弱さをもつと認識して,自力主義をさらに徹底化させたのが陽明学であるともいえよう。陽明学の社会観としては,万物一体論があげられる。これは共同体の構成員がおのおの自力主義を遂行して人格的に自立した個々人が相互に真誠惻怛(そくだつ)の愛を及ぼして大同の世界を実現しようとしたものである。思想界に与えた影響はきわめて大きかった。
陽明学派は自力主義を遂行する実践論をめぐって分派した。いわゆる良知現成論・無善無悪説をめぐる論争である。自力能力は,即今当下の現在に円満成就していると理解したのが良知現成論者,すなわち王学左派で王畿・王艮(おうこん),羅汝芳(近渓)が代表する。本来は完全であることを認めるものの現実にはそれを培養してこそ実際的能力となると主張して,この良知現成論を批判した人々は二つに分かれる。心・性,本体・作用などは現成派と同じく渾一と理解したうえで,現成論を批判した人々に欧陽崇一(南野),銭徳洪(緒山),鄒守益(東廓)などがあり,心・性,本体・作用などを分別して現成論を批判した人々に羅洪先,聶双江(豹)などがあった。後者は帰寂派ともいわれ,陽明学派内では思想構造が朱子学にもっとも近い人々である。王門内では勢力上は多数を占めていた中間派をはさんで,帰寂派と現成論派がもっとも激しい論争を展開した。帰寂派の学術思想界に与えた影響はさほどはなく,もっとも深刻な影響を与えたのは良知現成論である。良知現成論が天下を風靡して,仏教学興隆の契機となったことが象徴するように,16世紀は教学の枠をこえて陽明学の影響力が浸透した。良知心学の派下に異色の思想家の輩出したゆえんである。李贄(りし)はその代表である。
17世紀に入ると反省期に入り,朱子学派も勢いをもりかえして陽明学批判を展開し,明末・清初期には程朱学と陸王学とが優劣を競って朱陸論争を激しく展開した。この時期に陸王学・陽明学に加担した思想家もいたが,思想界の関心が個人から社会に移ったこと,学術界において考証学の気風が醸成されたこと,西学が流入したこと,とりわけ清朝政府を後ろだてとした朱子学派の陽明学批判が熾烈(しれつ)をきわめたことなどのために,陽明学に同調する者は多くはなかった。中国で陽明学が再び顧みられたのは,清末・民国初期においてである。
日本に陽明学が紹介されたのは江戸初期であるが,このとき,明末・清初期における朱陸論争の余波をもろにうけて,〈陽明学は誤まれる思想体系である〉という理解が先行した。日本においては陽明学は不幸な出発を強いられたのである。江戸初期には中江藤樹,熊沢蕃山,中期には三輪執斎(みわしつさい)(1669-1744)が出て陽明学を宣揚したが,古学派,古文辞学派におされてふるわなかった。しかし,幕末維新期を迎えると,陽明学は思想運動としてもっとも盛り上がり,佐藤一斎,大塩平八郎(中斎)が活躍したが,とりわけ佐藤一斎門下から維新期に活躍した陽明学者が輩出した。
執筆者:吉田 公平
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明代中期の学者王守仁(おうしゅじん)を始祖とする儒学上の一学説。明代の官学的立場にあった朱子学に対立する思想として起こった。朱子学の客観的な性即理に対して,主観的な心即理の立場をとり,前者が理論に終始しがちなのに対して,その実践をあわせ主張した点に特色がある。「知行合一」から「致良知」への教説はこれを示す。一般にその説を南宋の陸九淵(りくきゅうえん)の説と関連づけるが,北宋の程顥(ていこう)の説にも結びつくとされる。この学派が社会に受け入れられたことは,明代中期の社会的変化との関連で注目する必要があろう。
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中国の明代中期の思想家王陽明が提唱した儒学理論。元・明代に国家公認の経書の解釈学となり形骸化した朱子学に対し,王陽明は朱子学の内側からの思想的革新を企て,朱子学の性即理に対し,心即理・知行合一・致良知の説を主張した。つまり朱子学が実際には天下の事々物々の理を客観的にきわめることを重視したのに対し,陽明学は宇宙の理法や人間の倫理はうまれながらに人の心に備わっているとし,心で獲得された理の日常行動での具体的発現を重視した。朱子学の理論体系を前提に,外在的な規範よりも自己の内面的な判断力とその実行を重視したため,社会変革の推進者に受容され,またその機能をはたすことが少なくなかった。
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…そこには〈礼教〉体制下の士人が相対的自立性を強めつつ,積極主体的に〈礼教〉イデオローグとして果たすべき政治・社会の状況が反映されており,朱子学が正統教学に帰した理由がある。明・清期に君臨した朱子学は,封建秩序の内部矛盾の増大から,その補強として明代の陽明学が登場する。他方その陽明左派(王学左派)は,〈礼教〉体制の欺瞞(ぎまん)性をつき欲望肯定の〈童心〉説を出して儒教批判を行うが,本格的な儒教否定は,農民運動としてキリスト教に依拠した太平天国の思想であった。…
…とくに南宋におこった朱子学は書院の盛行を促し,朱熹(子)の復興した白鹿洞書院をはじめ各地の書院で,朱子学の講義と研究が行われるようになった。さらに明代の陽明学では,人間は良知をもつものとして平等だと考えられたため,ときに庶民も参加して,書院における講義と自由活発な討論が行われた。これを講学という。…
…そこに現れたのが王守仁(陽明)の哲学である。陽明学は宋の陸象山の主観主義的な心学の性格を継承し,人間の心性に先天的に備わる良知を極め尽くすという〈致良知〉を学問修養の目的とした。しかもその知は実行を通じてのみ得られるという〈知行合一〉を強調した。…
…しかし明代には打ちつづく太平によって培われた自由と享楽の風潮が盛んになり,もはや朱子学のもつ主知主義は昔日の魅力を失い始めていた。これに代わって現れた哲学が,王守仁(陽明)のいわゆる陽明学である。陽明学は朱子学と対立の関係にあった宋の陸象山の心即理の立場を継承発展させたものといえる。…
…以下では,領域別の説明を省き,知識層を中心とする文化事象と,庶民とのかかわりにおいて考えられる事象という観点から,ごく簡略に述べる。
[陽明学とその左派]
知識人中心の文化事象としては,儒学を軸とする思想学術や,古典語を駆使した詩文などの文学が代表的であるが,これらに共通するのは,明代において画期的な新しいものは現れず,それまでに出現したもののうち,何が主流となり何が規範となるか,その交替の形で事態が動いていることである。儒学でいえば,明初以来,朱子学が官学とされ,永楽年間には《五経大全》などが勅撰されて,科挙試験の基準となった。…
※「陽明学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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