隠元(読み)インゲン

デジタル大辞泉 「隠元」の意味・読み・例文・類語

いんげん【隠元】

[1592~1673]江戸前期にみんから渡来した僧。名は隆琦りゅうき福建省の人。日本黄檗おうばくの開祖。寛文元年(1661)宇治に黄檗山万福寺開創。書もよくし、黄檗三筆の一。著「黄檗語録」「普照国師広録」など。
インゲンマメの別名。

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共同通信ニュース用語解説 「隠元」の解説

隠元

中国の高僧で、1654年に日本に渡来。インゲン豆やレンコン、木魚、建築技術などを日本にもたらし、禅宗黄檗宗」を開いた。後水尾法皇ごみずのおほうおうや4代将軍徳川家綱とくがわ・いえつなに敬われ、福建省で住職を務めた黄檗山万福寺と同じ名称の寺を、現在の京都府宇治市に61年に創建した。73年に日本で死亡。福建省に勤務した習近平しゅう・きんぺい国家主席も、現地の万福寺を訪れて隠元の功績を学んだとされる。(北京共同)

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精選版 日本国語大辞典 「隠元」の意味・読み・例文・類語

いんげん【隠元】

  1. [ 1 ] 中国、明の僧。福州の人。諱(いみな)は隆琦(りゅうき)。諡(おくりな)は大光普照国師。真空大師。承応三年(一六五四)来日。山城宇治に黄檗山万福寺を開いた日本黄檗(おうばく)宗の開祖。いわゆる黄檗文化を移入し、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えた。語録「普照国師広録」などがある。文祿元~延宝元年(一五九二‐一六七三
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. いんげんまめ(隠元豆)」の略。〔俳諧・季引席用集(1818)〕
    2. ( 「いんけ(院家)」を誤って隠元と記したものとも、また、寺家で用いた院家何々というものをすべて隠元和尚の伝来としたのによるともいう ) 僧。僧侶
      1. [初出の実例]「折から彼山の隠元(ヰンゲン)らしき御法師の」(出典:浮世草子・男色大鑑(1687)三)
    3. いんげんやかん(隠元薬缶)」の略。〔尾張方言(1749)〕

いんぎん【隠元】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「いんげん(隠元)」の変化した語 ) =いんげんまめ(隠元豆)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「隠元」の意味・わかりやすい解説

隠元
いんげん
(1592―1673)

江戸前期に来朝した中国明(みん)代の禅僧。黄檗(おうばく)宗の祖。法諱(ほうき)は隆琦(りゅうき)。諡号(しごう)は普照(ふしょう)国師など。福建省の生まれ。幼時より行方不明だった父を捜して、21歳のとき旅に出、有名な観音霊場、舟山(しゅうざん)列島の普陀山(ふださん)に至って出家を志した。29歳のとき、福建省黄檗山万福寺(まんぷくじ)(古黄檗)にて剃髪(ていはつ)。勧進(かんじん)の旅をし、また諸寺を訪れ『法華経(ほけきょう)』『楞厳経(りょうごんきょう)』などの講説を聴聞。33歳より臨済(りんざい)宗の密雲円悟(みつうんえんご)(1566―1642)に就いて参禅した。42、43歳のころ密雲下の兄弟子費隠通容(ひいんつうよう)(1593―1661)に印可されて嗣法(しほう)し、1637年(崇禎10)46歳で古黄檗の住持に請(しょう)ぜられた。ここで一切蔵経(いっさいぞうきょう)を閲読、また1555年倭寇(わこう)の変で焼けて以来宿願であった伽藍(がらん)大復興を完成し、さらに隠元自身の語録も出版している。古黄檗を退院して2年後に再住、この間多数の修行僧を指導した。しかし退院中の1644年祖国の明は事実上滅びた。

 1652年(承応1)より長崎・興福寺(こうふくじ)の逸然性融(いつねんしょうゆう)(1601―1668。明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年に一行30名が鄭成功(ていせいこう)の仕立てた船で来日、長崎に着いた。興福寺、福済寺(ふくさいじ)、崇福寺(そうふくじ)の唐三か寺は、幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑(かきょう)の檀那寺(だんなでら)であり、隠元はただちに興福寺、ついで崇福寺に住した。この壮挙は日本の仏教界、とくに禅僧たちに大きな反響をよんだ。龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)(1602―1670)らは隠元を京都・妙心寺に迎えようと奔走したが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)(1577―1661)らの反対も強く、結局、摂津(大阪府)普門寺に迎えられた。1658年(万治1)江戸に赴き、将軍徳川家綱(とくがわいえつな)に謁見、翌1659年酒井忠勝(さかいただかつ)らの勧めで永住を決意、幕府から山城(やましろ)(京都府)宇治に寺地を与えられ、1661年(寛文1)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創した。3年後に隠退し、寛文(かんぶん)13年4月3日、82歳で示寂。隠元は、念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風をもたらし、万福寺は、行事、建築、明代の仏師笵道生(はんどうせい)(1637―1670)の仏像など万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。隠元の書は、幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録・詩偈集(しげしゅう)は、その精力的な活動を伝えている。

[菅原昭英 2017年1月19日]

江戸時代の書を代表する唐様(からよう)(中国書法から強い影響を受けた書風、および流派)の推進に、先駆的な役割を果たしたのが、隠元ら黄檗の僧たちの書であった。開祖の隠元や、後世に「黄檗の三筆」と並び称された木庵性瑫(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいち)の雄渾(ゆうこん)な書は、宗派の広がりとともに全国的に伝えられた。隠元は書を、宋(そう)代の蔡襄(さいじょう)に学んだといわれ、また師の費隠通容の影響もみられる。なにものにもとらわれない、のびのびとした書は、隠元の不断の修禅によって生み出されたものであり、その高徳と相まって、世人に広く親しまれている。

[久保木彰一 2017年1月19日]

『平久保章著『隠元』(1962/新装版・1989・吉川弘文館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「隠元」の意味・わかりやすい解説

隠元 (いんげん)
生没年:1592-1673

京都府宇治の黄檗(おうばく)山万福寺の開山で,日本黄檗宗の開祖。隠元は号で,諱(いみな)は隆琦(りゆうき)。中国福州(福建省)福清の出身で,俗姓は林氏,母は龔(きよう)氏である。一度は学を志したが捨てて,23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役(茶頭(さずう))となって仏道修行し,29歳のとき福州黄檗山の鑑源興寿について剃髪出家した。その後,嘉興の興善寺,峡石山碧雲寺などで学んでいたが,費隠通容禅師が黄檗山に住したので帰山して費隠に参じ,43歳の1634年(寛永11)に費隠の法を嗣ぎ,37年から7年間黄檗山に住して禅風を宣揚した。44年崇徳の福厳寺に移り,また翌年には長楽の竜泉寺に住したが,46年から再び黄檗山に住していて,中国禅界に重きをなす名声高い禅僧であった。54年(承応3)7月5日,長崎の興福寺(通称南京寺)の逸然性融やその檀越(だんおつ)の招きに応じて来日。時に63歳の老齢で,大眉性善,独湛性瑩,南源性派など弟子20余人を伴っていた。翌6日に興福寺で開法し,55年(明暦1)には崇福寺(そうふくじ)に住して法を説いたが,その禅を求める学徒が群集したといわれる。同年8月妙心寺僧竜渓宗潜(のち性潜と称す)らの招きで摂津富田の普門寺に住し,京都に入り後水尾上皇に謁した。58年(万治1)江戸に行き湯島の麟祥院に寄寓していたが,同年11月竜渓の尽力があって将軍徳川家綱に謁している。幕府は山城宇治に寺地を授け,寺領400石を与えた。隠元は中国で住持した黄檗山万福寺にちなんで同じ山号寺号を付し,61年(寛文1)に開創して,2年後に祝国開堂の式典を行っている。黄檗宗の基礎をつくった隠元は64年松隠堂に退隠し,73年(延宝1)4月2日に後水尾上皇から大光普照国師の号を諡(おくりな)されたが,翌3日示寂した。上皇のほか酒井忠勝,板倉重宗,松平信綱など公武の崇敬をうけ,竜渓をはじめ鉄牛道機や鉄心道印,独庵玄光など臨済・曹洞両宗の禅僧が新鮮な明朝禅にひかれて参じ,近世期の日本禅宗に多大の影響をおよぼした。また建築,書画,詩文や料理に至る明朝風の文化が移入されており,その意義も大きい。隠元は詩集に《三籟集》《雲濤集》《太和集》があり,《黄檗清規》《弘戒法儀》《黄檗山誌》の著書や語録《普照広録》などをはじめ多くの著書を残し,そのうち40余種が開版されている。弟子は23人で,竜渓性潜,独照性同,独本性源は日本僧,木庵性瑫,即非如一など20人は中国僧である。
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百科事典マイペディア 「隠元」の意味・わかりやすい解説

隠元【いんげん】

中国の禅僧。福建(ふっけん)の人。諱(いみな)は隆【き】(りゅうき)。日本黄檗(おうばく)宗の開祖。1654年来日。1661年山城(やましろ)国宇治(うじ)に万福(まんぷく)寺を創建。中国,明(みん)代の声明(しょうみょう)・法式を伝えた。書もよくした。諡(おくりな)は大光普照国師。
→関連項目インゲンマメ(隠元豆)三筆禅宗崇福寺鉄眼

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367日誕生日大事典 「隠元」の解説

隠元 (いんげん)

生年月日:1592年11月4日
江戸時代前期の来日明僧;日本黄檗宗の開祖
1673年没

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世界大百科事典(旧版)内の隠元の言及

【黄檗宗】より

…京都府宇治市に所在する黄檗山万福寺を本山とする禅宗の一派。宗祖は1654年(承応3)に来日した明僧の隠元隆琦で,万福寺は61年(寛文1)に開創され,ここに禅浄一致の宗風をもつ明朝禅が伝えられて大きく発展した。隠元の禅は東福寺開山円爾弁円や円覚寺開山無学祖元と同じ径山(きんざん)の無準師範(ぶしゆんしばん)の法系に属する臨済禅であって,中国では臨済宗の一派にすぎなかったが,日本では黄檗山の禅が念仏禅の禅風をかかげ,伽藍様式や読経,法要様式,法具法服その他すべて明風であり,日本臨済宗に異なる特色をもったことで,臨済宗と分離し一宗を形成した。…

【黄檗美術】より

…崇福寺の第一峰門(1644),大雄宝殿(1646)がその代表的遺構であり,渡来工人による明代の寺院建築の意匠,彩色が強い異国風を感じさせる。黄檗寺院はさらに僧隠元が,幕府の庇護のもと,宇治の万福寺を創建(1661)したことにより,京都にも伝わった。これはかなり和様化されているが,伽藍配置など隠元の故国の福州万福寺にならってつくられたものであり,総門から山門,天王殿,仏殿,法堂を中心線上に配し,鐘楼,鼓楼,伽藍堂,祖師堂,斎堂,禅堂,東西方丈を左右相対的に配列し回廊で結んでいる。…

【三筆】より

…3人を特に三筆と称するようになったのがいつごろか明らかでないが,そう古くにはさかのぼらない。ほかには江戸時代に日本へ渡った黄檗(おうばく)宗の3僧,隠元,木庵(もくあん)(1611‐84),即非(そくひ)(1616‐71。諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。…

【住職】より

…住職という呼称は,今日では宗派を問わず多く用いられているが,歴史的にみると,寺院最高位の僧職の呼称は時代により宗派により,またそれぞれの寺院によって,さまざまの異称や尊称がある。南都系や平安仏教系寺院では寺主(じしゆ),維那(いな),院家(いんけ),隠元(いんげん),浄土真宗や日蓮宗(法華宗)や時宗では上人(しようにん),禅宗では方丈,和尚,住持,長老(ちようろう)などの,住職をさす尊称がそれである。また,由緒ある大寺院ではその寺固有の歴史的呼称もある。…

【声明】より

…また臨済宗,曹洞宗を開いた栄西(えいさい)と道元はほかの鎌倉仏教の開祖と同様に一時比叡山に学んでいるが,中国に渡り宋代の禅宗を伝え,その後臨済,曹洞両宗は天台,真言両声明の影響をうけつつ中国的な性格を含んだ仏教儀式を整えていく。江戸初期には明僧隠元が中国臨済宗の系統に属する黄檗(おうばく)宗を開き,同時に中国明代の儀式や声明(梵唄と称す)がもたらされて,現在でもなお中国的色彩の濃厚な儀式,音楽が行われている。
[種類]
 声明は教理,言語,音楽の各立場からいろいろに分類されるが,詞章の内容,形式は以下のとおりである。…

【禅宗】より

…臨済禅の伝来は,そうした中国近代文明の持続的な日本への伝来とともにあり,これを集大成するのが,黄檗山の開創である。 黄檗宗は,中国の福州黄檗山万福寺の住持,隠元隆琦が,江戸幕府の帰依で宇治に万福寺を開いたのに始まる。隠元隆琦は,中国では臨済宗楊岐派に属し,日本でも臨済正宗を名のるが,鎌倉以来すでに日本に来ている臨済禅が,宋・元時代のそれを伝えて完全に日本化しているのに比して,近世中国の風俗習慣を伴う隠元の臨済禅は,日本仏教徒にあらためて中国仏教の現実を見せつけることとなる。…

【万福寺】より

…山号は黄檗山。開山は1654年(承応3)来日した明僧隠元隆琦(りゆうき)で61年(寛文1)に開創された。山号・寺名は隠元が来日する以前に住持した中国福建省福州府福清県にある黄檗山万福寺にちなむ。…

※「隠元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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