隠岐国(読み)オキノクニ

デジタル大辞泉 「隠岐国」の意味・読み・例文・類語

おき‐の‐くに【隠岐国】

隠岐

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日本歴史地名大系 「隠岐国」の解説

隠岐国
おきのくに

日本海に浮かぶ隠岐群島の国名島根半島との最短距離は約四〇キロ。隠岐群島は四つの主要な島を中心とする一八〇の小島からなる。いちばん大きな島である島後どうごと三つの島からなる島前どうぜんに人が居住している。伊邪那岐命と伊邪那美命による国生み神話に登場し、「古事記」上巻に「隠伎之三子島」、「日本書紀」神代上には「億岐洲」「億岐三子洲」と載る。

古代

〔意伎国造〕

「国造本紀」に「意岐国造 軽嶋豊明御代、以観松彦伊呂止命五世孫十揆彦命、定賜国造」とみえ、応神朝に十揆彦命が意岐国造に任命されたことになっている。「播磨国風土記餝磨しかま郡条には、餝磨御宅(現兵庫県姫路市)の由来として仁徳朝における意伎国造など五国造の播磨国への追放伝承記事がみえる。これらの史料から隠岐に国造制が施行されたことがうかがえるが、隠岐国造の墓と目される古墳は隠岐最大の古墳である六世紀後半頃の現西郷さいごう町の平神社へいじんじや古墳(前方後円墳、全長四七メートル)と推測され、文献にみえるほどさかのぼるものではないと考えられる。

〔律令制下の隠岐国〕

延喜式」民部省によれば隠岐国は遠国で、等級下国。京までは上り三五日、下り一八日である(同書主計寮)。隠岐の地区を島前島後というのは、京から距離的に近い順によんだ名称であろう。令制では下国の国司は守一人・目一人・史生三人と規定されていたが、天平宝字元年(七五七)には目一人が増員され(「続日本紀」同年五月八日条)、大同四年(八〇九)には掾一人が置かれており(「日本後紀」同年二月二四日条)定員の増員がなされている。補任された国司として、天平四年度の隠伎国正税帳(正倉院文書)に目県犬養宿禰大萬侶、「続日本紀」天平神護元年(七六五)八月一日条に員外介石川朝臣永年の名がみえる。初見の国守は天平宝字六年の下道朝臣黒麻呂で(同書同年四月一日条)、同八年一〇月一日には坂本朝臣男足が任ぜられており(同書)、規定の任期は四年であるが二年で交代している。仁和二年(八八六)隠岐守に任じられた伴宿禰有世の場合は、隠岐へ赴任しなかったことから詰問されているが(「三代実録」同年二月三日条)、都から遠く離れた遠国への赴任であったことによるのであろう。なお天平宝字年間から文治年間(一一八五―九〇)の国守は記録上二三人が知られる。

和名抄」東急本国郡部によると、国府周吉すき郡にあった。現西郷下西しもにし能木原のきばらで発見されているコの字状に規格的に配置された大型の柱をもつ掘立柱建物跡は官衙建物構造となっており、近くにあるこうはらという地名と相まって国府の有力推定地である。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「隠岐国」の意味・わかりやすい解説

隠岐国
おきのくに

島根半島の北方、最短距離で44キロメートルの日本海に浮かぶ島嶼(とうしょ)の旧国名。島根県に属す。島嶼は四つの大きな島と約180の無人小島からなる。本土に近い中ノ島、西ノ島、知夫里島(ちぶりしま)の3島を島前(どうぜん)、島前の北東12キロメートルに浮かぶ大きな島を島後(どうご)という。『延喜式(えんぎしき)』によると、島前に知夫(ちぶり)、海部(あま)の2郡、島後に周吉(すき)、穏地(おち)の2郡があった。国府は島後の隠岐の島町下西(しもにし)において確認されている。国庁跡に近い玉若酢命(たまわかすのみこと)神社の社家億岐(おき)氏宅には、駅鈴(えきれい)と隠伎倉印(おきそういん)(いずれも国指定重要文化財)が所蔵されている。

 鎌倉期の守護は佐々木義清(よしきよ)の系統、南北朝期は山名(やまな)氏、室町期は京極(きょうごく)氏と、中世を通じてほとんど出雲(いずも)国守護との兼任であった。戦国期、尼子(あまご)氏の支配に入ったが、尼子滅亡後は毛利(もうり)氏の支配するところとなった。関ヶ原の戦い後、堀尾(ほりお)氏、ついで京極氏が出雲・隠岐2国の太守に任じられ、隠岐に代官を派遣した。1638年(寛永15)松平直政(なおまさ)が松江藩主となるや、隠岐は幕府天領に編入され、松江藩預地(あずかりち)とされ、藩から郡代、代官を派遣して治めた。しかし、1687年(貞享4)3代藩主松平綱近(つなちか)は、隠岐の統治を返還したので、以後34年間石見(いわみ)銀山領代官の支配下に置かれた。1720年(享保5)幕府はふたたび松江藩に隠岐を兼管させ、爾来(じらい)幕末に及んだ。このように、近世の隠岐支配は複雑であったが、このことが、1868年(明治1)郡代を放逐して自治機関をつくる隠岐騒動、その翌年の徹底した廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)につながるのである。隠岐は古代から流人(るにん)の島といわれ、後鳥羽(ごとば)上皇、後醍醐(ごだいご)天皇をはじめ、平安時代の小野篁(おののたかむら)、江戸時代の飛鳥井雅賢(あすかいまさかた)など多数の人々が配流された。

 1868年鳥取藩の管轄下に入り、翌年2月隠岐県として独立、同年8月大森県に編入されて、70年浜田県となったが、翌年11月分離して島根県に入り、12月には鳥取県に、さらに76年島根県に復した。

[藤岡大拙]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「隠岐国」の意味・わかりやすい解説

隠岐国
おきのくに

現在,島根県の隠岐島。山陰道の一国。下国。もと億岐国造が支配。この国の総社である玉若酢神社の社家億岐家は国造の子孫と称し,同家には現在古代の駅鈴と隠岐屯倉印とが保存されている。国府,国分寺ともに隠岐郡隠岐の島町西郷にあった。『延喜式』には知夫 (ちふり) ,海部 (あま) ,周吉 (すき) ,穏地 (おち) の4郡があり,『和名抄』には郷 12,田 585町余と記載されている。神亀1 (724) 年,隠岐は遠流 (おんる) 国の一つに定められ,以来,承久の乱 (1221) には後鳥羽上皇 (→後鳥羽天皇 ) が,元弘の乱 (1331) には後醍醐天皇が本島に配流された。鎌倉時代には近江の佐々木氏が出雲国とともにこの地の守護を兼ね,南北朝時代には山名氏が支配した。室町時代から戦国時代にかけては京極氏 (佐々木氏) ,尼子氏,隠岐氏が争い,安芸の吉川氏の支配に帰した。江戸時代には慶長5 (1600) 年,堀尾吉晴が封じられ,寛永 11 (1634) 年には京極忠高がこれに代わり,寛永 15年以降,天領となり,松平氏の出雲藩預けとなった。この時代にも流人の島として配流されるものが多かった。明治2 (1869) 年2月に隠岐県となり同年8月には大森県に合併,明治3 (1870) 年浜田県と改称,1876年に島根県に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典 「隠岐国」の解説

おきのくに【隠岐国】

現在の島根県隠岐諸島を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陰道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに隠岐の島町におかれていた。古来、流人(るにん)の島と呼ばれ、1221年(承久(じょうきゅう)3)には後鳥羽(ごとば)上皇、1332年(元弘(げんこう)2)には後醍醐(ごだいご)天皇が配流された。守護鎌倉時代南北朝時代室町時代を通じて、ほとんど出雲(いずも)国(島根県)の守護が兼ね、戦国時代には尼子(あまこ)氏、さらにこれを滅ぼした毛利(もうり)氏の支配下に入った。江戸時代には幕府直轄領となった一時期を除き松江藩の預かり領であった。1868年(明治1)に鳥取藩所管となり、翌年に隠岐県となった。のち大森(おおもり)県に併合され、1870年(明治3)に浜田(はまだ)県などを経て1876年(明治9)に島根県に編入された。◇隠州(いんしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「隠岐国」の意味・わかりやすい解説

隠岐国【おきのくに】

旧国名。隠州とも。山陰道の一国。今の島根県隠岐諸島。《延喜式》に下国,4郡。中世にかけて流刑地として有名。近世初め幕府直轄領として松江藩松平氏の預り支配となり,俵物を長崎へ送る。→後鳥羽天皇後醍醐天皇
→関連項目島根[県]中国地方

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「隠岐国」の解説

隠岐国
おきのくに

山陰道の国。現在の島根県隠岐郡。「延喜式」の等級は下国。「和名抄」では知夫(ちぶり)・海部(あま)・周吉(すき)・隠地(おち)の4郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は周吉郡(現,隠岐の島町)におかれた。一宮は島後(どうご)の水若酢(みずわかす)神社(現,隠岐の島町)と島前(どうぜん)の由良比女(ゆらひめ)神社(現,西ノ島町)。「和名抄」所載田数は585町余。「延喜式」では調として多くの海産物,庸として布を定める。平城宮跡出土の木簡により,海藻貢進国だったことがわかる。724年(神亀元)遠流(おんる)の国と定められ,以後小野篁(たかむら)・後鳥羽上皇・後醍醐天皇らが配流された。守護は鎌倉時代は近江国の佐々木氏,南北朝期は山名氏,室町中期は京極氏で,応仁・文明の乱後,尼子氏が支配,のち毛利氏の領国となる。近世は松江藩預地となるが,1687年(貞享4)松江藩は隠岐国を幕府へ返上した。1868年(明治元)鳥取藩管轄,69年隠岐県から大森県,70年浜田県,71年島根県・鳥取県と所属が変遷し,76年島根県に属した。

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世界大百科事典 第2版 「隠岐国」の意味・わかりやすい解説

おきのくに【隠岐国】

旧国名。現在の島根県隠岐郡,日本海上の火山島群である隠岐諸島。知夫里(ちふり)島,西ノ島,中ノ島などの島前(どうぜん)と北東方の一島の島後に大別される。
【古代】
 山陰道に属する下国(《延喜式》)。出雲国よりも早くヤマト国家の朝廷に属したと考えられ,意岐国造が任じられていた。ついで7世紀末には,島前に海評,島後に次(すき)評の(こおり)の制度が施行されていたことが,藤原京跡出土の木簡で確認される。律令制下の隠岐国は,《続日本紀》の702年(大宝2)の記事に初見するが,島前に知夫(ちふ∥ちふり)郡・海部郡,島後に周吉(すき)郡・穏地(おち)郡がおかれた。

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