中国古典劇の形態名。ただし,この名称は〈雑〉字が示すように,中国の演劇が未成熟の段階にあったころから,演劇に類する諸種の芸能をさして用い,したがって,時代と地域によって実体を異にする。唐末の文献にみえるそれは未詳だが,11~13世紀ごろ宋朝の治下では,のちに〈院本〉と改称される風刺寸劇や,〈南戯(南曲)〉の源流とされる温州(浙江省永嘉)の地方劇などをこの名で呼んだ。しかし,13,14世紀ごろ元朝治下において本格的歌劇が画期的な戯曲文学を開花させて,文学史上に〈元曲〉とたたえられると,この形態がほとんど〈雑劇〉の名を独占するにいたる。もっとも現在ではそれを〈元雑劇〉または〈元人雑劇〉と呼んで,いちおう区別する。
元雑劇は先行する風刺寸劇〈院本〉や語り物形態〈諸宮調〉を母体として生まれた,最初の満足すべき演劇形態であり,大量の脚本を残存する。この形態は〈北曲〉とも呼ばれるように,北方系音楽による歌劇で,伴奏楽器は琵琶などを主体に簫・笛を加え,別にリズム楽器として太鼓・拍板を用いる。幕はもとより背景その他舞台装置はなく,わずかに机・椅子や手に持つ小道具があるだけで,あらゆる時間と空間は曲(うた)・白(せりふ)・科(こなし)によって自在に設定される。俳優は主として教坊すなわち官営の遊廓ないし歌舞練場に属する官妓がつとめ,他に同所の男優も参加した。
元雑劇には形式上に二つの規約がある。いずれの脚本も4幕(折と呼ぶ)より構成され,また,歌唱は一劇を通じて主役1人が担当する。この規約はかなりきびしく,すべてが自由な後来の形態と著しい対照をなす。各幕は10曲前後の組み歌が中心となり,それらの音階は幕ごとに異なる。歌詞はすべて既成のメロディに合わせて作られるが,この歌詞形式に中国韻文史上に特筆すべき変革が実現した。その第1は,押韻における四声通押である。民衆を対象とする文学の常として,元雑劇の歌詞も現実音によるが,当時の北方音ではk・p・tの韻尾をもつ入声(につしよう)が消滅してすでに簡略化が進行していたし,一聯の組み歌を一類の文字で押韻する必要もあり,ここに四声の枠が除かれて類似音をも統合,周徳清《中原音韻》が範を示すわずか19種の韻類に整理された。第2は,メロディにのらぬ措辞,いわば字あまりに相当する〈襯字(しんじ)〉の使用が寛大になったことである。これら二つの変革は,新たな文学用語としての口語の登場がおのずから要求したものだが,双方相助けて歌詞の活発さ・親近さを増大した。
これまでファルスの段階に甘んじ,人間の〈にせもの〉を強調して笑いを招きつつ,真実への目をつちかって来た中国の演劇は,いまや本格的形態を得て,より積極的に〈ほんもの〉に焦点を合わせ,人生のさまざまな哀歓を描きはじめた。形態特有の制約も障害になるどころか,むしろ作者に有効に作用した。すなわち,4幕の短編形式はストーリーの錯雑を回避させて細部のくふうを促し,起承転結の要領に通ずる構造の利も活用させたし,主役独唱はいうまでもなく〈ほんもの〉の人間像を鮮明ならしめるに役だった。あたかも中華民族はその全土をモンゴル族の制圧下におかれ,伝統的支配体制が解体して,久しく支配原理とされた儒教ないし儒学の権威が一時的にせよ退潮した。礼教の不当な拘束から解放された知識人たちは,はじめて主体的にものを考え,人間の真にあるべき姿を見つめる機会をもった。しかも,国家官吏試験制度である科挙が廃止され,彼らの唯一の進途が閉ざされた。この特権階級たる身分の喪失も,知識人を庶民に接近させた。彼らの一部が劇作に投じ,その憤りを制作欲にかえたという明人の説も,十分な可能性をもつ。演劇の脚本など民衆を対象とする芸能文学は,主に〈書会〉という組織に属する無名人の手に成り,一種の共同制作でもあるために,伝統文学と異なり,作者名は埋没するのが常だった。元雑劇に至ると,作者未詳の作品のほかに,より多くの作品が作者名を伝え,なかには少なからぬ名士さえまじる。このことは,中国において〈戯曲〉が文学ジャンルとしてはじめて公認されたことを物語る。かれら庶民化した知識人は,フィクションのおもしろさや価値を十分自覚しており,また,新たな文学用語である口語(白話)の性能を究めつくし,口語による独自の発想のもとに,文語が果たしえない新鮮な表現を生み出した。
元雑劇の制作期は,13世紀の末年を境として,前後に二分される。前期は首都大都(北京)を中心として,すべて北方出身の作家により,後期は中心が南宋の旧都杭州に移り,作者も南方人が優位を占める。題材はすべて前代の故事(史実・物語ないし講談を含む)に取るが,作者は原拠にとらわれず,現実的手法を用いて空想の翼を自在に羽ばたかせた。むろん,帝王の悲恋を描く《漢宮秋》《梧桐雨》や,封建礼教に抗する恋の波瀾を描く大作《西廂記》などでは,文語を基調とする典麗・清新の歌詞が,劇情にマッチして絶妙の効果をあげているが,いわゆる本色派の作家たちは,実感に富む口語を駆使して,より切実な感動を与えるリアルな描写に成功した。中国文学の伝統である政治への関心も旺盛で,現実の政治や社会における矛盾・不合理を見のがすことなく,既往の事件に託することを隠れみのとするかのごとく,現実を想わせる権勢家の暴虐や悪徳役人の不正を容赦なく描きあげた(《魯斎郎》《陳州糶米(ちんしゆうちようまい)》)。だが,おびただしい作品群にあって,元雑劇の特徴を顕著に示すのは,世話物の一類である。それの主要な部分を占める,肉親の悲歓離合を描いた《看銭奴》《合汗衫》《貨郎旦》や,殺人事件を扱う裁判劇《魔合羅》《灰欄記》《硃砂担》《蝴蝶夢》などには,庶民のこまかな真実が写され,彼らの巧まぬ言動がしばしば強烈な感動を呼ぶ。〈ほんもの〉の形象が最も鮮やかなのもこの世話物に集中し,とりわけ《救風塵》《竇娥冤(とうがえん)》《救孝子》劇のヒロインなど,まったく教養を欠くはずの女性の,インテリ男性たちを圧倒するすがすがしく健全な姿こそ,元雑劇の象徴であるとさえいえよう。
しかし,元雑劇の精彩に富む作品は,関漢卿,馬致遠,王実甫,白樸,鄭廷玉,楊顕之,紀君祥らおよび書会に属する無名氏を含めて,ほとんど前期の作家に集中し,後期に至ると,鄭徳輝,喬吉ら文人的体質を帯びた作家が台頭し,彼らはむなしく歌詞の外面的な美しさをのみ競い,明代の人たちにこそ欣賞されたが,すべての人が共感する真実を写す気魄を欠き,雑劇文学は14世紀の30年代を待たず急速に凋落してゆく。テキストには元刊本も現存するが鑑賞にたえず,明の臧晋叔(ぞうしんしゆく)編《元曲選》が,編者の功罪相半ばする批判がありながら,一応整理されて読みやすいために普及度も高い。なお,〈元曲〉という呼称は雑劇のほかに,その歌詞部分と同質の独立の歌謡形態〈散曲〉の元人作品をも併せ称することに注意されたい。
→戯文
執筆者:田中 謙二
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中国の演劇の名称。中国演劇史のなかで、雑劇と名のつくものはいくつかある。もっとも早い記録としては晩唐の文献にこの名が出てくるが、その詳細はわからない。その後、時代を追って宋(そう)雑劇、元(げん)雑劇があり、南方では南宋に入ってから温州(おんしゅう)雑劇が生まれ、下って明(みん)代中葉以降につくられたものに南北曲をあわせ用いた南雑劇がある。このうち、中国に初めて戯曲文学の開花をもたらしたのが一般には元曲(げんきょく)と称される元代の北曲雑劇で、雑劇といえば多くはこの元曲をさしていわれる。宋雑劇は諧謔(かいぎゃく)を主調とする短劇や歌舞、曲芸の類を総称するもので、南宋の文献に280種の演目が記録されている官本雑劇というのは、その宮廷での上演に供されたものをいうらしい。温州雑劇は永嘉(えいか)雑劇ともいい、温州(浙江(せっこう)省)で始まって宋朝南渡後に盛んになり、やがて都の臨安(りんあん)で流行して宋・元の南戯に発展したものである。
[傳田 章]
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…なお朝鮮半島にも宴饗楽が輸入され,〈タンアク〉(唐楽)の名で今日も行われている。雅楽 宋代になると民間の散楽や説唱などを母体として雑劇が生まれた。中国独特の戯曲音楽の成立で,これが俗楽の中心的な存在となり,後の元代の雑劇(元曲),明代の崑曲,そして清代の京劇へと展開した。…
…主役の〈参軍〉と脇役の〈蒼鶻(そうこつ)〉の二つの役柄による,歌唱を伴う風刺まじりの滑稽問答といったたぐいのもので,古代の倡優による芸能の系統を引き,もっぱら宮廷内に行われて即興性の強いものだったらしい。この参軍戯の流れがのちに民間におよんでさらに成長した姿をみせたのが10世紀,宋代になって現れた〈雑劇〉であった。役柄も4人から6人ぐらいにふえ,北宋の首都の汴京(べんけい)(開封)あるいは南宋の首都臨安(杭州)では,人形劇や影絵芝居,また歌物語,講釈,落語,曲芸等々,さまざまな芸能とともに〈勾欄(こうらん)〉とよばれる演芸場で盛んに演じられた。…
※「雑劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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