雑誌(読み)ザッシ

デジタル大辞泉 「雑誌」の意味・読み・例文・類語

ざっ‐し【雑誌】

雑多な事柄を記載した書物。
複数の筆者が書き、定期的に刊行される出版物。週刊・月刊・季刊などがある。マガジン。
[補説]magazineの訳語として、柳河春三が慶応3年(1867)刊の「西洋雑誌」で最初に使った。
[類語]マガジン週刊誌同人雑誌月刊誌季刊誌ウイークリークオータリー

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精選版 日本国語大辞典 「雑誌」の意味・読み・例文・類語

ざっ‐し【雑誌・雑志】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 種々雑多な事柄を書いたもの。随筆「燕石雑誌」(一八一一)、「雲萍雑志」(一八四三)などの書名にみえる。
  3. ( [英語] magazine の訳語 ) 一定の誌名のもとに号を追って定期的に刊行する、簡単に綴(と)じた出版物。発行期間によって、週刊、旬刊、月刊、季刊などがある。マガジン。
    1. [初出の実例]「此雑誌出板の意は〈略〉広く天下の奇説を集めて、耳目を新にせんが為なれば」(出典:西洋雑誌‐一(1867)伏啓)

雑誌の語誌

は挙例の「西洋雑誌」一号に翻訳の経緯が述べられているところから、この雑誌の発行人であった柳河春三の訳語とされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雑誌」の意味・わかりやすい解説

雑誌
ざっし

定期的に号を追って刊行される仮綴(かりと)じ、冊子形態の出版物。種々の記事・記録を一定の編集方針のもとに集めて構成したものを原型とし、挿絵、写真、漫画などが加わるものが多い。英語で雑誌のことをマガジンmagazine、ジャーナルjournalともいうが、日本語の雑誌の起源はもともと倉庫を意味し、「知識の庫(くら)」の意のマガジンから洋学者の柳河春三(やながわしゅんさん)が雑誌とよぶようになったようである。漢字圏でも日本独特の用語である。中国語では、「月報」「周報」の使い方が一般的である。

[鈴木 均・田村紀雄]

起源

今日の雑誌の起源は、17世紀にイギリスやフランスで本屋が愛書家たちに提供した書物カタログにさかのぼる。1665年独立した定期刊行物としてパリで創刊された『ジュルナール・デ・サバン』は、本の要約や作家の作品リスト、哲学、文学、科学などの分野の報告からなっていた。同年、それを模倣してロンドンでロイヤル・ソサイエティー(イギリス学士院)会報『フィロソフィカル・トランザクション』が創刊された。同時期、ドイツその他市民社会が成立した地域で雑誌が誕生し、新聞とは異なった定期刊行物のメディアとして発展していく。日本で今日の雑誌の原型となったのは、前述の柳河春三が1867年(慶応3)に創刊した『西洋雑誌』といわれる。自然科学、歴史、文化などオランダの雑誌からの翻訳を中心に、独自の記事も加えた美濃紙(みのがみ)半裁十数葉で、木版刷りの小冊子であった。文字と紙の歴史の古い中国の近代的な定期刊行物の出現は意外に新しく、1815年の『察世俗毎月統記伝』という新聞と雑誌の未分化な月報であった。

[鈴木 均・田村紀雄]

種類

現在日本で定期的に発行されている雑誌の発行主体や判型等の主流は、以下のとおりである。

(1)発行主体 雑誌専門出版社、図書出版社、新聞社による雑誌発行が雑誌出版ビジネスの中心だが、これ以外にも、官公庁、一般企業、団体、大学等の発行元は非常に多い。

(2)判型別 週刊誌を中心としたB5、月刊誌を中心としたA5、そのほかB6、A3、B4などとなっているが、店頭での訴求力の増強をねらって、大型化、ときに変形の傾向もある。

(3)発行周期別 週刊、旬刊、隔週刊、月刊、隔月刊、季刊、年刊に分類できる。

(4)読者、内容別 総合誌、女性誌、文芸誌、大衆娯楽誌、児童誌、学年別誌などのほか多分野にわたる専門誌があり、統計に現れないもので、各種イエローページ(電話帳、住所録)、社内報、PR誌、カタログ誌、同人誌、サークル誌、タウン情報誌などが加わる。2000年代には、各種カタログ雑誌、通信販売用の雑誌、求人・不動産などの無料情報誌が参入してきた。また雑誌と書籍の中間をいくムックmookも多く、IT(情報技術)時代を迎えてCD‐ROMなどによる電子雑誌も拡大してきた。

[鈴木 均・田村紀雄]

日本の雑誌

前出の『西洋雑誌』ののち、1874年(明治7)には福沢諭吉(ゆきち)らによる『民間雑誌』、明六社(めいろくしゃ)の機関誌『明六雑誌』などの啓蒙(けいもう)的評論誌が創刊された。滑稽(こっけい)風刺娯楽誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』(1877)、小説雑誌の始祖『芳譚(ほうたん)雑誌』(1878)、イギリスの『エコノミスト』を目ざした田口卯吉(うきち)の『東京経済雑誌』(1879)、小崎弘道(こざきひろみち)のキリスト教思想誌『六合(りくごう)雑誌』(1880)、女性読者を開拓した『女学新誌』(1884)そのほか多くの専門誌が創刊されて啓蒙と勃興(ぼっこう)の時期が終わる。しかし、明治中期ぐらいまで、新聞と雑誌の領域はかなり未分化であった。

 明治中期から末期にかけて、雑誌主導型の出版社も出現するなかで、雑誌が独自の商業的メディアになってゆく。これは、啓蒙期の雑誌と異なり、十分な利益が見込める読者数と雑誌広告の確立を意味した。読者の増加ということは、普通教育の達成による文字リテラシー(読み書き能力)の普及、雑誌を購入することのできる都市の賃金労働者の出現、電灯の普及などの要件が整ったのである。かくて、雑誌ビジネスとして名を残し、国民に大衆文化の影響を広める出版社が輩出する。民友社徳富蘇峰(そほう)主宰の『国民之友』(1887)は、平民主義を掲げ、ほとんどの雑誌の発行部数が1000部以下であった当時、万単位の売れ行きを示した。博文館は商業出版の先駆といわれ、ダイジェスト誌『日本大家論集』(1887)の成功を基に本格的な総合誌『太陽』(1895)をはじめ多くの雑誌を創刊し、雑誌王国を築いた。実業之日本社は『実業之日本』(1897)ほかを発刊して博文館に対抗し、販売面での返品自由の委託制度の採用、思い切った宣伝活動などによって勝利を収めた。1887年創刊の『反省会雑誌』は、99年『中央公論』と改題し、その後滝田樗陰(ちょいん)編集長のもと代表的な総合誌となっていく。

 大正から昭和初期にかけては、印刷技術や物流の改革により大量出版が確立し、『婦人公論』(1916)、『主婦之友』(1917。1954年『主婦の友』と改題)といった女性・家庭誌の隆盛がみられた。のちに、九大雑誌で空前の雑誌王国を築いた大日本雄弁会講談社(後の講談社)は、その名のとおり、東京帝国大学弁論部に端を発した『雄弁』という硬派の雑誌と、『講談倶楽部(くらぶ)』というやや軟らかい雑誌の双方で基盤を築き、あらゆる分野の雑誌に手を出してゆく、日本の商業雑誌ジャーナリズムの原形がつくられたと考えられる。この講談社の『少年倶楽部』(1914)ほかの雑誌群、なかでも「面白くて為になる」のキャッチ・フレーズで創刊された『キング』(1925)は150万部の発行実績をあげる。一方、大正デモクラシーの旗手吉野作造を主軸にして論陣を張った『中央公論』に対抗して、マルクス主義の旗を掲げた『改造』(1919)や、そのほかの社会主義誌、プロレタリア誌などの総合、文芸誌が続出した。日本独特の総合雑誌という文化の萌芽(ほうが)がここにある。1922年(大正11)4月最初の週刊総合誌『週刊朝日』(2月の創刊時は『旬刊朝日』)、『サンデー毎日』が同時期にスタートし、『小学五年生』『小学六年生』(ともに1922)など、学習と教育だけでなく家庭まで裾野(すその)を広げた少年・少女向け雑誌が成立、また『文芸春秋』(1923)、『家の光』(1925)も創刊された。1931年(昭和6)の満州事変を機に雑誌の発禁処分が増え、第二次世界大戦に入る過程で言論弾圧の強化、出版の国家統制が進み、『中央公論』『改造』などが廃刊に追い込まれ、権力のデッチ上げによって、これら総合誌に関係ある著者、編集者が検挙された。大衆向け雑誌の多くは国策に協力させられ、軍国精神の鼓舞、良妻賢母の勧めの役割を果たした。

 第二次世界大戦後、言論出版の自由の回復とともに復刊、創刊が相次いだ。1945年(昭和20)総合誌『新生』、ついで翌年『世界』『展望』『世界評論』『潮流』『思想の科学』などが相次いで創刊され、復刊した『中央公論』『改造』『日本評論』などとともに、民主主義を基調とする社会主義までの幅をもつ新しい論壇を形成した。この時期用紙不足が厳しく、資材をもった異業種資本が出版界に続々と進出する。GHQ(連合国最高司令部)から用紙の特別割当てを受けた『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版(1946)は発行部数150万部を超え、戦後日本のジャーナリズムに影響を与える。そのほか大衆娯楽誌『平凡』(1945)、中間小説誌『小説新潮』(1947)、生活誌『暮しの手帖(てちょう)』(1948)など、新しいスタイルの雑誌も登場する。第二次世界大戦後のわずかな期間、あだ花のように咲いたカストリ雑誌は、読み物、風俗を扱い、エロ・グロといわれながらも、抑圧から解放された日本人の意識を象徴していた。戦後10年、創刊された多くの雑誌は、GHQの干渉、インフレの収束によって淘汰(とうた)され、次の時代に移る。

 1956年(昭和31)、週刊誌の世界に出版資本が進出、『週刊新潮』はその第一号だが、これを機に週刊誌の時代が始まる。総合誌『週刊文春』『週刊現代』(ともに1959)、女性誌『週刊女性』(1957)、『女性自身』(1958)、大衆誌『週刊明星』(1958)、『週刊平凡』(1959)、さらに少年漫画誌『少年マガジン』『少年サンデー』(ともに1959)などが新しい読者層を発掘、続く1960年代以降の雑誌界の主流として週刊誌が定着する。60年安保闘争のころまでオピニオン・リーダーたりえた月刊総合誌も、「戦後」が終わり、大衆社会の出現とともにしだいに影響力を失っていく。かわってこの分野に『潮(うしお)』(1960)、『現代の眼(め)』(1961)といった従来の出版社とは異質な資本によって刊行される総合誌が一時現れた。一部学生、インテリ層をとらえ、1959年創刊の『朝日ジャーナル』などとともに70年安保闘争までの思想界をリードする。『文芸春秋』は「国民雑誌」と称し、ヒューマン・インタレストに訴えるノン・フィクション中心の編集で、幅広い読者層を獲得して、伝統的な総合雑誌の型を破っていく。安保問題の終息とともに総合雑誌の影はしだいに色褪(あ)せ、人々の意識、スタイルも多様化、散漫化し、日本経済の高度成長と重なり、読者の関心は思想、文化、社会からビジネス、マイホーム、レジャーや趣味に移ってゆく。

 主婦向け家庭実用雑誌であった『主婦の友』『婦人倶楽部』『婦人生活』『主婦と生活』の女性4誌も、女性の職場への進出によって地盤沈下し、BG(ビジネスガール。のちに通称がOL(オフィスレディ)に変わる)、ないし働いた経験をもった主婦層の出現により、ファッション、レジャーを中心とするグラフ誌『anan(アンアン)』(1970)、『non・no(ノンノ)』(1971)、団塊の世代(ベビーブームの1948年前後生まれ)を対象にしたニュー・ファミリー誌『クロワッサン』『MORE(モア)』(ともに1977)などへと移行する。これは同時にテレビ時代下の雑誌としての大型化、視覚化の流れでもあった。少年少女世代と成人世代の中間にあるヤング市場を志向して、男性雑誌が生まれ、カー、ファッション、ミュージックにセックス、漫画に劇画のいわゆる「劇画世代」をつくりだす。『平凡パンチ』(1964)、『週刊プレイボーイ』(1966)が若い男性の風俗をリードし、ユニークなミニ・マガジン『話の特集』(1966)、新しいライフスタイルを提唱した『宝島』(1973)、ウェストコースト(アメリカ西海岸)の風俗中心の記事で受け、「タテ割り」のレイアウトで目を引いた『POPEYE(ポパイ)』(1976)は、10代後半から20代前半の若者対象のグラフ誌の原型をつくった。タウン情報誌『ぴあ』(1972)、パロディー誌『ビックリハウス』(1974)も同型の類似雑誌を生み出すユニークな誌面を創出した。

 1980年代に入って、出版界は、従来の雑誌界にはみられなかった種類の大衆誌を市場に加えて、「本の時代」から本格的な「雑誌の時代」へと入っていく。『Newton(ニュートン)』(1981)をはじめとする自然科学系大衆誌の続刊、豪華スポーツ誌『Sports Graphic Number』(1980)の発刊、総合ダイジェスト誌『ダカーポ』(1981)、熟年雑誌『新潮45+』(1982)、ビジネスマン向け高級経済誌『NEXT』(1984)など、雑誌は読者の興味により、ジャンル別、階層別、年齢層に応じて多様な展開をみせ、それは女性雑誌の相次ぐ創刊誌においてもまた例外ではなかった。こうした傾向は、出版界に限られなかったから、世は「大衆」の時代から「分衆」「少衆」の時代に変貌(へんぼう)しつつあるといわれた。そのなかで視覚に訴える新しい雑誌として、グラフィック・マガジンの『FOCUS(フォーカス)』(1981)や、あとに続いた『FRIDAY(フライデー)』(1984)があった。スキャンダラスなテーマを上手に扱って、男女共通の読者を把握し、最盛期は発行部数200万部を超し、「フォーカスする、される」「フォーカス現象」という流行語をも生み出し、各種大衆誌の写真ページが一斉にこの手法をまねるようになった。しかし、このスキャンダリズムも、過激に走りすぎたり、プライバシー意識の台頭、世論の批判もあって問題を投げかけて、21世紀になると下降に向かう。

 1990年代に入ると、1980年代に芽生え始めた情報誌が全盛を迎える。もともと地方都市のタウン誌に源流があったが、日本全体の脱イデオロギー、思想の低下、「情報化」のなかで、『ぴあ』をはじめ求人、アルバイト、住宅、商品カタログ、テレビガイド、安売り旅行券、ブライダルなどあらゆる分野に、情報誌がビジネス機会をみつけだすことになる。しかし、ビジネスとしての雑誌事業は、つねにリスクがつきまとい、終・廃刊も多い。1996年に雑誌『思想の科学』が創刊50年目にして終刊、また伝統のある『中央公論』は、99年に中央公論社が読売新聞の系列に入ることによって休刊を免れた。また、『FOCUS』は2001年休刊となった(この浮沈の激しい雑誌の膨大な創刊号コレクションが東京経済大学に所蔵されている)。

 2000年代に入ると、日本のグローバル化、IT化、さらに経済の不安定、高齢化、少子化など新しい社会問題の台頭により、雑誌出版にも潮目がみられることになる。多くの著名なアメリカの経済雑誌、ファッション雑誌、科学雑誌、ニュース雑誌の日本語版の発行である。『ナショナル・ジオグラフィック』『ニューズウィーク』『マネー』などである。これらの雑誌は水準が高く、日本の文化、教育に一定の影響を残している。また、健康、環境、安全、生活の質の向上を目ざす雑誌が生まれている。

[鈴木 均・田村紀雄]

雑誌ライター

第二次世界大戦前の総合雑誌は、論壇といわれるアカデミズム中心の書き手にリードされるオピニオン・ジャーナリズムであった。第二次世界大戦後もその傾向は続いたが、週刊誌が雑誌の主流を占めるにつれて、専門のルポ・ライター、コラムニストが現れ、雑誌のセグメント化が専門の各種評論家を輩出させた。総合雑誌を舞台にして現れたのは、終戦直後の『日本評論』にルポルタージュの連載を続けた野口肇(はじめ)、村上一郎、ついで『中央公論』の三人組、藤島宇内(うだい)、村上兵衛(ひょうえ)、丸山邦男らであり、週刊誌出身者は草柳大蔵、梶山季之(かじやまとしゆき)、井上光晴(みつはる)、竹中労らであり、『文芸春秋』は、立花隆をはじめとして、大宅ノンフィクション賞を設けることによって、ルポ・ライターを含むノンフィクション・ライターを輩出させた。鈴木明や沢木耕太郎らがそうであるが、このほかにも電波ジャーナリズム出身の柳田邦男、田原総一朗、角間(かくま)隆、小中(こなか)陽太郎、新聞ジャーナリズム出身の本田靖春(やすはる)、上前(うえまえ)淳一郎、内藤国夫らにも多くの誌面を開放することによって、いわゆるニュー・ジャーナリズムの旗手たちを育成した。変り種は雑誌『思想の科学』で、男女、学歴、イデオロギーを問わず問題意識をもった書き手の登竜門になった。上坂冬子、大野力、しまねきよしは、その一例である。その後、一連の自動車工業労働をルポでとりあげた鎌田慧(さとし)、出稼ぎに焦点をあてた鎌田忠良(ただよし)、日韓問題を掘りおこした関川夏央(なつお)、斬新(ざんしん)な切り口で天皇制など日本という国の問題にアプローチしている猪瀬直樹、人物ルポ・アマゾン・電子技術など多方面で執筆した山根一眞(かずま)ら新しい世代が現れる。また女性のライターの台頭も著しい。日本の貧困の側面をついた久田恵、タウン誌編集者という変わり種の森まゆみをあげておく。しかし、この傾向も、20世紀の終盤には、情報誌が強大になるにつれ、オピニオンを武器としたライターに対して、情報、データを集めるタイプのフリーランスのライターが多数加わってきた。不況のなかで大学を卒業したもののなかには、いきなりフリーランスの仕事を自ら選びとるものもおり、時代の流れといえよう。

 ただ、日本の「物書き」と海外のライター、レポーターとの間には、いくぶんの相違がある。アメリカのライターの多くは、高い学歴、とくに大学または大学院でジャーナリズム・スクールを卒業したものが基本である。大学ですでにジャーナリストを目ざす教育カリキュラム、訓練、インターンシップを経験しており、学生時代に学内雑誌、リトルマガジンに執筆、取材、編集等にかならず参加してきている。その実業との接点のなかで、ライターの自主的団体、ギルド、専門機関のメンバーであることが必修条件である。彼らは、卒業して、地方の雑誌、業界専門雑誌から出発し、その筆力、取材能力、企画力を認められて大都市の雑誌に移り、最終的には、雑誌ジャーナリズムの王国ニューヨークやワシントンでの仕事を目ざす。社員記者かフリーランスライターかが問題ではなく、どのテーマに精通しているか、優れた記事をものにできるかが問われる。このようなポストの上昇移動を社会も期待している。彼らの活動は、ジャーナリストとしての高い教養、知識、技術、ネットワークのほか、厳しい職業倫理、ジャーナリストとしての社会的責任感に裏打ちされている。その職業団体は、つねに言論の自由と職業倫理に目を光らせており、違反に対しては名前の公表、除名などの制裁措置が課せられる。一方では、ジャーナリストへの国家や権力の不当な介入にはバックアップし、またジャーナリストの生活を援護するための仕事の紹介、原稿料の基準など周知する機関誌や年鑑(ライターズ・マーケット)の発行も行っている。それに対して、日本では、大学でのジャーナリスト専門教育の欠落、ジャーナリストの職業団体の未発達、ジャーナリストの適性、資格、能力の研究不足等があり、企業(雑誌出版社)横断的なジャーナリストの仕事(マーケット)は小さい。これらが、ジャーナリストの収入を不安定にしている。

[鈴木 均・田村紀雄]

世界の雑誌

アメリカの雑誌は種類の多さと圧倒的な発行部数で他国の雑誌ジャーナリズムにぬきんでているが、国内では全国メディアの役割を果たし、海外雑誌への影響力も大きい。その変遷は近代雑誌盛衰の歴史でもある。初期はイギリスやヨーロッパの雑誌の焼き直しにとどまっていたが、南北戦争後、資本主義の急速な成熟に伴い、マスプロ商品の広告媒体としての社会的機能を認知されるようになった。印刷技術の発達、雑誌郵送に対する優遇措置が講ぜられるに至って雑誌の総数がしだいに増加し、全国をカバーするものがでてきた。1893年『マンシーズ・マガジン』発行人のマンシーは、製作原価を割る定価設定で部数4万を1年半後に50万部に伸ばし、この発行実績を基礎に巨大な広告収入の獲得に成功し、編集面でも広く一般大衆を対象に定め、アメリカン・ジャーナリズムの幕を開いた。マンシーの革命的な広告獲得システムは他誌にも影響を与え、『レディズ・ホーム・ジャーナル』を嚆矢(こうし)として100万部の販売部数を達成する雑誌が出現し始めた。

 1920年代以降広告に依存するマス・マガジンの時代が続き、新雑誌も登場するが、50年代なかばにはニューメディアとしての商業テレビの急速な普及によって、広告市場を奪われ、生産費の上昇、教育水準の向上、関心の多様化に対応できず、『コリアーズ』『サタディ・イブニング・ポスト』が廃刊に追い込まれた。テレビ視聴者に匹敵する購読者の獲得をねらった『ライフ』は年間予約料の大幅値下げを行ったが、発行部数を850万部まで伸ばしながら、予約購読者は読者増につながらないとする広告主の主張や雑誌郵送料の値上げなどで行き詰まり、同種の『ルック』とともに休刊するに至る。雑誌の主流はゼネラル・インタレスト誌からスペシャル・インタレスト誌に変わり、出版経営も広告収入依存型から一部売りを重視する販売収入依存型へ移っていく。20世紀末の時点で1号当り1000万部という発行部数をもつ巨大な雑誌がアメリカには少なくない。これは、日本では書店やキヨスク、コンビニエンス・ストアなど店頭販売に重点を置いているのに対し、アメリカでは、伝統的に郵送による年間(または数年間)予約読者に比重があること、また予約読者に大幅な値引きが実施されていることなど流通の仕組みの相違もある。その予約システムの代表が『リーダーズ・ダイジェスト』『TVガイド』『ナショナル・ジオグラフィック』などである。

 イギリスでは長い歴史をもつ雑誌が多く、高級誌の『エコノミスト』『ボーグ』、ユーモア誌『パンチ』などがよく知られているが、大部数ではない。発行部数の多い雑誌では、400万部前後の『サンデー』(新聞折込)、ラジオ・テレビ番組誌などあるが、アメリカのような大部数のニュース誌はない。これは大都市に大きな新聞があるためと思われる。フランスではニュース誌『レクスプレス』『ル・ポワン』『ル・ヌーベル・オプセルバトゥール』、グラフ誌『パリ・マッチ』、高級ファッション誌『エル』などが健闘しているが、いずれも部数的には伸び悩んでいる。ドイツではもっとも影響力のある『デア・シュピーゲル』、世界最大のグラフ週刊誌『シュテルン』、人間と自然を主題にした『ゲオ』、もっとも古い伝統をもつ女性誌『ブリキッテ』などが有名である。ロシアではユニークな風刺漫画誌『クロコディール』、ダイジェスト誌『スプートニク』、グラビア誌『アガニョーク』、政治に重点を置いた内容の『イトーギ』などが発行されているが、下降気味である。中国では文化大革命の際大半の雑誌が廃刊されたが、「四人組」失脚後、創刊、復刊されたものもある。自由主義社会と異なり、政府の新聞出版総署と共産党の厳重な統制下にあり、雑誌そのものの創刊、発行が許可制になっている。また雑誌用紙の配分も握られており発行は容易ではない。ただ、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の「改革開放」路線以降、経済の資本主義化により、企業が活発化し、国民の生活向上意欲の増大で、雑誌メディアもこれに追随しなければならなくなっている。政府の発表では、雑誌は1970年にわずか21種であったものが、2007年には約1万種にもなった。各地でビジネス、生活、ファッション、風俗をテーマにした雑誌が生まれているが、政治や社会問題を扱う雑誌は依然として許可されていない。政治を扱う『北京(ペキン)周報』など党の管理下にある。その他の「商業雑誌」もつねに廃刊、停刊の瀬戸際にある。それでも、人気の高い大衆映画誌『大衆電影』、家庭雑誌『母嬰(ぼえい)世界』、商業家向け『商業文化』などは発行されている。

[鈴木 均・田村紀雄]

『常盤新平著『アメリカの編集者たち』(1980・集英社)』『尾崎秀樹・宗武朝子著『雑誌の時代』(1979・主婦の友社)』『田村紀雄著『日本のリトルマガジン』(1992・出版ニュース社)』『金平聖之助著『アメリカの雑誌』(1993・日本経済新聞社)』『塩沢実信著『雑誌100年の歩み――時代とともに誕生し盛衰する流れを読む 1874―1990』(1994・グリーンアロー出版社)』『荒俣宏著『20世紀 雑誌の黄金時代』(1998・平凡社)』『佐藤卓己著『「キング」の時代――国民大衆雑誌の公共性』(2002・岩波書店)』『桑名淳二著『データが語るアメリカ雑誌』(2002・風濤社)』『桑名淳二著『アメリカ雑誌をリードした人びと』(2003・風濤社)』『桑名淳二著『アメリカ雑誌は表紙で勝負する』(2004・風濤社)』『山本武利編『新聞・雑誌・出版』(2005・ミネルヴァ書房)』『森一道『香港情報の研究』(2007、芙蓉書房出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「雑誌」の意味・わかりやすい解説

雑誌 (ざっし)

一定の間隔をおき長期にわたって刊行を続ける出版物。新聞や印刷通信物などとあわせて定期刊行物periodical,または図書館などにおいては逐次刊行物などと呼ばれることもあるが,新聞などにくらべると1号ごとの内容的なまとまりが強く,発行間隔がより長いことに耐えうるような編集,印刷,造本などの配慮がなされる。継続刊行ではあっても,双書などのように当初から全容がはっきりしていてその部分をかさねてゆくのとは異なり,1号ごとの刊行が主眼となり誌齢は試行の発展(または縮小)として結果する。

雑誌の出版にあたっての特性は(1)比較的少額の経費でも出版をはじめうること,(2)継続によってときに幾何級数的な効果の増大を実現できること,という2点に集約できるだろう。日本の文学雑誌の最初というべき尾崎紅葉らの《我楽多文庫(がらくたぶんこ)》は,学生時代の彼が小説好きの友人たちと手書き作品を編んだ回覧雑誌として出発した。また,二つの世界大戦をはさむ時代の日本に,〈かつてない同人雑誌の盛行〉(高見順)がみられたことは,社会の変動期に青年層をはじめとする表現者たちの発表の場として自主刊行の雑誌がふさわしかったという事情によるものだった。また明治中期から数度の盛期を画しつつ増大を続けている短歌,俳句の結社同好誌は,さまざまの趣味雑誌が会員の関心と密接して長命を続けているその先駆といえるだろう。欧米諸国において宗教各派の教会の説教誌が盛んであることと対照的な様相ともみることができる。1970年代ごろから日本の地方都市で数を増している〈タウン誌〉は,商店会や業界の広告によって経費をまかなって,その地特有の生活情報を主内容とすることにより,文化活動の支えとして雑誌機能に着目した例である。

 低コストという利点からは,政治や経済の担当者がその勢力の浸透手段として雑誌を用いることもたやすいという結果も導かれる。各国政府はいずれも対外広報活動に雑誌を重視しており,公式記録や政府方針をくわしく説明するための文書中心の雑誌のほかに,知識人むけの文化情報誌や,公衆むけの読物雑誌,グラフ誌などと,対象や内容をわけて発行している国もある。また,国内むけをふくめての行政機関や政治集団の広報宣伝(宣伝)においては,みずから発行主体と名のることなく,出資者として雑誌の方向をリードすることも行われている。また,一般企業のPR雑誌はしだいに多様化して,グラフィックな華やかさだけでなく,著名な執筆者を動員する高級誌志向も増えてきた。

 日本における営利事業としての出版にとって,雑誌は格別に重要な比重が置かれてきた。大正年間から昭和初年にかけて,出版物を全国統一価格(定価)で売って個別の値引きを禁ずるのとひきかえに,売残りは出版元が引き取るという委託販売制(返品制)が採用されてゆくうえで,雑誌はこの商慣行が確立するためのかなめとなった。単行本では,1人の人間は1冊しか買わないが,雑誌は同じ読者が繰り返して購買者となる。増刷の配本を受けるという個別手続なしに,小売書店は継続的に利をあげることができ,売切れはかえって次号読者を増す誘因となる。誌名が知れ渡れば毎号の発売日を記憶する読者もでてくる。日本では大多数の小売書店が書籍よりは雑誌を経営の主軸に置き,そのことが出版社にも大量部数の雑誌を希求させる原因となっている。

 しかし,継続刊行の意義は経営面の累積効果だけにあるのではない。発行主体の思想の明証としてこそ,持続の活動軌跡はいっそうみごとに働く。たとえば第2次世界大戦にむかう日本で,反戦を主張し続けることができたのは,矢内原忠雄《嘉信》(1938),桐生悠々(きりゆうゆうゆう)《他山の石》(1934),正木ひろし《近きより》(1937)などの個人雑誌であった。営利事業としての新聞や出版が戦時体制に同調したり沈黙していったのちにも,抵抗の場として生き続けたのは極小の発行主体による雑誌であった。感情や意見を継続的に発表するためには,雑誌がもっとも労少なく効のたしかな媒体だという特性は今後も続くだろう。創刊にもまして持続が問われる状況というべきかもしれない。また,アメリカはよく〈雑誌王国〉といわれるが,これは強力な全国紙がなかったアメリカにおいては,雑誌が全国的な媒体として活躍しており,数量も多いことによる。

雑誌のかたちをした最初の定期刊行物は,ハンブルクの神学者で詩人だったヨハン・リストJohann Ristが創刊した《エアバウリッヒェ・モーナツ・ウンターレードゥンゲンErbauliche Monaths Unterredungen》(1663-68)だといわれている。これに続いて,フランスの著述家ドニ・ド・サロDenis de Salloの《ジュルナール・デ・サバンJournal des sçavans》とイギリスのローヤル・ソサエティの《フィロソフィカル・トランザクションズPhilosophical Transactions(哲学論集)》がともに1665年に刊行された。これらはいずれも,17世紀の知識人たちが学問への意欲を語り,その成果を同好の士に知らせようとするものだった。72年には知識人の〈たのしみ〉のための雑誌《メルキュール・ギャランMercure Galant》(のち1714年に《メルキュール・ド・フランスMercure de France》と改題)が創刊された。作家ジャン・ドノー・ド・ビセJean Donneau de Viséが法廷ニュースや小話や小詩片を編集したこの雑誌のあとを追って,数年のうちにドイツ,イギリスなどに同種の雑誌が続いた。

 イギリスの印刷業者エドワード・ケーブEdward Caveが《ジェントルマンズ・マガジンGentleman's Magazine》を1731年に創刊して成功してのち〈マガジンmagazine〉の語をつけた雑誌が次々に生まれた。もとは倉庫や貯蔵庫を意味したこの語が18世紀なかばには雑誌をさすことばとして定着して,アメリカ最初の雑誌が41年にフィラデルフィアで2誌生まれたときにも,その名は《アメリカン・マガジンAmerican Magazine》(創業者ベドフォードAndrew Bedford),《ゼネラル・マガジンGeneral Magazine》(同B. フランクリン)であった。日本最初の雑誌は1867年(慶応3)に柳川春三(やながわしゆんさん)が創刊した《西洋雑誌》である。これは,江戸幕府の洋書調所の洋学者たちの研究グループであった会訳社が発行主体となって,主としてオランダの雑誌から重要記事を翻訳編集したものであった。

知識人を読者とすることによって18世紀から19世紀にかけての欧米の雑誌界は評論と文芸の全盛時代を迎える。イギリスではD.デフォーの《レビュー》(1704-13),J.スウィフトが半年間論説を担当した《エグザミナーExaminer》(1710-12),J.アディソンとR.スティールの活躍した《スペクテーター》(1711-12)などが,政治・外交・文化の諸問題について鋭い考察を続けた。政府は1712年の印紙税などによって批判的な言論をおさえようとしたが,ジャーナリズムの勢いは衰えなかった。フランスではP.マリボーの《スペクタトゥール・フランセSpectateur Français》(1722-23),A.F.プレボーの《プール・エ・コントルLe Pour et Contre》(1733-40)などが相次ぎ,ルイ王朝の弾圧に遭ってオランダへ亡命した人たちが刊行した雑誌だけでもフランス革命にいたるまで30をかぞえる盛況を示した。ドイツではF.ニコライの創刊した《ブリーフェBriefe,die neueste Litteratur betreffend》(1759-65)誌に,レッシングやM.メンデルスゾーンが編集委員として参加し文芸雑誌の伝統をつくった。ゲーテが編集に参画していた《フランクフルター・ゲレールテン・アンツァイゲンFrankfurter Gelehrten Anzeigen》(1772-90)や,〈ドイツの定期刊行物の父祖〉といわれた《アルゲマイネ・リテラトゥーア・ツァイトゥングAllgemeine Literatur-Zeitung(総合文芸新聞)》(1785)など,ドイツの雑誌はヨーロッパのどの国よりも文芸的な内容を特色としていた。アメリカでは,T.ペインの編集した《ペンシルベニア・マガジンPennsylvania Magazine》(1775)をはじめとして,《アメリカン・ミュージアムAmerican Museum》(1787),《マサチューセッツ・マガジンMassachusetts Magazine》(1789),《ニューヨーク・マガジンNew York Magazine》(1790)などにより18世紀末に評論雑誌の全盛時代が出現した。

 日本では,森有礼や福沢諭吉を同人とする明六社が1874年に創刊した《明六雑誌》や,成島柳北(なるしまりゆうほく)が77年に創刊した《花月新誌》などが評論雑誌の初期を代表した。明治10年代にかけて,自由民権の主張をかかげる雑誌が続出したが,政府の言論弾圧によって短命を余儀なくされた。徳富蘇峰の主宰した民友社が平民主義をかかげて87年に《国民之友》を創刊したのにたいして,志賀重昂,三宅雪嶺らの政教社が翌88年に日本主義を唱えて《日本人》を創刊したとき,日本も本格的な評論雑誌の時代を迎えた。欧米との対等条約を主張して《日本人》は弾圧され,《国民之友》は二葉亭四迷らの小説を掲載するなど知識人の広い関心にみごとに対応した。明治20年代に各種の実用的な雑誌を刊行していた博文館は95年にそれらを総合して,評論雑誌《太陽》と文芸雑誌《文芸俱楽部》を創刊し,ともに明治後期を代表する雑誌とすることに成功した。大正時代に《中央公論》が編集長滝田樗陰(たきたちよいん)のもとでデモクラシー(民本主義)を唱えて文芸の秀作を相次いで掲載し,1919年に《改造》が海外の新思想の紹介につとめて,たがいに知識人読者層の拡大を競ったとき,日本の評論雑誌の時代も本格的なものとなった。芸術や科学の諸領域の雑誌も,とくに第1次世界大戦以後に盛んとなり,写真の採用やレイアウト,用紙,造本などのくふうもすすんだ。しかし,日華事変から第2次世界大戦にかけて,内容や資材についての統制が強化され,その過程で時局を論ずることを主とする雑誌には〈総合雑誌〉という日本独特の官製呼称が与えられた。

産業革命と都市化の進行によって,安い読物をもとめる新しい読者層が生まれ,大部数を競う娯楽雑誌が登場した。イギリスでは《ペニー・マガジンPenny Magazine》(1832-46),《ペニー・サイクロペディアPenny Cyclopaedia》(1833)などの競争に続いて《チェンバーズ・ジャーナルChamber's Journal》が1845年に発行部数9万部に達した。ドイツも《ペニヒマガジンPfennigmagazin》(1833)などに続いて《ファミリエンブラットFamilienblatt》が70年代に40万部を記録した。81年に《ティット・ビッツTit-Bits》を創刊したイギリスのニューンズGeorge Newnesは,その成功から大衆むけの雑誌を幾種類も刊行することによって出版業を利益の多い企業とした。コナン・ドイルがシャーロック・ホームズ探偵物語を連載した《ストランドStrand》もニューンズの雑誌群の一つだった。また,19世紀末から20世紀にかけてイギリスの新聞王となるハームスワースAlfred Harmsworth(のちのノースクリッフ卿 Lord Northcliffe)も《ティット・ビッツ》の寄稿者育ちだった。19世紀末にはアメリカでも激しい大衆雑誌競争が演じられた。《コスモポリタンCosmopolitan》(1886),《マクルーアMcClure's Magazine》(1893),《マンセーMunsey's Magazine》(1893)などがそれぞれ定価を下げて読者を獲得することにつとめた。また88年創刊の《ナショナル・ジオグラフィック・マガジンNational Geographic Magazine》は美しい写真で世界の珍しい風物を紹介する雑誌として,一般家庭を対象に着実に部数をのばし,現在は約1000万部に達している。

 女性雑誌もまた,都市の新人口となった家庭婦人の生活指針と娯楽読物を主内容としてこの時期に急速に発展した。イギリスでは,6ペニーの月刊誌《レディズ・マガジンLady's Magazine(婦人の雑誌)》(1770)や版画で服飾ページをはじめて試みた《レディズ・マンスリー・ミュージアムLady's Monthly Museum(月刊婦人博品館)》(1798)などを先駆として,19世紀を通じてさまざまな女性雑誌が競い合った。《フィーメイルズ・フレンドFemale's Friend(女性の友)》(1846)をはじめ女性の権利を主張する雑誌もそのなかから生まれた。《イングリッシュ・ウィミンズ・ドメスティック・マガジンEnglish Women's Domestic Magazine(イギリス婦人の家庭雑誌)》が1852年にそれまでの定価1シリングを2ペンスに下げ,富裕層のたのしみよりも平凡な市民の家事に内容を絞って成功したことが,家事中心の雑誌を盛んにさせた。服装パターンや実用記事を盛った家庭雑誌が出版企業をなりたたせるようになったのは,《マイラズ・ジャーナル・オブ・ドレス・アンド・ファッションMyra's Journal of Dress and Fashion(マイラの服飾ジャーナル)》(1875)と《ウェルドンズ・レディズ・ジャーナルWeldon's Ladies' Journal(ウェルドン婦人)》(1875)がはげしい競争を演じるなかにおいてであった。アメリカではファッション画を重視した《ゴーデーズGodey's Lady Book》(1830)のあとを受けて,《ハーパーズ・バザーHarper's Bazar》(1867年創刊,のち1929年にHarpar's Bazaarとつづりを変更)が服装記事に重点を置いて成功した。83年に創刊した《レディズ・ホーム・ジャーナルLadies' Home Journal》は経営者カーティスCyrus Curtisのもとでまもなく40万部の発行部数を実現して企業としての大衆出版の記録をつくった。89年以降,同誌はボックEdward Bok編集長のもとでセンチメンタリズムと実用記事とによる大衆ジャーナリズムを実現してゆく。《グッド・ハウスキーピングGood Housekeeping》(1885)は消費者の立場からの商品テストを続け,《ボーグ》(1892)は高級ファッションを重点とする,など特色ある編集によってアメリカの女性誌は読者を分け合っている。

多国籍型ともいうべき,多くの言語に翻訳される雑誌の成功は,20世紀の出版の一つのエポックであった。ウォーレスDe Witt Wallaceが,さまざまな書籍雑誌から好評を得そうな内容を抄録してポケット版とした《リーダーズ・ダイジェスト》(1922)は,まずアメリカ東部の諸都市で歓迎され,たくさんの類似誌の競争をふりきったのち,〈平均的な読者の関心に応じる楽観的で持続的な読物〉集を1939年イギリスに,40年スペイン語圏にと,送り出し,それぞれの発行地で独自の内容を加味しながら,複数国で刊行する雑誌の首位を保っている。

 週刊情報誌と写真報道誌によって現代状況にさきがけたルースHenry Luceもまた,現代アメリカ人の情報希求にみごとに応じた事業家であった。《タイム》(1923)の,自社取材網により調査を行き届かせむだのない文章でまとめたニュースは,〈タイム・スタイル〉と評された。産業情報誌《フォーチュン》(1930)に続いて彼は,総アート紙の大版に話題の人物,テーマを写真物語とする《ライフ》(1936)でまったく新しい型の雑誌を創始した。《タイム》の成功によりアメリカ国内で《ビジネス・ウィークBussiness Week》(1929),《U.S.ニューズU.S.News and World Report》(1933),《ニューズウィーク》(1933)などの競争誌が生まれただけでなく,西ドイツの《シュピーゲル》(1947),フランスの《レクスプレスL'Express》(1957),イタリアの《パノラマPanorama》(1962)など戦後ヨーロッパ各国にも週刊情報誌が並び立つこととなった。《ライフ》は第2次大戦前後に飛躍的に部数を増大させ,71年には約700万部に達したが,製作コストを償うだけの広告収入を得ることができなくなって72年末に廃刊した。しかし西ヨーロッパでは,フランスの《パリ・マッチ》(1949),西ドイツの《シュテルンStern》(1948),イタリアの《オッジOggi》(1945)など戦後生れの写真ニュース誌が仕事を続けている。

日本で大衆雑誌が急成長をはじめたのは,第1次世界大戦をはさむ時期からであった。《講談俱楽部》(1911)が創刊まもなくに講談師たちの反発に直面して,余儀なく作家たちに〈新講談〉を書かせたことが,思いがけず新しい読者層に応じた文芸を射当てた結果となった。大衆文芸とのちに呼ばれることになるこの新文化を少年層や婦人層に試みる《少年俱楽部》《婦人俱楽部》などを次々に創刊した講談社の野間清治は,1925年に《キング》を創刊して〈100万部の国民雑誌〉を実現し雑誌王国を完成させた。

 《主婦之友》(1917)は,料理,家計など家事の実用記事を盛り,のちには有名人の教訓や大衆作家の作品を加えて,大正年間に発行部数第1位の雑誌となった。創業者石川武美は〈一人一業〉を唱え主婦層だけを事業の対象としたかわりに,実用講座などの書籍出版や家庭用商品などを販売する〈代理部〉の創設によって,経営を戦略的に展開した。《小学六年生》(1922)によって家庭の学習熱をとらえた相賀武夫は,〈セウガク一ネンセイ〉にいたる学年別雑誌を次々に育てあげ,小学館の基礎をきずいた。こうした児童雑誌や婦人雑誌の競争では,とくに目をひく付録を数多く添えることが重視され,それが戦前日本の大衆雑誌の一特徴となっていた。

 出版業としての雑誌活動に戦後的な特性を発揮したという点では平凡出版を筆頭にあげるべきだろう。読物誌だった《平凡》(1945~87)をスター・ゴシップ雑誌とすることで成功した清水達夫は,若い世代の男女を主対象としてその風俗をリードする雑誌群を並列させて事業を拡大し続けている。《週刊平凡》(87年廃刊),《平凡パンチ》(88年廃刊)から《アンアン》《クロワッサン》《ポパイ》《ブルータス》などを擁して,83年に社名をマガジンハウスと改称し雑誌専業の方向をいっそう鮮明にした。戦前に小学館の子会社としてスタートした集英社はスター雑誌《明星》(1948)で成功してのち,少女マンガ雑誌《マーガレット》を中心に平凡出版と同様な青年風俗誌を続出した。《週刊明星》(91年廃刊),《プレイボーイ》《ノンノ》《モア》《月刊プレイボーイ》という布陣は,平凡出版の各誌とそれぞれに競い合っている。ただし集英社はこれらの雑誌に主軸をおきながら,文芸誌《すばる》や文学全集,各種講座,文庫から単行本にいたる総合出版社として事業を展開している。

 明治以来の文芸出版社だった新潮社がサラリーマン層を主読者とする《小説新潮》(1947)によって,文芸春秋社の《オール読物》(1930)にいどんだころから,〈中間小説〉と呼ばれる文芸形式が大部数の小説雑誌の特色となってきた。純文学と大衆小説とのあいだという意味でのこの新形式は,推理,ユーモア,SFなどのさまざまな展開をともないつつ,逆に純文学と大衆小説という区別をとりはらう原動力として働いた。両月刊誌の競争は,まもなく週刊誌の連載小説にひろがり,さらには大手出版社が次々に小説雑誌を経営の要部に位置づけていったからである。

 時勢の動向にたいする批判性においては,岩波書店の《世界》(1946)が,吉野源三郎編集長のもと,自主的な平和主義外交を主張する知識人たちの共同戦線を保つ働きを続け,その没後も公害問題やアジア外交にたいする分析をのせている。また読物誌だった《文芸春秋》(1923)は戦後,ドキュメンタリーに力をそそぎ,占領時代の暗部,保守政治の裏面,日本共産党の内部事情などを長編の記録読物として,戦後的な国民雑誌を実現した。また1970年代から,平凡社の《別冊太陽》(1972)の成功をさきがけとして書籍的な雑誌としてムックmook(magazineとbookの合成語)と呼ばれる雑誌群が現れ,急速に展開した。

大量部数の雑誌には,おびただしい数の広告が掲載されている。出版社は,雑誌の販売収入だけでなく,ときにはそれを超えて,広告主からの広告掲載料収入を期待できる。アメリカでは1940年代ごろから,日本では60年代ごろから,広告を多数の読者の目に触れさせる媒体としての機能が雑誌刊行の主眼となりはじめた。80年代の日本で,中堅以上の出版社が相次いで新雑誌創刊をくわだて,既存誌の性格変更を試みることが頻繁となったのはこの理由による。したがって,新企画は消費財の広告を得やすい生活情報誌や婦人雑誌の領域に集中する。

 印刷工務にかかわる面の技術の進展がテンポを速め,雑誌のあり方にも少なからぬ影響を与えるだろう。とくにコンピューターの採用は,はじめ営業面の計数処理に使われていたが,近年に編集工程の電子化をすすめさせている。書斎や居間がワークステーションとして情報ネットワーク化される段階では,とじられたページ群というかたちをとらないで,情報が編集センターから端末にディスプレーされるという状態も生まれている。

 紙によらない雑誌として戦後の一時期にソノシートによる音声の雑誌がフランスや日本で続いていたことがあるし,もっと簡便な方法として,カセットテープにダビング(複写録音)したメッセージをレコード店で市販することが青年グループで行われていたこともある。近年では,CD-ROMの形態による雑誌も一部でみられる。巨大化と画一化が進行する他面で,新技術が少数者の創造と持続をささえる働きをしていることを無視してはなるまい。
出版
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百科事典マイペディア 「雑誌」の意味・わかりやすい解説

雑誌【ざっし】

一定の誌名を冠し,報道,解説,評論,娯楽,実用記事などをおもな内容とする継続的・定期的刊行物。情報伝達,知的啓蒙,娯楽提供,広告媒体の機能をもち,時事性と言論性を有しているコミュニケーション・メディアとして,ジャーナリズムのなかでも独自の役割をになっている。週刊,月刊が多く,旬刊,半月刊,隔月刊,季刊もある。総合雑誌,専門誌等の商業雑誌のほかに,各種団体の機関誌,共通の問題意識をもつグループの同人雑誌,個人の雑誌,タウン誌,ミニコミ誌さらに政府の広報誌,企業のPR誌や社内報もある。一般に文字を中心にさし絵や写真を組み合わせて伝達内容を表現するが,漫画雑誌や写真を主とするものも増えている。1998年の日本の雑誌の総発行点数は3359点,発行部数は50億4898万冊で,書籍を含めた総発行部数64億8144万冊の78%を占めている。雑誌の起源は,ハンブルクの詩人・神学者ヨハン・リストが1663年に創刊した《エアバウリッヒュ・モーナツ・ウンターレドゥンゲン》や,1665年フランスのドニ・ド・サロが新刊書の要約を掲載,発行した《ジュルナール・デ・サバン》などとされる。しかし,今日雑誌を意味するマガジンmagazine(倉庫の意)の語を初めて冠したのは1731年英国で発行された《ジェントルマンズ・マガジン》といわれる。日本では1867年発行の《西洋雑誌》が最初とされているが,その前年に季刊雑誌《俳家新聞》が出ている。しかし新聞との区分が意識され,今日いう雑誌らしいものが出現したのは1874年発行の《明六雑誌》あたりからといえる。明治中期から雑誌出版は企業化されて出版社の主要刊行物の一つとなった。しかし,雑誌はその言論性のゆえに,自由民権期から大正・昭和初期の社会思想興隆期,さらに第2次大戦期から敗戦後の占領期へかけて,常に権力による言論規制を最も強く受けてきた。
→関連項目マス・コミュニケーション

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雑誌」の意味・わかりやすい解説

雑誌
ざっし
magazine; periodical

特定の誌名を冠し,種々の記事を掲載した定期刊行物。情報伝達,意見伝達,娯楽提供の機能をもつマス・メディア。週刊,月刊が主流だが,旬刊,隔週刊,隔月刊,季刊などもある。内容によって総合雑誌,専門雑誌,娯楽雑誌,教育雑誌,各種団体の機関誌,個人雑誌,広報誌などに,また購買層によって一般誌,男性誌,女性誌,ティーンズ誌などに分けられ,評論,解説,実用記事などのほか時事問題,娯楽読み物,コラム,小説,まんがなどを組み合わせている。今日の雑誌のさきがけとなった定期刊行物は,1663年から 1668年までドイツで刊行された "Erbauliche Monaths-Unterredungen"であるとされる。フランスでは 1672年に週刊の文芸新聞『メルキュール・ギャラン』Mercure Galant(→メルキュール・ド・フランス)が創刊され,イギリスでは,ジョゼフ・アディソンとリチャード・スティールによるエッセー新聞『タトラー』が 1709年に,『スペクテーター』が 1711年にそれぞれ創刊された。日本で雑誌の先鞭をつけたのは,慶応3(1867)年創刊の『西洋雑誌』とされる。近年では,インターネットで読むことのできる電子雑誌(→電子出版)もある。(→出版

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図書館情報学用語辞典 第5版 「雑誌」の解説

雑誌

主題,読者層,執筆者層などにおいて一定の方向性を持つ複数の記事を掲載している逐次刊行物.逐次刊行物を雑誌と新聞に大別したり,逐次刊行物中の定期刊行物の中に雑誌を置いたり,あるいは,出版物を書籍と雑誌に大きく分ける出版流通などに見られるように,雑誌の位置付け方はさまざまである.第二次世界大戦後の日本では出版物の売上げ高の過半を雑誌が占めていたが,近年,急激に減っている.また,理工系の研究図書館では,資料購入費,利用の大部分を学術雑誌が占める状況にある.図書館では,雑誌の各号を年や巻単位で製本し,製本した雑誌は図書とみなすことが多い.

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普及版 字通 「雑誌」の読み・字形・画数・意味

【雑誌】ざつし

雑記冊子。

字通「雑」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の雑誌の言及

【出版】より

…出版とは人間の思想を公表・伝達するために,パッケージとしての書籍や雑誌を製作,発行,販売する一連の営みのことである。書物は古代以来,粘土板,パピルス,羊皮紙,絹,それに紙など,さまざまな材料を用いて,筆写,印刷などの手段により,さまざまな形態で作られ,時間と空間の制約を超えて伝えられてきた。…

※「雑誌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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