精選版 日本国語大辞典 「電気事業」の意味・読み・例文・類語
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電気を生産し(発電)、搬送し(送電)、需要家に配分する(配電)事業。国民生活にも産業活動にもなくてはならない電気の供給に責任を有する事業であり、典型的な公益事業の一つである。
商品としての電気の最大の特徴は、貯めることができない点にある。蓄電池やダム式水力発電所を使えば、電気を貯めることはある程度可能であるが、それらの規模は、電気事業全体のなかではきわめて限られている。したがって電気事業では、需要と供給を瞬時に調整し停電を防止する系統運用が、きわめて重要な意味をもつ。
[橘川武郎 2022年10月20日]
電気を自家用にではなく一般向けに供給する発電所は、1882年にロンドンとニューヨークで、ほぼ同時に運転を開始した。これが、世界的な意味での電気事業の創始である。
日本では、その翌年の1883年(明治16)に、最初の電力会社である東京電燈(でんとう)(東京電力の前身)が設立された。その後の日本電力業の歴史は、産業体制の変化に注目すると、次の四つの時代に大きく区分することができる。
〔1〕民有民営の多数の電力会社が主たる存在であり、それに、地方公共団体が所有・経営する公営電気事業が部分的に併存した時代(1883年~1939年3月)。
〔2〕民有国営の日本発送電と9配電会社が、それぞれ発送電事業と配電事業を独占的に担当した電力国家管理の時代(1939年4月~1951年4月)。
〔3〕民有民営・発送配電一貫経営・地域独占の9電力会社が主たる存在であり、それに、地方公共団体が所有・経営する公営電気事業や特殊法人である電源開発(株)、官民共同出資の日本原子力発電(株)などが部分的に併存する9電力体制の時代(1951年5月~2015年3月、1988年10月の沖縄電力の民営化以降は、厳密には「10電力体制の時代」となった)。
〔4〕2011年(平成23)3月の東京電力福島第一原子力発電所事故を経て、2016年4月に電力小売全面自由化、2020年(令和2)4月に発送電分離が実施され、10電力体制が崩壊して、電力市場における競争が本格化した時代。
このうち〔1〕の時代は、電力会社間の市場競争の有無によって、以下のように、さらに三つの時期に細分化される。
(1)おもに小規模な火力発電に依拠する電灯会社が都市ごとに事業展開し、競争がほとんど発生しなかった時期(1883年~1906年)。
(2)おもに水力発電と中長距離送電に依拠する地域的な電力会社が激しい市場競争(「電力戦」)を展開した時期(1907年~1931年)。
(3)カルテル組織である電力連盟の成立と供給区域独占原則を掲げた改正電気事業法の施行により、「電力戦」がほぼ終焉(しゅうえん)した時期(1932年~1939年3月)。
また、〔3〕の時代も、市場競争の有無やパフォーマンス競争の強弱によって、
(1)民営9電力会社による地域独占が確立しており市場競争は存在しないが、パフォーマンス競争が展開された時期(1951年5月~1973年)、
(2)引き続き地域独占が確立しており市場競争が存在せず、パフォーマンス競争も後退した時期(1974年~1994年)、
(3)電力自由化の開始により、電力の卸売部門と小売部門で市場競争が部分的に展開されるようになった時期(1995年~2015年)、
の三つの時期に細分化される。
以上のように概観することができる日本電力業の歴史の大きな特質は、国家管理下におかれた〔2〕の時代を例外として、基本的には民営形態によってきた点に求めることができる。電力業は公益性の高い産業であるが、日本の場合には、国営化や公営化の途を選んだ多くのヨーロッパ諸国と異なり、民営方式を選択した。つまり、民有民営の電力会社が企業努力を重ねて、「安い電気を安定的に供給する」という公益的課題を達成する、民間活力重視型の方針を採用したわけである。日本電力業の歴史に評価を下すには、この「民営公益事業」という選択が適切であったか否かが、重要な判断基準になる。
[橘川武郎 2022年10月20日]
「民営公益事業」ではない例外的な仕組みであった電力国家管理に終止符を打ったのは、1951年(昭和26)5月に実施された電気事業再編成であった。再編成の結果、北海道・東北・東京・中部・北陸・関西・中国・四国・九州の民間9電力会社が誕生し、9電力体制が成立した。9電力体制は、1988年10月の沖縄電力民営化により10電力体制に姿を変え、今日も続いている。9電力体制の特徴は、(1)民営、(2)発送配電一貫経営、(3)地域別9分割、(4)独占、の4点に求めることができる。
電気事業再編成によって誕生した9電力各社は、1950年代後半から1970年代初頭にかけての日本経済の高度成長期に、「低廉で安定的な電気供給」を実現した。この時期は、民間電力会社が企業努力を重ね活力を発揮して、「低廉で安定的な電気供給」という公益的課題を達成した、日本電力業の歴史全体のなかでも特筆すべき「黄金時代」だったということができる。
高度成長期に、日本電力業の特徴である「民営公益事業」方式が、大きな成果をあげることができた理由は、次の2点に求めることができる。
第一は、のちの時代と異なり、官と民の間に緊張関係が存在したことである。この時期には、電力国家管理の復活をもくろむ政府と、民営9電力体制の定着を目ざす民間電力会社とが、官営か民営かをめぐって、つばぜり合いを繰り広げた。戦前の電気事業法が廃止された1950年から戦後の電気事業法が制定される1964年までの間に14年間の空白期間が生じたのは、経営形態をめぐる対立が深刻だったからである。政府は、特殊法人の電源開発(株)を設立し、佐久間ダムを建設させて、官営の優位を誇示した。これに対して、9電力会社の一角を占める関西電力は、単独で黒部ダムと黒部川第四発電所を建設し、民間でも大規模ダム開発が可能であることを示した。両者の対立は、結局、経済性の観点から電源構成の火主水従化と火力発電用燃料の油主炭従化を推進した民営方式の勝利という形で終結し、1964年に制定された新電気事業法によって、民営9電力体制が法認された。
「民営公益事業」方式の「黄金時代」が到来した第二の理由は、市場独占が保証されていたにもかかわらず、9電力各社が活発に合理化競争を展開したことである。1950年代後半から1970年代初頭にかけての時期には、前後の時期とは異なり、電気料金の改定は、9社一斉に実施されず、各社ばらばらに行われた。そのため、9電力各社は、他社よりも少しでも長く料金値上げを実施しないですむよう、競い合って経営合理化に取り組んだ。その結果、電源の大容量化、火力発電の熱効率向上、火力発電燃料の油主炭従化、水力発電所の無人化、送配電損失率の低下などが急速に進み、「低廉で安定的な電気供給」が実現した。この時期の9電力会社は、市場独占を保証されていたにもかかわらず、民間活力を大いに発揮し、「お役所のような存在」ではなかったのである。
1973年に発生した石油ショックは、日本経済の高度成長だけでなく、9電力体制の「黄金時代」をも終焉させた。政府・9電力会社間の緊張関係、電力会社間の合理化競争、という「黄金時代」を支えた二つの要素が、いずれも消滅したからである。
政府・9電力会社間の距離が狭まった背景には、電力施設立地難の深刻化と原子力開発の重点化という二つの事情が存在した。
1970年代に入ると産業公害が大きな社会問題となり、その影響を受けて電力関連施設をめぐる立地難が深刻化した。この立地難を、9電力会社は独力で克服することはできなかった。電力各社は行政への依存を強めることによって立地難を緩和しようとしたのであり、1974年の電源三法の施行は、それを象徴する出来事であった。
原子力政策も、政府・9電力会社間の距離を狭めるうえで大きな意味をもった。「安定的な電気供給」を至上命題として掲げた9電力会社は、石油ショック時の石油輸入途絶への危機感をきっかけにして、原子力開発に全力をあげた(1973年には日本の電源構成に占める石油火力の比率は73%に達していた)。それは、「石油ショックのトラウマ」とでもよぶべき状況であったが、9電力会社が推進した原子力開発は、スムーズに進行したわけではなかった。このころには原子力発電の安全性に対する不安感が、国民の間に根強く広がっていたからである。十分な国民的コンセンサスが得られぬ状況下で原子力開発を進めることになった9電力会社は、政府による強力なバックアップを必要とした。このような脈絡で、原子力政策は、政府と9電力会社との間の距離を狭める意味合いをもったのである。
石油ショックに伴う原油価格の急騰を受けて、9電力会社は、1974年から1980年にかけて、電気料金を三度にわたり大幅に値上げした。1974年以降、9電力(沖縄電力民営化以降は10電力)は、電気料金を改定する際に、横並びでほぼ一斉に行動するようになった。電力業界では、カルテル的傾向が強まり、石油ショック前に作用していた「値上げ回避のための合理化競争」のメカニズムは消滅した。
「石油ショックのトラウマ」により安定供給至上主義が浸透する一方で、電気料金は上昇し、「低廉な電気供給」は過去のものになった。電力会社は、「お役所のような存在」になり、民間活力は後退した。1990年代なかばから始まる電力自由化を必然とするような状況が形成されていったのである。
[橘川武郎 2022年10月20日]
1995年(平成7)に始まった電力自由化は、ある程度電気料金を低下させることには成功したが、電力市場に競争原理を持ち込むことについては大きな成果をあげなかった。そのような状況を大きく変化させたのが、2011年(平成23)3月11日に発生した東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第一原子力発電所事故である。
福島第一原発事故後、事故の背景には事実上の市場独占にあぐらをかく10電力会社の企業体質の保守性が存在するという見方が、急速に国民の間に広がった。10電力体制を特徴づける(1)民営、(2)発送配電一貫経営、(3)地域別9分割、(4)独占、の4点のうち、(4)の独占を廃止することが決まり、そのための手段として、(2)の発送配電一貫経営を改めて発送電分離を行うこと、(3)の地域別9分割を改めて小売全面自由化を実施することも決定された。
電力小売全面自由化は2016年に、発送電分離は2020年に、それぞれ実行に移された。その結果、(1)~(4)の特徴のうち(2)(3)(4)が消滅し、10電力体制は終焉を迎えるに至った。
[橘川武郎 2022年10月20日]
『栗原東洋編『現代日本産業発達史Ⅲ 電力』(1964・交詢社)』▽『松永安左エ門著『電力再編成の憶い出』(1976・電力新報社)』▽『橘川武郎著『日本電力業発展のダイナミズム』(2004・名古屋大学出版会)』▽『通商産業政策史編纂委員会編、橘川武郎著『通商産業政策史1980-2000 第10巻 資源エネルギー政策』(2011・経済産業調査会)』▽『橘川武郎著『エネルギー・シフト――再生可能エネルギー主力電源化への道』(2020・白桃書房)』▽『橘川武郎著『電力改革――エネルギー政策の歴史的大転換』(講談社現代新書)』▽『経済産業省編『エネルギー白書』各年版(日経印刷)』▽『経済産業省資源エネルギー庁編『電気事業便覧』各年版(経済産業調査会)』
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[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
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