百科事典マイペディア 「霞ヶ浦四十八津」の意味・わかりやすい解説
霞ヶ浦四十八津【かすみがうらしじゅうはっつ】
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…漁民の自由な立入りは禁止された。例えば,霞ヶ浦南東部には江戸初期,幕府の箕和田御留川が設定され,さらに1625年(寛永2)下玉里村の土豪鈴木氏の申請により,〈湖は入会〉の原則を固守する霞ヶ浦四十八津の抵抗を押し切って,水戸藩は湖の北部高浜入を玉里御留川としている。鈴木氏は御川守となり,当初は直営の大網を引いたが,83年(天和3)以降,江戸の問屋,霞ヶ浦周辺の漁民の請負となり,入札によって運上人を定め,運上金を上納させた。…
※「霞ヶ浦四十八津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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