青年ドイツ派 (せいねんドイツは)
Junges Deutschland
フランスの七月革命(1830)から衝撃をうけたドイツの急進的作家グループによる〈文学革命〉運動。ドイツ近代文学史上,シュトゥルム・ウント・ドラングにつぐ2番目の知識人の運動とみなされるが,1835年12月のドイツ連邦議会による著作発行の全面的禁止令により,あえなく壊滅する。当時,スイスには政治亡命したドイツ人職人たちの同名の集団が活躍していたが,おそらくメッテルニヒはスイスとドイツの,現実にはありもしない両組織の連動を恐れたのである。それは事実誤認というべきであろう。
青年ドイツ派の名は,《美学征伐》(1834)の巻頭におけるウィーンバルクの〈老いたドイツではなく,若い(青年)ドイツにささぐ〉という献辞に由来するものと思われる。この派に属する作家たちは,サン・シモン主義やヘーゲル哲学からの影響関係に応じて,ウィーンバルク,グツコーらのライン右岸グループと,ラウベ,ムントTheodor Mundt(1808-61),キューネGustav Kühne(1806-88)らのベルリン・グループに分けられる。彼らが一致して目指した〈文学革命〉とは,政治革命を前提とせず,文学を通じて状況の変化をもたらそうとする知的エリートの運動にほかならず,たとえばG.ビュヒナーはヘッセンにおける革命的実践をふまえつつ,はやくも1836年に〈社会を理念によって,知識階級の手で変えるなんて不可能だ〉(グツコーあての手紙)と,手きびしい批判を加えるのである。
しかしながら,彼らの運動が七月革命後のドイツの精神界に少なからぬ新風をまき起こした事実は否定できない。ハイネのいう〈芸術時代の終焉〉は,青年ドイツ派の作家たちに共通した時代意識であり,ゲーテの〈復古の文学〉に彼らの〈行動の文学〉を対置させる新しい〈批評〉の美学は,そのような時代意識をぬきにしては考えられない。〈われわれの文学革命は批評を通じて始まった〉とは,グツコーの有名な言葉であるが,青年ドイツ派の作家たちは,まさしくこのような立場から,文学を批評から切り離す古典主義的美学のわく組みを取り払い,活発な批評活動を雑誌その他で展開するのである。彼らが〈文学的批評〉をドイツ三月革命前期における,もっとも重要なジャンルに発展させた意義はきわめて大きい。グツコーとウィーンバルクが発起人となって1835年12月に発刊を予定した《ドイチェ・レビュー》は,そのような〈文学的批評〉の壮大な実験になるはずであった。しかし,それも35年のハイネ,グツコー,ウィーンバルクら青年ドイツ派への禁止令により,ついに幻の雑誌で終わる。
彼らが提起した〈宗教的自由〉〈封建的道徳の克服〉〈女性の解放〉〈ユダヤ人の市民的平等〉などの諸問題は,約1世紀後に,西ドイツの〈学生革命〉の中でふたたび脚光をあびるようになる。それとともに青年ドイツ派を永い忘却の歴史から掘り起こす作業も始まるが,これは受容史における因果関係を示唆する好例といえる。
執筆者:林 睦実
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青年ドイツ派
せいねんどいつは
Das Junge Deutschland
フランス七月革命(1830)から衝撃を受けたドイツの急進的作家グループによる「文学革命」運動。「若きドイツ」ともいう。その名は、『美学征伐』(1834)の巻頭に書かれたウィーンバルクの「老いたドイツではなく、若きドイツに捧(ささ)げる」とした献辞に由来する。彼らはサン・シモン主義やヘーゲル哲学の影響関係に応じて、ライン右岸グループ(L・ウィーンバルク、K・グツコーら)とベルリン・グループ(H・ラウベ、T・ムント、G・キューネら)に分かれる。1835年12月の、ドイツ連邦議会による全面的禁止令により壊滅するが、彼らの運動が七月革命後のドイツの精神界に少なからぬ新風を巻き起こした事実は、これまで過小に評価されてきた。ハイネのいう「芸術時代の終焉(しゅうえん)」は彼らに共通した時代意識であり、それを抜きにして、ゲーテの「復古の文学」に対置する彼らの「行動の文学」は理解できない。「われわれの文学革命は批評を通じて始まった」とはグツコーの有名なことばである。そして彼らは、そのような立場から、宗教的自由、女性の解放、ユダヤ人の市民的平等などをテーマとする活発な批評活動を展開する(幻の雑誌に終わった『ドイツ評論』は、そのための壮大な実験になるはずであった)。彼らが「文学的批評」を、ドイツ三月革命(1848)前期におけるもっとも重要なジャンルに発展させた意義は大きい。
[林 睦實]
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「青年ドイツ派」の意味・わかりやすい解説
青年ドイツ派【せいねんドイツは】
〈若きドイツ〉とも。1830年―1850年ころのドイツ文学に現れた運動で,Junges Deutschlandという。文学の政治参加をモットーとし,著作禁止令のもとで民主的自由のために戦い,ジャーナリスティックな活動に新分野を開拓,リアリズムへの傾向を促進した。代表作家はカール・グツコー〔1811-1878〕,ハインリヒ・ラウベ〔1806-1884〕,ベルネ,ハイネなど。
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青年ドイツ派(せいねんドイツは)
Junges Deutschland
1830年代のドイツの政治的な文学運動。古典主義に反抗して,文学と政治との結合を強調し,立憲主義,共和主義を唱えた。ハイネ,ベルネが精神的指導者であったが,35年にドイツ連邦による弾圧を受け,この派の大多数のものは沈黙,あるいは転向した。
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青年ドイツ派
せいねんドイツは
Junges Deutschland
フランスの七月革命の影響により,1830年代のドイツにおこった自由主義文学者のグループ
ハイネ・ビョルネらを指導者に,古典主義・ロマン主義への文学を排斥し,文学と政治との結合を説いて共和主義を主張した。
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世界大百科事典(旧版)内の青年ドイツ派の言及
【ベルネ】より
…パリ移住後のベルネの政治評論を代表する《パリ便り》(1832‐34)は機知に富む鋭利な文体を駆使して,ドイツの時代錯誤の現状を容赦なくあばきだした。ハイネと並ぶ[青年ドイツ派]のリーダー格とみなされたが,ハイネとは晩年に決別。その50年の生涯は,自己の共和主義的信念をかたくなに守りぬいた清楚な革命家の一生であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」