デンマークのトムセンが提唱した三時代法によって設定された時代で、bronzealder(デンマーク語)、bronze age(英語)の訳語。すなわち石器時代の後を受け、鉄器時代に先行した時代である。青銅器時代の本来の意味は、主要な利器――器具一般ではない――が青銅で鋳造され、かつ鉄の冶金(やきん)術がまだ知られていない時代ということである。この利器は、実用の刃物のことである。したがって、祭祀(さいし)具、副葬品(明器(めいき))、宝器、儀器などのように宗教上の目的から、また権威の象徴として青銅の利器がつくられても、それは青銅器時代を設定する指標とはならない。クレタ島のミノス文化の双頭斧(そうとうふ)double-axeは、青銅製の祭祀具として著名である。日本の弥生(やよい)時代の平形銅剣や広鋒銅鉾(ひろさきどうほこ)なども典型的な儀器であって、これらに基づいて安易にミノス文化時代や弥生時代を青銅器時代などとしてはならない。
古代における文化の周辺地帯では、新石器時代のあとに鉄器時代が続き、青銅器時代は現出しなかった。朝鮮半島や日本列島では、鉄器時代の初期にさまざまな青銅器が使用ないし仿製(ぼうせい)(倣製)されたが、すでに一方では鉄製の利器が実用に供されており、青銅製の利器は財宝、権威の象徴、祭祀具などに用いられた。さらに僻遠(へきえん)の地、たとえばアフリカ(エジプトを除く)では長く新石器時代文化が停滞し、青銅器の影すらみずに鉄器文化が行われたのである。
いうまでもなく青銅は、銅90%とスズ10%を基準とする合金であるが、スズの主要鉱石である錫(すず)石の産地は限定されているうえに、この鉱石を溶錬してスズを分離、採取することには、かなりの技術を要する。一方、銅は自然銅の形で発見されるから、当初は銅が利器や装身具に用いられた。時代がくだっても、スズが産出しないか、あるいは入手困難な地域では利器などにはもっぱら銅が用いられた。とくに区別する必要のある場合には、こうした時代を銅器時代copper ageとよぶことがある。銅器時代は、先進文化圏の特定地域にだけみられた時代である。
銅器時代、青銅器時代、鉄器時代のいずれであれ、その初頭には金属製の利器は僅少(きんしょう)で、主として石製の利器が用いられる場合もあった。こうした、いわば過渡的な時代は、ときとして金石併用時代とよばれるが、これはヨーロッパ諸語のaeneolithic age(aeneus[銅の;ラテン語]+lithic[石の;ギリシア語])またはchalkolithic(chalkos[銅の;ギリシア語]+lithos)の訳語である。日本の考古学者が銅石時代と直訳せず、金石併用時代と訳したのは賢明であった。なぜならば、銅製や青銅製の利器がなく、鉄製の利器が石器と併用される場合もあるからである。
もっとも、時代区分に過渡期を認めない立場からすれば、銅または青銅の冶金術が知られていれば、いかに石器が多く製作・使用されてはいても、それは銅器時代または青銅器時代であって、金石併用時代の存立する余地は認められないのである。
[角田文衛]
青銅は銅より硬度が高く、器具をつくるのに適している。スズの量が10%以上増えると、合金は白みを帯びて白銅となり、鏡に適した材料となる。人間が地表上至る所にある鉄ではなく、銅そして銅とスズの合金である青銅の冶金術を初めに開発した理由は明らかでない。隕鉄(いんてつ)を鍛打(たんだ)した鉄製の利器は、小アジアやエジプト、メソポタミアでは紀元前四千年紀においてつくられたし、中国では殷(いん)代に隕鉄製の利器がみられたけれども、隕石の数は限られていたため、鉄製品は普及しなかった。
自然銅を敲打(こうだ)して伸ばし、ピン、耳輪、指輪などを製作することは、メソポタミアのハラフ文化やイラン西部のシアルク第一期文化にみられた。しかし1084℃を超す温度で銅を溶解し、所期の銅器(扁平斧(へんぺいふ)、刀子(とうす)、針、ピンなど)を鋳造する技術は、メソポタミアではウルク期、イランではシアルク第三期において初めて開発され、ことばの正しい意味での銅器時代はこのころに開始された。
メソポタミアのウル第一王朝時代の王陵からは、青銅製の利器が発見されており、この地域では前3000年ごろに青銅器時代に入ったことが知られる。この斬新(ざんしん)な技術はさまざまな経路を通じてオリエントから諸方面へ伝播(でんぱ)し、各地の人々を青銅器時代に導入したのであった。
青銅器時代というのは、技術史的な時代区分に基づくものであるから、等しく青銅器時代とはいっても、それぞれが政治、社会、経済などに異同があることを念頭に置かねばならない。政治史的にみると、同じ青銅器時代のなかには原生国家(部族国家)、王国、大王国(民族国家)の諸段階がみられ、一様ではないのである。
[角田文衛]
オリエントでは、メソポタミアを中心に青銅器文化は、前3000~前1200年ごろに行われた。そこでは諸王国の隆昌(りゅうしょう)と争覇が続いたのちに大王国が成立した。その王は「四界の王」「諸王の王」と称したが、周辺地域よりしばしば異民族の侵入があり、その歴史は複雑化した。大王国に至って国家体制は高度の域に達し、文字の発達と相まって成文法典も発布され、さらには物品貨幣の発案によって通商も活発となった。ウル第三王朝は優れた金属工芸をもって知られ、メソポタミアに侵入したアッカド人の建てたバビロン第一王朝のもとでは、国家体制が著しく整備された。
その周辺地帯にあっては、ミタンニ王国、ウラルトゥ王国、ヒッタイト王国(小アジア)のような強盛な民族国家が興亡した。イラン高原中部の山岳地帯の諸部族の間では独自な青銅器文化、すなわちルリスタン文化が育成されたが、それは北方の草原地帯の諸民族の工芸に強烈な影響を及ぼした。近年、キプロス島の青銅器文化が著しく繁栄した様相がますます明らかとなったが、それは豊富な銅の産出と通商上に占めるその島の位置に負っていた。
古代のエジプト人は、すでに前3000年ころの第一王朝から銅の冶金術を採用し、第四王朝の時代から青銅を知っていた。しかし錫石や天然にスズを含んだ銅鉱石の入手が困難であったため、前2000年ごろの第12王朝まではほとんど青銅器はつくられなかった。厳密にいえば、エジプトの青銅器時代は、第12王朝ごろに始まり、前1580年ごろ始まる第18王朝に至って最後の栄光を放った。エジプトの青銅器時代は短く、第18王朝の末から鉄器時代が始まった。ただしエジプトの第12~18王朝の期間を青銅器時代とし、この時代概念をもってこの時期の歴史を理解しようとするのは、あまり意味のないことである。
総じて銅や青銅は、その産額が限定されていたために価格も高く、上層者の武器その他の利器、装身具に使用されることが多かった。エジプト第18王朝の壁画をみても、青銅の剣を帯びているのは指揮官(貴族)だけであって、兵士たちは、弓矢と木製の槍(やり)や棍棒(こんぼう)で武装していた。兵士たちの武装や各種の農具などの材料に使用されなかったという点で、青銅の冶金術のもつ変革的役割は、鉄のそれにはるかに劣るのである。
[角田文衛]
エーゲ海の島嶼(とうしょ)や沿岸地帯の青銅器文化はエーゲ文化と総称されるが、これはミノス文化、キクラデス文化、ヘラス文化、トロヤ文化の四文化圏に分かれて発展した。前三者はそれぞれ前・中・後期に大別され、各期はさらに三亜期に区分されている。ヘラス後期(後期ヘラティック)はミケナイ(ミケーネ)時代ともよばれている。トロヤ文化のうち青銅器時代に該当しているのは、第二期(前2500~前2200)から第七b期(前1260~前1100)までである。
エーゲ文化の諸文化圏では早くから王国が形成されていたが、文化的にもっとも先進的であったクレタ島においては、ミノス後期に至ってクノッソスKnossosを首都とする大王国、すなわちミノス王国が成立したし、ギリシア本土でも、ヘラス後期においてミケナイ王国を盟主とするアカイア人の連邦が形成され、遠くトロヤに侵攻し(トロヤ第七a層)、このトロヤ戦争によって後世に名を残した。ミノス王国の栄光はクノッソス宮殿の遺構からうかがえるが、この宮殿を中心に建築、絵画、金属工芸、陶芸は注目すべき発展を遂げた。ただし青銅容器の出土量は比較的に少なく、その欠を補うためにも陶芸は発達したのである。なかでも流麗な彩文を施した卵殻(らんかく)式陶器は、陶芸の粋ともいうべき作品であった。
[角田文衛]
ヨーロッパの青銅器諸文化は、主としてエーゲ海方面から波及した先進文化によって触発されたものである。ただし、ザカフカスのそれはイラン西部、カフカスのそれはルリスタン方面からの文化伝播によるものである。ヨーロッパの青銅器文化は、中部、北部、東部、西部、南部(イタリア)の五大文化圏に大別されるが、北部、南部を別とすれば、その様相はかなり錯綜(さくそう)している。西部、中部、南部では、青銅器時代は前1800年ごろに開始し、前700年ごろまで続いた。北部では、青銅器時代の開幕が遅れ、終末もまた長引いたことはいうまでもない。
ヨーロッパの青銅器文化は後進的な性格が強く、政治史的には大王国の成立をみるには至らなかった。もっとも階級的分化の進行につれて部族の首長の権力が強化されて原生国家が形成され、原生国家は小王国に変貌(へんぼう)する過程は認められるが、強力な王国ないし大王国の成立をみずに終わった。注目されるのは、銅やスズの入手に端を発した交易路の網が生まれたことである。なかでも北ヨーロッパと地中海方面とを結び、文化の伝播に大きな役割を果たした「琥珀(こはく)の道」amber routesは、歴史的に重要である。この間にゲルマン、ケルト、スラブといった諸民族が民族的形成を遂げ、それにつれて諸部族の移動も活発になったことが注意される。
中部ヨーロッパでは、火葬を特色とする火葬墓文化が著名であって、それはイタリアにも強く影響した。北ヨーロッパでは、ゲルマン人の所産に帰される独自な青銅器文化が盛行した。これについては、スウェーデンの考古学者モンテリウスO. Monteliusが提唱した六期の区分がいまなお用いられているが、各種の青銅工芸の発達には驚くべきものがあった。
[角田文衛]
北方ユーラシアの大草原地帯では、各地にそれぞれ独自な青銅器文化が育成された。しかしその成立には、イランやカフカス方面からの文化的な刺激があずかっていた。これらの青銅器諸文化の特色は、生業が牧主農副であり、政治的には部族国家の段階にあったことである。それらは、遊牧文化が成立する前夜の文化であった。ウラル南部から南シベリアにわたって盛行したアンドロノボ文化や南ロシアの木槨墳(もくかくふん)文化などは、わけても注目される青銅器文化である。
パキスタンやインド西部のインダス文明は、都邑(とゆう)文化の範疇(はんちゅう)に入る高度の文化であるが(前2350~前1700ころ)、青銅製品はあっても、利器はみられず、銅器文化と目される。しかしその銅製品も、出土量はきわめて僅少である。
中国における青銅器時代に該当するのは殷(いん)・周時代である。この高度の文化は、末期に至って東方へ波及し、朝鮮半島や日本にも影響した。しかしそのころから秦(しん)、漢の鉄器文化が殺到したために、朝鮮や日本の住民は、青銅の技術は伝えられはしても、青銅器文化を展開することなく、ただちに鉄器時代に入った。
インドシナでは、周王朝末の文化の伝播によって独特なドンソン文化が盛行し、異彩を放った。インドシナの銅器時代には、青銅器も少々つくられはしたけれども、錫(すず)が入手困難なために、真の青銅器文化は現出しなかった。
[角田文衛]
他方、アメリカ大陸をみると、コロンブス以前のその遠古史は、旧大陸の場合と違って三時代法によって体系づけられてはいない。いまあえてこの時代区分法によって考察してみると、銅の冶金術は、アンデス地帯(コロンビア、エクアドル、ペルー)では形成期の中期(前1000ころ~前300ころ)において開発され、青銅の冶金術はペルーにおいてのみ後古典期(1000ころ~1500ころ)に発明され、普及した。南米では金も銀も早くから用いられていたが、コロンビア南部、エクアドルにおいてはプラチナの使用が早くからみられた。ヨーロッパでは1730年ごろまでプラチナの使用が知られなかった点にかんがみると、それは画期的な発見であった。アンデス地帯では、銅ないし青銅を材料として、つるはし、刀子、錐(きり)、環頭斧、鍬(くわ)の刃、金梃(かなてこ)や多量の装身具がつくられた。有名なインカ帝国の時代は、技術史的には青銅器時代であった。コロンブス以前のアメリカの原住民たちは、ついに鉄器時代を現出させることはなかった。
中米における銅の冶金術の採用は甚だ遅く、後古典期に入ってからのことであった。したがってマヤ文化などは、その高度の文化水準にもかかわらず、技術史的には新石器時代の文化であったのである。北アメリカの原住民は、自然銅を敲打してつくった銅製の斧(おの)、刀子、鑿(のみ)、各種の装身具を使用したが、それらは一種の石製品であって、冶金術による製品ではないので厳密な意味での銅器ではなかった。つまり銅の冶金術を知らずに終わったという点で、北アメリカには銅器時代は存しなかったわけである。
[角田文衛]
旧大陸では、鉄の冶金術は、前14世紀ごろオリエントで普及し、イラン西部のミタンニ人によって各方面に伝えられ、政治、軍事、経済のうえに大きな変革を誘発した。エーゲ海方面では前1200年ごろに青銅器時代は終息した。周辺地帯、たとえばオーストリアでは前750年ごろまで、北ヨーロッパでは前500年ごろまで青銅器時代は続いた。中国では前3世紀まで青銅器時代は続いたが、それは尊彝(そんい)を中心とする多種多様の青銅製の儀器を遺(のこ)した点で、きわめて特異な青銅器文化であった。
[角田文衛]
『角田文衛他著『世界考古学大系12』(1961・平凡社)』▽『江上波夫監修『先史時代のヨーロッパ』(1984・福武書店)』▽『J. M. Coles and A. F. HardingThe Bronze Age in Europe (1979, London, Methuen)』
青銅器時代の定義は,地域によって違いはあるが,人類史のうえでは,都市と政府組織の成立,畜力を利用した車の出現,文字の発明と国際交易の定着がみられる時代であり,未開から文明への変換点がこの時代であったとみられる。青銅器時代は,もともと利器の材質に基づいた命名ではあるが,今日なお青銅器時代の意義が高く評価されるのは,先史文化を考える分類体系として認められるからである。青銅器時代の用語で示される文化はさまざまであっても,実態がどれほど違うのか比較の議論が可能なのも,青銅器時代が分類体系として存在しているからである。
19世紀の前半,デンマークのC.J.トムセンは石,青銅,鉄でできた斧や剣などの利器が,それぞれ違った構造の墓から出土する事実に注目し,青銅製利器の使われた時代を青銅器時代と呼んだ。鉄器はガラス器を伴うので,青銅器時代よりも新しく,石器は青銅器よりも古く遠古の昔の産物と考えた。注意したいのは,青銅器のすべてを青銅器時代とは考えないことである。トムセンは先史時代の体系を説明するために,青銅器時代を提唱したのであって,それはデンマークでは火葬を伴う墳丘墓がつくられた一つの時代を示したものである。トムセンの青銅器時代の考えは,出土遺物を整理するうえで,実際的で効果があったため,スカンジナビアでも採用され,ドイツにも影響を与えた。その後,シュリーマンがエーゲ文明をミュケナイやトロイアで掘りあて,おびただしい量の青銅器を発掘したことにより,青銅器時代はトムセンの予言どおり,南ヨーロッパにも実在することが明らかとなった。
一般に青銅に限らず,初期の金属器は鋳つぶされて,もとの姿をとどめないが,たまたま人里離れたところでいく種類もの青銅器が一括して発見されることがある。この事実を検討したスウェーデンのG.O.A.モンテリウスは,一括発見物から遺物を整理する方法を確立し,北ヨーロッパの青銅器を分類していった。彼によって新石器時代に石や木でできた器物が,漸次青銅でつくられるようになった過程が解明された。モンテリウスは,北ヨーロッパから始めて,南ヨーロッパ,エジプト,オリエントの出土品まで,その整理方針を適用した。とりわけイギリス人A.J.エバンズによってクレタ島のクノッソス宮殿が発掘された結果,青銅器の変遷が層位的事実とあいまって,みごとに説明できることとなった。このエーゲ文明の分類が基準となって,研究の遅れていた西ヨーロッパ,中部ヨーロッパ,東ヨーロッパの青銅器時代が明らかとなった。ヨーロッパの各地で,剣は短剣から長剣へと変化するが,これはエーゲのミノス文明からミュケナイ文明へと変化する剣制によく一致するのである。この時代には,黒海北岸あたりから,牛車・馬車がヨーロッパに伝来し,地域間の交易・交渉が活発となる。さきに北ヨーロッパの青銅器がよく整理できたのも,結局バルト海をめぐる海運の進展で,同じ文化が広範な地域を占め,等質的となっていたからである。原材が輸入され,専業者が製作し,商人が巡回して,利器,羊毛,装身具を交易したのである。一括発見物があることは,富を蓄積しようとする者とそれを売ろうとする者とが,すでに存在していたことを示す。この時代の生活誌の復原は,このような一括発見物に頼っているのである。
ヨーロッパではこの時代,農耕に加えて牧畜の比重が高く,遊牧による移動農耕が繰り返されており,そのため生活に密着した集落址の発見例に乏しいが,墓址はよく調査されている。北ヨーロッパでは火葬であるが,中部ヨーロッパでは土葬で,屈葬である。しかも単独墓はなく,集団墓であり,棺には個人用の装身具,石刃,土器のたぐいが埋納される。とくに三日月形になぞった首輪が好まれて埋納されるのも,この時代の特徴である。西ヨーロッパには巨石墓はあるが,庶民と隔絶した副葬品をもつものはなく,巨石墓でも集団の規制が加えられていたとみられる。埋葬の風習は,後期になると土葬が衰え火葬が一般的となるが,いぜん集団墓が形成されている。火葬後,多くの骨壺を1ヵ所に集めて集団墓とする風習の広がりは,ローマ時代のケルト人の広がりとよく一致している。後期の青銅器で注目されるのは,青銅板を加工する技術が進んだ点で,バケツのような容器をはじめ甲冑,盾が青銅板でつくられる。一括発見物として発掘されるそれらの中には,明らかに祭儀用にできた精巧な工芸品がある。アルプスやドイツ,フランスの内陸の青銅器文化は,初めは北のウネティチェ文化の影響が強いが,後期には南のミュケナイ文明と関連をもつようになる。ヨーロッパで青銅器時代に都市をみるのは,エーゲだけであって,ここでは財宝を副葬した王墓が発掘されている。エジプト,オリエントなどの文明が形成されるのもこの時代であり,ここでは都市が完成されている。
モンテリウスは,オリエントの青銅器についても北ヨーロッパの一括発見物にならって整理しようと試みたが,オリエントの遺跡は厚い連続した堆積物のテルを形成しており,遺跡の層位的な所見を基準に青銅器時代が体系づけられることとなった。しかもエジプト暦年が判明し,楔形文字の解読が進んだ結果,都市や王の実名が知られるにいたり,エジプトやメソポタミアでは青銅器時代という用語を使わないで,王朝名で時代を区分することとなった。しかし,オリエントでも文字の使用が遅れたアナトリアからパレスティナにかけての地域では,今日でも青銅器時代を前・中・後の3期に分けて,先史文化の体系化をはかっている。アナトリアでは海岸部のメルシン,内陸のアラジャ・ヒュユク,アリシャールの各テルがヒッタイト以前の青銅器時代の代表的な遺跡であるが,遺跡数は多いとはいえない。一方,レバノン沿岸部には,シリアにハマト,レバノンにビュブロス,パレスティナにメギド,ベテシャンなど有名なテルが密集している。この地における青銅器時代の始まりは,前3000年ころであり,これはメソポタミアとエジプトで王朝が成立する年代と同じころである。青銅器時代のレバノン沿岸部は,東のメソポタミアと西のエジプトを結ぶ重要な中継地にあたっており,織物,土器,金工・宝石細工などが交易されている。
インドでも前3000-前2500年には青銅器が出現しており,インダス文明が青銅技術をもっていたことは確実である。しかしインダス文明総体は,金石併用時代として扱い,インド考古学では独立した青銅器時代を一般には認めていない。これは次の鉄器時代まで,インドでは青銅器をはじめ銅器,石器も使われていたことによろう。
執筆者:中村 友博
東アジアにおける青銅器の生産は,竜山文化と殷代とにはさまり,洛陽を中心にして河南省,山西省の黄河沿岸地方に分布する二里頭文化以降のことである。この文化の前半部分に竜山文化の後期を含めて,中国最古の王朝である〈夏王朝〉にあてる説もある。二里頭文化の後半部分を殷代前期にあてる説は有力であり,この時期になると青銅器の生産がはっきりと確立している。ナイフ,鑿(のみ),手斧(ちような),錐(きり),釣針などの工具,戈(か),斧,鏃などの武器,爵などの容器,飾金具などが,今のところ中国で最も古い青銅器群である。この時期は新石器時代の原始共同体が解体し,階級社会(中国の学界では奴隷制社会と規定する)に完全に移行しており,城郭,宮殿,貴族墓などがその指標となり,文字の出現も推測されている。青銅器が社会変革の重要な一翼を担っていることは確かである。
春秋時代に鉄が本格的に使用され始めるまで,殷・西周時代は青銅器時代と呼ぶにふさわしい,他の世界に例をみない青銅器文化を発展させ,多くの分野に青銅器が進出した。食器から発達した祭儀用の彝器(いき)と呼ばれる各種の容器,楽器,戦争用の武器,馬車の部品が著しく発達するのであるが,これに加わる工具類は実用的で装飾性に乏しい。また,農具としては鎌がみられる程度で,鋤・鍬類は依然として石器であり骨角器であった。このような状況から,殺傷用の武器や戦車を用いて支配圏を軍事的に拡大し,彝器や楽器を用いて殷・西周の精神的な祭祀儀礼を展開し,あわせて漢族の国家的な統合をはかったことがうかがわれる。
殷・西周の青銅器文化は周辺の諸民族にも深刻な影響を及ぼしている。湖北・江西省では,城郭,宮殿,青銅器などを含む殷文化の一式が点的に移設されており,それがのちの楚,呉,越として定着していく。そのもう一つ外側に位置する内モンゴル,遼寧・四川・湖南省などでは,土着の新石器時代文化のなかに殷周の青銅器を取り入れ,それを共同体の宝器として扱ったのち,祭祀場などに埋納したようである。西周時代の後期から春秋戦国時代は,中原が混乱し弱体化する時期であり,周辺の諸族は民族的に高揚し,部族的な結束を固める。この過程で,それぞれの青銅器時代を創造していくのであるが,青銅器の主流がいずれも工具,武器,馬具にあり,彝器を含んでいない点が中原の漢民族と異なるところである。内モンゴルの南東部の遊牧民は,西方のミヌシンスク・スキタイ文化の強い影響をうけたオルドス青銅器文化を形成する。馬・羊などの動物意匠をふんだんに取り入れ,剣,馬具,飾金具を中心にし,中原の青銅器ないしはそれをまねた容器類をつくっている。オルドス青銅器文化は大興安嶺の東方,遼寧・吉林省の農耕・狩猟民族に伝播し,遼寧式銅剣と呼ばれる独特の銅剣を指標とする青銅器文化を発展させ,それが朝鮮半島にも及んでいる。
朝鮮半島の青銅器時代は前700年ころから前300年ころにあてられている。初期には遼寧地方の銅器が移入されているようであるが,その後,遼東の農耕民が南下し青銅器を製作するようになり,遼寧に起源する剣,斧,鏃,鏡,飾金具などが独特の形に発展していく。朝鮮で鉄器利用が始まる前300年ころ以降,青銅器はなお宝器的な意味をもち,引き続いてつくられ,それが弥生時代の日本に伝播する。したがって,日本の弥生時代の青銅器は青銅器時代の所産ではない。
四川盆地の稲作農業地帯では,中原地方の春秋戦国銅器を多数移入する一方,独自の青銅武器を発達させ,それに彼らの図像文字を鋳出すことが特徴である。これが巴蜀青銅器文化である。雲南省では,石寨山古墓にみられるような騎馬や動物の格闘文様を巧みに施し,家屋や人物を立体的,写実的に鋳造する滇(てん)族の青銅器文化が形成されている。貴州省や広西チワン族自治区では雲南のほか呉・越の青銅器の影響をうけた青銅器がつくられる。雲南・貴州省や広西チワン族自治区には,銅鼓と呼ばれる打楽器がひろく分布し,その形式からすれば,雲南省から南東に伝わっていったようである。近年,タイ北部のバンチェン文化の青銅器が前3600~前2000年に始まるので,中国の青銅器は南方に起源するのではないかという説が提起されている。しかし,年代決定に疑問がもたれ,青銅器の形式的な編年の試みがないため,一般的には支持されていない。
→青銅器
執筆者:町田 章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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C.J.トムセンが提唱した三時期法による時代区分のうちの一時代。主要な道具や武器を,銅と錫の合金である青銅で作った。人類が青銅を使用し始めた時期は明確ではないが,西アジアでは前3000年紀前半頃,初期王朝時代には多数のさまざまな青銅器が使用された。中国では前3000年紀末ないし前2000年紀初の頃,竜山文化期のある段階(二里頭(にりとう)期後半ともいう)に使用され始めた。青銅器の生産と流通は,それにたずさわる専門的な職業集団が存在しなくてはなりたたない。それはまた文字の使用とともに,国家や王権の発生と成長にとって重要な要因となった。日本では,本格的な青銅器時代は存在しなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
鉱石を溶かして銅をつくる冶金(やきん)術が知られ,さらに錫(すず)やヒ素を加えて製品を堅くする知識の発見は,前3000年頃の西アジア地方であったと思われる。この銅および青銅の知識は,アナトリアやエーゲ海域から北および西に伝播し,前1500年頃には,スカンディナヴィアのような北辺にも青銅器文化が花開く。すでに農業や交易の発達により定着していた人々は冶金の技術を持った職人の出現により,進んだ金属器による資源の開発や,農業生産の拡大とあい呼応して,都市生活の段階へと進展していった。金属の利用はまた,同時に集団内部における特権階級と隷属民の分化を意味し,階級社会の開始となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… ヨーロッパ,アフリカ北部,西アジアにおける調査研究の進展は,洪積世から沖積世への転換(約1万年前),打製石器のみから磨製石器出現への転換,そして狩猟,漁労,採集から家畜飼育,農耕への転換が,そろって同時に起こったものではないことを明らかにした。また,精巧な作りの打製石器が新石器時代を特色づけるだけでなく,ナイフ,鏃,鎌として,青銅器時代に入っても重用されていたことも判明した。こうして上記3種の転換のうち,地質学的・石器製作技術史的区分ではなく,経済史的区分をもって新石器時代を定義づけることが,イギリスのV.G.チャイルドによって提唱された(1936)。…
※「青銅器時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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