中部地方南東部の太平洋岸に位置する県。伊豆(いず)、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)の3国から成立。南端の御前崎(おまえざき)から北端の赤石(あかいし)山脈間ノ岳(あいのたけ)までの南北約118キロメートル、伊豆半島東岸から愛知県境までの東西約155キロメートルであり、面積7777.35平方キロメートルを占めている。県名は、賤機(しずはた)山にちなんで静岡藩と改称した藩名による。県庁所在地は静岡市。
古来、関東と関西とを結ぶ交通路の通過地に由来する回廊性を現在でも脱皮できず、都市化や工業化の進んだ東海道メガロポリスの谷間の区域にあたる。また富士山や赤石山脈とその前衛の山地が海に迫り、沿岸部の台地や低地が帯状に連続する地形的条件もこの回廊性を規定しているといえる。江戸初期に整備された東海道五十三次のうち22宿が県内に含まれ、その街道筋を中心に都市や生産が集中し、その東西交流を基本に地域性が形成されてきた。また、東西二大文化圏の接触・漸移地域であり、浜名湖周辺がその境界とも考えられてきた。現在では行政や経済的には名古屋との結合も強くなり、中部圏に位置づけられるが、南北方向の交通体系が遅れ、その一体性は欠けている。
東西に延びる県域は、南流する諸河川によって分断されるが、富士川と大井川を境として東部、中部、西部に3区分できる。生活圏もほぼこの区分に一致してまとまり、沼津(ぬまづ)と富士を核にする東駿河湾(岳南(がくなん))地域、清水(しみず)と静岡を核とする静清地域、大井川以西はやや分散する核をもつが、浜松はその中心となる。伊豆半島は独自性をもつ特異な存在であるが、南伊豆は下田(しもだ)、東伊豆は伊東や熱海(あたみ)、西伊豆は三島(みしま)や沼津との結び付きが強い。
人口は、2020年(令和2)時点で363万3202人である。明治初期には90万、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)には155万、200万人を超えたのは1940年(昭和15)で、2005年(平成17)の国勢調査では379万2377人を数えた。1920年から2005年の間に約2.4倍になったことになる。産業別人口構成では第一次、第二次、第三次ともいずれも全国平均値に近い値をもつ。人口は東海道沿線に集中して増加率も高いが、伊豆や北部山間地域の減少傾向は継続している。2020年10月時点で21市5郡12町からなる。
[北川光雄]
地形や地質の構成は複雑で、地域差も大きく自然景観の博物館ともいえる。そのような特色を形成した要因として、第一は、本州の中央部を南北に横断する地溝帯のフォッサマグナの変動帯に位置し、地殻運動、火山活動、活断層や地震の発生の多いことがあげられる。第二は、フォッサマグナ西縁にあたる糸魚川‐静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)と中央構造線という二つの重要な地質構造上の境界が県内を通過し、水系や山系を規制している。第三は、海岸地帯から日本最高の富士山、赤石山脈の山岳地帯までの高度差が大きく、波浪、河川、雪や氷など各地に対応した営力が作用してきた。第四は、豊富な降水量が狩野川(かのがわ)、富士川、安倍川(あべかわ)、大井川、天竜川など急流河川に流出し、上流の峡谷や穿入(せんにゅう)蛇行、下流部に田方(たがた)平野や静岡平野などの扇状地や三角州を形成させた。第五は、沿岸部の隆起運動により牧ノ原(まきのはら)、磐田原(いわたはら)、三方原(みかたはら)の各台地、小笠(おがさ)山、日本平の各丘陵地が発達し、海岸沿いの砂丘を形成するもととなった。このような地形的特色は、美しい自然の造形を示し、重要な観光資源を提供している。
自然公園には、雄大な富士山と温泉地帯の伊豆半島、さらに箱根の一部を含んだ広い地域で、四季を通して美しい景観をみせてくれる富士箱根伊豆国立公園や、赤石山脈に属する聖(ひじり)岳、赤石岳、荒川岳、塩見岳など重厚な山々が連なり登山愛好家のあこがれの的となっている南アルプス国立公園、さらに、佐久間(さくま)、秋葉の両ダムと天竜渓谷の自然がこよなく調和して美しく、とくに初夏の新緑と秋の紅葉がみごとな天竜奥三河(おくみかわ)国定公園がある。また、県立自然公園には浜名湖、日本平・三保松原(みほのまつばら)、奥大井、御前崎遠州灘(なだ)の4か所がある。
[北川光雄]
本県は温暖・多雨の東海気候型を呈し、ミカンや茶など暖地性植物の栽培の条件を備えている。しかし垂直的には、日本最高地点の富士山頂の寒冷な気候から、太平洋岸の黒潮に洗われる沿岸部までの比高の大きさが気候にも反映している。たとえば富士山頂の年平均気温は零下6.2℃、御前崎16.4℃で、その較差は22.6℃となる。南伊豆は無霜地帯となっており、静岡など沿岸部の積雪も珍しい現象となっている。しかし、遠州灘沿いは冬の季節風がからっ風として吹き、防風林をもつ集落景観や海岸砂丘の発達にも関係している。降水量は梅雨と台風の時期にピークをもつ太平洋岸式気候の特色をもち、県域の年平均は約2300ミリメートルに達する(1981~2010年平均)。この豊富な水資源は電源開発や森林資源の育成の背景となったが、気象災害も多く、狩野川台風(1958)など土地条件と相まって大きな被害を与えた。
[北川光雄]
浜名湖の北、三ヶ日(みっかび)町只木(ただき)(現、浜松市)から9500~7500年前の縄文時代の人骨とされる三ヶ日人、浜北市根堅(ねがた)(現、浜松市)の石灰岩採掘場から更新世(洪積世)末期の人骨とされる浜北人が発見されている。東部の愛鷹山麓(あしたかさんろく)から北伊豆、中部の日本平、西部の磐田原(いわたはら)で旧石器時代遺跡が発見され、県内には日本でも早くから人類が住んだことがわかる。休場遺跡(やすみばいせき)(沼津市)は国指定史跡で、日本の細石器文化の代表的遺跡である。縄文時代の遺跡は県内各地に分布し、前半期の遺跡は富士・愛鷹山麓、北伊豆に、後半期の遺跡は大井川流域から浜名湖周辺に目だつ。袋井(ふくろい)、磐田、浜松にかけては貝塚がみられ、浜松市の蜆塚遺跡(しじみづかいせき)(国指定史跡)は貝塚を伴う集落遺跡として有名。狩猟、採集、漁労の場は広がり、墓や装身具に変化がみられるようになった。弥生(やよい)時代は稲作と金属器の普及をみ、木製農耕具は著しく発達した。登呂遺跡(とろいせき)(特別史跡)からは木製の鍬(くわ)や田下駄(たげた)が出土し、水路・暗渠(あんきょ)を備えた水田跡は、稲作技術の高水準を示している。沼津市の沢田遺跡、伊豆の国市の山木遺跡でも水田跡が発見され、県内各地に登呂のようなムラが営まれた。静岡県は銅鐸(どうたく)文化圏の東限で、出土は遠州に限られる。型式は三遠式で近畿式と異なる特徴をもち、独自の文化を育てていたことが知られる。
県下には大小多数の古墳が8世紀まで築造された。磐田市の銚子塚(ちょうしづか)古墳(国指定史跡)、松林山(しょうりんざん)古墳、静岡市の谷津山(やつやま)古墳はそれぞれ全長100メートルを超す大型で、松林山古墳は東日本の代表的古式古墳で竪穴(たてあな)式石室をもつ。古墳や副葬品から、被葬者は地方の有力豪族あるいはクニの首長の地位の者で、大和(やまと)政権とのつながりが考えられる。古墳の分布から『国造本紀(こくぞうほんぎ)』の6か国が比定され、遠淡海(とおつおうみ)国は浜名湖周辺、久努国は磐田・袋井、素賀国は掛川(かけがわ)・小笠(おがさ)地方、廬原(いおはら)国は静岡・清水、珠流河(するが)国は沼津・富士、伊豆国はそのまま伊豆とされている。大化改新を契機として遠江国(とおとうみのくに)、駿河国(するがのくに)が成立し、680年(天武天皇9)それまで駿河国に属した田方・賀茂(かも)2郡をもって伊豆国が分置された。以後、県下は3国となり、国府は、遠江が現在の磐田市、駿河が静岡市、伊豆が伊豆の国市(のち三島市)に置かれた。『万葉集』には阿倍の市(あべのいち)が詠まれ、駿河国府付近は市が立ってにぎわった。伊場遺跡(いばいせき)出土の木簡(もっかん)などは、この地に郡衙(ぐんが)や栗原(くりはら)駅が置かれたことを推定させる。
平安中期以降、駿遠豆3国にも権門・寺社の荘園(しょうえん)が成立した。その数は100を超すが、遠江に多く、池田荘、原田荘、村櫛(むらくし)荘などは有名。県内には蒲(かば)御厨など伊勢(いせ)神宮の御厨も多い。これらの荘園を足掛りに各地に武士が発生した。
[川崎文昭]
各地の武士は1180年(治承4)平家追討の兵をあげた伊豆の源頼朝(よりとも)に結集、鎌倉幕府を支えた。遠江では横地(よこち)、勝間田(かつまた)、浅羽(あさば)、相良(さがら)氏ら、駿河では長田(おさだ)、岡部、吉香(きっか)、矢部氏ら、伊豆では北条、狩野(かの)、工藤(くどう)、伊東、天野氏らの武士が活躍した。鎌倉時代、伊豆・駿河両国は関(かん)八州とともに源氏の有力な基盤であり、北条執権時代も同様であった。
南北朝内乱期になると足利尊氏(あしかがたかうじ)の鎌倉争奪に今川範国(のりくに)は功績をあげ、遠江守護となり、駿河守護を兼ねた。駿河・遠江の南朝勢力と激しく対立し、駿府(すんぷ)に守護所を置いたのは1411年(応永18)今川範政(のりまさ)(1364―1433)の代であった。室町末期の応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のころ、遠江守護は三管領(かんれい)の一の斯波義廉(しばよしかど)であった。義廉は京都在住が多く、遠江には有力国人が割拠した。駿河守護今川義忠(よしただ)(1436―1476)は遠江を攻略、しだいに有力国人を勢力下に置いた。その後、今川氏親(うじちか)は北条早雲(そううん)の支援を受けて義忠没後の今川家の家督を継ぎ、検地を施行し、分国法『今川仮名目録(かなもくろく)』を制定。戦国大名今川氏の基盤を築いた。今川義元(よしもと)のとき、領国は駿河・遠江・三河から尾張(おわり)の一部までも組み込み、最大版図を築いた。義元は『仮名目録追加』21か条を制定、相模(さがみ)の北条氏、甲斐(かい)の武田氏と三国同盟を結び、1560年(永禄3)には2万5000の大軍を率いて尾張に侵攻したが、途中、桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長の奇襲を受けて死去した。氏真(うじざね)の代には武田信玄(しんげん)、松平元康(もとやす)(徳川家康)の侵攻を受け、伊豆は北条氏康が勢力をもち、今川氏は衰退した。その後、家康は駿遠豆3か国を地盤、背景として天下を掌握した。
[川崎文昭]
徳川家康は1607年(慶長12)将軍職を秀忠(ひでただ)に譲って駿府に移り住むことになった。以来、約10年間ここに住み、幕府の大御所(おおごしょ)として政治の実質的権限を掌握していた。家康が在城した駿府は政治・経済・外交・文化の中心となり、人口10万の大都市であった。関ヶ原の戦い後、駿遠両国は小藩分立支配となったが、徳川頼宣(よりのぶ)、ついで徳川忠長(ただなが)の支配となり、1632年(寛永9)忠長改易後はふたたび小藩分立支配となった。沼津、小島(おじま)、田中、相良、掛川、横須賀(よこすか)、浜松の諸藩が置かれ、18世紀前半までめまぐるしく藩主が交替した。天領支配には三島、沼津、蒲原(かんばら)、駿府、島田の代官があたった。代官はしだいに整理統合されて韮山代官が伊豆、駿府代官が駿河、中泉代官(なかいずみだいかん)が遠江の天領を支配するようになった。
1601年(慶長6)東海道の宿駅が設けられ、県下には三島宿から白須賀(しらすか)宿まで五十三次のうち22宿が置かれた。新居(あらい)には関所が置かれ、出女(でおんな)の監視は厳しく、富士、安倍、大井、天竜川などには江戸防衛のため架橋が禁じられた。大井川徒渉制度は元禄(げんろく)年間(1688~1704)ごろ整い、水深による川越賃銭が整うのは享保(きょうほう)年間(1716~1736)である。海上交通では駿府の外港清水湊(みなと)をはじめ、掛塚(かけつか)、相良が発展、江戸―大坂間の風待ち港として下田湊があった。富士川舟運も開かれ、甲州からの米、甲州への塩がおもな荷物として運ばれた。新田開発も盛んとなり、17世紀後半までに富士川下流に加島5000石が開かれ、箱根用水は富士裾野(すその)を潤し、大井川、安倍川下流に代官見立(みたて)新田、町人請負新田が開かれた。近世中後期になると生産力の上昇、商品流通も活発となり、階層分化も激しくなって封建的危機は深まっていった。各地に百姓一揆(いっき)、打毀(うちこわし)が発生。御厨一揆、田中藩・小島藩の百姓一揆、駿府・清水の打毀、「文政(ぶんせい)茶一件」(1824)などは代表的なものである。幕末には、伊豆の下田は開国の舞台となり脚光を浴びた。
[川崎文昭]
幕末・明治維新の過程で、県内の諸藩は房総へ移され、徳川家達(いえさと)が70万石で家臣多数を抱えて駿府に入り、府中藩が成立した。藩では殖産興業、士族授産を図った。牧ノ原茶園の開墾はその代表的なものである。1869年(明治2)府中藩は不忠に通じると静岡藩に改め、1871年の廃藩置県によって静岡県が成立した。同時に、1868年当時、韮山代官支配地は韮山県となっていたが、1871年足柄県(あしがらけん)に属した。また堀江藩(1868年立藩)は堀江県となった。1871年旧遠江国は浜松県となり、堀江県は浜松県に編入された。1876年4月、足柄県が廃止され旧伊豆国は静岡県に合併、8月には浜松県が廃止されて静岡県に合併された。その結果、旧駿遠豆3国にまたがる静岡県が成立をみた。なお、伊豆七島は静岡県であったが、1878年に東京府に移管された。
1875年松崎製糸場が設立され、伊豆西海岸一帯より繭が集荷され、松崎繭は県下の新繭相場の標準となった。1877年には静岡水落(みずおち)町に県立製糸所ができた。1879年清水港波止場が築造され海港の一歩を踏み出し、県下各地の茶は移輸出されて外貨獲得に貢献した。1883年静岡―清水間に電信が開通、1889年には東海道線が全通し、東京―熱海間の公衆電話が開通した。また、1895年には熱海に県下最初の電灯がともった。1885年山葉寅楠(やまはとらくす)がオルガンをつくり、1894年福田(ふくで)にコール天織が始まり、1896年豊田佐吉(とよださきち)(湖西市の生まれ)が木鉄混製動力織機を発明し、浜松地方の楽器・織物業の発展の基礎をつくった。富士地方でも近世の駿河半紙の伝統をもとに近代的パルプ工場・製紙工業が発達した。1899年清水港は開港場となり、茶・ミカンが輸出され、翌年県農事試験場、1903年(明治36)新居(あらい)に水産試験場が設立され、1904年には金原(きんばら)疎水財団設立などがあり、農漁業の発展が図られた。1919年(大正8)駿豆鉄道(すんずてつどう)の全線電化、遠州軌道会社が設立され、近代化は著しく進むことになった。
政治的には1876年浜松県民会が開かれ、明治10年代には演説結社、政治結社が県下各地に組織され、岡田良一郎(1839―1915)、前島豊太郎(とよたろう)(1835―1900)、荒川高俊(たかとし)(1856―1889)らが自由民権運動に活躍した。1885年伊豆で借金党が活動を強め、翌年には静岡事件が起こった。1918年米騒動は県下各地に広がり、労働争議、小作争議も引き続き頻発した。十五年戦争に入ると労働運動、農民運動も抑圧され、浜松、静岡、清水、沼津市などの悲惨な空襲を経て終戦を迎えた。
第二次世界大戦後、電源開発と食糧増産が図られ、佐久間ダム、井川ダム(いかわだむ)、畑薙ダム(はたなぎだむ)などが完成して、水資源の多目的開発と土地利用の高度化が図られた。また、国鉄(現、JR)飯田(いいだ)線の付け替え工事によって山間地域の開発が進んだ。高度経済成長期には臨海工業地帯の形成が進み、新幹線、東名高速道路の建設など交通体系が整備され、県下各地に工場が進出、農地の宅地化も著しく、御前崎港、大井川港、田子浦(たごのうら)港、清水港の港湾整備も顕著であった。一方、急速な開発は公害を生み出し、各地に住民運動がおこり、健康で文化的な環境で生活する願いは強まっていった。1954年(昭和29)ビキニ沖で水爆実験の死の灰を浴びた焼津(やいづ)港所属の第五福竜丸乗組員久保山愛吉(あいきち)(1914―1954)の死を契機におこった原水爆禁止運動は根強く続けられている。平和を願う活動と生活向上と環境を守る運動は静岡県でも着実に広く、深くなっている。
[川崎文昭]
静岡県の就業者数は212万5000人で、本県人口の56.1%を占めている。これを産業別に分類すると、第一次産業に4.9%、第二次産業に36.5%、第三次産業に58.1%の人々が従事している(2002)。個々の産業についてみると、製造業がもっとも多く、27.7%を占め本県の重要産業となっている。かつては農業県であったが農業は1965年の20.8%以来、1975年に11.5%、1995年に5.6%、2002年には4.5%と後退が著しい。しかし、茶とミカンは本県の代表的産物で、茶は全国第1位、ミカンは第3位を占めている。
[北川光雄]
耕地は総面積の10.4%(2003)を占め、温暖な気候や消費市場にも恵まれて、古くから商業的園芸農業、施設利用型農業が発達した。水田率は33.4%(2003)である。また、土地条件に対応した栽培景観にも特色がある。沖積低地の水田や、野菜や果物のハウス園芸、洪積台地の野菜や茶園、山麓や山腹傾斜地にみられる茶園や果樹園の柑橘(かんきつ)、海岸の砂地利用の野菜や施設園芸、海岸斜面の花卉(かき)、イチゴ、柑橘など、自然条件の反映としての栽培地が形成されてきた。
特産である荒茶の生産は全国の44.5%(2003)を占め日本一である。栽培の歴史も古いが、幕末の横浜開港以来、その輸出は急増して開園も続き、牧ノ原や三方原の開拓が進んだ。大井川筋の川根茶、安倍川筋の本山(ほんやま)茶などは山間で産する高級茶として知られる。温州(うんしゅう)ミカンの栽培は明治初期からで、現在は静岡市周辺、浜名湖周辺、伊豆西海岸などがその主産地となっている。しかし、新興産地の増大、過剰生産、貿易自由化などの影響で生産は停滞し、収穫量は全国の11.4%(2003)で愛媛県、和歌山県に次ぎ第3位。静岡ミカンは酸味が強いが貯蔵の効く特性をもち、加工用としても消費される。
県内各地にみられる施設園芸農業は、ハウス内の温度や湿度を調整しながら各種の品目が栽培されている。天竜川下流域から遠州地方のメロン、久能(くのう)海岸や狩野川下流平野のイチゴ、静岡市三保(みほ)半島を主とするトマトやキュウリの促成・抑制栽培、南伊豆のカーネーションなどの花卉栽培などは全国的に比率も高い。また最近は、イチゴ狩り、ミカン狩り、茶摘み民宿など観光農業も発達した。食生活の変化や、流通体系の変遷に伴い畜産の生産増大が顕著であり、ブロイラー、鶏卵、養豚などが主である。乳牛の飼育も古くは丹那(たんな)盆地で始められた。富士西麓朝霧(あさぎり)高原の酪農は、大規模な牧草地や放牧地をもっている。
[北川光雄]
森林面積は総面積の約64%を占め、民有林は82%、国有林18%(2000)である。温暖な気候と豊富な降水量に恵まれ、天竜川流域のスギ、ヒノキの美林は全国的にも知られる。かつては筏流し(いかだながし)による送流、古くは榑木(くれき)(山出しの板材)の産地でもあり、集散地の河港も発達し、二俣(ふたまた)や河口の掛塚(かけつか)湊は有名であった。金原明善(きんばらめいぜん)の治山治水事業に伴う植林も知られ、浜松市天竜区龍山(たつやま)町瀬尻(せじり)にその保護林がある。大井川上流域も伐採や搬出が進み、林道も赤石山脈奥深く開設され、谷口の島田市は製材や木材加工工業が発達した。支流寸又川(すまたがわ)源流部は原生自然環境保全地域に指定され、モミ、ツガ、ナラなどの自然林も広い。伊豆天城(あまぎ)の山林は、特定の樹種については伐採が制限され、スギ、ヒノキの植林も進行した。伊豆はかつては薪炭(しんたん)産地として炭焼きが多かったが、シイタケの栽培にかわり、狩野川やその支流大見(おおみ)川の上流ではワサビ田も渓流に分布する。
[北川光雄]
相模灘(さがみなだ)、駿河湾、遠州灘に面し、各種の海岸地形をもつ静岡県は海の幸に恵まれる水産県でもある。カツオ一本釣り漁業の伝統をもとに、漁船の大型化と動力化は漁場を南方に拡大し、焼津(やいづ)や御前崎は遠洋漁業の基地となった。第二次世界大戦後は南太平洋やインド洋へと漁場を開拓し、マグロ延縄(はえなわ)漁業により漁獲量は増大した。しかし、資源の確保、操業海域の規制などの国際的問題、流通機構の変化や需給の変動などで遠洋漁業は後退をしている。
駿河湾から沖合いは石花海(せのうみ)、金州(きんす)、銭州(ぜんず)などの好漁場をもち、カツオ、マグロ、イワシ、サバなどの漁獲量が多く、棒受(ぼううけ)網、揚繰(あぐり)網、定置網など漁法も多様である。駿河湾のサクラエビ、遠州灘のシラスは特産であり、伊豆海岸ではテングサ、アワビ、サザエなどの貝や藻類の採取がみられる。また、水産加工業も発達し、かつお節類、練り製品、干物、缶詰などが焼津、清水、沼津で生産される。
養殖業も盛んであり、明治中ごろに浜名湖南部に始まったウナギの養殖は名高い。大正中ごろに大井川下流の水田を転換した養鰻池(ようまんいけ)が吉田町を中心に開かれ、生産量では浜名湖周辺をしのいでいる。最近のボイラー加温によるハウス養殖は飼育期間を短縮させ、合理化を進めた。浜名湖岸にはスッポンの養殖もみられるし、富士宮では湧水(わきみず)によるニジマスの養殖がある。海面養殖として内浦湾のハマチ、浜名湖のカキ、ノリなどがある。
[北川光雄]
古くから伊豆の金鉱の採掘が進み、縄地金山(なわじきんざん)(河津町・下田市)や土肥金山(といきんざん)は名高く、安倍川上流や井川の金山も知られた。伊豆市にあった持越(もちこし)鉱山は、かつては清越(せいこし)鉱山の鉱石を原料としたが、産業廃棄物から金や銀を再生する精錬工程に変化した。天竜川流域の久根(くね)、峰ノ沢は硫化鉱、銅鉱を産したが昭和40年代に閉山した。西伊豆の宇久須(うぐす)で採取される珪石(けいせき)はガラスの原料として重要である。
[北川光雄]
静岡県は京浜と中京の工業地帯の中間に位置したために工業の近代化は遅れ、第一次産業と結合した伝統的な地場産業を中心に地域的に特色ある工業生産活動がみられた。しかし第二次世界大戦中の疎開工場をもとに戦後は重化学工業化が進み、電源開発、交通港湾など流通体系の整備、工業整備特別地域の指定などを契機にして発展し、2002年(平成14)には全事業所の製品出荷額等(16兆3068億円)が全国で第3位の工業県となった。
東部の東駿河湾工業地域は、化学・機械・金属工業を主とする三島沼津地区、製紙・パルプを主とする岳南地区に分けられる。富士川流域には伝統的な駿河半紙の製造がみられたが、明治中期より原木や水資源を立地条件に機械製紙が発達した。1958年の田子浦港着工は、臨海部に豊富な地下水をもとに化学繊維・食品工業などを誘致したが、紙・パルプが中心で輸入原料に依存し、用水は富士川を水源とする工業用水道でも供給されている。
中部は静岡と清水を中心に静清工業地域とよばれる。清水港周辺の臨海部にはアルミナ、造船、合板、精油などの工場が集中する。茶の輸出港として発展した清水は国際拠点港湾であり、興津埠頭(おきつふとう)はコンテナの基地となっている。静岡は伝統的な在来工業が中心であり、鏡台、漆器、雛具(ひなぐ)、家具、下駄(現在はサンダルに移行)など木漆関係の製品が多く、小規模家内工業で生産されている。ミカン、茶、魚類を原料に食品加工業も重要で、輸出用缶詰も生産されている。
浜松を中心とする西遠工業地域は、遠州織物の伝統を背景に浜松の綿織物、磐田(いわた)の別珍(べっちん)、コール天など繊維工業に特色がある。明治中期に始まった楽器も重要で、ピアノの生産比率は非常に高い。戦後は紡績機械工業からの転換も加えて、輸送用機械器具の生産が発達し、ヤマハ、ホンダ、スズキなどは関連産業を集積させ、自動二輪車および原動機付自転車の出荷が多い。
[北川光雄]
1950年(昭和25)国土総合開発法の制定は、電源開発と食糧増産を柱に水系別の開発方式で進行した。天竜東三河地区はその指定地となり、天竜川中流に佐久間、秋葉などの多目的ダムが建設され、発電のほか豊川(とよがわ)、三方原両用水の農業、生活用水などの給水も目的とした。大井川上流には発電用の井川、畑薙(はたなぎ)ダムが建設され、多目的の長島ダムも完成し、2003年度から運用開始されている。1960年代の県の総合開発計画は重化学工業化を目ざして三島沼津地区にコンビナートの誘致を図ったが、環境破壊批判のうちに挫折(ざせつ)した。工業整備特別地域の指定(1964)を受けた東駿河湾地区は田子浦港を中心に岳南工業地区が形成されたが、ヘドロ公害や地下水障害が発生し、東駿河湾工業用水道の敷設や諸規制で防止に努めた。浜松地区はテクノポリス(高度技術工業集積地域)の指定(1984)を受け、浜北リサーチパーク、テクノランド細江など研究開発企業の育成、都市居住環境の整備もあわせて新しい型の地域開発が進行している。
[北川光雄]
交通体系をみると、東海道の回廊にふさわしく陸上交通の主要幹線が東西に並行して通過し大動脈を形成している。JRは1889年(明治22)に全線開通した東海道本線を軸に、伊豆東海岸の伊東線、1934年(昭和9)丹那(たんな)トンネル開通までは東海道本線であった御殿場線(ごてんばせん)、富士と甲府を結ぶ身延線(みのぶせん)、北遠の一部を飯田線(いいだせん)が通過する。東海道本線の迂回(うかい)路としての二俣(ふたまた)線は天竜浜名湖鉄道となった。1964年に開業した東海道新幹線は県内に熱海、三島、新富士、静岡、掛川、浜松の6駅をもち輸送量も増大している。民鉄は伊豆急行、伊豆箱根鉄道、岳南鉄道、静岡鉄道、大井川鉄道、遠州鉄道、天竜浜名湖鉄道などの路線がある。1969年に全線開通した東名高速道路が県内を横断し、交通量の増大に伴い、新東名高速道路も一部区間を除き開通している。国道には1号、52号、135号、136号、138号、139号、150号、152号などがあり、伊豆スカイライン、表富士周遊道路(富士山スカイライン)などの観光道路の密度も高い。また、2009年(平成21)富士山静岡空港が牧ノ原台地に開港した。
[北川光雄]
応仁(おうにん)の乱(1467~1477)前後から三条西実澄(さねずみ)(のちの実枝(さねき)。1511―1579)、山科言継(やましなときつぐ)ら多くの公卿(くぎょう)が今川氏を訪れ、駿府に京都文化を伝えた。宗祇(そうぎ)、宗長(そうちょう)は京都と駿府を往来し、連歌(れんが)や築庭に優れた文化をこの地方にもたらした。徳川家康の駿府在城時には、駿府は政治、経済、貿易、文化の中心地であり、家康により駿府文庫が設けられ、『群書治要(ちよう)』などが出版された。江戸時代、県下は上方(かみがた)と江戸を結ぶ文化の接点にあり、多彩な文化を育てた。島田宿の塚本如舟(つかもとじょしゅう)を中心に島田連が形成され、蕉風(しょうふう)の俳諧(はいかい)が盛んであった。遠江では賀茂真淵(かもまぶち)を生み、多数の弟子を育て、国学の地方的拠点であった。駿府とその近辺では桑原藤泰(くわばらとうたい)(1767―1832)や山梨稲川(とうせん)(1771―1826)が地誌編纂(へんさん)や漢詩、音韻学に優れた業績をあげた。伊豆は江戸に近く、本因坊丈和(じょうわ)(1787―1847)、行司式守(しきもり)伊之助(蝸牛(かぎゅう)。1743―1823)、歌舞伎(かぶき)俳優市川小団次(こだんじ)を輩出させた。また、駿東郡下には近世後半には多くの寺子屋が生まれ、庶民教育が盛んとなった。封建的危機が深まると県内諸藩に藩校が設立された。沼津藩明親(めいしん)館、田中藩日知館、掛川藩徳造(とくぞう)書院、浜松藩経誼(きょうぎ)館(のち克明(こくめい)館)などである。徳川家達(いえさと)の駿府移封により、府中(静岡)学問所、沼津兵学校が開かれた。府中学問所には津田真道(まみち)、西周(あまね)、中村正直(まさなお)ら当代一流の教授陣が俊秀を育て、外国人教師クラークEdward Warren Clark(1849―1907)は青年に大きな感化を与えた。中村正直は『西国立志編』を駿府で出版し、大きな影響をもたらした。
学制発布により小学校が設立され、1880年(明治13)までに沼津、韮山(にらやま)、浜松、掛川中学校が設立され、私立豆陽(とうよう)学校(現、下田高校)が開かれた。他方、1869年杉山村(現、静岡市)で青年夜学が報徳運動の指導者片平信明(のぶあき)(1830―1898)によって設けられ、明治30年代の実業補習学校の先鞭(せんべん)となった。1901年(明治34)静岡漆器の伝統工芸の後進育成を目的として静岡漆工学校ができ(1912年廃校)、1918年(大正7)静岡と浜松に工業学校が設立され、工業教育が本格的な出発をした。1896年西伊豆町田子の実業補習学校に水産科が置かれ、翌年舞阪(まいさか)町立水産学校、1921年焼津(やいづ)町立水産学校が設立された。1922年静岡高校、浜松工業高校が開校、第二次世界大戦後には国立静岡大学に統合された。師範学校は1875年静岡に、1906年静岡女子師範、ついで1915年に浜松師範が開設され、いずれも国立静岡大学に統合された。1951年(昭和26)県立女子短大、1953年県立薬科大が開校したが、県立大学は1987年には統合して新しく静岡県立大学となった。2013年(平成25)現在、国立大学に静岡大学、浜松医科大学、総合研究大学院大学、県立大学に静岡県立大学、静岡文化芸術大学があり、私立大学は常葉(とこは)大学、浜松学院大学など13校(学部のみ、大学院のみを含む)がある。短期大学が公立1校、私立5校、高等専門学校が1校。美術館、資料館、博物館は各地に漸次増えつつあり、県立美術館が1986年に開館した。マスコミでは『静岡新聞』、静岡放送、テレビ静岡、静岡朝日テレビ、静岡第一テレビ、静岡エフエム放送などがある。
[川崎文昭]
静岡県は東西に長く、南北に高低の差が大きい。気候風土は多様性に富み、生活文化もおのずから地域性に富む。黒潮洗う沿岸と伊豆半島沿岸には漁労を生業とする漁村が、富士、安倍、大井、天竜、狩野川などの大中河川の下流部には稲作と園芸を主とする農村が、北部山地には林業と雑穀栽培を生業とする山村が開かれている。年中行事と作り物からみると、富士川と大井川を境として民俗文化圏の境界ができる。東部は師走朔日(しわすさくじつ)にボタモチをつくって川の神を祀(まつ)る。中部は霜月晦日(みそか)にミソカモチ、ツボモチを神棚に供える。西部は五月節供に長男誕生の祝いの凧揚(たこあ)げを行うが、中・東部にはない。正月の作り物は、東部はケズリモノ、中部はダイノコ、西部はニュウギをつくり、これは稲掛けの名称、東部のウシ、中部のハンデ、西部のハザと重なる。安倍奥、北遠の山村ではかつては制約の多い土地利用の関係で焼畑を行い、日常はもっぱら雑穀を食し、米食は正月や物日に限り、ハレの日に食した。1日5回食事をし、アサジャ、アサメシ、ヒルメシ、ヨウジャ、ユウハンなどと称し、山仕事にはメンパをもっていった。山仕事の服装はカルサン、モモヒキ、脛(すね)に紺地のハバキをあて、上はシャツを着た。寒くなればハンテン、ドウギを重ねた。女は第二次世界大戦後モンペをはく。住居は北遠に釜屋造(かまやづくり)がみられ、山梨県境の富士宮方面にかぶと造が特徴的である。駿河湾最奥の沼津市沿岸、伊豆半島の漁村は複雑な地形、大小の浦があり、回遊してくるマグロ、カツオを浦に追い込む漁法が盛んであった。いまでもイルカの追込み漁は有名であるが、近年はあまり行われていない。漁業、とりわけ追込み漁は数隻の漁船が魚見の統率に従って協同労働をなし、組織的に行わねばならない。そのため、人々の結び付きは日常生活において強く、若者組の結束は固く、伊豆西海岸には若者組制度が発達した。また、伊豆半島沿岸部にはササゲバチと称し、頭上に桶(おけ)をのせて運ぶ頭上運搬法があり、山間・平地部の背負って運ぶ方法と異なる様式を残している。東西を結ぶ東海道沿いにはかつては城下町、宿場町が栄えた。ここでは古代以来、都と東国、京都と鎌倉、上方と江戸という政治・文化の中間に位置し、東西都市文化の影響を受け独自の文化を育てにくかったとされ、しばしば回廊性文化と称される。しかし、東西文化を受容、咀嚼(そしゃく)して優れた文化をつくりだした。
民俗芸能では新春早々から各地で豊作祈願の祭りが行われ、ひよんどり、田遊(たあそび)、田楽(でんがく)などとよばれる。浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町西浦(にしうれ)の田楽は旧正月18日の夜半から翌朝にかけて五穀豊穣(ほうじょう)・養蚕繁栄を予祝する代表的な民俗芸能で、焼津(やいづ)市藤守(ふじもり)の田遊とともに国指定重要無形民俗文化財に指定されている。浜松市北区引佐(いなさ)町渋川寺野、同町川名にひよんどり(国指定重要無形民俗文化財)、藤枝市滝沢の田遊(国選択無形民俗文化財)があり、森町小国(おくに)神社、袋井市法多山(はったさん)尊永(そんえい)寺の田遊も有名。なお、森町小国神社や天宮(あめのみや)神社の舞楽は国指定重要無形民俗文化財。三嶋大社のお田打ちは農耕過程を演じ、古い田遊の形式を伝えている。4月に入ると御殿場(ごてんば)市沼田の子之(ねの)神社で湯立神楽(ゆだてかぐら)が行われ、伊豆西岸の沼津市大瀬(おせ)崎では大漁踊が催される。単調だが優美な踊りの最後は勇壮な鯨突きの歌で締めくくられる。また海上安全、豊漁祈願の熱海市来宮(きのみや)神社では鹿島(かしま)踊(7月)が行われる。焼津(やいづ)神社の荒祭(8月)は神輿(みこし)渡御が豪勢で、相良(さがら)の御船(おふね)神事は樽廻船(たるかいせん)を模した御船を操り、神輿の先駆けをする。盆行事は浜松市北区滝沢町の放歌(ほうか)踊、同市呉松(くれまつ)の大念仏、静岡市葵(あおい)区平野(ひらの)・有東木(うとうぎ)では古式の盆踊(国選択無形民俗文化財)、川根本町では徳山の盆踊(国指定重要無形民俗文化財)を伝え、南伊豆町妻良(めら)では盆踊に江戸風の口説きもやったが、現在口説きは廃絶している。10月、浜松市北区引佐町横尾では農村歌舞伎が村をあげて行われる。街道の祭りとして島田市の帯祭、輦台渡(れんだいわたし)、浜松市北区細江町の姫様道中があり、幕末の開港ゆかりの下田市の黒船祭など近年盛ん。奇祭としては磐田(いわた)市見付(みつけ)天神の裸祭、御前崎(おまえざき)市桜ヶ池のお櫃納(ひつおさめ)がある。なお、5月の浜松市の大凧揚げ(おおたこあげ)は長男誕生を祝う祭りとして始められ、全国から多数の観客を集めて勇壮に行われる。
文化財は豊富で水準は高い。西部には古刹(こさつ)が多く、重要文化財の建造物が、中部では今川氏、徳川氏ゆかりの庭や久能山(くのうざん)東照宮所蔵の武具・什器(じゅうき)、日蓮(にちれん)宗関係の絵画があり、東部には源氏、北条氏ゆかりの寺に優れた彫刻が目だつ。特別史跡に弥生(やよい)時代の農耕文化として著名な登呂(とろ)遺跡(静岡市)のほか、磐田市の遠江国分寺跡、湖西市の新居関所跡(あらいせきしょあと)がある。国指定史跡には浜松市の蜆塚(しじみづか)遺跡、磐田市の銚子塚(ちょうしづか)古墳、新豊院山古墳群、掛川市の和田岡古墳群、静岡市の賤機山(しずはたやま)古墳、片山廃寺跡、富士市の浅間(せんげん)古墳、三島市の伊豆国分寺塔跡、山中城跡(三島市・函南(かんなみ)町)、島田宿大井川川越遺跡、下田市の玉泉(ぎょくせん)寺、了仙(りょうせん)寺、伊豆の国市の韮山(にらやま)反射炉などがある。史跡・名勝に宗長(そうちょう)(連歌師)ゆかりの柴屋(さいおく)寺庭園がある。建造物では油山(ゆざん)寺、尊永(そんえい)寺、方広(ほうこう)寺などの三重塔、山門、仁王門、七尊菩薩(ぼさつ)堂などがあり、一部が国宝に指定されている久能山東照宮のほか、掛川城御殿、智満(ちまん)寺本堂、大石(たいせき)寺五重塔、富士山本宮浅間大社本殿、韮山の江川邸など国指定重要文化財も多い。久能山東照宮社殿(本殿、石の間、拝殿)は国宝に指定されている。近代のものに旧岩科(いわしな)学校校舎がある。重要文化財の民家も目だつ。大石寺、西山本門寺などの日蓮上人(しょうにん)自筆の書や、また白隠(はくいん)の禅画、江川坦庵(たんなん)の作品や渡辺崋山(かざん)の弟子たちの絵画が目だつ。彫刻では鎌倉時代の運慶の作品が願成就院(がんじょうじゅいん)(伊豆の国市)、天神(てんじん)神社(下田市)、修禅(しゅぜん)寺に残されている。能面や舞楽面(浜松市西区雄踏(ゆうとう)町・息(おき)神社)、錫杖(しゃくじょう)(静岡市・鉄舟(てっしゅう)寺)、国宝梅蒔絵(うめまきえ)手箱(三嶋大社)など優れた工芸も多い。聖武(しょうむ)天皇勅書(牧之原市・平田(へいでん)寺)、久能寺経(鉄舟寺)は国宝に指定されている。
[川崎文昭]
代表的なものに三保松原(みほのまつばら)の「羽衣伝説(はごろもでんせつ)」がある。漁夫が松の枝にかけてある羽衣を拾い、そのゆかりで天女と夫婦になる。天女はのちに産土神(うぶすながみ)、御穂(みほ)神社に祀(まつ)られたという。羽衣伝説は全国に分布しているが、この型は箸墓(はしはか)・三輪山(みわやま)伝説などと同じ信仰に基づくといわれている。曽我八幡宮(そがはちまんぐう)(富士市)は、父河津三郎(かわづさぶろう)(1145―1176)の仇(あだ)、工藤祐経(すけつね)を討った「曽我兄弟」を祀る。付近には曽我のかくれ岩、首洗いの念力水など、この伝説ゆかりの地が多い。伊豆は河津三郎の出身地で、仇討(あだうち)の発端となった暗殺の場所、三郎の血塚がある。曽我兄弟の墓は各地に存在する。その理由は明らかではないが、兄弟を弔って回国した大磯(おおいそ)の虎女との因縁や、兄弟の亡魂を恐れる御霊(ごりょう)信仰にかかわりがあろう。草薙(くさなぎ)神社(静岡市)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を用いて危難を脱したという伝説地にある。御神体の剣はのちに熱田(あつた)神宮に移されたという。その周辺に尊ゆかりの遺跡が多い。フジの古木で知られる磐田市の千手(せんじゅ)堂は、手越長者(てごしのちょうじゃ)の娘の「千寿の前(せんじゅのまえ)」を祀る。源氏の虜囚(りょしゅう)となった平重衡(しげひら)とかりそめの恋を語った美女で、重衡が斬罪(ざんざい)に処せられたあと尼になり、菩提(ぼだい)を弔ったという。佐鳴(さなる)湖の東方に「刀洗い池」の跡がある。武田方に内通したと疑われて、徳川家康の室の築山殿(つきやまどの)が、織田信長の命によって誅(ちゅう)せられた地と伝える。磐田市見付(みつけ)の矢奈比賣(やなひめ)神社は「しっぺい太郎」という義犬伝説で有名である。
[武田静澄]
『静岡県社会文化史編集委員会編『静岡県社会文化史』上下(1954、1955・県勢研究会)』▽『『静岡県の文化財』1~5・総集編(1959~1969・静岡県)』▽『田中勝雄著『静岡県芸能史』(1961・静岡県郷土芸能保存会)』▽『『静岡県の百年』(1968・静岡県)』▽『若林淳之著『静岡県の歴史』(1970・山川出版社)』▽『青野寿吉・尾留川正平編『日本地誌11』(1972・二宮書店)』▽『『静岡大百科事典』(1978・静岡新聞社)』▽『武田静澄・吉田知子著『日本の伝説30 静岡の伝説』(1978・角川書店)』▽『小和田哲男・本多隆成著『静岡県の歴史 中世編』(1978・静岡新聞社)』▽『原口清・海野福寿著『静岡県の歴史 近代現代編』(1979・静岡新聞社)』▽『新静岡風土記刊行会編『静岡県の歴史と風土』(1981・創土社)』▽『『角川日本地名大辞典22 静岡県』(1982・角川書店)』▽『『ふるさと伝説の旅5 中部 山の息吹き』(1983・小学館)』▽『若林淳之著『静岡県の歴史 近世編』(1984・静岡新聞社)』▽『静岡新聞社編『静岡県の昭和史』(1989・静岡新聞社)』▽『『静岡県史』資料編1~25、通史編1~7、別編1~3(1989~1998・静岡県)』▽『静岡新聞社編『静岡県の海』(1990・静岡新聞社)』▽『『新版 静岡県の歴史散歩』(1992・山川出版社)』▽『中野正大著『静岡県の地域イメージ』(1995・静岡新聞社)』▽『加田勝利著『静岡県の山』(1996・山と渓谷社)』▽『『日本歴史地名大系22 静岡県の地名』(2000・平凡社)』
静岡県の中央部にある県庁所在地。市域は安倍(あべ)川水系全域と大井川上流の井川地区および東部の清水地区からなる。北端は長野県、山梨県に接し、南は駿河(するが)湾に面する。東は富士宮(ふじのみや)市および富士市、南西は高草(たかくさ)山系で焼津(やいづ)市、藤枝(ふじえだ)市と接し、北西部は島田(しまだ)市、榛原(はいばら)郡川根本(かわねほん)町と接する。
1889年(明治22)に市制施行。1909年(明治42)南賤機(みなみしずはた)村(一部)、1928年(昭和3)豊田(とよだ)村、1929年安東(あんどう)、大里村、1932年賤機村、1934年千代田、大谷(おおや)、久能(くのう)、長田(おさだ)、麻機(あさはた)の5村、1948年西奈(せな)村、1955年美和(みわ)、服織(はとり)、中藁科(なかわらしな)、南藁科の4村、1958年清水市の一部、1969年大河内(おおこうち)、梅ヶ島、玉川、井川、清沢、大川の6村を編入。2003年(平成15)清水市と合併。2005年政令指定都市に移行、葵(あおい)、駿河、清水の3区がつくられた。2006年庵原(いはら)郡蒲原町を、2008年同郡由比町(ゆいちょう)を清水区に編入(庵原郡消滅)。全国有数の広域都市である。JR東海道新幹線・東海道本線、静岡鉄道、大井川鉄道のほか、東名高速道路(静岡インターチェンジ、清水インターチェンジ)、新東名高速道路(新清水インターチェンジ、新静岡インターチェンジ)、中部横断自動車道、国道1号、52号、149号、150号、362号が通じる。面積1411.83平方キロメートル(境界一部未定)、人口69万3389(2020)。
[川崎文昭]
市の北部は赤石山脈(あかいしさんみゃく)の主部をなし、静岡・山梨・長野3県の県境にそびえ立つ間(あい)ノ岳(白根(しらね)三山の一峰)から赤石岳を経て南へ3000メートル級の高峰が続く。その稜線(りょうせん)が南アルプス国立公園である。また、間ノ岳から山梨県境を山脈が南走し、これらの山地は市街地のすぐ背後に迫る。そのため市域の約85%が山地で、1500メートル以上の山地は約25%に達する。中心市街地は安倍川、藁科川がつくりだした沖積平野の静岡平野(静岡清水平野)に広がる。市域には南北にフォッサマグナの西縁にあたる糸魚川‐静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)が通り、複雑で変化に富む地形を形成する。気候は、市域の南部は年平均気温が16.5℃(1981~2010)で温暖といえるが、北部は寒冷である。
[川崎文昭]
歴史は古く、登呂遺跡(とろいせき)(国指定特別史跡)は水田農耕文化を知るうえで貴重であるばかりか、第二次世界大戦後、考古学の出発点となった遺跡として有名である。古代には『万葉集』に「阿倍の市(あべのいち)」が詠まれ、国衙(こくが)が置かれて栄えた。中世南北朝以後は守護・戦国大名今川氏の本拠地となり、今川義元(よしもと)の時代には駿河、遠江(とおとうみ)、東三河(ひがしみかわ)支配の中心であった。また、近世には徳川家康の駿河、遠江、伊豆、甲斐(かい)、信濃(しなの)5か国支配の拠点として発展。江戸初期、家康による大御所時代に駿府(すんぷ)の繁栄は最高潮に達し、駿府の人口10万に達したという。その後、徳川頼宣(よりのぶ)・忠長(ただなが)の城下町、忠長失脚後は城代が置かれ、駿府町奉行(まちぶぎょう)、駿府代官が支配し、番城の町、宿場町(蒲原宿、由比宿、興津宿、江尻宿(えじりしゅく)、府中宿、丸子宿(まりこしゅく))として続いた。明治初期、ふたたび駿府藩(1869年に静岡藩と改称)の藩庁所在地となり、さらに1872年(明治5)静岡県庁が設置されると、以後は政治・文化の中心都市として発展、現在に至っている。
[川崎文昭]
特色ある伝統的な在来工業が著しく発達している。伝統的な漆器、家具、建具工業は和洋家具工業に発展、木工の町ともよばれる。木漆製品は鏡台、針箱、雛具(ひなぐ)が多くつくられ、雛具は全国有数の生産を誇っている。かつて下駄(げた)製造が盛んであったが、現在ではサンダル、ケミカルシューズに転じ、サンダル生産は全国で上位。昭和30年代ころからプラスチック工業が出現、プラスチックモデルは全国シェアの大部分を占め、有名。伝統的在来工業は近代的に変身を遂げたが、経営形態は中小企業、家内工業的である。そのため、中小企業支援や大学と企業の交流促進を目的とした産学交流センターがつくられている。清水地区は全国有数の貿易港で、大規模な興津埠頭(おきつふとう)やコンテナターミナルを有し、食品、缶詰、食用油、機械金属、石油精製などの工場が多数ある。農林業は、北部の山岳地帯では茶、中部地帯ではミカン、南部では米、野菜が栽培されている。久能海岸一帯は石垣イチゴの名産地として全国的に著名である。このほか、シイタケ、ワサビ、木材、林産業も盛んである。水産業は江尻漁港、用宗漁港(もちむねぎょこう)を根拠地とする遠洋漁業と沿岸のシラス漁を主にしている。JR静岡駅・清水駅、静岡鉄道新静岡駅・新清水駅を中心にして電車、バスなどの交通網が発達、県下最大の商圏をもち、各種卸売業、小売業、飲食業が増加、第三次産業就業者は増え続け商業都市の性格をますます強めている。
[川崎文昭]
自然に恵まれ、古い歴史をもつ静岡市は景勝地、史跡名勝、文化遺産に恵まれ、豊かな観光資源をもつ。久能山東照宮とともに登呂遺跡は最大の観光客を数え、隣接の登呂博物館の入館者は年間約11万8000人(2021)。駿府城跡(駿府城公園)、静岡浅間(せんげん)神社、臨済(りんざい)寺、吐月峰柴屋(とげっぽうさいおく)寺、清見(せいけん)寺、洞慶(とうけい)院、賤機山などの旧跡や古刹(こさつ)が多く、旧東海道の道筋には、本陣跡など歴史的建造物が残されている。大崩(おおくずれ)海岸、三保松原(みほのまつばら)、日本平(にほんだいら)、井川湖など景勝地に全国から観光客やハイカーが訪れる。南アルプス国立公園の雄大な自然、梅ヶ島温泉などにも恵まれている。県立美術館をはじめ、駿府博物館、市立芹沢銈介(せりざわけいすけ)美術館、静岡市美術館、静岡音楽館AOI、清水文化会館(マリナート)などの文化施設のほか、静岡大学、静岡県立大学、常葉大学、静岡英和学院大学、東海大学などがある。年中行事としては4月上旬の「静岡まつり」、8月上旬の「清水みなと祭り」が知られ、名産品に銘茶、わさび漬け、安倍川餅(もち)、駿河湾のサクラエビなどがある。
[川崎文昭]
『『静岡市の歴史と文化』(1956・静岡市)』▽『『静岡市史年表』(1960・静岡市)』▽『飯塚伝太郎著『静岡市の史話と伝説』(1967・松尾書店)』▽『『静岡市史』全10巻(1969~1981・静岡市)』▽『わが郷土静岡刊行会編『わが郷土静岡』(1977・江崎書店)』▽『『写された明治の静岡』(1998・静岡市)』
基本情報
面積=7780.42km2(全国13位)
人口(2010)=376万5007人(全国10位)
人口密度(2010)=483.9人/km2(全国13位)
市町村(2011.10)=23市12町0村
県庁所在地=静岡市(人口=71万6197人)
県花=ツツジ
県木=モクセイ
県鳥=サンコウチョウ
中部地方南東部の太平洋岸に位置する県。東は神奈川,北東は山梨,北西は長野,西は愛知の各県に接し,東西約155km,南北118km。
県域はかつての遠江(とおとうみ),駿河,伊豆3国のほぼ全域にあたる。江戸時代は広大な天領を駿府(すんぷ)(駿河),中泉(遠江),韮山(にらやま)(伊豆)の代官所が支配したほか,旗本領,沼津藩,浜松藩をはじめ中小の譜代諸藩,寺社領が複雑に入り組んでいた。1868年(明治1)徳川宗家の移封によって,駿河全域と遠江の大部分(一部に同年堀江藩が立藩),および東三河からなる府中藩(翌年静岡藩と改称)が成立,そのため駿河の沼津,小島(おじま),田中,遠江の相良(さがら),掛川,横須賀,浜松諸藩は,安房・上総両国に移された。71年廃藩置県をへて,伊豆を管轄していた韮山県(1868成立)は相模の足柄県に編入,静岡県と堀江県は統合・分離して静岡県(駿河),浜松県(遠江)となり,東三河は額田県に編入された。76年足柄県の廃県に伴い,静岡県は伊豆を併合,さらに浜松県も併せて現在に至る。なお78年伊豆七島を東京府へ移管した。
先縄文時代の遺跡としては休場(やすみば)遺跡(沼津市)や広野遺跡(磐田市)などがある。前者では炉址2とともに多数の細石器が発見されたが,炭素14法により14300±700B.P.の年代が与えられている。縄文時代では,木島貝塚(富士市)が前期初頭,木島式の,また柏窪(かしわくぼ)遺跡(駿東郡長泉町)は前期末~中期初頭柏窪式の,いずれも標式遺跡である。大石寺の寺地にある千居(せんご)遺跡(富士宮市)は中期の,また大塚遺跡(伊豆市)は後期の,いずれも大規模な配石遺構をもつ遺跡である。後・晩期の遺跡も少なくない。西貝塚(磐田市)は後期を中心とする貝塚。蜆塚(しじみづか)貝塚(浜松市中区)や天王山(てんのうざん)遺跡(静岡市清水区)は,東海地方の後・晩期の様相を知るうえで重要な大遺跡である。弥生時代では何といっても登呂遺跡(静岡市駿河区)が著名であるが,このほかにも中期の丸子(まりこ)遺跡(静岡市駿河区),有東(うとう)遺跡(静岡市駿河区),中~後期の矢崎遺跡(駿東郡清水町),後期から古墳時代にわたる山木遺跡(伊豆の国市)など,いずれも東海地方の弥生文化の究明に重要な遺跡である。とりわけ山木遺跡は水田址とともに多量の木器の出土で知られる。伊場(いば)遺跡(浜松市中区)は縄文時代から鎌倉時代にわたる大遺跡だが,弥生・古墳時代および律令制の時期が中心である。溝状遺構など各種遺構,墨書土器,多数の木簡など貴重な遺物が発見されているが,東海道本線高架関連事業のため史跡指定解除をめぐっていわゆる〈伊場訴訟〉が起こされたことでも知られる。古墳時代では,遠江地域の古式古墳として重要な赤門上(あかもんうえ)古墳(浜松市浜北区)や松林山(しようりんざん)古墳(磐田市),静岡市清水区周辺で最古段階,おそらく4世紀末の三池平(みいけだいら)古墳,それに6世紀中葉の東海地方の代表的古墳である賤機山(しずはたやま)古墳(静岡市葵区)などがある。後期の群集墳も多く,5世紀後半から7世紀代の円墳200基以上からなる瀬戸古墳群(藤枝市),埴輪窯を伴うことで注目される5世紀後半の京見塚(きようみづか)古墳群(磐田市)などがある。また横穴墓も多い。北江間(きたえま)(大北)横穴群(伊豆の国市)では25個もの火葬骨用石櫃(いしびつ)が出土するなど,土葬から火葬への移行期の様子がうかがわれたほか,石櫃の一つに〈若舎人〉の銘がみられた。このほか伊庄谷(いしようだに)横穴墓群(静岡市駿河区),柏谷(かしや)横穴墓群(田方郡函南町),大師山横穴墓群(伊豆の国市)などがある。歴史時代では,創建当初の駿河国分寺と推定される片山廃寺(静岡市駿河区)や,戦後の国分寺研究の出発点となった遠江国分寺址(磐田市)などのほか,〈少毅殿〉の墨書土器や最古の具注暦木簡などを出土した城山(しろやま)遺跡(浜松市南区)など,奈良時代の郡衙址などもかなり明らかになりつつある。
→伊豆国 →駿河国 →遠江国
執筆者:狐塚 裕子
太平洋に面する静岡県は後ろに赤石山脈や富士山を控え,平地が海岸沿いに帯状に分布していることから南北方向よりも東西方向の結びつきが強く,関東,関西あるいは中京との経済・文化圏の接触地帯にあたる。静岡県が回廊的性格をもつようになったのは,鎌倉時代に東海道が京と鎌倉を結ぶ主要道となって以来のことで,江戸時代には東海道の53の宿駅のうち22が県内に立地していたこともあって人と物資の往来が多く,その性格はいっそう強まった。1889年の東海道本線の全通により回廊的性格は確定的なものになったが,1964年に東海道新幹線,69年に東名高速道路が開通したため,今日においては東西両圏の影響はより直接的になっており,東部は関東,西部は関西・中京の影響を経済・文化両面で強く受けている。また行政的にも,かつての静岡県は通産・農水両省においては東京の,大蔵・運輸・建設各省では名古屋の管轄地域に入っており,この面でも回廊的性格を示している。
県の地形,地質はほぼ中央部を南北に走る糸魚川-静岡構造線と,富士川との間にある庵原(いはら)山地によって東西に二分される。東半部はフォッサマグナの大地溝帯の一部にあたり,火山や温泉,地震の多い地殻運動の活発な地域である。富士山(3776m),愛鷹(あしたか)山(1187m),箱根山などの火山地域と伊豆半島によって構成され,火山のほかは1500m以上の山地はごくわずかである。西半部は中央構造線が北西端近くを通るため,一部分が西南日本内帯に属するが,大部分は外帯に属し,古期岩層がほぼ南北方向の帯状に配列する標高2500~3000mの赤石山脈が広い面積を占める。河川は天竜川,大井川,安倍川など西半部に豊かな水量をもつ急流が多く,縦谷をなして南流し,海岸沿いに遠州平野,大井川平野,静岡平野など厚い砂礫(されき)層からなる扇状地性の平野を発達させる。東半部では富士川が大きいが,県内での流長は18kmにすぎず,下流の岳南平野,狩野川下流域の北伊豆平野も西半部の平野に比べると規模が小さい。西半部には平野に隣接して三方原,磐田原,牧ノ原などの洪積台地が多いのも特徴的である。標高差の大きい変化に富む地形の影響で気候の差も著しく,伊豆半島および駿河湾沿岸部は温暖で年平均16℃以上,年降水量2000mm内外であるが,山間部では高度を増すほど夏季冷涼,冬季の寒さが厳しくなり,年降水量は3000mmに達するところもある。山間部では豊富な水資源を背景に,1950年代には電源開発が行われ,佐久間ダム(天竜川),井川ダム(大井川)などの多くのダムが建設された。森林面積は県総面積の約2/3にあたり,とくに大井,天竜,安倍の各河川流域は杉,ヒノキの人工林のほか,モミ,ツガなどの天然林の蓄積も多く,下流の島田・天竜両市は製材工場などの集積した木材の集散地になっている。
県内の産業別就業者の割合は,第1次産業7%,第2次産業41%,第3次産業52%(1995)で,全国平均に近い。農業は温暖な気候の沿岸部を中心に先進的な農業が営まれ,農業粗生産額は全国第13位の3202億円(1994)に達する。米のほか,茶,ミカン,温室メロン,野菜,花卉の栽培や畜産などが行われ,このうち茶は荒茶生産量で全国の52%,温室メロンは42%を占めて全国1位,ミカンは12%を占めて同3位の生産額をあげている。茶は牧ノ原のほか,安倍川,大井川などの河谷で栽培されている。このうち牧ノ原は明治初期に開拓され,現在は約6000haに及ぶ大茶園が分布する。大部分の生葉は地元で荒茶に加工され,製茶問屋の集中する静岡市駿河区・葵区に運ばれる。ミカンは東部の伊豆半島では沼津市周辺,中部では静岡市の駿河区・葵区と清水区周辺の丘陵部,西部では浜名湖周辺で多く栽培される。また,三保(清水区)から御前崎にかけての海岸沿い,および遠州灘沿岸では施設園芸が盛んで,久能山での石垣イチゴ,袋井市と浜松市での温室メロンがその代表である。花卉は伊豆半島西部と浜松市周辺,酪農・畜産は岳南地域が盛んで,とくに富士山西麓の朝霧高原は戦後開拓された大規模酪農地域として知られる。
変化に富む海岸線,沖合を流れる黒潮の影響を受けて全国有数の水産県となっている。沖合漁業は駿河湾入口の石花海(せのうみ)でのサバが中心であり,遠洋漁業はマグロはえなわとカツオ一本釣りが大部分で清水・焼津(やいづ)両漁港に水揚げされる。内水面での養殖漁業の生産額は全国第3位であり,全国の16%(1994)を占める浜名湖および吉田町などのウナギや,富士山の湧水を利用した富士宮のニジマスなどがある。
県内には,中部に天然の良港清水港や東部に人工港の田子ノ浦港などがあるが,全体としては素材型重化学工業の比率が低いため,工業は組立てや軽工業など内陸型の性格を示しているところに特色がある。県の製造品出荷額は16兆6295億円(1995)で全国第5位を占める。業種別にはオートバイ,自動車の輸送用機械(23%),食料品(7%),電機(18%),化学(10%),紙・パルプ(7%)が多い。藩政末期から明治初期にかけては西部に浜松の綿織物,中部に静岡の漆器,東部に富士・庵原両郡の和紙など地元で産する原料に依存した家内工業があった。明治中ごろには綿織物は機械制工業に変わり,漆器から家具,下駄,雛具(ひなぐ)などが派生し,富士地区には富士川の水と結びついて外来資本の洋紙工場が進出した。その後,綿織物,家具,製紙とも全国的産地に発展し,これに関連して繊維機械・楽器(浜松)なども興った。清水市には昭和初期に製材,缶詰,第2次大戦中に造船,石油精製が進出したほか,沼津市,浜松市などには一般機械工業が発達した。戦後の高度経済成長期には機械や化学が伸び,重化学工業化が進行した。現在,西部では浜松市を中心にオルガン,ピアノは全国の9割,オートバイは3~4割を占める。周辺の磐田,袋井,掛川,湖西の各市においては楽器,オートバイ,自動車などの工場が浜松から移転し近年の伸びが大きい。中部では家具,仏壇など木漆関連の静岡市のうちの旧静岡市と,缶詰などの食料品,石油精製,造船などの静岡市の旧清水市からなる静清(せいせい)地区が主で,藤枝,焼津などの大井川地区には従来の紙・パルプ,木材に加え化学,食料品などの工場が立地している。東部は1963年東駿河湾工業整備特別地域に指定され,一般機械,電機,合繊などの沼津・三島地区,全国一の製紙をはじめ,自動車部品,化学などの富士地区に加え,御殿場・裾野両市には自動車およびその関連工場が進出し,新しい工業地区を形成した。
静岡県は自然条件および人文条件の違いから,富士川と大井川および天竜川の分水界を境に東部,中部,西部に分けられる。また旧国域に沿ってほぼ狩野川以東を伊豆地域,狩野川以西,大井川までを駿河地域,大井川以西を遠江地域に区分する場合もある。地域別の人口(1995)は東部の123万,中部の124万,西部の127万でほぼ等しく,農業粗生産額(1995)の52%が西部に集中し,中部(28%),東部(20%)を大きく上回る。工業は製造品出荷額(1995)が東部31%,中部27%,西部42%で,西部が優位である。商業は年間商品販売額(卸売・小売業,1994)において中部が44%と多く,次いで西部(31%),東部(26%)の順である。
(1)東部 伊豆半島および岳南(富士山南斜面)の各地区からなる。この地域の大部分は富士箱根伊豆国立公園に属し,東海道新幹線,東海道本線,東名高速道路など交通の便のよさもあって,全国有数の観光地になっている。このうち年間5000万人を上回る県外観光客の訪れる伊豆半島は交通機関の発達とともに関東との結びつきが強まり,1925年の国鉄熱海線(現,東海道本線の一部),34年の丹那トンネル開通に伴う東海道本線の路線変更,38年の伊東線の開通は温泉都市の熱海,伊東を東京の奥座敷にした。また61年の伊東~下田間の伊豆急行線の開通は,中央資本による下田を中心とした南伊豆地区の観光開発を促進させた。小売商圏は沼津市の広域商圏に包含されるが,その中に御殿場市,三島市などの小商圏があり,大型店の進出により富士市,下田市などの商圏は独立の傾向にある。中心都市の沼津市は人口21万(1995)で中部の静岡市(47万人)や浜松市(56万人)と比べ少ないが,周辺の清水町,函南(かんなみ)町,裾野市などの人口増加が著しい。
(2)中部 富士川から大井川,天竜川の分水界までの地域で,東海道本線に沿って静岡,焼津,藤枝,島田の各市が連なり都市化が著しい。この地域の中心都市で県庁所在地でもある静岡市の旧静岡市は県の政治・経済・文化の中心地をなし,大手企業の支店,営業所などの集中が著しい。県の卸売業販売額(1994)の約1/3を占める商業都市であるが,木漆関連工業や製茶,プラモデルなどの地場産業も盛んである。東隣の工業の盛んな旧清水市とは市街地の拡大により連接化している。一方,大井川平野にある焼津・藤枝・島田3市と大井川町(現,焼津市)では人口増加が著しいが,家具工業を中心に静岡からの移転工場も多い。
(3)西部 遠州平野を含むこの地域は農業と工業がともに発達した地域である。中心都市の浜松市は県庁所在地以外の地方都市の中で,人口50万近くになった全国でも珍しい都市で(平成の大合併により2007年には79万人弱),織物,楽器,自動車・オートバイが三大工業である。広大な遠州平野は県内一の穀倉地帯であるとともに,袋井・浜松両市を中心とした施設園芸,浜松市が中心の花卉,浜名湖北岸のミカン栽培などの盛んな先進的な農業地域である。浜松市周辺の磐田・湖西両市などは近年住宅地化が著しい。西部の小売商圏は浜松商圏の吸引力が大きく,掛川,袋井,浜北,天竜,磐田の商圏は小規模である。
執筆者:塩川 亮
静岡県中部にある県庁所在都市。2003年4月旧静岡市と清水(しみず)市が合体し,さらに06年3月蒲原(かんばら)町を編入して成立した。蒲原町は飛び地合併となったが,08年11月に間にあった由比(ゆい)町が静岡市へ編入したため,飛び地は解消された。なお05年4月静岡市は政令指定都市に移行し,葵,駿河,清水の3区が置かれている。人口71万6197(2010)。
静岡市東端の旧町。旧庵原(いはら)郡所属。人口1万3454(2000)。富士川河口西岸に位置し,南は駿河湾に臨む。古くから東海道の宿駅として繁栄した交通の要地で,現在もJR東海道本線,国道1号線が通じる。1939年アルミニウムの電解工場が立地して以来,関連する金属,化学工場が進出し,工場地帯を形成している。北部丘陵地帯のミカンや駿河湾のサクラエビ,シラスなどが特産物で,缶詰や削り節加工など食品加工業も発達している。ハイキングコースとして知られる大丸山,室町時代に蒲原氏が拠った蒲原城跡などがある。
執筆者:萩原 毅
駿河国の宿場町。地名の初出は864年(貞観6)で,蒲原駅を富士川の東に移したという《日本三代実録》の記載である。東遷前の位置は旧蒲原町,富士市岩本,同市本市場などに比定される。鎌倉時代以降は富士川と由比の間に位置する蒲原郷内にあり,蒲原氏の支配下にあった。富士川をひかえた交通の要衝で,武田氏は蒲原衆に伝馬屋敷36間の諸役を免じて保護した。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定された。当時の宿中心部は蒲原町古屋敷から堀川,諏訪町辺といわれる。99年(元禄12)高潮の被害をうけ本町辺に移り,駿河湾に沿って海食崖下に町並みを形成した。《宿村大概帳》によれば町並み14町余,人別2480,家数509,本陣1,脇本陣3,旅籠屋42であった。富士川舟運の発達にともない甲州・信州からの下り荷の廻米,甲州・信州向けの塩の中継地として繁栄し,廻船業者も多かった。
執筆者:川崎 文昭
静岡市西部の旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口46万9695(2000)。中心市街地は静岡平野の主体をなす安倍川東岸の扇状地に位置し,市域には山梨・長野両県境付近の安倍川,大井川の上流域や藁科(わらしな)川の流域も含まれ,かつての市では福島県いわき市に次いで全国第2位の広さ(面積1146km2)であった。古代には駿河国府が置かれ,国分寺も建立された。鎌倉時代以降,東海道の宿駅,府中宿として発展し,室町時代中ごろから駿府(すんぷ)の名も用いられるようになった。南北朝時代には今川氏の居館地となって城下町が整備され,一時武田氏の支配下に置かれたが,1607年(慶長12)徳川家康が隠居城として駿府城を築き,16年(元和2)まで大御所政治が行われ,江戸と並ぶ日本政治の中心地となった。1869年(明治2)賤機(しずはた)山(別名,賤ヶ丘)にちなんで静岡と改称した。89年に東海道本線が全通し,その後周辺の村を編入しながら商業,木工関連工業を中心に発展してきた。1964年東海道新幹線静岡駅が開業。東名高速道路のインターチェンジがある。産業別就業者の割合では第1次産業が3.9%,第2次産業が29.4%,第3次産業が66.4%(1995)を占める。農業では年平均気温16℃と温暖な気候を生かした茶,ミカン,野菜の栽培が中心で,江戸期から生産されていた茶は明治以降輸出品となったこともあって発展し,安倍川,藁科川筋の本山(ほんやま)茶は銘茶として知られる。また市内には県内各地から集められた荒茶の再製工場が多い。ミカンは有度(うど)丘陵,賤機山など中部山沿いで栽培され,果物,野菜は海岸部を中心に施設園芸が伸びており,旧清水市に至る有度丘陵南斜面の久能地区の石垣イチゴは観光農業としても有名。水産業は遠洋漁業の根拠地,用宗(もちむね)港が中心をなす。工業では国道1号線沿いに紡績,電機などの大工場が集まるほかは,伝統的な木漆製品を製造する家内工場が多く,家具,雛具,下駄,サンダル,プラモデルは全国一の生産額を示す。市街地は駿府城跡(駿府公園)を中心に整然とした町割りをなしており,中心商店街は静岡駅前から北西にのびている。市街地北方の賤機山南端には浅間(せんげん)神社,南方には登呂遺跡(特史),久能山(史)には徳川家康をまつる東照宮,その北側には日本平(にほんだいら)(名)など名所,旧跡が多い。
静岡市中部の旧市で,駿河湾に臨む。1924年市制。人口23万6818(2000)。市域は東部の興津(おきつ)から南西部の日本平(有渡山(うどさん))に及び,西は旧静岡市に接する。北部は興津川上流の山地で,南に三保ノ松原で知られる分岐砂礫嘴(されきし)の三保半島があり,良港清水港を囲む。江尻,興津は東海道の宿場町として古くから栄え,清水湊は江戸時代に幕府から種々の特権を与えられて発展,諸国の廻船の出入りが盛んで,多くの廻船問屋が活動した。1899年開港場となり,全国一の茶の輸出港に発展した。明治末期以降,港湾拡張とともに工業港の性格が強まり,大正期に港湾に隣接して食用油,製材などの工場が進出,昭和初期にミカン,マグロの缶詰工場,第2次世界大戦中にはアルミナ,石油精製,造船,電機などが進出した。1952年特定重要港湾に指定され,近年にコンテナ専用埠頭もできた。輸出はオートバイ,自動車が約半数を占め,輸入は原油,木材,魚貝類の順である。工業は食料品,化学,一般機械,木材・木製品が中心で,水産業はマグロ,カツオなどの遠洋漁業を主とする。清水港江尻船溜りの年間水揚高(1996)は620億円である。中央資本の大型冷凍倉庫を背景に水揚高は急増し,他港船の水揚げも多い。農業は庵原,有渡山のミカン,茶,三保の施設果菜類,久能地区のイチゴなど。古墳時代中期の三池平古墳,日本武尊伝説を伝える草薙(くさなぎ)神社,俠客清水次郎長の墓がある梅蔭寺,山岡鉄舟が再興した鉄舟寺,清見寺(庭園は名勝)などがある。久能地区は毎年1~5月にはイチゴ狩客でにぎわう。〈国際海洋文化都市--マリンピア清水21〉の開発計画などが進められている。JR東海道本線,国道1号線,東名高速道路などが通じる。
執筆者:塩川 亮
駿府の外港として発達した港町。江戸時代初頭,駿府城下町の整備と同時期に巴川河口右岸の浜清水に町を形成。幕府の御船蔵,船手奉行が置かれた。富士川舟運の発達にともない甲信方面からの下り荷の甲州廻米,上方方面から甲信向けの塩,その他の中継港として繁栄した。1707年(宝永4)以降,甲州廻米揚場が設置され,諸藩役人が管理し,32年(享保17)には幕府御米蔵(1万石収容)が置かれた。元禄年間(1688-1704)まで清水は浜清水村と称され,駿府代官が支配し,1751年(宝暦1)町方は駿府町奉行支配となった。当時,清水町は本町,上1丁目,上2丁目,本魚町,新魚町,袋町,仲町,美濃輪町の8ヵ町から成り,本魚町,新魚町,袋町は魚座三町といわれた。町政は2名の名主,4~6名の年寄,各町の丁頭と組頭が担当した。清水には大坂の陣に際して営業許可をうけた42軒の廻船問屋が存在し,諸問屋といった。諸問屋は清水湊出入津商品を独占的に取り扱う特権をもち,安倍川以東,富士川以西の沿岸宿町村の直取引を厳禁して駿府の外港としての役割を果たした。主要な入津品は米穀,酒,油,塩,タバコで,出津品は薪炭,茶などであった。江戸時代初期,廻船60艘を有したが,1751年には大廻船13,小廻船2,総石数9500石,船主9,水主108であった。1861年(文久1)の職業別戸数は697,内訳は米穀塩諸色仲買70,廻船宿4,同小宿26,酒造家3,質屋10,菜種屋5,医師2,鍼医6,大工15,船大工20,桶屋5,左官4,石工3,木挽3,畳屋1,鍛冶職3,御蔵小揚20,甲州御城米小揚50,川岸小揚130,船乗60,漁師157,魚渡世100であった。78年清水町は巴川河口左岸に発達した寄州(向島)に波止場を築造,海港の町として発展する基礎をつくった。
執筆者:川崎 文昭
静岡市東部の旧町。旧庵原郡所属。人口1万0013(2000)。南は駿河湾に臨み,東,北,西は山地で傾斜地が海に迫り,平地は少ない。集落は海岸沿いと町の中央を南流する由比川流域に集中している。江戸時代は東海道の宿場として栄え,本陣跡が残る。主産業は傾斜地でのミカン栽培と駿河湾内でのサクラエビ漁で,水産加工業も盛ん。静岡市の旧清水市や旧静岡市,富士市などへの通勤者もふえている。フォッサマグナ地帯に含まれるこの地域はこれまでに何回かの地すべりが発生し,1961年の寺尾地区の地すべり以後は海岸地帯の埋立てが行われた。JR東海道本線,国道1号線,国道バイパスが通じる。
執筆者:萩原 毅
駿河国の東海道の宿駅。鎌倉時代から宿駅として見え《海道記》貞応2年(1223)4月13日条に〈湯居の宿〉とある。15~16世紀には由比郷に由比氏が勢力をもち,武田信玄の駿河侵入後,江尻,興津から甲州へ通じる宿駅に指定された。1601年(慶長6)東海道の宿駅となった。由比宿は西町,中町,本町,新町からなり,今川氏の滅亡後帰農した本町の由比氏が名主・問屋を勤めた。《東海道宿村大概帳》によれば,戸数160,人数730人,本陣1,脇本陣1,旅籠屋(はたごや)32,宿内町並み5町半であった。小宿のため65年(寛文5)往還続きの北田,町屋原,今宿が加宿として本宿六分役,加宿四分役負担となり,94年(元禄7)さらに8ヵ村を加え,本宿・加宿各五分役を負担した。山地が急傾斜して駿河湾にせまる東西の狭隘な地に町並みを形成,もっぱら男は宿稼ぎ,女は木綿機を織った。隣宿の興津との間の薩埵(さつた)峠は街道の難所であった。
執筆者:川崎 文昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
※「静岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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