音阿弥(読み)オンアミ

デジタル大辞泉 「音阿弥」の意味・読み・例文・類語

おんあみ【音阿弥】

連声れんじょうで「おんなみ」とも》観世元重かんぜもとしげ法名

おんなみ〔オンアミ〕【音阿弥】

おんあみ(音阿弥)

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改訂新版 世界大百科事典 「音阿弥」の意味・わかりやすい解説

音阿弥 (おんあみ)
生没年:1398-1467(応永5-応仁1)

大和猿楽観世座のシテ役者で3代目の観世大夫。通称三郎,実名元重(もとしげ)。当時は座名が姓同様に通用しており,観世三郎元重と呼ぶのが妥当であるが,現今は観阿弥世阿弥と並べて,法名の音阿弥(通常はおんなみ)で呼ばれることが多い。世阿弥の弟の四郎の子で観阿弥の孫。世阿弥の通称三郎を襲名しており,一時は世阿弥の養子だったらしい。応永20年代から活動記録があり,1427年(応永34)には青蓮院門跡義円(足利義満の子)の後援勧進猿楽を興行した。その義円が,翌年に没した足利義持の後継者に選ばれたことから音阿弥の運が開け,新将軍義教(よしのり)の絶大な後援下に音阿弥は世阿弥やその子観世十郎元雅を圧倒するに至る。元雅が早世した翌年の33年(永享5)には音阿弥が観世大夫となり,その披露の意味の勧進猿楽が将軍主催の形で3日間催された。それ以前から観世座の実質上の代表者は音阿弥であり,彼を3代目観世大夫とする(元雅を3代目に数えない)説には十分理由がある。観世大夫は幕府の職名に近いものであった。観世大夫就任後の音阿弥は,一時的に義教の不興をこうむったこともあるが,芸能界の第一人者の地位を持続し,世阿弥の時代には観世と並んで将軍の後援を受けていた田楽新座や近江猿楽比叡座の勢力を失墜せしめ,幕府と観世座の結びつきを不動のものにしている。義教が41年(嘉吉1)赤松邸で音阿弥の能の最中に暗殺された直後は音阿弥も困窮したが,足利義政が彼を後援したため再び時めいた。60歳ごろに出家して音阿弥と称し,子の又三郎政盛(かんぜまさもり)に観世大夫を譲ったが,依然能役者として活動し,政盛が将軍義政の後援で64年(寛正5)に催した糺(ただす)河原勧進猿楽でも,3日間計29番の能のうち12番のシテが音阿弥であった。在世中に〈当道の名人〉と評され,67年に没した際にも〈希代の上手,当道に無双〉と惜しまれており,能役者としては世阿弥以上の達人であったらしい。ほぼ同代の金春禅竹(こんぱるぜんちく)のような伝書著述や能作の実績こそ残していないが,音阿弥が猿楽能への社会的評価を高め,観世座が後代も能界の主流を占める基盤を形成した功績は偉大であり,世阿弥の後継者としての責任は十分果たしている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「音阿弥」の意味・わかりやすい解説

音阿弥(おんあみ)
おんあみ
(1398―1467)

室町(むろまち)時代の能役者。観世流シテ方。実名は観世三郎元重(もとしげ)。流祖観阿弥(かんあみ)の孫、世阿弥(ぜあみ)の甥(おい)にあたる。将軍足利義教(あしかがよしのり)・義政(よしまさ)の寵(ちょう)を得て全盛を誇り、有名な糺(ただす)河原の勧進(かんじん)能をはじめ活発な演能活動をみせた。「希代の上手、当道にならびなし」と評された名人。作品こそ残していないが、能の発展史上重要な人物である。一方、世阿弥・観世元雅(もとまさ)父子の一座は義教の弾圧を受けて衰えた。世阿弥の佐渡配流も、音阿弥に秘伝を譲らなかったためではないかといわれる。不遇の元雅が父に先だって客死したあと、音阿弥が4世観世大夫(かんぜだゆう)を継承したが、なぜかいまの観世家では元雅の大夫就任を代に数えず、音阿弥を観阿弥、世阿弥に次いで3世としている。観世信光(のぶみつ)は音阿弥の第7子。

[増田正造]


音阿弥(おんなみ)
おんなみ

音阿弥

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朝日日本歴史人物事典 「音阿弥」の解説

音阿弥

没年:応仁1.1.2(1467.2.6)
生年:応永5(1398)
室町中期の能役者。スーパースターの3代目観世大夫で,観世座隆盛の礎を築いた。実名元重。通称三郎。世阿弥の弟四郎の子ながら,世阿弥と同じ三郎を名乗っており,一時は世阿弥の養子だったらしい。将軍になる以前の足利義教に贔屓され,義教が将軍となってからは強力な後援を得て,世阿弥やその長男観世元雅を圧倒した。元雅が早世した翌年の永享5(1433)年に観世大夫となり,将軍主催の新大夫披露の勧進猿楽が糺河原で催された。義教の急死後,一時苦境に立ったが,足利義政の後援を受け第一人者の地位はゆるがなかった。60歳ごろ出家して音阿弥(「おんなみ」とも呼ぶ)と称し,大夫を長男政盛に譲るが,寛正5(1464)年の糺河原勧進猿楽でも3日間で12番の能のシテを勤めるなど活躍ぶりは衰えなかった。能作や伝書の著述などしない根っからの芸人だが,能の普及に果たした功績は大きい。

(松岡心平)

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百科事典マイペディア 「音阿弥」の意味・わかりやすい解説

音阿弥【おんあみ】

室町時代の能の名人。〈おんなみ〉とも。通称三郎,実名元重。観阿弥の孫,世阿弥の甥(おい)。観世流4世(観世家では3世と数える)の大夫。足利義教・義政の後援を得て,世阿弥・元雅父子の一座を圧倒した。作品はないが,能の発展史上重要な人物。
→関連項目観世信光観世元雅

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「音阿弥」の解説

音阿弥 おんあみ

1398-1467 室町時代の能役者。
応永5年生まれ。世阿弥の弟四郎の子。将軍足利義教(よしのり)の寵愛を受け,永享2年醍醐(だいご)清滝宮の楽頭職につく。世阿弥の長男元雅の若死にで,5年観世大夫となり,糺(ただす)河原勧進猿楽を上演した。長禄(ちょうろく)2年に出家し,長男政盛に大夫職をゆずった。文正(ぶんしょう)2年1月2日死去。70歳。名は元重。通称は三郎。「おんなみ」ともよむ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「音阿弥」の意味・わかりやすい解説

音阿弥
おんあみ

[生]応永5(1398)
[没]応仁1(1467)
室町時代前期の能役者。名は三郎元重。世阿弥の甥にあたり,世阿弥の子元雅の死後将軍足利義教の寵を受けて,4世観世太夫として活躍。晩年にも義政の庇護のもとに,後小松院の御所での演能などにすぐれた芸を見せた。

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世界大百科事典(旧版)内の音阿弥の言及

【音阿弥】より

…通称三郎,実名元重(もとしげ)。当時は座名が姓同様に通用しており,観世三郎元重と呼ぶのが妥当であるが,現今は観阿弥・世阿弥と並べて,法名の音阿弥(通常はおんなみ)で呼ばれることが多い。世阿弥の弟の四郎の子で観阿弥の孫。…

【世阿弥】より

…1422年ころ60歳前後で世阿弥は出家し,観世大夫の地位を子の観世元雅に譲った。引退したわけではなく,出家後も能を演じ,元雅や次男の七郎元能や甥の三郎元重(のちの音阿弥)らの教導にも熱心だった。子弟の成長で観世座は発展の一途をたどり,彼自身の芸も円熟の境に達し,出家前後が世阿弥の絶頂期であったろう。…

※「音阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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