新薬師寺西方に所在。方形三段に築かれた土塔。樹木が茂り、頭塔の森とよばれる。「七大寺巡礼私記」に「玄僧正之墳也、興福寺巽方去五町余荒野中、有十三重大墓、以僧正之頭埋此墓、故号頭塔、其墓石多彫刻仏菩薩像者也」と記され、伝説に奈良時代の僧玄の頭骨を葬った塚だというが、本来土塔であったのを頭塔となまり、玄に結びつけられたのである。「東大寺要録」の「東大寺権別当実忠二十九个条事」に「奉造立塔一基 在新薬師寺西野、以去景雲元年所造進也」、「東大寺別当次第」に「神護景雲元年実忠和尚依僧正命御寺朱雀之末作土塔」とあることから、神護景雲元年(七六七)に東大寺の実忠が築いた土塔と考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市高畑町字頭塔町の台地上にある奈良時代の土塔。1辺32m,高さ1.2mの基壇の上に,順次に小さく4壇を方錐台形に築いたもので,頂部までの高さは約10mあり,第1壇は1辺24mに復原できる。各土壇の四面には計13基の石仏が露出している。1978年の発掘調査で,自然石を垂直に積み上げた基壇の上に土壇を築き上げたものであることが確認された。このときの調査で新たに石仏が1基発見された。石仏はいずれも半肉彫で如来浄土や仏伝などが表され,壁体の石組みより約50cm内側に置かれ,石を組み合わせて龕(がん)状に構築されたようである。この塔の主軸線はほぼ真南北であり,必ずしも東大寺大仏殿の中心には向かわないが,出土する瓦は東大寺と同じものであることから,明らかに東大寺と密接な関連をもつものである。俗説では,僧玄昉の頭を埋めた墓であるところから頭塔の名が生じたとするが,土塔の転訛である。
執筆者:森 郁夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良市高畑町清水通にあり、僧玄昉(げんぼう)の頭塚の伝承がある。台地西端につくられた方錐(ほうすい)形の土塔で、一辺約24メートルの基壇に四段築成され、上段は一辺約4メートルを測る。各段は石垣状に化粧石が積まれ、平坦(へいたん)部にも石敷がみられる。各段にはもと24基の石仏が安置されていたとみられるが、現在は13基が遺存する。像は一基を除きすべて花崗(かこう)岩に浮彫りで表した侍者を伴う如来(にょらい)三尊、独尊像などである。各姿態は変化に富み、顔は童顔で、衣文(えもん)はうねるような曲線で彫成されている。小さな浮彫り像ながら立体感にあふれ、宝相華文(ほうそうげもん)や台座の蓮弁(れんべん)などにもおおらかな奈良時代後期の特色がよくみいだされる。土塔は、767年(神護景雲1)良弁(ろうべん)の命により東大寺造営に手腕を振るった傑僧実忠(じっちゅう)によってつくられたことが『東大寺要録』などによって知られる。東大寺との関係は深く、土塔の南北中軸線は東大寺伽藍(がらん)と一致し、また各石仏は東大寺と同じ瓦(かわら)で葺(ふ)いた仏龕(ぶつがん)内に安置されていたようである。1922年(大正11)国史跡に指定、石仏は77年(昭和52)重要文化財に指定された。
[三輪嘉六]
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[日本]
《日本書紀》敏達13年(584)条に鹿深臣が百済から弥勒石仏を将来したとあり,これが記録上の初見であるが,飛鳥時代の石仏の遺品は知られていない。奈良時代の遺品に,奈良県石位寺三尊像(砂岩?,半肉彫),兵庫県加西市の古法華三尊像龕(凝灰岩,半肉彫),奈良市高畑町の頭塔(ずとう)(花コウ岩,薄肉彫。方墳状の土塔の四方に十数個の石仏を配する),奈良県宇智川磨崖仏(線刻)などが知られる。…
※「頭塔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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