能の大成者世阿弥(ぜあみ)の能楽論で、日本を代表する芸術論。1400年(応永7)に三編までがまとめられ、父観阿弥(かんあみ)の教えに基づいて著したものである。ただ1人の真実の後継者に能の真髄を伝えようとして書かれた秘伝であるが、汎(はん)演劇論として、芸術論として、教育論、人生論、魅力の美学として、不滅の価値をもつ。書名については世阿弥自身「風姿花伝と名づく」といっており、略する場合は「花伝」であるから、「花伝書」という俗称を用いるのは正しくない。「花伝書」は、室町後期からの能の伝書の全体、そして立花の教えをさすことばであり、1909年(明治42)に吉田東伍(とうご)が初めて翻刻するときに用いた名称であり、また室町末期の能の指導書『(八帖(はちじょう)本)花伝書』の固有名詞であった。
構成は七段である。まず能の役者の心構えを説く「序」。年齢別カリキュラムである「第一年来稽古(ねんらいけいこ)条々」では、7歳から稽古を始めよと説き、17、8歳のスランプの時期の乗り切り方、デビューのころの注意から、花の盛りの年代、40歳以降の撤退作戦など、七期に分けられている。「第二物学(ものまね)条々」は、演技総論に続くジャンル別の演技論(扮装(ふんそう)論が主軸)であり、女、老人、直面(ひためん)、物狂(ものぐるい)、法師、修羅(しゅら)、神、鬼、唐事(からごと)の9分類となっている。「第三問答条々」は、世阿弥の質問に観阿弥が答えた形とも考えられ、演出論、芸位論、能の美学論などを内容とする。「第四神儀云(しんぎにいわく)」は、内容も文体も違っており、座に伝わる能の発生、歴史、伝説が書かれている。能の始祖の秦河勝(はたのかわかつ)を、秦(しん)の始皇帝の生まれ変わりとするなどの説も語られるが、能の役者の伝承意識を知るうえで貴重である。
後編は、別の「序」をもち、「奥儀云」は、世阿弥の属した大和申楽(やまとさるがく)と、近江(おうみ)申楽、あるいは田楽(でんがく)との芸風の違いを説くが、観客の好みはまちまちだから、どの芸でも演じうる幅広さをもつべきだとする。あらゆる観客層へのアピールこそ、観阿弥の主張であった。「第六花修(かしゅう)云」は、能作論であり、演技論であり、観客論であり、演技者の比較論である。「第七別紙口伝(くでん)」は、目標として追求してきた魅力の美学「花」の解明であり、なぜ植物の花に例えたのか、花は面白(おもしろ)さであり、それは珍しさにほかならないと、明快な論が展開される。観客との相対関係のなかでしか成立することのない舞台芸術の本質が語られ、物真似(ものまね)論、十体と年々去来の花による無限の変化を実現するくふう、「秘すれば花」の真実、「男時女時(おどきめどき)」の理論が語られる。
この『風姿花伝』は世阿弥40歳前後からの、彼の初の理論書であるが、観阿弥理論からの脱皮の意図ともされる。60歳代の『花鏡(かきょう)』はそれ以後の理論と世阿弥自身述べているが、世阿弥後年の能楽論の大綱はこの『風姿花伝』にあるといってよい。
[増田正造]
『『風姿花伝』(岩波文庫)』▽『能勢朝次著『世阿弥十六部集』(1940・岩波書店)』▽『西尾実他校注『日本古典文学大系65 歌論集 能楽論集』(1961・岩波書店)』▽『表章他校注『日本古典文学全集51 連歌論集 能楽論集 俳論集』(1973・小学館)』▽『表章・加藤周一校注『日本思想大系24 世阿弥 禅竹』(1974・岩波書店)』▽『田中裕校注『新潮日本古典集成 世阿弥芸術論集』(1976・新潮社)』▽『馬場あき子著『古典を読む17 風姿花伝』(1984・岩波書店)』
能楽の大成者世阿弥が父観阿弥の遺訓に基づいて著した最初の能楽論書。略称を《花伝》ともいう。一般には《花伝書》の名で知られているが,著者自身,書名の由来を〈その風を得て,心より心に伝ふる花なれば,風姿花伝と名付く〉と言明している。
7編から成るが,当初から全体が構想され,順次に書き進められたというものではない。まず,第3編までが1400年(応永7,著者38歳)にまとめられ,以後,第7編(第2次相伝本)が成立するまでには20年近くを要しており,しかもその間に著者自身による増補・改訂が行われた可能性も強く,本書の成立過程には複雑な経過が想定されている。
内容は,能の生命たる〈花〉の考察を中心に,習道,演出,演技,芸位についての各論から猿楽の起源・歴史にいたるまで,多岐にわたる芸論を集大成したもの。すなわち,第1〈年来稽古(けいこ)条々〉は,能役者の一生を7期に分けて,各年齢層における修業・工夫のあり方を説く。第2〈物学(ものまね)条々〉は,能の基本である物まねの演技術を女,老人,直面(ひためん),物狂(ものぐるい)など9ジャンルにわたって説く。第3〈問答条々〉は,以上によって習得した芸能を演能に際して最も効果的に発揮するための演出・演技論および能に〈花〉を咲かせるための工夫・秘訣を問答体で説く。第4〈神儀云(しんぎにいわく)〉は,本来,別にまとめられていた猿楽起源の伝承が後に《花伝》第4に位置づけられたもの。斯芸(しげい)の伝統に対する誇りと家芸を重んじる精神の自覚を促そうとする志をみせる。第5〈奥義云(おうぎにいわく)〉では,大和猿楽と近江猿楽,猿楽と田楽(でんがく)の風体の違いを説き,観客の愛顧をかち取るためには芸域の広さが必要であるとし,その工夫を述べる。第6〈花修云(かしゆうにいわく)〉では,能作の心得を説き,その面からの演技論・演者論を展開する。第7〈別紙口伝〉は,これまでもところどころに言及されてきた能の花の理について徹底的に解明せんとした最も理論的な編。結局,〈花と面白きと珍らしきとこれ三つは同じ心〉なのだから,平素より多くの演技を習得しておき,その時々の場に応じてこれを取り出し,観客に新鮮な感動を呼び起こすことが必要と説き,そのための工夫を詳説する。
いずれも芸能諸座の激しい競合の中で,いかにしてより多くの観客を獲得し,一座の繁栄を図るかという厳しい現実的要請に基づいて書かれたものであり,しかも父子2代にわたる真摯(しんし)な体験・実践を踏まえての所論であるだけに,きわめて強い説得力をもつ。今日なお,汎芸術論あるいは教育論としても読者を引きつけてやまぬゆえんであろう。世阿弥後年の能楽論はそのほとんどが本書の説に胚胎(はいたい)しており,数ある世阿弥伝書中,最も基本的,かつ代表的著作と評してよい。1909年,吉田東伍により,初めて翻刻・公刊された。
執筆者:中村 格
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「花伝」とも。俗称「花伝書」は誤り。世阿弥(ぜあみ)の著した能の伝書。父観阿弥の遺訓をもとに,世阿弥が習道過程で発展させた考えを増補・整理した最初の世阿弥能楽論書。日本最古の演劇論書。生涯の稽古を7段階に説く「第一年来稽古」,9類型の物まねを説く「第二物学(ものまね)」,問答9カ条の「第三問答」,猿楽起源説「第四神儀」,十体論や大衆尊重論「(第五)奥義」,能作論「第六花修」,世阿弥能楽論の主題「花」の理論「第七別紙口伝」の7編。成立過程は複雑で,1400年(応永7)に第三までが書かれ,順次第四,奥義が加えられた。第六は別書,第七は第三までの口伝で,別々に相伝を意図して書かれ,そのつど増補・改訂が加わった。第六と第七は自筆本が伝存。18年元次相伝本が最終形態。「岩波文庫」「日本思想大系」所収。
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…伊勢神宮の正月と4月の神事に勤仕していた猿楽座で,和屋,勝田,青苧(あおそ∥あおお)(青王(あおお))の3座があった。《風姿花伝》神儀編の諸国の猿楽座について記した個所に〈伊勢,主司(しゆし),二座〉とある。〈主司〉は〈呪師〉であり,伊勢猿楽が平安・鎌倉期の寺院の修正会・修二会で〈走り〉と呼ばれる芸を演じていた呪師の系統の座であることが示されている。…
…別名を〈はなのかがみ〉ともいう。父観阿弥の教えに基づいて書いた最初の能楽論《風姿花伝》に続いて,彼が40余歳のころからおよそ20年間にわたる芸得の神髄を書き連ねたもので,稽古に関する標語を表題として掲げた題目6ヵ条と,末尾の〈奥の段〉以外は〈……事〉と題する事書12ヵ条の計18ヵ条から成る。初め《花習(かしゆう)》という題名で14ヵ条にまとめていたものを,その後,数次にわたって増補し,最終的には1424年(応永31,著者62歳)か,その少し前に成立した。…
…《風姿花伝(ふうしかでん)》の通称。世阿弥が父観阿弥の遺訓に基づいてまとめた最初の能楽論。…
…これを〈呪師猿楽〉という俗称で呼び,その芸を〈走り〉と称したらしい。世阿弥の《風姿花伝(ふうしかでん)》に,〈伊勢,主司(しゆし)二座〉(4巻本は三座)とあり,主司は呪師のことで,伊勢猿楽が呪師猿楽の系統であり,〈走り〉の芸を演じていたことを示している。〈走り〉は舞楽の走り物の系譜に立つと思われる芸が京洛貴族に迎えられ,宮廷や六勝寺の法会では〈昼呪師〉の芸が行われて,一般の猿楽より高く遇された。…
…美童としての魅力はすでに失せ,田楽新座の喜阿弥や近江猿楽比叡座の犬王(いぬおう)らの競争相手も父の在世期から台頭しており,新大夫の前途は多難だったろうが,世阿弥は精進を重ねて苦境をのりこえたようで(当時の記録は皆無に近い),99年(応永6)には京都一条竹ヶ鼻で3日間の勧進猿楽(勧進能)を催し,将軍の台臨を得て,天下の名声を獲得した。翌年に《風姿花伝》の第三までを書いたのは,彼の自信の表明でもあったろう。芸名の世阿弥陀仏を称したのはその直後の40歳ころかららしく,セアではなくゼアと濁ったのは義満の裁定に基づく。…
…興福寺,法隆寺等の大和の寺社属で,その神事祭礼奉仕を根本的な義務とした猿楽。《風姿花伝(ふうしかでん)》神儀に,〈大和国春日御神事相随申楽四座〉として,外山(とび)(宝生座),結崎(ゆうざき)(観世座),坂戸(さかど)(金剛座),円満井(えんまんい∥えまい)(金春(こんぱる)座)の四座がみえており,室町初期にはこの四座が大和における代表的な猿楽座となっていた。この四座がやがて近江,丹波等の近隣諸座に対して優位に立ち,能の隆盛に中心的な役割を果たすのだが,その大和猿楽の歴史は平安時代にまでさかのぼる。…
…宝生流は,シテ方宝生流と区別して脇宝生(わきぼうしよう)と称し,また金春(こんぱる)座付であった春藤流の分れなので下掛(しもがかり)宝生流とも称される。観阿弥・世阿弥時代には,シテ方とワキ方とが未分化で,《風姿花伝(ふうしかでん)》にいう〈脇の為手(して)〉とは現在のワキやシテヅレのことを意味し,〈棟梁の為手〉(現今のシテのこと)に対し文字どおり脇役の意だったが,室町中ごろからしだいにワキ独自の技法を確立し,分業制になった。比較相対的にいえば,シテ方の演技が抒情的・歌舞的であるのに対し,ワキ方の演技は叙事的・現実的であるのが特徴。…
※「風姿花伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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