江戸時代の旅宿にいた制限付きのいわば半公認の私娼(ししよう)の俗称で,たんに飯盛ともいい,食売女(めしうりおんな),宿場女郎(しゆくばじよろう),〈おじゃれ〉などとも呼ぶ。交通の要地にはすでに平安時代には売春婦がおり,交通と経済の発達に伴い,その数は増加した。江戸幕府は公娼遊郭制をとり,1659年(万治2)には道中筋の遊女を厳禁したが,その後これを〈食売女〉として認め,道中奉行の支配とし,1旅館2人以内(江戸4宿は宿内全人数制限),衣服は木綿着用と定めた。しかし,人数制限は守られず,さらに飯盛の認められない所では〈洗濯女〉などの名で雇うこともあった。飯盛の容認は,その収益が宿駅の助成となったためで,飯盛を遊女でなく給仕女とみなしたのは幕府の自慰的手段にすぎない。飯盛が旅客以外に近郷の遊客にも接したことは,品川宿が江戸の遊所であったことでも明らかである。なお,飯盛をおく飯盛旅籠(はたご)に対し,飯盛をおかないものを平旅籠(ひらはたご)といい,箱根,石部などには1軒も飯盛旅籠がなかった。
執筆者:原島 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
旅籠(はたご)屋での接客をする女性のことをいうが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道に早く、中山道(なかせんどう)は遅れて元禄(げんろく)年間(1688~1704)である。飯盛女を抱える旅籠屋を飯盛旅籠屋といい、幕府は1718年(享保3)に1軒につき2人までを許可している。なお、幕府の公式文書ではほとんど飯売女と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、しだいに宿内や近在、とくに助郷(すけごう)村々の農民を対象とするようになり、宿・助郷間の紛争の種となった。1872年(明治5)に人身売買、年季奉公が禁止されたことにより、形式的には解放された。
[渡辺和敏]
『五十嵐富夫著『飯盛女――江戸の宿場女郎たち』(1983・新人物往来社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…私娼を取り締まることはあっても公娼との区別は不明確で,基本的には私娼を容認していた。そのため,飯盛女(めしもりおんな)のような半公認の売春婦を存在させることになった。諸藩で公認されるものの多くは飯盛女形式であったが,温泉場などの湯女(ゆな)のほかにも,茶汲女などの名称で都会地に売春街を公認または半公認することがあった。…
…商人のうちに平旅籠屋19軒,食売旅籠(めしうりはたご)92軒,水茶屋64軒があった。食売旅籠は食売女(飯盛女)を置くことが許されたものであり,当時品川宿には飯盛女500人を置くことが公認されていたが,それをはるかに上回る女性が接客に当たり,内藤新宿とならぶ江戸の岡場所となっていた。品川宿は町場化によって商業都市としても成長し,この地方の在郷町として発展した。…
…宿には本陣,脇本陣のほか一般の旅籠屋があって宿泊の用に応じ,休息者のためには茶屋があり,また商店があった。旅籠屋のなかには食売女(飯盛女(めしもりおんな))を置くものもあって,旅行者の遊興に応じた。江戸の出口の品川,板橋,千住,内藤新宿などには数百人の食売女がいて,繁栄を極めていた。…
…旅籠は17世紀半ば以降,泊り客に食事を出すようになった。これには,旅籠に遊女を置くことの禁止令が出たため,食事を提供するために飯盛女を置くという名目で遊女の存続を図ったという事情もあったようである。一方,食事の付かない宿もあって,それが木賃宿であった。…
※「飯盛女」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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