家畜に車を引かせて人や物を運ぶ技術は古く,スキタイ,バビロニアをはじめとする古代オリエントにもヨーロッパにも,馬に車を引かせた神として太陽を表象する共通の伝承がある。しかしポリネシア人やアメリカ・インディアンはヨーロッパ人と接触するまで車を知らず,また,1860年(万延1)サンフランシスコで初めて馬車に乗った福沢諭吉は,走りだして初めて乗物と理解できたと回想しているので,牛車(ぎつしや)を中世にもつ日本でも明治まで家畜に引かせる乗物の伝統は絶えていたことがわかる。遊牧民には〈住車〉の存在も知られているが,物や人の運搬にあたっては家畜の背を利用し,車を好まないものも多い。
インド・ヨーロッパ語系の民族はすでに前2000年代に馬と車を知っており,サンスクリットによるベーダには馬または牛に引かせる戦車が見られる。これはインド,アッシリア,エジプト,ペルシア,スキタイ,ギリシア,ケルト,ローマに伝承されていくが,ギリシアでは戦車のみならず日常生活にも使われるようになっている。ペルシアの戦車には4頭立てのものすらあった。ギリシアではオリュンピアの競技にも儀式の行列にも馬車が使われ,ローマにはロムルス王またはタルクイニウス・プリスクス王の治世にもたらされたとされる。エジプト人はすでに前1世紀に革紐で車体の床を張り乗りごこちをよくすることを知っていた。アッシリア人とフリュギア人は四輪馬車を作り,スキタイには六輪馬車もあった。
オリンピック競技に使われた二輪馬車のビガエbigaeは2頭立てであったが,のち繫駕法も改良され,4頭立てquadrigaeも使われた。3頭立てtrigae,6頭立てsejugae,7頭立てseptijugaeまであった。儀式に使われたのは二輪または四輪のカルペントゥムcarpentumで,屋根があり神官や高位の婦人が乗った。ピレントゥム,キルペア,カナトゥラ,ラエダ,カルカなど17種の馬車の名がローマ時代から知られている。このうちカルカcarrucaから英語のキャリッジcarriage,イタリア語のカロッツァcarrozzaが出た。また,フランス語のカロスcarrosseはイタリア語からの借用である。アレクサンドロス大王の遺骸をバビロンからエジプトに運んだ金の馬車の豪華さは,シチリアのディオドロスの叙述に残っている。女装を好んだ3世紀のローマ皇帝エラガバルス(ヘリオガバルス)は金と宝石で飾った馬車をもち,600台の馬車行列をしたという。馬車のためには道路の整備は欠くことができない。ローマ時代の都市の道路(ローマ道)には車道に高い歩道が設けてあり,歩行者の横断のためには車道に歩道の高さの踏石が置いてあったのがポンペイの遺跡でわかる。ローマの都市間の道路は驚くほどりっぱに建設されていたが,中世になると整備が行き届かず,敷石は城壁や住居に転用されるしまつで,馬車の発達を妨げた。
カール大帝の孫で歴史家であったアインハルトは,メロビング朝の高官は牛車(ぎゆうしや)に乗ったと伝える。馬車は主として荷物用であった。1385年シャルル6世と結婚したバイエルンの王女イザボーIsabeauがシャルル6世の発狂(1392)後,1403年パリに入城したときの馬車は車体が綱で支えられた豪華なものであった。ドイツのフリードリヒ3世も1474年フランクフルト市に入城したときには馬車を使っている。16世紀にはカロッツァはイタリアではすでに広く使われていたが,フランスではアンリ2世の治下,皇后カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアからカロッツァ(カロス)をもたらした。アンリ2世治世の末年の1550年でも,パリには3台しかなく,女王が1台,ディアーヌ・ド・ポアティエが1台であり,体重が重すぎて馬に乗れないルネ・ド・ラバル・ボアドーファンが1台であった。イギリスで初めて四輪馬車が作られたのは1555年で,64年にはエリザベス女王用に作られた。イギリスでは貴族の使用から馬車の製造が盛んになった。また99年にはF.deバソンピエールがフランスにイタリアから窓ガラス付きの馬車をもたらし,アンリ4世時代から馬車製造が保護され,ルイ13世,14世時代に四輪馬車が地方にまで普及していった。パスカルもアケhaquetといわれる二輪馬車を考案しているが,とくに6人乗りの乗合馬車を考案したことで知られる。ルイ14世のときには,N.ソバージュの考案による時間ぎめの辻馬車がパリに現れ,フィアクルと呼ばれた。ロンドンでも,1625年に辻馬車が現れている。57年にド・ジブリはパリの街角に2頭立ての馬車を朝7時から夕7時まで客待ちさせる許可を取り,市内から5リュー(1リューは3.9km)の範囲で時により料金を決めて貸しはじめた。96年1月20日の勅令では初めの1時間が25スー,次の1時間ごとに20スーという料金である。19世紀には,走行キロ数に応じて料金を示すタクシメートルが考案され,現在の自動車のタクシーに引き継がれた。
1517年にはパリとオルレアン間にしかなかった駅馬車も,1610年にはシャロン・シュル・マルヌ,ビトリ・シュル・セーヌ,シャトー・ティエリーなどの五つの町とパリとの間に定期的に走り,17世紀末にはフランス国内の主要都市とパリは駅馬車で結ばれていた。1708年にはイギリスでもロンドン~バーミンガム間,45年にはロンドン~マンチェスター間に定期便が往復し,18世紀中にヨーロッパの主要都市間に駅馬車が走るようになった。パリ~リヨン間の駅馬車coche de Lyonは〈ディリジャンスdiligence〉と呼ばれ速さを誇ったが,夏は5日,冬は6日で2都市間を走る程度で時速は一般に13km程度であった。道路も整備が進められ,オランダのボーネンの考案による鋼鉄製のばねによって乗りごこちも改善されたが,馬車は速度を上げれば容易に転覆し安全な乗物でなく,騎乗ならたやすく追いつけた。石畳の都市内では騒音も大問題で,病人のいる建物では路上にわらをまいて音を和らげようとしたりした。炭鉱のトロッコに利用されていたレールを馬車にも利用することは1801年からイギリスで試みられ,汽車の発明によって鉄道となり馬車を駆逐することとなるが,草創期の汽車は客車の形でもサスペンションでも,馬車の伝統を利用したし,自動車も部品名称などいまだに馬車の用語を継承しているものが多い。
執筆者:松原 秀一
本来日本には馬車の伝統がなく,幕末開港後,外国人によって導入され,開港場周辺で利用された自家用馬車が初見であった。しかし1869年(明治2)には横浜の川名幸左衛門,下岡蓮杖ら8名による横浜~東京間の乗合馬車が開業し,また72年には中山道郵便馬車会社(東京~高崎),東京宇都宮間馬車会社が,73年には京都大坂間馬車会社などが相次いで開業した。このうち東京~高崎間,東京~宇都宮間などの馬車営業は,途中の中継所で馬を付け替えた駅馬車であった。東京~高崎間の場合は,当初,両地を朝6時発,夕6時着の予定(時速約10km)であったが,悪路のため定時の運行はむずかしく,破車,転覆などの事故もまれではなかった。また橋のない河川も多く,徒渉できない場合は渡し船で対岸へ運ばれた。運賃は当初,馬背の場合より割高であった。そのため営業路線も,生糸,繭など,運賃負担能力の高い貨物や旅客の多い区間が選ばれた。他方,市街地でも1870年代には,自家用馬車や乗合馬車が相次いで現れた。例えば東京では,上記中山道郵便馬車会社の2頭立て馬車が,72年から神田昌平橋~本郷通り~板橋~高崎の路線を往復したほか,74年には浅草広小路の千里軒も浅草~新橋間で乗合馬車営業を開始した。これは新橋~横浜間鉄道の開業(1872年10月)によって,市内各地と新橋駅間の輸送需要がにわかに高まったためであった。しかし市街地での馬車の運行は危険が多く,道路の損傷もひどかった。そのため,狭隘混雑の場所での馳駆の禁止などを含む取締規則が早くから制定されたほか,営業用・自家用馬車の所有者に対する車税の賦課も当初から行われた。なお車両の模造も早くから行われ,1880年代には多くの業者が製造に従事した。
このような各地の馬車輸送は,1870年代後半から80年代にかけてさらに発展した。なかでも荷積用馬車は地方産業の勃興に伴って急増し,82年には乗用を追い越した。そして1879年には内国通運会社の東京~高崎間,81年には同じく東京~大阪間の荷馬車営業も現れた。しかし後者は,悪路のため途中に脚夫,人力車などの区間を含まなければならなかった。一方,客馬車の運行も増え,東京~八王子間では86年に,毎日12回の馬車往復が開始された。また,東京~仙台,宇都宮~仙台,東京~青森間などの長距離客馬車営業も現れた。しかしこうした長距離馬車営業は,本格的な鉄道時代を迎えた1890年代以降,相次いで鉄道に駆逐され,鉄道駅と周辺を結ぶ鉄道貨客の馬車輸送に転換することになった。後発的な日本では,西欧諸国のような馬車時代の成熟を見る間もなく,本格的な鉄道時代を迎えることになったのである。
鉄道時代の馬車輸送は,鉄道貨客の近距離輸送を中心として引き続き発展した。とくに荷馬車は1930年ころまで増加を続け,簡易・低廉な輸送によって貨物自動車の進出を遅らせるほどの力を誇示した。しかしその型式は1890年代以降,御者に牽引されるいわゆる馬力型に変わり,もっぱら鉄道貨物の集配に従事するものとなった。他方,客馬車のほうは,自転車,自動車の出現によって1910年ころから減少に転じ,30年代には山間僻地に姿をとどめるのみとなった。
執筆者:山本 弘文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
馬に引かせて人や荷物を運ぶ車の総称。乗用馬車、荷馬車、鉄道馬車、郵便馬車、自家用馬車などいろいろの種類がある。二輪車と四輪車があり、それを引く馬の数は二頭立て、四頭立て、八頭立てなどがあった。
馬車は古代メソポタミアあたりで考え出されたといわれている。その用途はもっぱら戦闘用の戦車としてであり、エジプト、ギリシア、ローマなどでは数頭の馬に二輪車を引かせ、戦車として用いたほか競技用としても使用した。これらは二輪車の車軸の上に腰掛をしつらえて座れるようにした簡単な造りのものであった。古代中国の漢民族は駟馬(しば)とよぶ四頭立ての馬車を戦車として使った。またこれより前の殷(いん)の時代にも馬車は用いられており、殷墟(いんきょ)の王墓からは二頭立て、四頭立ての馬車が射手や御者を乗せたまま葬られているのが発掘されている。中国古代の馬と車のつなぎ方は、北方系のトナカイや犬をそりにつなぐ方法と同じで、メソポタミア辺のつなぎ方とは異なる。
馬車が一般庶民の交通機関としての役割を果たすようになったのは、中世のヨーロッパにおいてである。15世紀ごろに運搬用の本格的な有蓋(ゆうがい)馬車が現れ、16世紀後半にはステージワゴンとよばれた大型馬車がイギリスでつくられた。さらに鋼鉄のスプリングが発明され、定期駅馬車が走るようになった。これ以後、馬車の使用はますます盛んになり、18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパの主要都市を結ぶ馬車の交通網が発達した。そして19世紀初頭にはレール上を走る鉄道馬車がイギリスに出現した。一時に多量の荷物を運ぶことのできる馬車は、ヨーロッパだけでなく新開地のアメリカでも用いられ、幌(ほろ)馬車は西部開拓史に大きな役割を果たした。
日本における馬車の歴史は新しい。運搬の手段として馬は古くから用いられ、古代律令(りつりょう)制においては駅制が整備され、駅馬も制度化された。しかし、これは車を引かせるものではなかった。馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだのである。こうした車を使用しない馬の使用はずっと後まで続いた。畜力による車としては牛車(ぎっしゃ)があった。しかし牛車に乗れる者は貴人に限られ、一般庶民は徒歩がほとんどであった。駕籠(かご)や馬の背を利用できるのも限られた人たちであった。荷物を運ぶのも人や馬の背によって行われ、駅から駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も車を用いるものではなかった。
日本における馬車の出現は幕末になってからで、横浜居留地の外人が私用に使ったり、外国の公使館が幕府のある江戸とを往復するために用いたのが最初といわれる。こうした馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数名が、1869年(明治2)2月乗合馬車の営業を出願し、出願者が共同で成駒屋(なりこまや)という店名で、1870年9月営業を開始した。2頭立てで乗客は六人、東京までの所要時間4時間、運賃は75銭であった。1872年には東京市内でも一区一銭の馬車営業が、浅草雷門と新橋間を三区制として開始された。これは二階建ての馬車で二頭の馬で引いた。しかし馬車が横倒しになり死亡者を出す事故を起こしたため、二階建ての馬車は禁止された。東京市内を走る乗合馬車は警笛としてラッパを吹き鳴らしたが、これは当時の新しい風物として人気を博し、落語家4世橘家(たちばなや)円太郎がこれを高座で吹いて評判をとったため、乗合馬車は円太郎馬車ともよばれた。1873年には郵便馬車会社が開業し、郵便物と魚とを乗せて東京―高崎間を16時間で運行した。その後、各地で馬車営業がおこるとともに郵便馬車会社もおこり、1881年には東京―大阪間の路線も完成し、長距離陸上輸送が開始された。また、華族や高級官僚は自家用馬車をもつようになった。1882年には鉄道馬車が新橋―浅草間に開通し、80年代後半~90年代には馬車の全盛期を迎えた。しかし馬車の普及と並行するように鉄道が開通し、路線が延び、また電車、自動車の急速な発達などによって、大都市周辺や主要街道を中心として馬車の短い歴史は終わる。
一方、地方都市や農村における荷物の運搬手段として普及した荷馬車は運送馬車とよばれ、昭和20年代までもその機能を保ち続けた。自動車の普及が地方に及ぶのが遅かったこととともに、農村では農耕馬を飼育し、その馬に運送車を引かせることができたという事情もあった。しかし自動車の普及により運送馬車はトラックなどの自動車にとってかわられ、農耕機具にも動力が取り入れられるようになって馬が利用されることは少なくなり、運送馬車も姿を消した。現在はわずかに観光資源として短い距離を観光客を乗せた馬車が走るだけになってしまった。
[倉石忠彦]
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…【平田 寛】
[中国]
中国の車は,伝説によると夏王朝の車正(車担当官)であった奚仲(けいちゆう)がつくったとか,黄帝がつくったとかといわれている。実際は殷時代から存在していたことが,安陽小屯(河南省安陽市郊外)から発掘された殷時代の車馬坑(馬車遺跡)から明らかである。殷から戦国時代にかけては,二つの車輪に1本の轅(ながえ),その両側に1対の馬をつなぐ馬車が一般であり,それは戦車としての機能を果たしていた。…
…ただ中国の場合,複轅1頭立ての胸部繫駕法が出現してくるのは戦国期ころであり,そうした新発明の背後には戦車戦がすたれて歩兵が軍隊の主力となっていったこともおおいに関係がある。一説によると,この方式は北方の遊牧民匈奴の馬車より学んだといわれる。 ついで出現してくるのが最も進歩した頸帯式繫駕法で,この方式は胸帯のかわりに堅い芯入りのマット状の頸環collarと締木(しめぎ)とを頸部に装着し,そこから牽引線をとる。…
…19世紀初頭のヨーロッパの都市において,重要な公共輸送機関として発達した,通常2頭立て4輪の馬車。現在の路線バスに相当する。…
※「馬車」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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