高句麗(読み)こくり

精選版 日本国語大辞典 「高句麗」の意味・読み・例文・類語

こくり【高句麗】

[1] 「こうくり(高句麗)」の変化した語。〔書言字考節用集(1717)〕
[2] 〘名〙 恐ろしいもの、無情・非道なこと、などのたとえ。元寇(げんこう)の役のときに、蒙古とともに襲来した高句麗の兵士が、北九州地方を侵害したところからいう。多く「むくり」「もくり」などとともに用いられる。
咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)下「これは中々天人の子ではないぞ。むくりこくりが卵よ。〈略〉ただ射殺せよ」

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デジタル大辞泉 「高句麗」の意味・読み・例文・類語

こうくり〔カウクリ〕【高句麗/高勾麗】

古代朝鮮三国の一。紀元前後にツングース系の扶余ふよ族の朱蒙しゅもう建国。朝鮮半島北部を中心領土を広げ、4世紀末、広開土王のとき最も栄えた。427年以後平壌に都し、百済くだら新羅しらぎ抗争。668年、新羅連合軍に滅ぼされた。高麗こま

こくり【高句麗】

こうくり(高句麗)」の音変化。
恐ろしいもののたとえ。元寇げんこうのとき、高句麗の兵士が侵害をしたことから出た語で、多くは「むくり」「もくり」などとともに用いる。→蒙古高句麗むくりこくり

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高句麗」の意味・わかりやすい解説

高句麗
こうくり

朝鮮古代の国名(前37ころ~668)。高麗、貊、狛などと書き、「こうらい」「こま」ともよぶ。高句麗地方は古くから北方・西方諸文化受容の窓口であった。紀元前7世紀以降、タガール、スキタイ、オルドスなどの諸文化を受容し、特色ある青銅器文化をつくった。前3世紀の衛氏朝鮮の成立、前108年の漢四郡(朝鮮四郡)の設置により、中国鉄器文化が直接この地域に導入された。前37年ごろから鴨緑江(おうりょくこう)の支流佟佳江(とうかこう)(渾江(こんこう))の流域を中心に、小国が連合して高句麗を建国した。

井上秀雄

小国統合時代(前37ころ~204)

前37年ごろの高句麗は、玄莵(げんと)郡の主県になるほど文化的、社会的に発展しており、小国統合の国家段階に達していた。後12年に高句麗王騶(すう)(東明王にあてる説もある)は王莽(おうもう)の出兵要求を拒否したため、王莽に殺されたが、これを契機に諸民族が反乱を起こし、王莽の新国は滅亡した。高句麗は49年に長駆中国の山西省太原まで進出し、118年以降では濊貊(わいばく)、馬韓(ばかん)などを糾合して、玄莵郡、遼東(りょうとう)郡、夫余(ふよ)と戦い、東方諸族の盟主的存在になった。132年には西安平県(中国遼寧(りょうねい)省丹東市)を攻撃し、赴任途上の帯方令を殺し、楽浪(らくろう)太守の妻子を捕らえた。1~2世紀の高句麗は強大で、後漢(ごかん)の遼東、玄莵2郡にしばしば進出した。190年ごろ、遼東太守公孫度(こうそんたく)が後漢王朝の混乱に乗じて自立し、高句麗や烏丸(うがん)を服属させた。

[井上秀雄]

五族時代(204~426)

204年に王都が国内城(中国吉林(きつりん)省集安市)に移った。この時代の高句麗は、貴族が旧小国など地方を支配していた。王権が弱く、貴族連合が政権を握っていたが、そのうち有力な5氏族が実権をもっていたので、この時代を五族時代という。中国の三国時代になると、高句麗は遼東の公孫氏に倣って、魏(ぎ)と呉(ご)に両属していたが、魏がこれを嫌い、238年に楽浪、帯方(たいほう)両郡を復興した。244、245両年に高句麗は魏に攻撃され、王都丸都(がんと)城を落とされた。晋(しん)(西晋)の永嘉(えいか)の乱(307~312)に乗じ、311年高句麗は西安平県を奪い、313年に楽浪郡を、翌年帯方郡を滅ぼし、平壌方面に勢力を伸ばした。五胡(ごこ)十六国の戦乱に敗れた中国の知識人が多数高句麗に亡命し、新しい文化をもたらした。339年、342年再度にわたって慕容皝(ぼようこう)の前燕(ぜんえん)が侵略したが、355年、前燕は政策を改めて、故国原王を営州諸軍事征東大将軍営州刺史(しし)楽浪公高句麗王に冊封した。この冊封は、中国王朝が異民族の外臣に内臣の称号を与えた最初である。371年百済(くだら)軍に平壌城を攻められ、故国原王は戦死した。この後を受けた小獣林王は新文物の導入を図り、372年に順道が、374年に阿道(あどう)が前秦(ぜんしん)から仏教を伝え、372年に大学を建て儒教教育を始め、翌年には法令を公布した。国力を充実した高句麗は、広開土王(好太王)、長寿王(ちょうじゅおう)両代の飛躍的な領土拡大期を迎えた。かくして旧小国の勢力を背景にした貴族連合の五族時代から、中央集権化した貴族連合の五部時代へと発展した。

[井上秀雄]

五部時代(427~597)

427年の平壌遷都は高句麗の貴族連合体制を変質させ、地方を基盤とした貴族が宮廷貴族となり、そのなかで強力な貴族が大対盧(だいたいろ)(第一等官職名。貴族会議の議長にあたり、政務の総轄者)になって政権を握った。この時代には王都を5区画に分け、その5部に貴族を分住させたので五部時代という。5世紀の高句麗は、比較的順調に領土を拡大した。475年には百済の王都漢城を攻め落として漢江流域を制圧した。6世紀中葉になると、新羅(しらぎ)が急速に領土を拡大し、漢江流域や日本海岸の高句麗の支配地を奪った。高句麗は初め中国の南北両朝と国交を結んでいたが、480年以後、北魏が南朝との国交を禁じた。高句麗独特の栲栳(こうろう)峰形式の山城や、居城と山城との組合せは、その後朝鮮全土の村落構造にまで取り入れられた。高句麗寺院の伽藍(がらん)配置や、北魏系といわれる高句麗の仏像形式は、百済や日本に影響を与えた。日本では5世紀前半から高句麗の新文物をかなり受容しているが、正式な国交は570年より始まる。この時期の日本との関係は文化交流が中心で、僧侶(そうりょ)の活躍がとくに注目される。

[井上秀雄]

隋・唐との対戦時代(598~668)

581年に隋(ずい)が建国すると、平原王はただちに朝貢したが、一方では隋の侵略に備えた。612年隋が出兵すると、高句麗軍は遼東城(遼寧省遼陽市)の籠城(ろうじょう)戦や乙支文徳(いつしぶんとく)の薩水(さっすい)(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退した。その後も高句麗は再三隋軍の侵略を退けた。その後、朝鮮三国の対立がいっそう激化したので、642年に泉蓋蘇文(せんがいそぶん)(淵蓋蘇文(えんがいそぶん))が栄留王たちを殺し、宝臧(蔵)王を擁立して臨戦態勢を整えた。645年以後、高句麗は唐軍の遼東侵略を三度撃退した。661年には新羅・唐連合軍が南方から攻撃し、王都平壌城に迫ったが、これを撃退した。665年に泉蓋蘇文が死去すると、彼の子供たちが対立し、長子男生は翌年唐に降服した。その動揺に乗じて、新羅・唐連合軍は、668年9月王都平壌城を攻略して、宝蔵王を捕らえ、高句麗を滅ぼした。滅亡後も高句麗遺民の復興運動が各地に起こり、698年には大柞栄(だいそえい)が震国(後の渤海(ぼっかい)国)を建国した。高句麗はこの時期にも道教など中国の新文物を受容していた。一方、固有信仰も戦闘の激化に伴い高句麗全土に広まり、民族精神を形成することになった。

[井上秀雄]

『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』『井上秀雄著『変動期の東アジアと日本』(1983・日本書籍)』『金富軾著、井上秀雄訳注『三国史記2』(平凡社・東洋文庫)』


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百科事典マイペディア 「高句麗」の意味・わかりやすい解説

高句麗【こうくり】

古代満州(中国東北)東部〜朝鮮北部に建国した満州系の王朝。別名に高麗,貉,狛などがあり,〈こうらい〉〈こま〉とも呼ぶ。紀元前後,満州東部に興り,朝鮮北部に発展。3世紀初め鴨緑江中流域に拠を移し,輯安(集安)を都とする。の遠征を受けたが,313年楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有。広開土王の時代に急速に領土を拡大し,長寿王のとき,427年都を平壌に移す。かくて最盛期を迎え,半島は三国時代となるが,朝鮮南部の百済(くだら)や新羅(しらぎ)を圧した。7世紀初め隋の遠征を撃退,次いで唐の遠征にも抵抗したが,668年唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。その遺民は渤海(ぼっかい)をつくる。唐に滅ぼされるまでの建築,古墳などの遺跡は平安南・北道,黄海道に多く,特に古墳は天井の構成と石室内部の壁画(壁画古墳)に特色がある。2004年,北朝鮮と中国東北地方に分布する高句麗遺跡群はそれぞれ世界文化遺産に登録された。
→関連項目飛鳥寺式伽藍配置安岳3号墳冠位十二階壺【う】塚高麗高麗三国遺事三国史記大祚栄朝鮮朝鮮人渡来人白村江の戦仏国寺夫余平壌靺鞨満州満州族大和政権煬帝

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高句麗」の意味・わかりやすい解説

高句麗
こうくり
Koguryǒ

朝鮮の古代三国の一つ。7世紀まで中国東北部(旧満州)から朝鮮北部を支配した。高句麗の名称は『漢書』にもみられ,紀元前後には中国の脅威となる勢力であった。初めは佟佳江(とうかこう)流域付近を拠点とし,しだいに南下してリヤオトン(遼東)半島方面に台頭した公孫氏と衝突を繰り返した。3世紀前半,公孫氏に代わったの将軍毌丘倹により首都丸都城が陥落し,高句麗の発展は一時頓挫した。4世紀初め,遼東方面への進出は前燕に阻止されたが,313年にはによる朝鮮支配の根拠地楽浪郡を併合,この結果,朝鮮半島南西部を支配した古代三国の一つ百済と,百済を支持すると対立することとなった。一時は百済との戦いで国王の故国原王が戦死するなど大きな打撃を受けたが,4世紀末に広開土王が即位して強勢となり,北西では後燕の遼東城を攻略,また南下して百済や倭軍を破り,朝鮮半島南東部を支配した古代三国の一つ新羅に朝貢させるなど,半島の過半を制圧した。次代の長寿王は丸都城から平壌に遷都してさらに積極策を進め,北西ではリヤオ(遼)河を挟んで北魏との国境とした。広開土王,長寿王,そして次の文咨明王(ぶんしめいおう)の 3代約 130年が高句麗の最盛期であり,中央集権体制も整備された。しかし台頭した新羅が百済と結んで領土の拡大をはかり,6世紀後半以降,新羅との関係は急速に悪化した。一方 581年に中国を統一したに侵攻されたが,突厥と結びこれを防いだ。隋は高句麗遠征の失敗から内乱が起こって滅亡し,隋に代わったも 7世紀前半の太宗の時代に遠征を行なったが,これも退けた。太宗を継いだ高宗は新羅と同盟し,高句麗と結んだ百済を 663年に滅ぼした。次いで内紛に乗じて唐と新羅の連合軍は高句麗を攻撃,668年に平壌は陥落,唐によりこの地に安東都護府が設けられ,直接支配下に置かれた。なお,高句麗の官職制度などは独自のものが多く,百済や新羅のように中国化されることが少なかった。高句麗族は最初は半農半猟の貊人(はくじん)系で,その始祖を朱蒙(→東明王)ということから扶余とも深い関係があったと推察される。また中国と日本の文献にしばしば「高麗」とも記された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「高句麗」の解説

高句麗(こうくり)
Kogury&obreve;

?~668

朝鮮半島北部から中国東北部にかけて北朝鮮に扶余(ふよ)族が建てた国。紀元前後,佟佳江(とうかこう)流域を中心に部族連合国家を形成しはじめ,後漢末に遼東の公孫氏(こうそんし)の討伐を受けて,209年鴨緑江中流域に移り,丸都(がんと)城を築いた。ここで部族組織を再編成して立ち直り,中国の混乱期に乗じて313年,楽浪郡を陥れ,427年以降平壌(へいじょう)を都とした。最盛期は4世紀末から6世紀初めまでの広開土王(こうかいどおう),長寿王,文咨王(ぶんしおう)3代で,朝鮮半島の大半と遼東とを勢力圏に入れ,中国の南北両朝に通交して文物の輸入に努め,中国東方における最大強国であった。やがて突厥(とっけつ)と通じ,7世紀になっての遠征をたびたび受け,よく抵抗したが,668年唐・新羅連合軍に滅ぼされた。都城のあった輯安(しゅうあん)(現,中国吉林省集安)一帯や平壌付近には古墳が多く残存し,ことにその壁画は高句麗の生活風俗を知る好資料である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高句麗」の解説

高句麗
こうくり

朝鮮古代の三国の一つ(前47?~後668)。高麗・狛とも書き,「こま」ともよぶ。伝説では,天帝を父,河伯(かわのかみ)の女を母とする朱蒙(しゅもう)(鄒牟(すうむ))を建国の始祖とする。前2世紀末,漢の玄菟(げんと)郡の治下にあった高句麗族がしだいに成長,はじめ桓仁(かんじん)(中国遼寧省)を都とし,209年に丸都(がんと)城(中国吉林省集安)に遷都した。313年楽浪郡を攻め,400年にわたる中国の郡県支配を消滅させた。4世紀後半からは百済(くだら)と交戦し,広開土王は倭兵をも撃退し,さらに長寿王は427年平壌に遷都して南下策を進めた。だが百済・新羅(しらぎ)との3国抗争は隋・唐の介入を招き,泉蓋蘇文(せんがいそぶん)の政変もかさなって,668年唐・新羅軍に滅ぼされた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「高句麗」の解説

高句麗
こうくり

?〜668
古代満州と北朝鮮にまたがっておこった国
この国を建てた高句麗人は,ツングース系の貊族 (はくぞく) の一部といわれ,東満州で狩猟や牧畜を行っていたが,前1世紀末ごろ独立し,都を丸都城に定め,4世紀初めに楽浪郡を占領して,北朝鮮を手に入れた。4世紀末から5世紀初めの広開土王は積極的に領土を広めた。次の長寿王時代は最盛期で,都を大同江畔の平壌(ピョンヤン)に移した。隋は3回にわたって攻撃したが成功せず,唐と新羅 (しんら) の協力によって滅んだ。初期の族長の権力を示す支石墓は,1〜2世紀ごろから墳墓にかわり,そのすぐれた壁画は,日本の高松塚古墳などにも影響を与えた。

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世界大百科事典 第2版 「高句麗」の意味・わかりやすい解説

こうくり【高句麗 Koguryŏ】

朝鮮古代の国名。前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。204年に鴨緑江中流の輯(集)安に都を移し,五族など有力な小国を基盤とした領主的貴族の連合政体の国家を形成した。427年に都を平壌に移し,宮廷貴族の連合政体である五部時代を迎えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高句麗」の解説

高句麗
こうくり

古代,中国東北部・朝鮮半島北部にあったツングース人の国家(前1世紀ころ〜後668)
1世紀末ごろから部族連合国家を形成,以後勢力を伸ばし,313年楽浪 (らくろう) 郡を併合。好太王(広開土王)のとき,百済 (くだら) および日本と交戦。以後2代を含めた4世紀末から6世紀初めにかけて全盛期を迎える。6世紀末の隋の煬帝 (ようだい) の侵略を退けたが,668年唐と新羅 (しらぎ) の連合軍によって滅ぼされた。

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世界大百科事典内の高句麗の言及

【騎馬民族】より

…この対外活動は遊牧騎馬民族間のものもあったが,また南方の農耕地帯にも多く行われ,この地帯に対する略奪および征服活動は,その後ながい間にわたって世界の歴史を激動させ,展開させることに重要な役割を果たした。 ところで江上波夫は,以上の遊牧騎馬民族のほかに,北東アジアの農主牧副民系または半農半猟民系の騎馬民族として,夫余,高句麗,靺鞨(まつかつ),渤海(ぼつかい),女真,満州などをあげている。そして夫余や高句麗と関係ある北東アジア系の騎馬民族が,まず南朝鮮を支配し,やがてそれが弁韓(任那)を基地として北九州に侵入し,さらには畿内に進出して大和朝廷を樹立し,日本における最初の統一国家を実現した。…

【呉】より

…《漢書》地理志によると呉は〈句呉(くご)〉と呼ばれており,〈くれ〉はその転語であろうか。なお,高句麗(こうくり)を〈句驪(くり)〉と記すこともあるので,呉(くれ)を高句麗とみる見方もある。しかし,《日本書紀》には呉(くれ)に渡るのに高句麗に道案内を頼んだり,高句麗と呉(くれ)の使者が同時に日本にきた記事があるので,呉(くれ)=高句麗説には問題が残る。…

【三国時代】より

…古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗百済新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…

【朱蒙】より

…朝鮮,高句麗の始祖王の諱(いみな)。在位,前37‐前19年(生没,在位とも《三国史記》による)。…

【隋】より

…とくに中国北辺にあって,北朝諸政権を圧倒しつづけたトルコ系の突厥(とつくつ)(東突厥)は,隋の成立とともに立場が逆転し,隋の王室の女の降嫁(和蕃公主)をめぐって進められる分断策,その一方で強まる軍事的圧力の両面作戦によって,ついに啓民(けいみん)可汗(?‐609)のもとで恭順の意を示すに至った。ここに隋は,東アジアから北アジアにまたがる盟主としての地位を確立するが,ただ朝鮮半島に拠る高句麗だけはその勢力下に入るのを拒みつづけ,その解決がつぎの煬帝の課題として残されることになった。
[煬帝の時代]
 さて2代目煬帝は,父文帝の名君ぶりとは対照をなす暴君として広く知られている。…

【朝鮮神話】より

…後者には現在シャーマンが口誦している巫歌神話と神話的昔話が含まれる。朝鮮神話全体の特徴は,(1)原初的形態を保持している,(2)巫俗や農耕儀礼など宗教儀礼との関係が密接である,(3)始祖神話の類が多く族譜意識が強い,(4)宇宙起源神話は神話記録者である儒学者の合理主義によって記録されなかったため,口伝のものが多い,(5)歴史的に高句麗・百済・新羅の三国鼎立が長く続いたため,神話が統一整序されず多様な伝承形態をとっている,などである。
[文献神話]
 文献神話のおもなものは次のとおりである。…

※「高句麗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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