高山樗牛(読み)タカヤマチョギュウ

デジタル大辞泉 「高山樗牛」の意味・読み・例文・類語

たかやま‐ちょぎゅう〔‐チヨギウ〕【高山樗牛】

[1871~1902]評論家山形の生まれ。本名、林次郎。東大在学中に小説「滝口入道」を発表し、「帝国文学発刊に参加。「太陽」を主宰日本主義を唱えた。のちニーチェ思想を賛美し、晩年日蓮傾倒した。著「美的生活を論ず」「わが袖の記」など。

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精選版 日本国語大辞典 「高山樗牛」の意味・読み・例文・類語

たかやま‐ちょぎゅう【高山樗牛】

  1. 文芸評論家。本名林次郎。山形県鶴岡出身。帝国大学哲学科卒。在学中、上田敏らと「帝国文学」を創刊、その編集に従事。明治二九年(一八九六)卒業と同時に第二高等学校の教授となる。のち退いて雑誌「太陽」主幹。はじめ日本主義を唱え、ニーチェ主義を経て晩年は日蓮に傾倒。小説「滝口入道」、評論「美的生活を論ず」など。明治四~三五年(一八七一‐一九〇二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高山樗牛」の意味・わかりやすい解説

高山樗牛
たかやまちょぎゅう
(1871―1902)

明治時代の思想家、評論家。明治4年1月10日、羽前(うぜん)国西田川(にしたがわ)郡高畑町(山形県鶴岡市)に庄内(しょうない)藩士斎藤親信(さいとうちかのぶ)の二男として生まれる。本名は林次郎。2歳のとき父の兄高山久平の養子となる。官吏であった養父の転任に従って、山形、福島と移り、1886年(明治19)に上京、東京英語学校に入学した。彼はその短い生涯において、「浪漫(ろうまん)主義」「日本主義」「個人主義」と思想を三変させた。しかし、その死の直後に桑木厳翼(くわきげんよく)が、樗牛の「煩悶(はんもん)は一貫して一つの問題に触れて居(い)」た、それは「人生問題と云(い)ふものゝ解決であつた」と述べているように、変転する彼の思想遍歴のうちに新しい時代の刻印をはっきりと見て取ることができる。

 仙台の第二高等中学校に入学した樗牛は、1891年有志と語らって『文学会雑誌』を創刊し数編の論文を載せた。そこには、人生への懐疑、文学への志向などすでに浪漫主義のモチーフがみられる。1893年帝国大学哲学科に入学した樗牛は、小説『滝口入道』(1894)を発表する一方、上田敏(うえだびん)、姉崎嘲風(あねさきちょうふう)(姉崎正治(まさはる))らと『帝国文学』(1895)の創刊に加わり、近松文学に託して自らの思いを吐露した。それによれば「愛」こそ「人生に対しては幸福の最大なる源」であり、「情死」こそ「幸福なる愛の最後」であった。

 1897年雑誌『太陽』の主筆となった樗牛は、やがて「日本主義」を唱え国家至上主義を説くに至る。しかし彼は、あくまでも「人生の目的は幸福にあり」、国家は「幸福を実現する方法」であるとしており、単純な国家主義とは一線を画している。1900年(明治33)、欧州留学を目前にして樗牛は突如、血を吐いて倒れた。以後、彼の思想は国家至上主義から一転して、「美的生活を論ず」(1901)、「日蓮上人(にちれんしょうにん)とは如何(いか)なる人ぞ」(1902)など、いずれも、すべてに優先する個人の価値を高唱したものであった。そしてニーチェの思想を賛美し、強烈な「超人」的な個性に傾倒していった。この「晩年の叫び」が後の世代に大きな影響を与えたのである。

[渡辺和靖 2016年9月16日]

『『滝口入道』(岩波文庫)』『渡辺和靖著『明治思想史』(1978/増補版・1985・ぺりかん社)』


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朝日日本歴史人物事典 「高山樗牛」の解説

高山樗牛

没年:明治35.12.24(1902)
生年:明治4.1.10(1871.2.28)
明治期の評論家,ジャーナリスト。本名は林次郎。山形県西田川郡高畑町(鶴岡市)に旧庄内藩士斎藤親信,芳の次男として生まれ,2歳のときに父方の伯父高山家の養子となる。少年期から投書雑誌『穎才新誌』や地元新聞に投稿するなど文才を発揮した。明治20(1887)年第二高等学校入学,26年帝大哲学科に入学。在学中,『読売新聞』の懸賞募集に「滝口入道」を応募し,当選。また帝大文科大学の帝国文学会機関誌『帝国文学』や博文館の雑誌『太陽』などに,それまでの戯作を批判し理想主義的文学を高く評価する評論を次々と発表し,注目を集めた。29年大学卒業と同時に二高教授に就任し,一時,中央論壇から離れたが,評論への志望は強く,二高教授を辞職,30年再び『太陽』文芸欄に復帰した。この時期の彼の評論は,国家を至上の人格的存在ととらえ,それを自我の独立と直結する国家主義,日本主義を高唱するものであったが,折から日清戦争(1894~95)後の国威発揚の社会風潮もあって,論壇を領導した。30年には木村鷹太郎らと大日本協会を起こし,機関誌『日本主義』を創刊した。しかし33年喀血し,病気療養に努めるころからニーチェに傾倒し,ニーチェを天才主義の文明評論家として解釈し礼賛する評論「文明批評家としての文学者」「美的生活を論ず」などを発表し,大きな反響を引き起こした。特に,自己の内面に沈潜する傾向を強めていた青年学生層に人気を博した。彼の天才主義,主我主義は,日蓮上人崇拝に進み,日蓮を絶対的な予言者に見立てた。彼は常に時代思潮に鋭敏で,巧みにそれを先取りし,華麗で辛辣な文体で表現し,賛否両論を巻き起こした。明治期の論壇・文壇を象徴する評論家である。<著作>『樗牛全集』

(有山輝雄)

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百科事典マイペディア 「高山樗牛」の意味・わかりやすい解説

高山樗牛【たかやまちょぎゅう】

明治期の美学者,文芸評論家。山形県鶴岡の酒井藩士の子。本名斎藤林次郎。のち高山家の養子。東大哲学科卒。在学中歴史小説《滝口入道》を発表して認められる。1895年《帝国文学》を創刊,1897年《太陽》の主幹を務め,日清戦争後の国家主義高揚の中で日本主義を主張して国民文学を高唱。次いで《美的生活を論ず》等でニーチェを賛美して個人主義へ転換,晩年は理想の人格を日蓮に見いだすなど,主張はめまぐるしく変化したが,一貫して強い影響力をもった。
→関連項目姉崎正治笹川臨風社会小説登張竹風ロマン主義

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改訂新版 世界大百科事典 「高山樗牛」の意味・わかりやすい解説

高山樗牛 (たかやまちょぎゅう)
生没年:1871-1902(明治4-35)

明治期の美学者,倫理学者,文芸評論家。山形県鶴岡生れ。本名林次郎。旧姓斎藤,幼いとき高山家へ入籍。第二高等中学(後の第二高等学校)を経て1896年東京帝大文科大学哲学科を卒業。94年在学中《読売新聞》の懸賞小説に《平家物語》に材を取った悲恋物語《滝口入道》が入選し注目されたが,樗牛自身は学問の活性化をめざしてエッセイストの道を選んだ。96年第二高等学校教授となったが,翌年辞任して博文館に入社,雑誌《太陽》の主筆として,鋭い批評文を精力的に書いた。日本主義から,ニーチェ賛美,〈美的生活〉の提唱,日蓮研究へとめまぐるしく主張は変化したが,本能に基づくロマン的な意志の確立という姿勢は一貫している。〈吾人(ごじん)は須(すべか)らく現代を超越せざるべからず〉(《無題録》)の名文句で知られるが,留学直前に病で倒れ,美学・美術史の研究を緒に就かせたままで永眠,墓所は遺言どおり静岡県清水区日蓮宗竜華寺にある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高山樗牛」の意味・わかりやすい解説

高山樗牛
たかやまちょぎゅう

[生]明治4(1871).1.10. 鶴岡
[没]1902.12.24. 平塚
明治の評論家,思想家。本名は林次郎,別に林斧太,高斎林良と号した。父は斎藤親信。叔父高山久平の養子として育ち,1888年第二高等学校に入学,その頃から文才を示した。 93年東京帝国大学に入学。在学中,日就社の懸賞募集に応募,歴史小説『滝口入道』が当選し『読売新聞』に掲載された。 95年雑誌『帝国文学』創刊とともに上田敏らと編集委員となり,次いで雑誌『太陽』の文芸部主任として評論を執筆。 96年大学を卒業,二高教授となったが,翌年4月辞任,『太陽』を編集しながら東京帝国大学や東京専門学校に出講。日清戦争後,井上哲二郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。 1902年文学博士となり,晩年は日蓮に傾倒。著作は『わが袖の記』 (1897) ,『文明批評家としての文学者』 (1901) ,『美的生活を論ず』 (01) ,『平家雑感』 (01) ,『平相国』 (02) ,『日蓮上人と日本国』 (02) ,『日蓮と基督』 (02) ,『日蓮上人とは如何なる人ぞ』 (02) など。『樗牛全集』 (7巻) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高山樗牛」の解説

高山樗牛 たかやま-ちょぎゅう

1871-1902 明治時代の文学者,評論家。
明治4年1月10日生まれ。帝国大学在学中に小説「滝口入道」が懸賞入選。卒業後,雑誌「太陽」の主幹となる。はじめ日本主義をとなえたが,ニーチェの影響をうけて美的生活の提唱,さらに日蓮への傾倒へとかわった。明治35年12月24日死去。32歳。羽前(うぜん)(山形県)出身。旧姓は斎藤。本名は林次郎。筆名はほかに高斎林良,林斧太。著作に「美的生活を論ず」など。
【格言など】己れの立てるところを深く掘れ,そこには必ず泉あらん

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高山樗牛」の解説

高山樗牛
たかやまちょぎゅう

1871.1.10~1902.12.24

明治期の評論家。本名斎藤林次郎。山形県出身。東大卒。在学中に「滝口入道」が「読売新聞」の懸賞2等に当選。二高教授をへて博文館に入社し「太陽」の編集を担当。日本主義を唱えて旺盛な評論活動を開始したが,結核が悪化するとともにしだいに国家主義から個人主義にかわった。「美的生活を論ず」で浪漫的本能満足主義を提唱,これをめぐる論争が生じた。晩年はニーチェに傾倒して,個人主義から天才主義に傾いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高山樗牛」の解説

高山樗牛
たかやまちょぎゅう

1871〜1902
明治時代の評論家・思想家
本名は斎藤林次郎。山形県の生まれ。東大哲学科在学中,『読売新聞』懸賞小説に『滝口入道』が入選。雑誌『帝国文学』を創刊編集し,さらに雑誌『太陽』の主幹として,美文のロマン主義的評論を発表。初め日本主義を唱え,のちニーチェに傾倒,『美的生活を論ず』で本能満足主義を説き論議をかもし,晩年は日蓮主義に移った。

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367日誕生日大事典 「高山樗牛」の解説

高山 樗牛 (たかやま ちょぎゅう)

生年月日:1871年1月10日
明治時代の評論家
1902年没

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世界大百科事典(旧版)内の高山樗牛の言及

【ショーペンハウアー】より

…彼の哲学は単なる人生論哲学にとどまるものではなく,意志を根源的存在と見るライプニッツ,カントの主意主義を受けつぎ,ニーチェの〈力への意志〉の哲学を準備するものとして,ドイツ形而上学の伝統に確固たる位置を占めるものである。なお,ショーペンハウアーの哲学は日本でも1892年に高山樗牛の《厭世論》によってはじめて一般に紹介され,1910‐12年姉崎正治による主著の翻訳《意志と現識としての世界》が出されて以来,大正から昭和にかけて,むしろ学生や一般の読書人によって,ニーチェとともに人生論哲学の書として熱心に読みつがれてきた。【木田 元】。…

【ニーチェ】より

…ナチスがニーチェを政治的に悪用したこともあって,第2次大戦後は一時期タブー視されていたが,ようやくフランスでのニーチェ受容をきっかけにして,今日ポスト構造主義的な読まれ方がドイツでも行われはじめている。 日本ではすでに1901年に高山樗牛が,《太陽》掲載論文《美的生活を論ず》の中でニーチェを持ち上げて以来,特に《ツァラトゥストラ》が,やがては《人間的な,あまりに人間的な》などのアフォリズム群が広く読まれはじめた。13年に出た和辻哲郎の《ニイチェ研究》は当時としては世界的に見てもきわめてすぐれた解釈である。…

※「高山樗牛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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