明治・大正期の海軍軍医。「けんかん」ともよぶ。日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)に高木兼次の子として生まれる。幼名は藤四郎。8歳から山中香山に漢学を学び、18歳で鹿児島に出て、蘭医(らんい)石神良策(1821―1875)に師事した。戊辰(ぼしん)の役に従軍したのち、ふたたび鹿児島に戻って医学開成学校に入学、学校長のイギリス人医師ウィリスに才能を認められ、イギリス留学を勧められた。1872年(明治5)海軍軍医となり、1875年イギリスに留学、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学し、1880年に同校を優秀な成績で卒業した。帰国後、海軍病院長、海軍省医務局長を歴任、1885年に海軍軍医総監、1888年に日本最初の医学博士の一人となった。その間、1881年に成医会を結成し、成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)を創立、また1883年には大日本私立衛生会の創立にも加わった。
1882年ころの海軍の脚気(かっけ)罹病(りびょう)者は1000人当り400人にも達し、国防上の大問題となった。高木は海軍兵食の改善を図り、主食には米飯とパンを用いたが、副食には肉を多くし、脚気を防ぐのに成功した。
[三浦豊彦]
明治・大正期の海軍軍医,医学者,男爵 海軍軍医総監;東京慈恵会医科大学創立者。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
明治・大正期の軍医。宮崎県生れ。幼名藤四郎。石神良策,W.ウィリスに医学を学び,1872年(明治5)海軍省出仕。75年ロンドンのセント・トマス病院医学校に留学し,80年帰国,東京海軍病院長となる。81年成医会をつくり,成医会講習所(京橋区鎗屋町)の所長となる(東京慈恵会医大はこれを原点としている)。翌82年有志共立東京病院(同大学付属病院の前身)を設立し,85年同院に看護婦養成所を設立し,日本最初のナイチンゲール式近代看護教育を開始した。成医会講習所は何回かの名称・組織の変更を経て今日の東京慈恵会医大に至るが,ドイツ医学主流の当時にイギリス医学を導入した。85年には海軍軍医総監となる。海軍軍陣医学の近代化への貢献は大きいが,とくに脚気減少のために努力した。開化期の先端的文化人としての活躍(鹿鳴館のバザー,神前結婚,オーナードライバー,洋装のすすめ)も忘れることができない。
執筆者:長門谷 洋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(深瀬泰旦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…とくに明治政府の富国強兵策による軍隊の増強とともに,脚気は兵営に急速に増加し,明治初年には陸軍で兵士の5分の1から3分の1がこれを発症し,日清・日露の戦時には前線将兵のほぼ4分の1が脚気となり,それは総傷病者数の2分の1というありさまであった。脚気の病因については,当時なお中毒説・伝染説・栄養障害説がこもごも論ぜられ,治療のきめ手を欠いていたが,イギリスの衛生学を学んできた海軍の高木兼寛は,いちはやく脚気対策の重点を食に置き,兵食改良に着手し,海軍では兵食を米麦混食にしてから脚気は急速に減少した。【立川 昭二】。…
…東京都港区西新橋に本部をおく医科専門の私立大学。1881年医療改善と医学研究を目的とする開業医の団体成医会(会長高木兼寛)が開設した夜間の医師養成機関,成医会講習所が起源。90年に修業年限4年,学生定員300名の成医学校に発展。…
…しかし,生理学,栄養学的にビタミンの研究が進んだのは,19世紀後半になってからであった。 日本海軍の軍医であった高木兼寛は1882‐84年,軍艦乗組員の大規模な栄養調査を行った。82年,東京からニュージーランドに向かった軍艦〈竜驤(りゆうじよう)〉は,272日の航海中,169人の脚気患者と25人の脚気による死者を出した。…
※「高木兼寛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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