幕末期長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者。名は春風、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)、号を東行(とうぎょう)。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、家禄(かろく)150石高杉丹治(たんじ)の嫡子として出生。少年期、藩校明倫館(めいりんかん)に入学するが、1857年(安政4)19歳のとき松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り、吉田松陰(よしだしょういん)の教育を受ける。やがて久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「村下の双璧(そうへき)」と称され、将来を嘱望される。1858年江戸へ出て幕府昌平黌(しょうへいこう)に入学。1859年松陰刑死後は遺骸(いがい)引き取りに奔走する。1860年(万延1)帰国後明倫館に勤務するが、やがて世子元徳(もとのり)付きの小姓(こしょう)となる。1862年(文久2)幕府の使節とともに上海(シャンハイ)に渡り、西洋列強国侵略の実情をみる。このため帰国後藩府に対し、公武合体策を放棄し富国強兵策の採用を進言する。しかし藩府が不採用のため亡命し、攘夷(じょうい)運動を推進する。同年末、江戸御殿山(ごてんやま)のイギリス公使館を同志とともに焼打ちする。1863年剃髪(ていはつ)し東行と号して帰国するが、下関(しものせき)戦争が始まり馬関(ばかん)総奉行(そうぶぎょう)手元役に抜擢(ばってき)される。そこで武士隊の敗北を知り、奇兵隊を創設し総監となる。奇兵隊は士農工商を問わず入隊でき、階級差別のない新しい軍隊であった。この後、下関講和交渉の正使となるが、藩府と意見があわず亡命する。1864年(元治1)下関で諸隊を集め、翌1865年(慶応1)内訌(ないこう)戦に勝利し藩府の主導権を握る。1866年第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)では小倉口(こくらぐち)方面の指揮官および全軍の総指揮官となり、勝利するが、慶応(けいおう)3年4月14日肺結核のため下関で死去。29歳であった。
[広田暢久]
『奈良本辰也著『高杉晋作』(1965・中央公論社)』▽『高杉東行先生百年祭奉賛会編・刊『東行――高杉晋作』(1966)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1839.8.20~67.4.14
幕末期の志士。萩藩士。名は春風(はるかぜ),字は暢夫(ちょうふ)。号は東行(とうぎょう)。変名谷梅之助・谷潜蔵。吉田松陰に学び久坂玄瑞と並び称される。1862年(文久2)幕艦で上海に渡る。帰国後久坂らと品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちし,また藩論の航海遠略策を批判した。63年萩藩の下関における攘夷決行に対する米仏艦の反撃に際し,奇兵隊を組織。翌64年(元治元)の四国連合艦隊下関砲撃事件では,藩の正使として講和に応じた。幕府の征長軍組織化にともなって藩の保守派が実権を握ると一時脱藩し,同年末から翌65年(慶応元)にかけて諸隊を率いて下関で挙兵,保守派を倒す。慶応軍制改革に参与し,66年の第2次長州戦争では小倉口参謀として活躍。67年下関で病死。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…結成は1863年(文久3)6月で,場所は下関の豪商白石家。上海で中国の半植民地化をまのあたりにした長州藩士高杉晋作が,安政期以降の長州藩軍制改革の成果に立って,藩主の信任のもとにつくったのが奇兵隊である。ときに長州藩は,攘夷期限(1863年5月10日)の外船砲撃の結果,米・仏などの反撃によって武士階級の無力さを暴露されていた。…
…優勢に立ったヨーロッパ連合軍は陸戦隊2000名を前田砲台や下関市街周辺に上陸させ,砲台を破壊し,あるいは奪い取り,3日間で戦闘が終了した。長州藩は高杉晋作を起用して14日に調停が成り,海峡通航の外国船保護,砲台の武装解除,下関市街を焼き払わなかった償金の支払,償金支払を幕府と列国の交渉に任すことが合意された。この事件によって長州藩の改革的勢力は一時後退したが,攘夷派が決定的な打撃を受け,やがて開国論が政府の主流となり,またヨーロッパとの軍事力の違い,軍艦・火砲の威力,さらに長州藩兵のなかで士気が上がったのは奇兵隊など諸隊だけであったことなどが深刻に認識され,慶応期の画期的な軍制改革の伏線となった。…
※「高杉晋作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新