俳人、小説家。明治7年2月22日(臍(ほぞ)の緒書(おがき)では20日)松山市長町新丁(現湊(みなと)町4丁目)に生まれる。本名清。父池内庄四郎政忠(しょうしろうまさただ)(のちに信夫(のぶお))は藩の剣術監、母は柳(りゅう)。1882年(明治15)祖母の実家高浜姓を継ぐ。中学時代より河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と親しみ文学に志し、先輩正岡子規(しき)に俳句を示し、本名と同音の虚子の雅号を与えられる。1892年9月、京都の旧制第三高等学校入学、碧梧桐も後れて入学同居し俳友とも交わった。学制改革でともに仙台の二高に移ったが、文学への念強く1894年そろって退学上京した。志は小説にあったが、子規の影響で句作し、子規は新聞『日本』の『明治二十九年の俳諧(はいかい)』で「縦横」の評で虚子の句を紹介した。1897年大畠(おおはた)いとと結婚。松山で柳原極堂が子規後援で発行していた『ホトトギス』を1898年10月自らの手に移し、以後虚子の活動の主力はこの雑誌によった。1901年(明治34)俳書出版の俳書堂設立。子規の写生主義が散文に及んだ写生文にも熱心で、1905年夏目漱石(そうせき)の『吾輩(わがはい)は猫である』を『ホトトギス』に掲げた反響大きく、その刺激で自らも小説を発表し、08年短編集『鶏頭』を出版。長文の漱石の序で余裕派の名も与えられた。この年『国民新聞』に長編『俳諧師』連載。一方、すでに1902年9月子規没後独自の道へ進んだ盟友碧梧桐は、06年8月から全国遍歴の旅信中『ホトトギス』の小説雑誌化を批判し新傾向への普及を計った。
虚子は1910年鎌倉に居を移し、また国民新聞社を辞して衰運の『ホトトギス』を挽回(ばんかい)するため12年7月号より雑詠欄を復活した。1913年(大正2)「霜降れば霜を楯(たて)とす法の城」「春風や闘志いだきて丘に立つ」の句に、碧梧桐らの新傾向句に対し、俳句伝統の定型、季語を守る守旧派の決意を表明した。この俳壇復帰で大正期、『ホトトギス』から渡辺水巴(すいは)、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)、長谷川零余子(れいよし)、長谷川かな女、野村泊月(はくげつ)らが輩出した。客観写生の主張から昭和期に及んで俳句は花鳥諷詠(ふうえい)と説き、4Sとよばれた水原秋桜子(しゅうおうし)、山口誓子(せいし)、阿波野青畝(せいほ)、高野素十(すじゅう)をはじめ、日野草城、川端茅舎(ぼうしゃ)、松本たかし、富安風生、山口青邨(せいそん)、中村草田男(くさたお)、中村汀女(ていじょ)、星野立子(たつこ)らを出し、『ホトトギス』は俳壇において全盛の観があった。写生文小説も書き続け、子規晩年を描く長編『柿(かき)二つ』を1915年『東京朝日新聞』に連載し、5月新橋堂から刊行した。『ホトトギス』から漱石のほか寺田寅彦(とらひこ)、伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、鈴木三重吉、野上弥生子(やえこ)らを文壇に送った点は、虚子の力に負うところが大きい。
虚子は1924年満州(中国東北)、朝鮮を訪れ、また36年(昭和11)渡欧し句境を広め、また海外に俳句を示した。戦中戦後は長野県小諸(こもろ)に疎開、名吟「山国の蝶(ちょう)は荒しと思はずや」などの『小諸百句』(1946)や、せつなく美しい師弟愛を描く小説『虹(にじ)』(1947)も書いた。1951年(昭和26)3月『ホトトギス』雑詠選を長男年尾に譲る。54年文化勲章受章。昭和34年4月8日永眠。法名虚子庵高吟椿寿居士。墓は鎌倉・寿福寺にある。
[福田清人]
『『定本高浜虚子全集』15巻・別巻1(1973~75・毎日新聞社)』▽『『柿二つ』(1986・永田書房)』▽『大野林火著『増補改訂版 高浜虚子』(1949・七洋社)』▽『大野林火著『高浜虚子』(1993・日本図書センター)』▽『山口誓子他著『高浜虚子研究』(1974・右文書院)』▽『清崎敏郎著『高浜虚子』(1980・桜楓社)』▽『水原秋桜子著『定本高浜虚子』(1990・永田書房)』▽『恩田甲著『入門高浜虚子』(1995・おうふう)』▽『本井英編著『高浜虚子』(1996・蝸牛社)』▽『中岡毅雄著『高浜虚子論』(1997・角川書店)』▽『鳴瀬善之助著『俳句について――高浜虚子をめぐって』(2005・まほろば書房)』▽『中田雅敏著『高浜虚子――人と文学』(2007・勉誠出版)』
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俳人,小説家。本名清。旧姓池内。松山市生れ。伊予尋常中学在学中,同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り師事。三高から二高に転じて中退。上京して碧梧桐とともに子規の周辺にいて俳句運動を助けた。子規の写生を有情の方向で実らせ,絵画的な特色とともに,季題情趣に新しい世界を見せた。松山で創刊された《ホトトギス》を1898年から東京に移して経営,子規の俳句運動の〈場〉を新聞《日本》との両輪にした。《ホトトギス》では文章にも力を注ぎ,写生を生かした文章表現を子規と力を合わせて開拓した。子規没後,子規が否定した連句の復興を考え,夏目漱石,坂本四方太と試みた。漱石とは俳体詩の試みももち,これが小説家漱石を生み出す契機となった。1905年から漱石の《吾輩は猫である》を《ホトトギス》に連載するとともに,みずからも小説家を志し《風流懺法》(1907)その他の作品を発表した。小説には写生文の手法,態度が活用されており,人間を描く場合でも自然の風物と同じ眼でとらえ,自然主義と対蹠的な文学を形成した。12年からは俳壇に復帰し,守旧派と称して十七字を守り,季題の情緒を守る俳句を説いた。のち,事物の状態を描写することに徹する客観写生を強調,同時に〈花紅柳緑〉の境地に至りつくことを目ざした。さらに27年から〈花鳥諷詠〉論を提唱,俳句は日本独自の文学で,しかも小説,戯曲とは違う素材,内面をうたう文学であり,天然を写生する文学であると規定,この信条を生涯守った。この間,育成者としても多くの俊秀を育てた。59年,脳溢血で死去。〈遠山に日の当りたる枯野かな〉。
執筆者:松井 利彦
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明治〜昭和期の俳人,小説家
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(矢島渚男)
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1874.2.20/22~1959.4.8
明治~昭和期の俳人・小説家。旧姓池内。本名清。愛媛県松山市出身。河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)とともに正岡子規(しき)門下の双璧。1898年(明治31)「ホトトギス」を松山から東京に移し,発行の中心となる。写生をいかした文章表現の開拓にも尽力。夏目漱石の「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に連載。みずからも小説を執筆。子規没後に独自の道を歩みはじめた碧梧桐らの新傾向俳句に対しては守旧派を宣言。客観写生と花鳥諷詠を説き,俳壇に君臨するとともに多くの俊才を育成した。句集「五百句」,短編小説集「鶏頭」。
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…発句と俳句はその形式は同一だが,俳句はもはや連句の最初の句ではなく,それ自体で自立した詩となった。 子規のもとには,河東碧梧桐(へきごとう),高浜虚子,内藤鳴雪,夏目漱石らが集い,新聞《日本》や雑誌《ホトトギス》(1897創刊)を中心にその活動を展開した。こうして近代の文学として歩みはじめた俳句は,しかし,季語や切字(きれじ)を用いる点でも発句と同様であり,そのために前衛派と伝統派が生じた。…
…当時の文壇を風靡した自然主義は,河東碧梧桐の〈無中心論〉や,荻原井泉水の〈季題無用論〉などを生んだ。子規門にあって碧梧桐と対立した高浜虚子は,昭和に入って〈花鳥風詠論〉を展開し,高野素十,阿波野青畝,山口青邨,星野立子,富安風生,中村汀女らの俳句をはぐくんだ。【乾 裕幸】。…
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