たか‐はま【高浜】
[1] 〘名〙 砂が吹き寄せられて、岸に高く積もっている浜(
一説に、広く長い浜)。また、
地名ともなる。
※
常陸風土記(717‐724頃)茨城・
歌謡「多賀波麻
(タカハマ)に 来寄する浪の」
[2]
[一] 茨城県石岡市の地名。旧新治
(にいはり)郡
高浜町。昭和二八年(
一九五三)石岡市に
編入。霞ケ浦に面し、
恋瀬川の
河口にある。古くから
水運で栄え、昭和初期まで霞ケ浦沿岸の
物資を集散していた。舟塚山古墳がある。
[二] 新潟県柏崎市の地名。旧刈羽郡高浜町。昭和三二年(一九五七)柏崎市に編入。
[四] 愛知県中部の地名。特産の三州瓦と
養鶏とで知られる。また、自動車関連の工場も進出し、衣浦
(きぬうら)臨海工業地域の一部となる。昭和四五年(
一九七〇)
市制。
[五] 大阪府三島郡島本町の地名。古くから開発され、藤原
一族の別荘地ともなり、
松林の
景勝にすぐれた
和歌の名所であった。
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デジタル大辞泉
「高浜」の意味・読み・例文・類語
たか‐はま【高浜】
砂が高く積もっている浜。一説に、広く長い浜の意という。
「豊国の企救の―高々に君待つ夜らはさ夜ふけにけり」〈万・三二二〇〉
たかはま【高浜】[愛知県の市]
愛知県中部の市。境川の東岸にあり、瓦製造・養鶏・人形生産が盛ん。人口4.4万(2010)。
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高浜
たかはま
中世よりみえる彼杵庄戸町浦の地名。文永年間(一二六四―七五)と思われる年欠八月一一日の石塚寂然請文(深堀文書、以下断りのない限り同文書)に「肥御崎寺領内切杭高浜」とみえ、寂然は数十年(十数年か)前に切杭・高浜の両所に蓮上(深堀行光)が乱入して寺用米一〇〇余石ならびに数十余町の田畠作毛や船所出物を押取り、あるいは百姓・所従を召し籠め沽却したとたびたび訴えており、両所が彼杵庄戸町浦と伊佐早肥御崎寺とのいずれに属するかという相論になっている。また弘安五年(一二八二)九月日の入道二品親王庁下文に「戸八浦内切杭高浜」とあり、両所を峯致道が本所一円所領と主張して本家の京都仁和寺より宛行われたが、深堀時仲が本司戸町俊長らや深堀行光以来の知行を訴えて認められ、この日改めて仁和寺から時仲に宛行われている。正応二年(一二八九)時仲は鎮西談議所において肥前国御家人の峰藤次入道浄忍(致道)が「切杭・高浜両浦」を押妨した件について審理中にもかかわらず、浄忍がひそかに上洛して仁和寺に訴えようとしたため、その訴えの却下を仁和寺に求めている(同年一一月日深堀時仲代西浄申状)。このように上総国御家人の深堀氏が承久の乱の戦功で建長七年(一二五五)当地に入ってきたことから、周辺諸氏との緊張を生んだ。正応二年六月、明心(時光)は「たかハまのむら」および「くちのふなつ」の在家などをけさくま(次男清光)に譲っているが、「あミうとつりうと」(網人・釣人)については互いに違乱のないようにと念押ししており(同年六月二六日深堀明心・同時仲連署譲状)、船津在家を拠点とする網人・釣人が海夫船をもって活動していたことが想定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
高浜
たかはま
茨城県中部,石岡市南東部の旧町域。霞ヶ浦の高浜入 (たかはまのいり) に臨む集落。 1889年町制施行。 1953年石岡町に編入,1954年石岡市となる。恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ地点にあり,常磐線開通以前は,霞ヶ浦水運の河港として栄えた。
高浜
たかはま
愛媛県北西部,興居 (ごご) 島に面する松山市の外港。三津浜港が主として貨物と島通い船の発着港であるのに対して,高浜は瀬戸内海航路の旅客の港で,松山観光港とも称し,5000t級の船が接岸する。松山の中心市街地から高浜まで伊予鉄道が開通した 1892年以来の港。
高浜
たかはま
石川県,能登半島西岸にある志賀 (しか) 町の中心地区。旧町名。近世初期,若狭 (福井県) 高浜町の漁民が移住し形成した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典内の高浜の言及
【石岡[市]】より
…茨城県の中央部にある市。1953年高浜町を編入し翌年市制。人口5万2714(1995)。…
※「高浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報