高野山(読み)コウヤサン

デジタル大辞泉 「高野山」の意味・読み・例文・類語

こうや‐さん〔カウヤ‐〕【高野山】

和歌山県北東部の山地。標高1000メートル内外の山に囲まれた準平原。真言宗の総本山金剛峰寺こんごうぶじと門前町の高野町こうやちょうがある。平成16年(2004)「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録された。
金剛峰寺の山号。

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精選版 日本国語大辞典 「高野山」の意味・読み・例文・類語

こうや‐さんカウヤ‥【高野山】

  1. [ 一 ] 和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗の総本山、金剛峯寺(こんごうぶじ)の山号または通称。南山。
  2. [ 二 ] 和歌山県北東部の山地。陣ケ峰(一一〇六メートル)、楊柳山(一〇〇九メートル)などに囲まれ、紀ノ川・有田川の分水嶺をなす標高八百メートルの山頂平坦面。弘仁七年(八一六)弘法大師が開山し、真言宗の霊場となり、金剛峯寺など一群の寺院がある。野山。南山。南岳。八葉峰。

たかの‐やま【高野山】

  1. [ 一 ] 出雲国(島根県)意宇郡にある山。現在の安来市と八束郡東出雲町の境にあたる。京羅(蘭)木(きょうらぎ)山。萩山。
  2. [ 二 ]こうやさん(高野山)
    1. [初出の実例]「たかのやま奥まで人の訪ひ来ずは静かに峰の月は見てまし〈藤原成頼〉」(出典:新勅撰和歌集(1235)雑一・一〇八三)

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日本歴史地名大系 「高野山」の解説

高野山
こうやさん

[現在地名]高野町高野山

高野山は「内外八葉」とよばれる峰に囲まれ、東西に長く、東に奥院おくのいん、西にだい門があり、奥院の裏には摩尼まに楊柳ようりゆう転軸てんじくのいわゆる高野三山が鼎立し、この間からたま川が流れる。西には高野山の最高峰弁天べんてん(九八四・五メートル)がそびえ、その懐から御殿おど川が流れて奥院参道なかの橋近くで両川が合流して有田川の源流となる。高野山の中心は奥院と壇上伽藍の地で、これを両壇という。壇上伽藍の北から東にかけての本中院ほんちゆういん谷が高野山で最初に開かれ、次いで東西の谷々が開かれ塔頭子院が建立されて現在の高野山が形成された。

〔開創以前の高野山〕

高野山の歴史は、弘仁七年(八一六)に空海が高野山の地を嵯峨天皇から賜ったことに始まるが、伝説上、高野山は空海開創以前からの宗教的聖地であったと考えられ、役行者開創説・僧行基開創説・丹生明神開創説などがある。役小角が高野山を開いて最初に建立したのが「六坊小路」であるとか(高野山通念集)、空海以前に高野山を開いた役小角の法孫が空海の弟子となり、後世の行人の初めとなったとか(五事略)西院さいいん谷の西南さいなん院は行基の始めた旧地であり、大峯・葛城修行者は行基の高野山の旧跡護摩ごま峯を出発点とした(高野山通念集)などという。これらは中世以後高野山の行人と修験者の関係を説くもので、近世には高野山の行人は大峯・葛城修験の先達であった。役小角や行基開創伝説は、高野山における行人の宗教的機能を示唆するものである。

第三の丹生明神伝説では、空海は弘仁七年に丹生都比売にうつひめ命から高野山の地を譲り受けたという。この丹生明神譲渡説には二種類あり、一つは直接丹生都比売から譲られたとする話と、いま一つは狩場明神(高野明神)に案内されて丹生都比売から譲渡されたというものである。前者は空海の「御遺告」、後者は金剛峯寺建立修行縁起に説かれる。後者によると、空海は丹生都比売に会うより前に大和の宇智郡で、大小二匹の犬を連れた一人の猟師と会い、この猟師に案内されて高野山に登り、丹生都比売から高野山を譲られたという。これは高野山の山の神(丹生都比売)と、山の神の司祭者である猟師(狩場明神)との関係を示している。現在壇上の鎮守はこの両明神であり、高野山の年中行事にはこの両明神祭祀に関するものが多く、なかんずく学道論義のなかで両明神との関係はとくに密接で、学道の階梯にしたがって五〇歳前後で竪精明神を奉迎し一年間の厳重な祭祀をする。


高野山
たかののやま

高野山のことであるが、歌枕としては「たかのの山」とされる(八雲御抄)。真言密教の霊場として高野山での遁世譚・往生譚の類は説話文学中に数多くみられるが、詠歌も少なくない。

<資料は省略されています>

宗尊親王の歌は高野にこもる入道親王性助に贈ったもの、また弘法大師の歌には「高野の奥の院へ参る道に玉川といふ河の水上に毒虫の多かりければ、此の流を飲むまじき由を示し置きて後よみ侍りける」と詞書にある。高野山はそのほか文芸に多々登場し、「今昔物語集」巻一一に高野山開創の由来が載るほか、「平家物語」巻三(大塔建立)は平清盛が大塔を修造し、金堂の曼陀羅を自ら描き八葉の中尊の宝冠を頭の血で描いたと記す。

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改訂新版 世界大百科事典 「高野山」の意味・わかりやすい解説

高野山 (こうやさん)

和歌山県北東部にある陣ヶ峰,楊柳山,弁天岳など標高1000m前後の山々の間にひろがる平たん面一帯の総称。伊都郡高野町に含まれる。この平たん面は隆起準平原のなごりといわれる。周囲の山塊は紀ノ川支流の丹生川,貴志川と有田川,十津(とつ)川の源流となっている。9世紀に空海がこの地に真言宗金剛峯寺を創建し,以後比叡山延暦寺と並ぶ山岳仏教の中心地として現在に至っている。明治末までに和歌山線が開通し,大正末までに南海電鉄高野線が極楽橋まで,昭和初めに南海高野ケーブルが高野山まで開通して京阪神からの交通の便がよくなり,観光客も多数訪れる。1958年に高野竜神国定公園に指定され,60年には高野山有料道路(87年無料開放)が北麓の九度山(くどやま)町から,70年には南側の護摩壇(ごまだん)山などの尾根を通る高野竜神スカイライン(2003年無料開放)が開通して竜神温泉方面と結ばれ,観光地化が進んだ。山内は杉木立に代表される森林と,密教文化財が多く存在し,国宝,重要文化財をはじめ,文化財は2万点近くにのぼる。
執筆者:

高野山は,宗教的には大門から壇上伽藍を経て奥之院に至る,塔頭子院を含めた一山全域を指す。〈高野山〉の地名の初見は,816年(弘仁7)6月19日の弘法大師空海の上表文である。それによると,〈空海,少年の日,好んで山水を渉覧せしに,吉野より南に行くこと一日,更に西に向つて去ること両日程にして平原の幽地あり,名けて高野と曰ふ,計るに紀伊国伊都郡の南に当れり〉とあるように,同年7月の勅許による高野山開創以前から,高野山は北に葛城修験,東に大峰を中心とする修験を控えて,優婆塞修験者の抖擻(とそう)修行した山岳霊場であった。

 空海は高野山の開創にあたって,丹生都比売(にゆうつひめ)からこの地を譲り受けたという伝説があり,このとき空海を高野山に案内したのが狩場明神(高野明神)であるともいう。この両神は現在,壇上の鎮守となっている。空海の伽藍建設は講堂(金堂),中門を南北中心線上に,後方東西に大塔・西塔を胎蔵・金剛両界に比して配するという,高野山の立地条件をふまえた独自の構想によったが,その在世中には完成を見なかった。伽藍の完成は弟子真然(しんぜん)の時代で,真然は大塔,西塔を完成し,教学の興隆をはかり,寺領を確立するとともに高野山に座主職を置いた。この結果,真言教団の体制は整ったが,その極端な排他的高野山中心主義は,かえって高野山の発展を妨げた。真然の没後,《三十帖策子》の帰属と年分度者の設置をめぐって京都の東寺と高野山の間に紛争が続いたが,東寺長者観賢(かんげん)によって,真言宗は東寺を本寺とし,高野山などの諸寺をその末寺とする本末体制が確立され,高野山は長く東寺の長者の支配下に置かれた。921年(延喜21)空海に大師号がおくられ,入定(にゆうじよう)信仰が普及した。

 このころを境として高野山は修行の山から信仰の山へと脱皮する。高野山は994年(正暦5),1149年(久安5),さらにそれ以降数度の大火に見舞われるが,そのつど急速に復興したのは,大師信仰と霊場信仰によるところが大きい。高野山が天下の霊場として全国的に知られるようになったのは摂関・院政時代以降で,藤原道長,藤原頼通や白河,鳥羽,後白河の3上皇が相次いで登山し,堂塔伽藍を復興・新造し,寺領荘園を寄進し,教学の興隆をはかったことによる。以後中世を通じて,幕府や武士をはじめ,貴族,商人,庶民各階層の広い信仰に支えられて発展した(高野詣)。

 教団を構成するものは学侶行人(ぎようにん)(惣分),聖(ひじり)の3派に分けられるが,聖を中心とする僧侶の唱導活動によって納骨(納髪)信仰が盛んとなり,摂関期以来天下の霊場としての地位を獲得した(高野聖)。そして特定の檀越(だんおつ)との信仰上の結びつきにより,いわゆる師檀関係から宿坊関係へと発展し,さらに中世末期の荘園の崩壊期には,荘園による収入に代わるものとして,諸国の守護大名や戦国大名との間の宿坊契約がより強固となり,大師信仰の普及と高野山の発展を支えた。高野山の教団を構成する中核は学侶であるが,教団の運営は集会評定による多数決制がとられ,各種の集議機関によって定められたことがらは〈衆中契約〉,つまり教団の憲法として尊重された。学侶には各種の階層があるが,その昇進は教団に正式加入(交衆(きようしゆう))したときからの年数(﨟次(ろうじ))により順次に上り,貴族などの子弟が途中から加入して上位を占めることは許されず,この秩序を乱すものは教団から追放された。織豊政権の誕生とともに高野山の自治制度が後退し,織田信長豊臣秀吉の高野攻めを契機に,高野山は近世的な幕藩の統制下の教団へと変質を余儀なくされた。特に徳川家康の巧みな政策によって,高野山は学侶,行人,聖の確執から勢力をそがれ,教団の活動や発展は阻害された。

 明治維新前後の廃仏毀釈の影響と,1872年(明治5)の女人禁制解除による混乱を乗り越えた高野山は,明治末期から復興が進み,町家,商家が急増し,89年に高野村(1928町制)が成立,寺院と僧侶による運営は在家による村の行政に移った。

高野山は全山が曼荼羅世界に擬せられたのであるが,それに外界から通じる七つの入口を〈高野七口〉と称し,主要なものは西の大門口,北の不動坂口(女人堂口),東の奥之院口である。高野山の西端には一山全体の総門である大門がある。大門を通り,大門道を東行すると北側の一段高いところに〈壇上伽藍〉がある。奥之院とともに両壇と呼ぶ高野山の聖地である。壇上の中心に,高野全山の本堂である金堂がある。その北東に朱塗り,2層の根本大塔,北西に西塔があり,ほかに孔雀堂,准胝堂,御影堂,愛染堂,大会堂,不動堂,御社(ごしや)などが建つ。

 壇上伽藍の周辺地域を〈高野十谷(じゆつたに)〉という。江戸時代には西院谷,南谷,谷上院谷,本中院谷,一心院谷,五之室谷,千手院谷,小田原谷,往生院谷,蓮華谷に分かれていた。《紀伊続風土記》によると,江戸後期には,合わせて500に近い子院が存在しており,現在も多くの子院がある。このうち小田原谷は,現在では高野山のメーンストリートになっている。この谷の北側西端には,高野山真言宗の総本山である金剛峯寺がある(なお金剛峯寺という名は,本来は高野山一山の総称であった)。また往生院谷の南側にある苅萱堂(かるかやどう)は,中世には高野聖の一派である萱堂聖の本拠地であった。

 奥之院は高野山の東部にあり,空海の廟を中心とする霊域で,弘法大師信仰の聖地である。一の橋から奥之院灯籠堂まで約2kmの参道の両側は杉木立におおわれ,その中には20万基をこすといわれる大小さまざまの墓石が並び立つ。奥之院の最奥に弘法大師廟がある。
空海 →金剛峯寺
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百科事典マイペディア 「高野山」の意味・わかりやすい解説

高野山【こうやさん】

和歌山県伊都郡高野町,紀伊山脈中の楊柳山,陣ヶ峰,弁天岳などに囲まれた平たん地。標高約900mで,一帯はスギ,マツ,マキ,ヒノキ,モミ,ツガのいわゆる高野六木の森林地帯。山頂に金剛峯寺,霊宝館などがあり,子院や宿坊,学校,みやげもの店などが門前町(高野町の中心)を形成する。高野竜神国定公園に属し,参拝を兼ねた避暑客,行楽客が多い。明治以前は女人禁制であった。南海電鉄高野線が通じ,ケーブルカーの便がある。また,霊宝館には金剛峯寺をはじめ諸院の宝物が収蔵,展示されている。絵画では平安期の仏涅槃(ぶつねはん)図,阿弥陀聖衆来迎図や〈赤不動〉など,彫刻では不動堂の八大童子像をはじめとする平安・鎌倉期の優作が多数ある。また,空海筆の聾瞽指帰(ろうこしき)や金銀字一切経(中尊寺経),宝簡集等文筆書跡にもすぐれたものが多い。2004年紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストに登録された。
→関連項目阿【て】河荘荒川荘石童丸相賀荘大田荘官省符荘紀伊続風土記紀伊国紀見峠空海神野真国荘高野[町]高野街道高野口[町]高野山大学高野聖雑賀一揆真田氏真田幸村三十帖冊子寺院法度真言宗智山派神野寺曾我直庵鞆淵荘名手荘丹生都比売神社根来衆根来寺鑁阿仏教平安仏教増田長盛南部荘和歌山[県]渡辺津

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高野山」の意味・わかりやすい解説

高野山
こうやさん

和歌山県北東部の山地。紀伊山地北部に位置し,高野町に属する。弁天岳 (985m) ,楊柳山 (1009m) ,転軸山 (900m) ,摩尼山 (1004m) ,陣ヶ森 (1106m) などを含む山塊の総称で,一帯はコウヤマキ,ヒノキ,スギなどの巨木に覆われ,これらの山の峰に囲まれて面積約 8km2の隆起準平原の平坦面がある。弘仁7 (816) 年空海が,ここに真言密教の道場金剛峯寺を創建,高野山はその山号でもある。明治5 (1872) 年の解禁まで山上は女人禁制で,七口と呼ばれる参詣路のそれぞれに女人堂があったが,現在は不動坂口だけに残っている。 1929年以来,大阪から電車とケーブルが開通し,観光地化が進んだ。龍神温泉と結ぶ高野龍神スカイラインも通じる。高野龍神国定公園に属する。 2004年紀伊山地の霊場と参詣道として,熊野三山などとともに世界遺産の文化遺産に登録。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「高野山」の解説

高野山
(通称)
こうやさん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
高野山苅萱実記
初演
明治17.9(東京・春木座)

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事典 日本の地域遺産 「高野山」の解説

高野山

(和歌山県伊都郡高野町高野山)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「高野山」の解説

高野山

(和歌山県伊都郡高野町)
日本三大霊山」指定の観光名所。

高野山

(和歌山県伊都郡高野町)
七高山」指定の観光名所。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高野山」の解説

高野山
こうやさん

金剛峰寺(こんごうぶじ)

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旺文社日本史事典 三訂版 「高野山」の解説

高野山
こうやさん

和歌山県北東部,伊都郡高野町にある山
山頂に真言宗総本山の金剛峯寺がある。

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世界大百科事典(旧版)内の高野山の言及

【阿氐河荘】より

…12世紀前半期には上荘(上村)と下荘(下村)に二分されており,それぞれ田数は約50町歩である。地の利のある高野山が11世紀初めよりしばしば当荘の領有を企て,とくに12世紀末には源平合戦の混乱に乗じて源頼朝・義経の安堵まで獲得したが,いずれも失敗に帰している。1197年(建久8)鎌倉幕府が天王寺と高野山大塔の用材採取のために,神護寺の僧文覚を下司職に補任,その弟子行慈が湯浅党の出身であったことから,下司職は湯浅宗光に譲渡された。…

【紀伊国】より

…式内社31座のうち,13座が名神大社であった(《延喜式》《和名抄》)。古代,紀ノ川流域に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ),粉河寺(こかわでら)等が開創され,南部の熊野大社とともに貴賤の信仰を集め,平安中期以降は院や摂関家による高野山,熊野参詣がさかんに行われた。同じころから,これらの寺社領をはじめ多数の荘園が設立された。…

【高野聖】より

高野山を中心にして,全国に活躍した勧進聖。聖は古代宗教家の総名であったが,奈良時代から民間僧を指すとともに,半僧半俗の私度僧を指すようになった。…

【丹生都比売神社】より

…創建年代不詳。丹生都比売大神は天照大神の妹神で,高野御子神はその御子神といい,一説に神功皇后の三韓遠征にあたり神験あって,丹生都比売大神を当地に奉斎したのが創建といい,第三殿,第四殿は1208年(承元2)高野山の行勝上人が神託をうけ,それぞれ気比神,厳島神を勧請したものという。神階は859年(貞観1)従四位下,883年(元慶7)従四位上。…

【納骨】より

…これとおなじく羽黒山では霊祭殿で納骨と祖霊供養を,湯殿山では霊祭供養所で祖霊供養を受け付けるという。しかし納骨霊場で有名なのは高野山で,全国から納骨があつまるので日本総菩提所と称している。奥之院浄域内に大きな甕に入れて埋納したもので,平安末期からの甕や壺が出土している。…

【木食応其】より

…もと近江出身の武士。1572年(元亀3)高野山で出家し客僧となり,木食苦行して小野,広沢の2法流を受け,また仁和寺任助親王の室に入って阿闍梨位(あじやりい)を得た。85年(天正13)豊臣秀吉と高野山金剛峯寺との間を斡旋して豊臣政権下における高野山の地位を安泰に導き,91年の検地に際し非法が発覚した際にもとりなした。…

※「高野山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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