高野山は「内外八葉」とよばれる峰に囲まれ、東西に長く、東に
高野山の歴史は、弘仁七年(八一六)に空海が高野山の地を嵯峨天皇から賜ったことに始まるが、伝説上、高野山は空海開創以前からの宗教的聖地であったと考えられ、役行者開創説・僧行基開創説・丹生明神開創説などがある。役小角が高野山を開いて最初に建立したのが「六坊小路」であるとか(高野山通念集)、空海以前に高野山を開いた役小角の法孫が空海の弟子となり、後世の行人の初めとなったとか(五事略)、
第三の丹生明神伝説では、空海は弘仁七年に
高野山のことであるが、歌枕としては「たかのの山」とされる(八雲御抄)。真言密教の霊場として高野山での遁世譚・往生譚の類は説話文学中に数多くみられるが、詠歌も少なくない。
宗尊親王の歌は高野にこもる入道親王性助に贈ったもの、また弘法大師の歌には「高野の奥の院へ参る道に玉川といふ河の水上に毒虫の多かりければ、此の流を飲むまじき由を示し置きて後よみ侍りける」と詞書にある。高野山はそのほか文芸に多々登場し、「今昔物語集」巻一一に高野山開創の由来が載るほか、「平家物語」巻三(大塔建立)は平清盛が大塔を修造し、金堂の曼陀羅を自ら描き八葉の中尊の宝冠を頭の血で描いたと記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
高野山にある一群の寺院の総称。高野山真言宗の総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)が所在する。
[宮坂宥勝]
816年(弘仁7)6月19日、空海が高野山開創のための上奏文を嵯峨(さが)天皇に差し出し、7月8日に勅許があった。空海は実慧(じちえ)、泰範(たいはん)を派遣して実地踏査させ、自らは818年11月に登山した。このとき空海は大和(やまと)国(奈良県)宇智(うち)郡で、2匹の黒い犬を連れた身長8尺(約2.4メートル)もある狩人(かりゅうど)に会い、山上に導かれたという伝説が『今昔(こんじゃく)物語集』にある。狩人はのちの高野山の地主神狩場明神(かりばみょうじん)と伝えられる。819年5月から伽藍(がらん)の建立に着手した。創建当時は21間の僧坊、講堂、東西2基の仏塔などがあったと推定され、これを金剛峯寺といった。835年(承和2)2月定額寺(じょうがくじ)(官寺)となり、同年3月21日空海はこの地で没した。
空海の開創の目的は、一つには国家のため、二つには修行者の道場を建立するためであった。そののち、伽藍の経営にあたったのは弟子の真然(しんぜん)で、883年(元慶7)彼は陽成(ようぜい)天皇に高野山は現世における浄土であると奉答した(高野山浄土の信仰)。921年(延喜21)10月、醍醐(だいご)天皇より弘法(こうぼう)大師の諡号(しごう)が下賜(かし)され、醍醐寺の観賢(かんげん)が勅書を携えて登山した。その後、東寺長者が金剛峯寺座主(ざす)を兼任する時代もあったが、定誉(じょうよ)(祈親上人(きしんしょうにん))が復興に努め、1023年(治安3)藤原道長が、1048年(永承3)には同頼通(よりみち)が登って復興を援助した。藤原氏の全盛期ころから大師入定(にゅうじょう)信仰が始まるが、これは、空海が肉身のままで永遠の宗教的瞑想(めいそう)に入り、つねに生けるものすべての救済を続けているという信仰である。高野山浄土の信仰が貴族の間に広まると、高野山参詣(さんけい)が盛んになった。1088年(寛治2)2月、1091年2月、1103年(康和5)11月の3回にわたって白河(しらかわ)上皇の御幸があり、さらに1124年(天治1)10月鳥羽(とば)上皇、1127年(大治2)11月白河・鳥羽両上皇の御幸があって、高野山は天下の霊場として知れわたるようになり、それと並行して貴紳による寺領荘園(しょうえん)の寄進、堂塔建立の援助が行われた。
1132年(長承1)覚鑁(かくばん)(興教(こうぎょう)大師)は鳥羽上皇の支援を得て大伝法院(だいでんぽういん)を建て、空海の教学の再興を図った。しかし金剛峯寺側と相いれず、1140年(保延6)彼は学徒を率いて紀州(和歌山県)根来山(ねごろさん)に移り、その地の円明寺(えんみょうじ)(根来寺)で没した。のちに覚鑁の系統は新義真言宗として独立する。1159年(平治1)鳥羽上皇の皇妃美福門院(びふくもんいん)は紺紙金泥(こんしこんでい)の一切経(いっさいきょう)(荒川(あらかわ)経)を寄進した。1179年(治承3)ころには西行(さいぎょう)、滝口入道(斎藤時頼(ときより))らが山上に住み、源平合戦後には平家の落人(おちゅうど)が入山した。鎌倉初期には、教懐(きょうかい)、法然(ほうねん)(源空)の弟子明遍(みょうへん)、東大寺大仏殿を再建した重源(ちょうげん)らが山上に一庵(あん)を構えて念仏を広め、半僧半俗のいわゆる高野聖(こうやひじり)たちが現れ、大師信仰を広めるために全国を遊行勧進(ゆぎょうかんじん)するようになった。一時は高野聖が高野山を風靡(ふうび)するに至ったので、1413年(応永20)5月、高声念仏、金叩(かねたたき)、負頭陀(おいずた)、踊(おどり)念仏などが弾圧された。しかし、高野山が日本の一大霊場寺院とされ建墓、納骨が行われるようになったのは、中世を通じて高野聖が回国遊行し勧化(かんげ)したのによるものである。
1223年(貞応2)源頼朝(よりとも)の夫人北条政子(まさこ)は、頼朝、実朝(さねとも)の冥福(めいふく)を祈って金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に多宝塔、経蔵などを寄進、開基は栄西(えいさい)の高弟行勇(ぎょうゆう)であった。1253年(建長5)快賢(かいけん)が空海の『三教指帰(さんごうしいき)』を開板した。この種の出版は江戸時代まで続き、一般に高野版といわれる。また元寇(げんこう)の役(えき)(1274、1281)のときには高野山南院(なんいん)の波切(なみきり)不動を筑紫(つくし)(福岡県)に勧請(かんじょう)して国難防遏(ぼうあつ)を祈ったといわれる。南北朝時代の1345年(興国6・貞和1)足利尊氏(たかうじ)とその弟直義(ただよし)は金剛三昧院に「南無釈迦(なむしゃか)仏全身舎利(しゃり)」120首の短冊を寄進した。これは光明院の御製、兼好・頓阿(とんあ)らの和歌四天王、尊氏・直義、天竜寺の夢窓(むそう)国師らの筆跡を集めたものである。1394年(応永1)から1406年ころ宥快(ゆうかい)が高野山の教学をつくりあげた(応永(おうえい)の大成)。
戦国時代、織田信長は高野山の荘園を解放するため、三男信孝(のぶたか)に高野山を包囲させたが、陥落しなかった。さらに豊臣(とよとみ)秀吉も攻撃の準備をしたが、木食応其(もくじきおうご)の勧告によって軍をとどめ、高野山の復興に努めた。江戸時代には庶民信仰を集め、奥の院における納骨、建墓の風習も高野聖たちの布教、勧誘によってますます盛んになった。近世には、高野聖は高野山内で学侶(がくりょ)、行人(ぎょうにん)とともに高野山三派(高野三方(さんかた))を形成したが、明治維新により、1869年(明治2)三派を廃し、秀吉の命で建てられた青巌(せいがん)寺(1592)、興山寺(1590)を合併して新たに金剛峯寺と改めた。また開創以来1000年のあいだ女人禁制の山であったが、1872年これも解禁になった。1946年(昭和21)高野真言宗という一派を設立し、総本山を金剛峯寺とした。
[宮坂宥勝]
かつては7700余の僧房を数え、大坂街道をはじめ七つの登山路があり、それぞれ山内の入口には女人堂があった。現在は不動坂入口に女人堂があるのみであるが、現在も金剛峯寺をはじめ117の寺院、52の宿坊があり、日本で唯一の珍しい山内町(さんないちょう)を形づくっている。山内は根本(こんぽん)大塔などのある壇上または伽藍とよぶ地域を中心に、西院谷(さいいんだに)、南谷、五室院(ごむろいん)谷、千手院(せんじゅいん)谷、本中院(ほんちゅういん)谷、谷上(たにがみ)、小田原谷、蓮華(れんげ)谷、往生院谷、奥の院の区域に分かれる。壇上には金堂、根本大塔、東塔、西塔、御影(みえい)堂、不動堂(国宝)、大会堂、孔雀(くじゃく)堂、山王(さんのう)院、三昧堂、二つの鐘楼などの諸堂が建ち並ぶ。奥の院は山内の東端にあって、空海の廟所(びょうしょ)があり、この入口の一の橋から約2キロメートルの参道の両側には、約25万の墓石が建っている。また、西端には一山の大門(だいもん)がある。小田原谷には金剛三昧院の多宝塔(国宝)、経蔵、位牌(いはい)堂など鎌倉初期に創建した堂塔が建つ。また南谷の天徳院には小堀遠州の築庭がある。
寺宝は、阿弥陀聖衆来迎(あみだしょうじゅらいごう)図、五大力吼菩薩(りきくぼさつ)像(有志八幡(はちまん)講)、仏涅槃(ぶつねはん)図、八大童子像、善女竜王像、空海の『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(金剛峯寺)、勤操(ごんぞう)僧正像(普門院)、船中湧現観音像(竜光院)、山水人物図(遍照光院(へんじょうこういん))、阿弥陀三尊像(蓮華三昧院)のほか、仏像、仏画、法具、古写経、古文書などにわたって国宝、国の重要文化財、重要美術品などが非常に数多い。とくに明王院の赤(あか)不動、南院の波切不動、金剛峯寺の両界曼荼羅(まんだら)(いわゆる平清盛の血曼荼羅)、丹生(にふ)および狩場明神像などが知られる。また鎌倉時代に出版された多くの高野版もある。山内の文化財の多くは収蔵庫に収められており、一部は霊宝館に出陳している。なお、霊場「高野山」は、2004年(平成16)「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
[宮坂宥勝]
寺領の初見は876年(貞観18)伊都(いと)、那賀(なか)、名草(なぐさ)、牟婁(むろ)4郡に散在する水田38町である。高野山は10世紀中葉から荘園(しょうえん)制大土地所有を目ざしたが、国衙(こくが)権力の侵攻によって寺領形成は困難を極めた。そこで空海の遺告と称する御手印縁起(ごていんえんぎ)を掲げて領域支配の正当性を主張する一方、弘法(こうぼう)大師の聖蹟(せいせき)として高野山を登拝の対象と崇(あが)める中央権門貴族に接近した。藤原道長(みちなが)・頼通(よりみち)が登山し、1049年(永承4)ついに山麓(さんろく)、紀ノ川上流に官省符荘(かんしょうふしょう)が成立。院政が開始されるや、白河(しらかわ)上皇に近づいて名手(なて)荘を、鳥羽(とば)上皇には相賀(おうが)、志富田(しぶた)、石手(いわて)、弘田(ひろた)、山崎(やまざき)、山東(さんどう)、岡田(おかだ)の7か荘の寄進を受けた。またその妃美福門院(びふくもんいん)からも荒川荘を寄進され、後白河法皇からは備後(びんご)国大田(おおた)荘を施入された。この3上皇による荘園は三代御起請の地として高野山領の基幹となった。この間のその他の寺領は紀伊国内では六箇七郷、河北(かわきた)荘、浜中(はまなか)荘など、国外では安芸(あき)国能美(のみ)・可部(かべ)・沼荘などが判明するが、とりわけて紀ノ川流域を中心とする紀伊国内の膝下(しっか)荘園群は、その後に獲得されたものも含めて、高野山にとって重要な位置を占め続けた。鎌倉時代になると北条氏の外護(げご)のもとに安達(あだち)氏が金剛三昧院(こんごうさんまいいん)を創建、北条氏によって河内(かわち)国讃良(さらら)荘、筑前(ちくぜん)国粥田(かゆた)荘、美作(みまさか)国大原(おおはら)荘が寄進された。蒙古(もうこ)襲来の際は祈祷(きとう)の恩賞として天野社に近木(こぎ)荘が与えられた。またこのころから高野山は独自の寺領拡張運動を展開し阿氐河荘(あてがわのしょう)獲得に成功している。
建武(けんむ)新政が成立すると、後醍醐(ごだいご)天皇の元弘(げんこう)の勅裁を掲げて根来寺(ねごろじ)領志富田・相賀を占領、さらに小河(おがわ)、柴目(しばめ)、隅田(すだ)、鞆淵(ともぶち)、調月(ちかづき)荘などを得た。南北朝動乱以後は武家勢力によって遠隔地荘園は侵食されていったが、膝下荘園については官省符荘を皮切りに次々と大検注を行い、独自の分田(ぶんでん)支配を実施した。室町期に入ると惣(そう)結合した農民の年貢減免闘争が諸荘園から起こり、また高野山内部でも学侶(がくりょ)方に従属する行人(ぎょうにん)方勢力が台頭するなどの矛盾が生じたが、地主職の集積や惣結合に対するイデオロギー的分裂支配によって支配を補強し、戦国の動乱期を生き抜いた。織豊(しょくほう)政権との対立は高野山に壊滅の危機をもたらしたが、高野山の客僧木食応其(もくじきおうご)の奔走によって2万1000石の御朱印(ごしゅいん)寺領が認められ、近世に至った。
[黒田弘子]
『北尾鐐之助編『高野山』(1953・高野山出版社)』▽『大山公淳著、三栗参平撮影『高野山』(1963・社会思想社)』▽『佐和隆研・田村隆照著『高野山』(1963・保育社)』▽『藤本四八撮影、井上靖他著『高野山』(1973・三彩社)』▽『松長有慶他著『高野山――その歴史と文化』(1984・法蔵館)』▽『宮坂宥勝・佐藤任著『高野山史』(1984・心交社)』
和歌山県北東部、伊都(いと)郡高野町を中心とする山地。高度約800メートルの山頂に約3平方キロメートルの平坦(へいたん)面がある。816年(弘仁7)真言(しんごん)道場を開いた空海の上表に「四面高嶺の平原幽地これを高野と名づく」とあり、名称はこれに由来する。南麓(なんろく)に真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)がある。弁天岳(985メートル)、楊柳(ようりゅう)山(1009メートル)、転軸山(900メートル)などに囲まれた高位平坦面は隆起準平原で、有田(ありだ)川源流御殿(おど)川(隠所川)と玉川が合して南流し、北斜面は紀ノ川、東斜面は十津(とつ)川の流域となる。高野竜神(りゅうじん)国定公園に含まれ、南海電鉄高野線に続くケーブルが通ずる。2004年(平成16)に高野山周辺は「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」として世界文化遺産に登録されている。
[小池洋一]
和歌山県北東部にある陣ヶ峰,楊柳山,弁天岳など標高1000m前後の山々の間にひろがる平たん面一帯の総称。伊都郡高野町に含まれる。この平たん面は隆起準平原のなごりといわれる。周囲の山塊は紀ノ川支流の丹生川,貴志川と有田川,十津(とつ)川の源流となっている。9世紀に空海がこの地に真言宗金剛峯寺を創建し,以後比叡山延暦寺と並ぶ山岳仏教の中心地として現在に至っている。明治末までに和歌山線が開通し,大正末までに南海電鉄高野線が極楽橋まで,昭和初めに南海高野ケーブルが高野山まで開通して京阪神からの交通の便がよくなり,観光客も多数訪れる。1958年に高野竜神国定公園に指定され,60年には高野山有料道路(87年無料開放)が北麓の九度山(くどやま)町から,70年には南側の護摩壇(ごまだん)山などの尾根を通る高野竜神スカイライン(2003年無料開放)が開通して竜神温泉方面と結ばれ,観光地化が進んだ。山内は杉木立に代表される森林と,密教文化財が多く存在し,国宝,重要文化財をはじめ,文化財は2万点近くにのぼる。
執筆者:水田 義一
高野山は,宗教的には大門から壇上伽藍を経て奥之院に至る,塔頭子院を含めた一山全域を指す。〈高野山〉の地名の初見は,816年(弘仁7)6月19日の弘法大師空海の上表文である。それによると,〈空海,少年の日,好んで山水を渉覧せしに,吉野より南に行くこと一日,更に西に向つて去ること両日程にして平原の幽地あり,名けて高野と曰ふ,計るに紀伊国伊都郡の南に当れり〉とあるように,同年7月の勅許による高野山開創以前から,高野山は北に葛城修験,東に大峰を中心とする修験を控えて,優婆塞修験者の抖擻(とそう)修行した山岳霊場であった。
空海は高野山の開創にあたって,丹生都比売(にゆうつひめ)からこの地を譲り受けたという伝説があり,このとき空海を高野山に案内したのが狩場明神(高野明神)であるともいう。この両神は現在,壇上の鎮守となっている。空海の伽藍建設は講堂(金堂),中門を南北中心線上に,後方東西に大塔・西塔を胎蔵・金剛両界に比して配するという,高野山の立地条件をふまえた独自の構想によったが,その在世中には完成を見なかった。伽藍の完成は弟子真然(しんぜん)の時代で,真然は大塔,西塔を完成し,教学の興隆をはかり,寺領を確立するとともに高野山に座主職を置いた。この結果,真言教団の体制は整ったが,その極端な排他的高野山中心主義は,かえって高野山の発展を妨げた。真然の没後,《三十帖策子》の帰属と年分度者の設置をめぐって京都の東寺と高野山の間に紛争が続いたが,東寺長者観賢(かんげん)によって,真言宗は東寺を本寺とし,高野山などの諸寺をその末寺とする本末体制が確立され,高野山は長く東寺の長者の支配下に置かれた。921年(延喜21)空海に大師号がおくられ,入定(にゆうじよう)信仰が普及した。
このころを境として高野山は修行の山から信仰の山へと脱皮する。高野山は994年(正暦5),1149年(久安5),さらにそれ以降数度の大火に見舞われるが,そのつど急速に復興したのは,大師信仰と霊場信仰によるところが大きい。高野山が天下の霊場として全国的に知られるようになったのは摂関・院政時代以降で,藤原道長,藤原頼通や白河,鳥羽,後白河の3上皇が相次いで登山し,堂塔伽藍を復興・新造し,寺領荘園を寄進し,教学の興隆をはかったことによる。以後中世を通じて,幕府や武士をはじめ,貴族,商人,庶民各階層の広い信仰に支えられて発展した(高野詣)。
教団を構成するものは学侶,行人(ぎようにん)(惣分),聖(ひじり)の3派に分けられるが,聖を中心とする僧侶の唱導活動によって納骨(納髪)信仰が盛んとなり,摂関期以来天下の霊場としての地位を獲得した(高野聖)。そして特定の檀越(だんおつ)との信仰上の結びつきにより,いわゆる師檀関係から宿坊関係へと発展し,さらに中世末期の荘園の崩壊期には,荘園による収入に代わるものとして,諸国の守護大名や戦国大名との間の宿坊契約がより強固となり,大師信仰の普及と高野山の発展を支えた。高野山の教団を構成する中核は学侶であるが,教団の運営は集会評定による多数決制がとられ,各種の集議機関によって定められたことがらは〈衆中契約〉,つまり教団の憲法として尊重された。学侶には各種の階層があるが,その昇進は教団に正式加入(交衆(きようしゆう))したときからの年数(﨟次(ろうじ))により順次に上り,貴族などの子弟が途中から加入して上位を占めることは許されず,この秩序を乱すものは教団から追放された。織豊政権の誕生とともに高野山の自治制度が後退し,織田信長,豊臣秀吉の高野攻めを契機に,高野山は近世的な幕藩の統制下の教団へと変質を余儀なくされた。特に徳川家康の巧みな政策によって,高野山は学侶,行人,聖の確執から勢力をそがれ,教団の活動や発展は阻害された。
明治維新前後の廃仏毀釈の影響と,1872年(明治5)の女人禁制解除による混乱を乗り越えた高野山は,明治末期から復興が進み,町家,商家が急増し,89年に高野村(1928町制)が成立,寺院と僧侶による運営は在家による村の行政に移った。
高野山は全山が曼荼羅世界に擬せられたのであるが,それに外界から通じる七つの入口を〈高野七口〉と称し,主要なものは西の大門口,北の不動坂口(女人堂口),東の奥之院口である。高野山の西端には一山全体の総門である大門がある。大門を通り,大門道を東行すると北側の一段高いところに〈壇上伽藍〉がある。奥之院とともに両壇と呼ぶ高野山の聖地である。壇上の中心に,高野全山の本堂である金堂がある。その北東に朱塗り,2層の根本大塔,北西に西塔があり,ほかに孔雀堂,准胝堂,御影堂,愛染堂,大会堂,不動堂,御社(ごしや)などが建つ。
壇上伽藍の周辺地域を〈高野十谷(じゆつたに)〉という。江戸時代には西院谷,南谷,谷上院谷,本中院谷,一心院谷,五之室谷,千手院谷,小田原谷,往生院谷,蓮華谷に分かれていた。《紀伊続風土記》によると,江戸後期には,合わせて500に近い子院が存在しており,現在も多くの子院がある。このうち小田原谷は,現在では高野山のメーンストリートになっている。この谷の北側西端には,高野山真言宗の総本山である金剛峯寺がある(なお金剛峯寺という名は,本来は高野山一山の総称であった)。また往生院谷の南側にある苅萱堂(かるかやどう)は,中世には高野聖の一派である萱堂聖の本拠地であった。
奥之院は高野山の東部にあり,空海の廟を中心とする霊域で,弘法大師信仰の聖地である。一の橋から奥之院灯籠堂まで約2kmの参道の両側は杉木立におおわれ,その中には20万基をこすといわれる大小さまざまの墓石が並び立つ。奥之院の最奥に弘法大師廟がある。
→空海 →金剛峯寺
執筆者:和多 秀乗
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…12世紀前半期には上荘(上村)と下荘(下村)に二分されており,それぞれ田数は約50町歩である。地の利のある高野山が11世紀初めよりしばしば当荘の領有を企て,とくに12世紀末には源平合戦の混乱に乗じて源頼朝・義経の安堵まで獲得したが,いずれも失敗に帰している。1197年(建久8)鎌倉幕府が天王寺と高野山大塔の用材採取のために,神護寺の僧文覚を下司職に補任,その弟子行慈が湯浅党の出身であったことから,下司職は湯浅宗光に譲渡された。…
…式内社31座のうち,13座が名神大社であった(《延喜式》《和名抄》)。古代,紀ノ川流域に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ),粉河寺(こかわでら)等が開創され,南部の熊野大社とともに貴賤の信仰を集め,平安中期以降は院や摂関家による高野山,熊野参詣がさかんに行われた。同じころから,これらの寺社領をはじめ多数の荘園が設立された。…
…高野山を中心にして,全国に活躍した勧進聖。聖は古代宗教家の総名であったが,奈良時代から民間僧を指すとともに,半僧半俗の私度僧を指すようになった。…
…創建年代不詳。丹生都比売大神は天照大神の妹神で,高野御子神はその御子神といい,一説に神功皇后の三韓遠征にあたり神験あって,丹生都比売大神を当地に奉斎したのが創建といい,第三殿,第四殿は1208年(承元2)高野山の行勝上人が神託をうけ,それぞれ気比神,厳島神を勧請したものという。神階は859年(貞観1)従四位下,883年(元慶7)従四位上。…
…これとおなじく羽黒山では霊祭殿で納骨と祖霊供養を,湯殿山では霊祭供養所で祖霊供養を受け付けるという。しかし納骨霊場で有名なのは高野山で,全国から納骨があつまるので日本総菩提所と称している。奥之院浄域内に大きな甕に入れて埋納したもので,平安末期からの甕や壺が出土している。…
…もと近江出身の武士。1572年(元亀3)高野山で出家し客僧となり,木食苦行して小野,広沢の2法流を受け,また仁和寺任助親王の室に入って阿闍梨位(あじやりい)を得た。85年(天正13)豊臣秀吉と高野山金剛峯寺との間を斡旋して豊臣政権下における高野山の地位を安泰に導き,91年の検地に際し非法が発覚した際にもとりなした。…
※「高野山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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