応仁の乱に際しては、「大乗院寺社雑事記」応仁元年(一四六七)六月二二日条に「北山鹿
長良川北岸、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市北区金閣寺町にある寺。金閣寺と称し、銀閣寺(慈照寺(じしょうじ))とともに一般に広く知られている。北山(ほくざん)と号し、臨済(りんざい)宗相国寺(しょうこくじ)派に属する。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。もとこの地には西園寺(さいおんじ)家の山荘北山殿(きたやまどの)があったが、1397年(応永4)足利(あしかが)3代将軍義満(よしみつ)がこれを譲り受け、金閣などの殿楼を造営したのが、その始まりである。1408年義満の没後、遺命によって子の義持(よしもち)がこれを禅寺に改め、夢窓疎石(むそうそせき)を請(しょう)じて開山とし、いまの寺名をたてた。この寺名は、釈迦(しゃか)の最初の説法の場所である鹿野苑(ろくやおん)からとったものである。当時は紫雲殿(しうんでん)、天上間(公卿(くぎょう)間)、拱北楼(きょうほくろう)、金閣、反橋(そりはし)、芳徳(ほうとく)殿、天鏡閣、泉殿、護摩(ごま)堂、懺法(せんぽう)堂、舎利(しゃり)殿、小御堂(みどう)、地蔵堂、看雲(かんうん)亭、塔、輪蔵、鐘楼(しょうろう)、総門、四足門などが備わり、壮観を極めたが、のち紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺(けんにんじ)に、懺法堂は等持寺(とうじじ)に移転された。また文正(ぶんしょう)年間(1466~1467)小御堂が炎上し、そのうえ応仁(おうにん)の乱(1467~1477)で芳徳殿など多くの堂舎が破壊された。しかし、天正(てんしょう)年間(1573~1592)の不動堂の再建に始まり、夕佳(せっか)亭、方丈の造建など徐々に堂舎の修理、復興が行われ、1904~1906年(明治37~39)には金閣の大修繕がなされた。現に、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがあり、方丈には本尊の観音(かんのん)像のほか、夢窓疎石、足利義満の像がある。中心となる金閣は三層楼で創建当時のまま現存していたが、1950年(昭和25)放火によって焼失。現在のものは1955年に同じ様式で再建されたものである。初層は平安後期の寝殿造に擬し、中層は鎌倉期の武家造、上層は仏殿造で唐様(からよう)を用い、各層に変化をもたせるとともに、内外すべて漆地(うるしじ)に金箔(きんぱく)を押してあるが、三十有余年を経て剥落(はくらく)や傷がひどくなったため、1986年2月より大規模な修復工事が行われ、1987年10月に創建当時の姿をよみがえらせた。庭園は特別史跡・特別名勝。1994年(平成6)、鹿苑寺は世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[平井俊榮]
足利義満が、北山殿に建立したとされる七重塔のこと。室町時代には、義満の命で建立された相国寺の七重塔(高さ約109メートル)が、国内でもっとも高い塔だった。この塔が1403年(応永10)に焼失したため、1404年に現在の金閣寺がある北山殿で立柱の儀が行われ、焼失した塔に匹敵する高さの塔が建立されたと考えられている。しかし、これまでは完成前の1416年に落雷で焼失した記録が残されているほかには、当時の建設位置や建物の状態を示す具体的な史料はみつかっていなかった。2016年(平成28)、京都市埋蔵文化研究所は塔の最上部に突き出た尖塔(せんとう)を飾る相輪(そうりん)の一部分とみられる破片が発掘されたと発表した。破片の大きさは最大のもので幅37.4センチメートル、高さ24.6センチメートル、厚さ1.5センチメートル。相輪を構成する九輪(くりん)の一部とみられ、青銅の材質で金メッキが施されていた。さらに、発掘成果をもとに東寺(教王護国寺)に伝存する古文書、東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)を調べたところ、立柱の儀に先だつ具体的な起工準備状況などが記された箇所がみつかった。文献面からも北山大塔の実存の可能性が濃厚になった。
[編集部 2017年5月19日]
『『古寺巡礼 京都20 金閣寺・銀閣寺』(1977・淡交社)』▽『関野克編『日本の美術 153 金閣と銀閣』(1979・至文堂)』
京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。北山と号し,通称〈金閣寺〉で有名。現寺地辺には公家の西園寺家の山荘があったが,これを足利義満が譲り受けて,1397年(応永4)から北山殿(きたやまどの)の造営に着手し,翌年義満はここに移った。以後1408年の義満没年までの10年間,北山殿は室町幕府政治の中心となった。当寺は義満の没後,嗣子の義持が北山殿のうちの舎利殿(金閣)を中心とする一部を,夢窓疎石を勧請開山として寺に改めたものである。義満の菩提を弔うため,寺号もその法号の鹿苑院殿にちなんだ。以後歴代足利将軍は当寺を保護し,よく参詣したが,なかでも8代将軍義政は境内の紅葉をめでて,毎年10月15日に参詣することを例とした。当時金閣のほか仏殿,泉殿,書院,不動堂などがあったが,応仁の乱で西軍の陣所となって堂宇や庭園は荒廃し,中世末には寺運も衰えた。衰微した当寺を今日のような姿に復興したのは,後水尾法皇に近侍して信任を得た近世前期の住持鳳林承章(ほうりんじようしよう)と文雅慶彦(ぶんがけいげん)である。法皇の援助もあって,この2人の時代に夕佳(せつか)亭,方丈,大書院,小書院,鐘楼などが復興した。近世の寺領は350石。寺宝中,伊藤若冲(じやくちゆう)筆大書院障壁画50面,足利義満画像2幅,無学祖元・高峰顕日問答語1幅などは重要文化財,ほかに後水尾天皇など歴代の宸翰類,後水尾朝期の宮廷文化を知る宝庫ともいうべき承章の日記《隔蓂記(かくめいき)》がある。
執筆者:藤井 学
舎利殿は鏡湖池に面した3層の楼閣建築で(1950年焼失,55年再建),2,3層の内外が金箔で装われていたために金閣と呼びならわされた。初層(法水院)と2層(潮音洞)は同一平面に板敷き,蔀戸(しとみど)など寝殿造住宅の手法により,3層(究竟頂)は平面を縮小し,禅宗様仏堂風になっており,外観は軽快優美ながら安定感に富む。同じ楼閣建築でも銀閣(慈照寺)は下層が書院造住宅風である点が異なり,造立時の住宅形式を反映している。なお,庭園は浄土庭園の流れをくみ,特別史跡・特別名勝に指定されている。
執筆者:谷 直樹
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京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。北山と号し,通称は金閣寺。開山は夢窓疎石(むそうそせき)。足利義満が営んだ北山殿(きたやまどの)の舎利殿(金閣)を中心として,義満の死後,足利義持が菩提を弔うために寺とした。応仁・文明の乱では西軍の陣となり,金閣以外のほとんどの堂舎を焼失。のち再建され,17世紀末までに現在の堂舎が整った。金閣は室町文化を代表するものだったが焼失し,1955年(昭和30)再建。池泉回遊式庭園は国特別史跡・国特別名勝。大書院障壁画・「足利義満像」(ともに重文)などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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