(読み)ムギ

デジタル大辞泉 「麦」の意味・読み・例文・類語

むぎ【麦】

イネ科のオオムギコムギライムギエンバクなどの総称。秋に芽が出て冬を越し、夏に開花、結実する。古くから栽培され、食用・飼料として広く利用される。 夏》「行く駒の―に慰むやどりかな/芭蕉
[下接語]あつ一年麦り麦大麦押し麦からす殻麦切り麦弘法麦小麦毒麦なま裸麦はとき割り麦一粒の麦冷や麦平麦穂麦丸麦ライ麦割り麦
[類語]小麦大麦裸麦ライ麦烏麦燕麦鳩麦押し麦き割り麦

ばく【麦〔麥〕】[漢字項目]

[音]バク(漢) [訓]むぎ
学習漢字]2年
〈バク〉五穀の一。ムギ。「麦芽麦稈ばっかん麦秋燕麦えんばく菽麦しゅくばく精麦米麦
〈むぎ〉「麦茶麦畑大麦小麦裸麦丸麦
[難読]蕎麦そば瞿麦なでしこ麦酒ビール麦稈むぎわら

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精選版 日本国語大辞典 「麦」の意味・読み・例文・類語

むぎ【麦】

  1. 〘 名詞 〙
  2. イネ科の穀類のうちコムギ、オオムギ、ハダカムギ、ライムギ、エンバクなどの総称。こぞくさ。としこえぐさ。としこしぐさ。《 季語・夏 》
    1. [初出の実例]「鼻に小豆生(な)り、陰(ほと)に麦(むぎ)生り、尻に大豆生りき」(出典:古事記(712)上)
  3. むぎめし(麦飯)」の略。
    1. [初出の実例]「甲斐の山中に立よりて 行狗の麦に慰むやどり哉」(出典:俳諧・野ざらし紀行(1685‐86頃))
  4. ( 「むぎなわ(麦索)」の略 ) 麺類。特に、ひやむぎ。
    1. [初出の実例]「抜くに随て、白き麦の様なる物差出たり」(出典:今昔物語集(1120頃か)二四)
  5. 相模国(神奈川県)小田原地方で飯盛女をいう。米(よね)(=遊女)につぐものの意からいう。〔随筆・積翠閑話(1849)〕

ばく【麦】

  1. 〘 名詞 〙 むぎ。麦類。〔日葡辞書(1603‐04)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「麦」の意味・わかりやすい解説

麦 (むぎ)

コムギオオムギライムギエンバクなどの植物やその子実の総称。単に麦といえばとくにオオムギとコムギとを区別せずに示す場合が多い。いずれも子実を食糧や飼料などにするために栽培されるイネ科の一・二年草である。この〈麦〉は,日本や中国などで使用されてきた多面的な内容をもつ独特な用語で,これに相当することばは欧米にはない。東洋の主穀,つまり五穀(米,麦,アワ,ヒエ,豆)のうちでは豆(ダイズ)以外はみなイネ科の作物(禾穀(かこく)類)であるが,そのうち最も重要な米に対して,それに次ぐものが麦とされた。しかし穀物のうちでもアワ,キビ,ヒエなど小粒の穀物群は麦とは区別される。作物学上は,コムギとオオムギを主とし,これにライムギ,エンバクなど類似の用途や特性をもつ穀類を加えて,一括して麦類として取り扱う。またハトムギやトウムギ(トウモロコシ)のように穀粒が大型な穀物に麦の呼称が用いられることがある。タデ科で,子実が麦と同じように利用されるソバも,漢字表現としては〈蕎麦〉を用い,麦の仲間と意識されている。さらに麦と植物体(茎葉)の似たイネ科植物に対しても,イヌムギ,ネズミムギ,ホソムギ,ドクムギ,エゾムギ,ハマムギなどの麦との類似を表示した名がつけられる。

 栽培の麦類は重要な作物で,全世界人口の半数が食糧としている。コムギ,オオムギ,ライムギ,エンバクはいずれも原産地が中近東地域で,基本的には秋に種をまいて翌年の初夏に収穫するという点で,共通した特性をもつ越年生作物である。このうち,日本ではとくにコムギ,オオムギが重視され,オオムギを3分類した皮麦,裸麦,ビールムギにコムギを加えて四麦と称せられる。他の麦類があまり問題とされないのは,それらが比較的近年まで日本には伝わっていなかったし,生産量も多くないからであろう。すなわち,ライムギやエンバクは,明治になってから日本に伝来し,現在でも栽培面積は少なく,しかもほとんど食用にはされずに,もっぱら飼料として利用されている。一方,コムギとオオムギの日本での栽培の歴史は,弥生時代初期,あるいは縄文時代晩期にまでさかのぼると推定され,以来畑作物として重要な位置をしめてきた。また,本来米が原料となる食品などでは,その代用としてコムギやオオムギを使用した場合に,麦飯などのように麦の語をつけてそのことを示すことがある。コムギは主に製粉して小麦粉としてから利用し,その製品には麦だんご,麦まんじゅう,麦餅,麦切りなどの名がつけられている。またオオムギは,粒のまま,あるいはそれを砕いたものを利用し,これを原料としたことを表すために麦の字がついたものに押麦,麦みそ,麦こうじ,麦茶,麦焦しなどがある。麦わら細工,麦わら帽などはオオムギの稈(かん)を原料とする。
執筆者:

稲は湿潤地,麦は乾燥地に適する。湿潤と乾燥の問題については,〈農業〉の項目で考察したが,夏に比較的湿潤な地方で発達した〈中耕農業〉では,夏作物として稲,冬作物として麦が作られるが(年2回の二毛作),夏に比較的乾燥する地方に発達した〈休閑農業〉では,もっぱら麦作が行われている(一毛作)。麦作が最初に行われた西南アジアの山沿いの地域においては,現在でも,麦作は二圃(にほ)式の形をとっている。乾燥・冬雨のこの地方では,夏作物の栽培は不可能なので,春から秋まで耕地を休閑し,犂(すき)で普通2回浅く耕して毛細管現象を起こらなくし,水分の蒸発を防ぐことによって地中に蓄えられた水分で,10月に播種(はしゆ)したコムギの発芽を促す。なぜ,コムギをまくかといえば,コムギは人間の食料であったからである。オオムギは人間の食料にもなるが家畜の飼料でもあり,コムギほど重要視されなかった。秋に播種されたコムギは,春から秋までの休閑耕によって地中にためこんだ水分を,発芽によって使い果たして後,冬の雨によって生長する。そして,翌年6~7月に刈り取られた後,耕地はそのまま翌年の春まで放置され,以後再び犂による休閑耕が繰り返される(これを二圃式という)。

 このような二圃式が行われている地域は,西南アジアでもごく限られた地域であり,西南アジアの大部分は,天水では農業の不可能な砂漠である。二圃式の地域は,いわば極限状態で農業が行われているため,冬雨の年の偏差により,極度に豊凶作が繰り返される。もし,それを安定させようとするならば,灌漑をすることが必要であり,灌漑によって収量も増加する(普通3~5倍)。それで,まず山中の泉や谷川のある所で,灌漑が始められ,やがて,それは,砂漠のなかを流れる大河川を利用する大規模な灌漑農業にまで発展していった。そこには,麦のほかに野菜,果樹などが栽培された。例えば,ナイル川を例にとれば,ナイル川は,毎年,定期的に増減を繰り返し,増水期にあぜを切って耕地に水を入れ,減水期にまたあぜを切って耕地から水をナイル川へ戻す。そのあとには肥沃な泥が堆積し,また塩分が水とともに押し流され,こうして麦などの無施肥・連作が可能とされたのである。

 やがて西南アジアの二圃式は,南ヨーロッパに伝播(でんぱ)していく。南ヨーロッパは乾燥地帯ではあるが,西南アジアよりは湿潤であったから,西南アジアではごく限られた地域にのみ可能であった二圃式が,南ヨーロッパではほぼ全域で可能であった。古代ローマの農業は,今日残されている多くの農書や出土品によって,具体的に知ることができる。すなわち,コムギと休閑とを交互に繰り返す二圃式であり,犂は牛2頭によって引かせる軽量小型の浅耕用の無輪犂(ローマ犂)であり,それによって十字形に浅耕したから,耕地の形はほぼ正方形であった。夏の乾燥に対して冬は湿潤であったから,所によっては高畝にして排水を図らなければならなかった。今日なお,南ヨーロッパは,一般に〈コムギ→休閑〉の二圃式が支配的である。

 ローマの支配が北ヨーロッパに及ぶにつれて,ローマ農法(二圃式とローマ犂)もまた,北ヨーロッパに伝播していった。しかし,北ヨーロッパは,冬雨地帯の南ヨーロッパとは異なって夏雨地帯であり,夏作物の栽培が可能であったから,やがて二圃式の中に夏作物が入りこむことになり,〈冬作物→夏作物→休閑〉という三圃式(三圃制)が成立することになった。この場合,冬作物というのはコムギとライムギ,夏作物というのはオオムギとエンバクである。冬作物は主として人間の食料,夏作物は主として家畜の飼料であった。人間の食料としては,もちろんコムギのほうがライムギよりも優れていたが,地味の悪い所,気候の寒すぎる所ではコムギは栽培できず,だいたい,フランスとベルギーの国境の線を東西に延長したものが,古くから小麦地帯とライムギ地帯の境界線であった。

 二圃式と三圃式では,同じく休閑といっても,その意味がまったく違う。前者の休閑は保水のため,後者の休閑は除草のためである。北ヨーロッパは湿潤地であるから,雑草が繁茂する。しかし,後述する東南アジアや東アジアほどには湿潤でなかったから,2年間は冬作物と夏作物を無除草で栽培することができる。しかし,3年目には雑草の繁茂によって麦の生長は著しくさまたげられるから,休閑して,馬6~12頭に引かせた大型重量の有輪犂で夏に2回深耕し,雑草を埋め殺す。そうすると,再び2年間は無除草で麦を栽培することができる。これが三圃式である。三圃式は,深耕用のゲルマン犂とともに普及していき,13世紀には北ヨーロッパで支配的となる。

 その後の北ヨーロッパの農業は,飼料の増産の方向に進んでいった。なぜなら,19世紀の中ごろまで,肥料は家畜の糞尿(ふんによう)であったから,家畜頭数の増加が農業生産力の発展と密接に結びついていたのである。まず,夏作物のオオムギといっしょに牧草(おもにクローバー)が混播(こんぱん)され,オオムギが刈り取られたあとはクローバー畑となる。そして,その翌年も休閑せずにそのままクローバー畑として利用された。このような休閑地は,従来の何も作らない〈黒い休閑地〉に対して〈緑の休閑地〉と呼ばれた。

 その後さらに,耕地に牧草のほかに根菜作物が飼料として作られ,家畜頭数,したがって厩肥(きゆうひ)をいっそう増加し,農業生産力を発展させることになった。ただし,このような農法(コムギ→クローバー→オオムギ→カブ)を行うためには,従来のような分散所有制(農民の所有する耕地が多くの小地片に分かれて,村の中に分散している状態)から個人農場制(交換分合によって1ヵ所に耕地を集中し,その周囲に垣根をめぐらす状態)に変換されなければならない。これを〈囲込み〉(エンクロージャー)という。囲込みの進展とともに,畜産物と麦,とくにコムギの生産は飛躍的に増加した(農業革命)。それは産業革命による農産物需要の急増に対応するためであった。なお,コムギは必ず粉砕してパンにする必要があり,中世には領主がそのための水車場・粉ひきを直営して,農民にその使用を強制し,使用料を上納させた。しかし,ブルジョア革命以後,このような領主特権は廃止された。

 中耕農業についての最も古い記録は,北西インドと北中国つまり華北においてみられる。中耕とは,作物と作物のあいだの土を耕すことで,保水のための中耕と,除草のための中耕がある。どちらにも共通してみられることは,最初から夏作物と冬作物の二毛作が行われていることである。春から秋にかけては,湿潤なのでイネ,アワ,ヒエなどが作られるが,秋から春にかけては乾燥するので,麦の栽培が可能になるのである。インド最古の文献である《リグ・ベーダ》によれば,当時(今から約3000年前),北西インドにおいては,夏作物としてキビ,冬作物として麦(おそらくオオムギ)が作られていたようである。現在,この地方の農業は,夏作物にバジラ,ジョワールなどの雑穀類と豆類,冬作物に麦が作られている。まず,6月のモンスーンの開始とともに,第1回の犂耕(りこう)が行われる(雨があれば,さらに2~3回)。それは,降雨の蒸発を防ぎ,地中に水を保つためである。したがって深耕はかえって有害であり,必ず浅耕され,犂耕後はまた必ず細長い板や棒などの上に人が乗り,それを家畜に引かせることによって砕土と鎮圧が行われる。次に播種器を用いて播種が行われる。乾燥地における播種で重要なことは,土壌が乾燥しきってしまわないうちに,種子をできるだけ短期間に,適当な湿気をもつ土壌中におくことで,そこで播種器が有用となる。その後,中耕を普通2回行う。以上は夏作物についてだが,冬作物については,降雨量が発芽に不十分な場合には,夏作物を1回休み,モンスーン期に犂耕はいっそうていねいに行われる。

 古代の北中国については,殷代の甲骨文によれば,アワとキビを夏作物とし,オオムギを冬作物とする二毛作が行われていたようである。次の周代(前1122-前206)には鉄製のくわや犂や鎌なども出現し,この時代に北中国農業の原型が完成されたもののようである。今日の北中国の農業は,夏作物はアワ,キビ,モロコシ,麻,豆類,綿,冬作物はオオムギとコムギである。夏作物の収穫後まず秋耕を行う。まだ夏雨が地中に残っているときに,土中からの水分の蒸発を防ぐため犂で浅耕し,その後,耙(は)や蓋子(がいし)(ローラー)によって直ちに砕土と鎮圧を行う。翌春,同じように犂による浅耕と,耙や蓋子による砕土,鎮圧を行う。土壌の乾燥があまりはなはだしいときには春耕を省くことがあるが,耙と蓋子による砕土,鎮圧は必ず,しかも秋よりもいっそうていねいに回数も多く行う。次いで,(ろう)(播種器)による播種と,子(とんし)(ローラー)による鎮圧が続く。そして,作物の生育期間を通じ,降雨のたびごとに,くわによる中耕が繰り返される。

 東南アジアや東アジアの麦作は,明らかに北西インドや北中国から伝播したものと考えられ,二毛作における冬作物として行われた。その際の夏作物の中心はイネである。なお日本の場合,とくに付け加えておくことは,二毛作はすでに13世紀ころから文献に現れているが,発展するのは戦国時代で,江戸時代には夏作物のイネはもっぱら領主への年貢として上納され,農民の食糧は冬作物である麦,とくにオオムギを主体とするものであった。日本では,コムギよりもオオムギが,人間の食糧として重要視された。そして,明治以後,いわゆる乾田馬耕が一般化するにつれて,それによって省かれた労力によって,二毛作が本格化するのである。
執筆者:

麦は記紀の穀物起源神話にも登場するように,古くから重要な畑作物とされた。とくに,秋に播種して初夏に収穫する唯一の穀物であったから,畑のほかに水田の裏作にも作られた。麦は粉にして,めんやまんじゅうにしたり,他の穀物や野菜と混炊して食べたが,やはり古くは粉食が多かったと思われる。麦刈り後の調整精白は婦人にとって重労働であり,かつては麦つきは青年男女の夜なべしごとともされ,麦うち歌などが歌われた。麦の農耕儀礼は独立したものが少なく,他の年中行事と混在しているものが多い。関東地方では,麦を戌(いぬ)の日にまくと死人が出るといって嫌う所が多い。これには,弘法大師が麦を盗んで日本に持ち帰ろうとしたときに犬がほえ,その犬が後に斬殺されたからという由来譚を伴っていることもある。逆に,九州地方では戌の日にまくと収穫が多いという。また麦をまくときに畝をはずすと,葬式を出すとか災難があるといって嫌われる。群馬県吾妻郡などでは,ネズフタギといって播種後に畑に餅を埋め,ネズミの害を防ぐまじないとした。

 麦の播種祝は,マキアゲ,クワアゲツボオサメゴミオトシなどといい,農具を洗って供物を供えたり,小豆粥やぼた餅などを作って祝い,氏神に参ったり近所に配ったりした。麦正月ともいう正月20日には,麦ホメという予祝行事が中国地方を中心に行われる。広島県庄原市では,正月20日の夕方に麦とろを食べてから外に出て〈今年の麦はできがようて背中から腹へ割れるべよう〉と大声で唱えたという。熊本県の五木村では,正月20日に畑に行き〈今年はよう麦ができた〉と叫んで,畑で神酒を飲んだ。こうすると作の神が喜ぶといった。宝暦年間(1751-64)に刊行された《寺川郷談》には4月末に行われた土佐(高知県)の麦ホメの習俗が記されている。福岡県の地ノ島では,3月3日を麦ホメ節供といって,麦をほめたという。栃木県では旧暦3月半ば過ぎに,麦コトといって麦畑にボンデンをさし麦の豊作を祈願する。

 麦の収穫期は気候などにより土地ごとに異なるが,南島では2~4月に麦の収穫祭が行われる。麦は〈百日のまき期に三日の刈り旬〉というほど,高温や梅雨のために取入れ期間が短い。徳島県吉野川市では,麦の刈初めには麦の初穂2本をとり,畑の桑の木に明きの方(あきのかた)(恵方(えほう))に向けて掛け地神を祭ったり,家の神にも2穂ずつ供えたという。麦の収穫祝は,半夏生,夏越(なごし),新箸(にいばし)などに小麦まんじゅう,うどんなどを新麦で作って収穫を祝う所が多く,独立した麦の祭りは少ない。また盆が麦の収穫祭的性格を兼ねている地域もあり,麦わらで精霊船,精霊棚,精霊送迎のたいまつを作ったり,そうめんやまんじゅうなどの小麦製品を盆棚に供えたりする。7月1日の富士山の山開きに,麦焦しを配る神社や富士参詣に麦焦しを必ず持参する所もある。いずれも,麦の収穫祭を兼ねた行事とみることができる。このほか新麦をいって家のまわりにまくと蛇が入らないとか,旧暦6月8日に麦わらをたいて尻をあぶると病にならないという俗信もある。反対に麦わらをたくと7代貧乏するともいい,それだけ麦が重要だったといえよう。
執筆者:

米や麦を総称する英語セリアルcereal(穀物)が,ローマの古い豊穣(ほうじよう)神ケレスに由来するように,麦類を中心とした古代西洋の穀物は地霊あるいは地母神の恵みであった。したがって,麦は収穫の象徴であり,ケレスのほかにギリシアのデメテルアルテミス,エジプトのイシスなどの持物とされた。またオシリス,アッティス,アドニスなど,その神話が植物の枯死と再生を表現していると考えられる神々から生え出た植物の一つとも信じられた。畑で収穫された最初あるいは最後の麦束には穀物の精霊が宿るといわれ,これを魔よけや招福のお守りとして軒につるしたり,わら人形にしたりする習慣が西洋各地にある。麦わら帽子をかぶれば幸運がくるという俗信もこれに関連している。古代ギリシアのエレウシスの密儀では,麦束が太陽の象徴として使用された。また,ローマ人は麦を生命力の象徴とみなし,死者が来世で豊かな生活を送ることを願って,墓地にこれを植えた。この習慣も長くヨーロッパに引き継がれ,葬式に麦をまく習俗をつくりあげている。インドでもヒンドゥー教徒が結婚式や葬式にオオムギをまく。

 麦類はキリスト教の象徴としても重視される。《ルツ記》にはボアズの麦畑で落穂拾いをしたルツが,情深いボアズの妻となり,ダビデにつながる家系の祖となった話がある。そのために絵画では,ルツは麦畑を背景に描かれる場合が多い。《マタイによる福音書》13章24~40節では,敵にドクムギをまかれた人が収穫まで良い麦とドクムギをともに育て,見分けがつくようになってから良い麦だけを刈り集める話がキリストによって語られる。キリストはこのたとえの意味を説明して,麦畑は世界,良い種をまく人を人の子,ドクムギをまく敵を悪魔,また収穫とは世の終りと審判のことである,と述べている。またキリスト教図像学では麦を聖体の象徴とし,しばしばパンに代わってブドウ酒と組み合わせ,キリストの肉と血に見立てる。なお17世紀オランダの静物画では,四季のうち夏あるいは秋の象徴として麦が描かれていることがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「麦」の意味・わかりやすい解説


むぎ

コムギとオオムギとをまとめて麦とよび、明治以降はその後伝来したライムギやエンバクなどをも麦に含めるようになった。この「麦」という概念は欧米にはなく、麦に相当する英語もない。麦類は中央・西アジアの乾燥地帯が原産で、秋に芽生え、越冬して初夏に開花し結実する冬作物である。このため麦類は日本では稲作のあとの水田や夏作物のあとの畑に、裏作物として栽培され、土地利用率を高め、食糧生産を高めることに寄与してきた。コムギ、オオムギは人類が農耕を始めたときからのもっとも歴史の古い作物であり、日本へもイネと同じかあまり遅れないころに大陸から伝来して、栽培が始められた。なおライムギとエンバクは、原産地付近で、麦畑の雑草からしだいに作物化されたといわれる。

 麦類は世界の穀物生産の半分近くを占め、人類の半数近くの主食とされる。コムギは作物中生産量が第1位、オオムギ、エンバク、ライムギは、穀物のうちでそれぞれ第4、6、7位を占めている。コムギ、ライムギは製粉してパン食とし、オオムギは圧偏(押し麦と称する)やひき割りにして米に混ぜ、エンバクはオートミールなどとする。またオオムギはビール、ウイスキー、ライムギもウイスキー、ウォツカなど酒の原料として重要である。オオムギ、エンバクなどは現在は主として家畜の飼料とされている。

 なお、食用作物の麦類のほか、イネ科の植物にはムギの名をもつものが多い。イヌムギ、ホソムギ、ネズミムギ、ハトムギ、コウボウムギ、ムギクサなどである。

[星川清親]

民俗

『古事記』の五穀の起源にも「陰(ほと)に麦生(な)り」とあるが、日本の麦作の歴史は古く、いろいろの儀礼や禁忌がある。丑(うし)、寅(とら)、戌(いぬ)の日に播種(はしゅ)を忌む所は多く、昔、弘法(こうぼう)大師が唐から麦を盗んでくるとき、犬にほえられて殺したために戌の日には播(ま)かないなどという伝承がある。また、畝(うね)の播き落としは死人が出るといって嫌う。

 島根、広島、山口県などでは正月20日を麦正月といい、麦褒(ほ)めをする。広島県庄原(しょうばら)市では、二十日(はつか)正月の麦飯とろろを食べてから外へ出、大声で「今年の麦はできがようて、背なから腹へ割れるべよう」(満腹で背中が割れる)と唱え、山口県萩(はぎ)市見島(みしま)では、麦の団子を竹に刺して山に持って行き、「よその麦はやぶれ麦、これの麦はええ麦」と褒めた。また島根県大原郡(現、雲南(うんなん)市)では、麦畑に蓑(みの)を敷いてその上に寝ころがり「やれ腹ふとや、背な割れや」と唱え、福岡県宗像(むなかた)郡地の島では、3月3日を麦褒め節供といって、畑に出、麦のできを褒める。

 麦の初穂を竈神(かまどがみ)に供える儀礼がある。埼玉県秩父(ちちぶ)地方では、6月初丑(はつうし)の日に「麦の刈りかけ」といって、大麦の初穂を刈ってオカマサマに供える。丑の日に供えるのは、中国から牛が麦の種子を爪(つめ)に挟んで持ってきたからだという。徳島県の祖谷山(いややま)や兵庫県淡路島などでは、5月の戌の日に同様の行事を行っている。また九州吐噶喇(とから)列島の悪石島(あくせきじま)では4月、秩父地方では6月に麦甘酒による麦の収穫祭が行われるが、関東の浅間講(6月1日)や島根・鳥取県の蓮華生(れんげしょう)(6月15日)・七夕(たなばた)・盆など、新小麦のまんじゅうやうどんを神仏に供える所も多く、麦の収穫儀礼との関連をみせている。

[内田賢作]

麦と人間

麦は古代オリエント文明の形成と発展に重要な役割を果たした穀物であり、その後の人類文化史のなかでもとくに西洋文明の流れにおいて、絶えず主要作物としての重要性を保ってきた。麦の栽培化は西南アジアの山麓(さんろく)地帯において始められ、最古の農耕村落遺跡として知られるイラクのジャルモ(前7000)からは、栽培されたコムギ(2種類)が出土している。麦栽培は、散布型の播種(はしゅ)と石鎌(いしがま)による穂刈りという方法で始められたらしく、初期の品種はいずれも皮麦で、まだ裸麦は出現していなかった。このことは、のちに至るまで麦が粒食ではなく、粉食として利用されることと関係する。つまり石鎌による収穫法は、結果として穂の大きさや収穫時期が均一な麦を選び取ることになって改良種が出現し、また散布型播種法は大規模な畑での農耕を可能にした。さらに家畜利用による犂(すき)耕作と相まって麦の生産性は急速に増大し、ほかの栽培植物による農耕に比べ、はるかに早く都市や文明への発展がみられた。また、麦は比較的適応性の高い植物であったため、自生地と異なる環境においても生育が容易であった。やがて文明の波及とともに各地に伝播(でんぱ)し、その過程での雑種交配を経てパンコムギマカロニコムギなどの代表的優良品種が出現し、麦農耕はますます効率のよい農業へと発展して、その後の文明の経済的基盤となった。

 このように重要な作物である麦に対し、人々は古代からさまざまな信仰を形づくってきた。古代エジプトのオシリス神話では、切り刻まれた死体から麦が芽生えてよみがえるという話があるが、オシリス(冥界(めいかい)の支配者)は穀神でもあり、これはよみがえりと同時に麦の収穫と翌年の豊饒(ほうじょう)とを意味している。古代ギリシアにおけるデメテルとペルセフォネの神話でも、他界からのよみがえりをモチーフとする穀物の女神について語られている。

 現代においてもヨーロッパ各地の伝統的農村では、収穫された麦の最後の刈り束をめぐる儀礼や信仰が広くみられる。これはさまざまな変型をとるが、一般には最後の刈り束を用いて人形などをつくり、衣装を着せて収穫祭の中心的シンボルにする。この人形は穀物霊が宿るとみなして尊崇するが、翌年の豊作を祈願して祭りの最後には川に流したり、焼いて畑にまく。これも古代神話における死と再生の観念と共通する面がみられるが、穀物霊はしばしばノウサギ、ヤギ、ネコなどの動物の形をとると信じられ、これらの動物を対象とする儀礼や供犠(くぎ)が行われることもある。

[加藤泰建]

 中国では、約7000年前の焼物についた麦類の圧痕(あっこん)が、河南(かなん)省陝(せん)県東関廟(びょう)の仰韶(ぎょうしょう)(ヤンシャオ)文化期の遺跡から発見されている。安徽(あんき)省毫(ごう)県釣魚台(ちょうぎょだい)の新石器時代の遺跡からは多量の炭化小麦が出土した。その粒は小さく、現在のコムギの半分ほどの長さしかない。河南省安陽県小屯(しょうとん)村の甲骨文には麦を表す來(らい)と麥(ばく)の両文字が見られる。來とは穂が左右に出た麦の象形文字で、麥はそれに足を意味する夂を添え、遠くから「賚(もたら)」された意味をもたせ成立した。周代の『詩経』にも、麦類の歌が少なからず載る。黄河や淮河(わいが)流域には史前からかなりの面積で栽培されていたとみられている。漢代以降は秋播(ま)きコムギの「宿麦(しゅくばく)」と春播きコムギの「旋麦(せんばく)」が区別され、『広志』には、旋麦のほかに、赤小麦、半夏(はんげ)小麦、山提(さんてい)小麦などのコムギの品種およびオオムギの無芒(むぼう)の禿芒(とくぼう)大麦やライムギも名があがり、品種分化が進み始めたことがわかる。

 中国のコムギの品種は多く、1953~54年、全国から集めた3万点のコムギを6000余りの類型に整理している。黄河流域の普通小麦だけでも、その品種は3000を超える。

 普通小麦の誕生に関与したタルホコムギAegilops squarrosa L.は、1953年中国では最初に河南省盧氏(ろし)県の洛河(らくが)沿岸で野生がみいだされたが、そこは新石器時代の遺跡の多い所で、その後同様な例が河南省や陝西(せんせい)省の各地で知られ、当時は栽培利用されていたのではないかとみられている。

 日本に麦類が伝わったのは、およそ2500年前と推定され、長崎県脇岬(わきみさき)の縄文晩期遺跡のオオムギ、佐賀県菜畑(なばたけ)の縄文晩期終末のオオムギ、福岡県板付(いたづけ)の弥生(やよい)前期のコムギなど、縄文晩期から弥生前期にかけての種子が各地でみいだされている。

[湯浅浩史]

文学

五穀(米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆など)の一つとして、『古事記』上巻には、食物をつかさどる大気都比売神(おおげつひめのかみ)の遺骸(いがい)から、蚕、稲、粟、小豆(あずき)、麦、大豆などが生じたとあり、『万葉集』巻12にも、「馬柵(うませ)越しに麦食(は)む駒(こま)の罵(の)らゆれどなほし恋しく思ひかねつも」などとみられる。『うつほ物語』「藤原の君」には、三春高基(みはるのたかもと)が畑に植えるものとして、「粟、麦、豆、ささげ、かくの如く雑役(ざふやく)の物あり」とあげている。うどんの類を「麦縄」といい、『今昔物語集』巻19、22などにみえる。『宝物(ほうぶつ)集』5には、釈迦(しゃか)があぎた長者の麦を戯れにとったために、その報いとして五百生の間ロバになった、という説話がある。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』巻16には、藤原師長(もろなが)が孝道(たかみち)に不参の罰として麦飯を食べさせたとあり、上流貴族には粗食と考えられていたらしい。『曽呂利狂歌咄(そろりきょうかばなし)』には、西行(さいぎょう)が信濃(しなの)国の七瀬(ななせ)川のほとりで麦粉を食べてむせたのを見ていた馬上の武士が、七瀬川なのに「いかなれば法師は独りむせ(六瀬)渡るらむ」と詠みかけたのに、「君が馬こそやせ(八瀬)渡るらむ」と言い返したとある。季題は夏、「麦の秋」がよく詠まれる。

[小町谷照彦]


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百科事典マイペディア 「麦」の意味・わかりやすい解説

麦【むぎ】

コムギオオムギライムギエンバクなどのイネ科の穀類の一群の総称。食糧,飼料,ビール原料などとして重要で,イネに比べ環境適応性が大きいので一般にイネより分布は広い。日本へはコムギとオオムギが古く中国から渡来,ライムギ,エンバクは明治以後,欧米から導入された。
→関連項目勇払平野

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動植物名よみかた辞典 普及版 「麦」の解説

麦 (ムギ)

植物。大麦・小麦などの総称

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【白樺】より

…全160冊(ただし関東大震災の直前に161冊目の見本数部が刷りあがっていたという)。武者小路実篤,志賀直哉,木下利玄,正親町公和(おおぎまちきんかず)の《暴矢》(すぐ《望野》と改題,最後は《白樺》)と,里見弴,園池公致(きんゆき),児島喜久雄,田中雨村らの《麦》,柳宗悦,郡虎彦の《桃園》の三つの回覧雑誌が合同し,公刊《白樺》として発足。発足時のメンバーはいずれも学年,年齢を異にするが学習院の出身者であった。…

【勧農】より

…戸令国守巡行条によると,律令制下の国守は年に一度,管内を巡行することを義務づけられており,そのさい,郡領を督励して,農業をおこし,荒田を出さず,開墾に力をそそぐことになっていた。また政府は大麦,小麦,粟,黍,大豆,小豆などの陸田耕作をも奨励し,計帳使に耕種の町段・収穫量を報告させている。また730年(天平2)には諸国に命じて桑漆帳の記載を厳格にし,国内を巡検して殖満させるようにした。…

【飢饉】より

… 食糧が不足すると,まず投機をねらう商人の穀物退蔵によって物価が異常に高騰し,食糧調達の道を断たれた民衆が草木や動物を食べ尽くして体力を消耗したところを疫病が襲うというパターンが繰り返された。飢饉のときには,政府は非常用の穀物倉(アフラー)を開いて小麦や大麦を放出し,また穀物商人に低価格での売却を命じるとともに,商人やアミールにはその富に応じて扶養すべき困窮者の数を割り当てた。また水不足が原因の場合には,コーランを読誦して集団の雨乞いや増水祈願を行うのが慣例であった。…

【米】より

…玄米を精米機にかけて,ぬか層や胚芽を取り除いたものが精米(白米)である。米は小麦とともに人類の最も重要な食糧だが,小麦がソ連やアメリカなど冷涼で比較的乾燥した地域で生産されるのに対し,米は日本をはじめアジア南部など高温で水の豊富な地域で生産される。それらの地域では永年の間,主食として膨大な人口を養ってきた。…

【トリプトレモス】より

…彼の両親のケレオスKeleosとメタネイラMetaneiraは,五穀の女神デメテルが行方不明になった娘のペルセフォネを求めてエレウシスに来たとき,彼女を女神と知らぬまま親切に処遇した。デメテルはこの好意に報い,トリプトレモスに有翼の竜が引く車を与えて,麦の栽培を全世界に広めさせたという。前5~前4世紀のアテナイは,この神話を根拠にして,ギリシアのすべてのポリスから初穂の奉納を受ける資格があると主張した。…

【農耕文化】より

…その過程で各地の自然環境や社会環境に適応し,農耕文化にはさまざまの類型が生み出されたが,少なくとも発生の系統や農耕の特色など,いくつかの点から大分類すると,旧大陸で三つ,新大陸において二つの農耕文化の大類型を設定することができる。
【旧大陸の農耕文化】

[麦作農耕文化]
 この文化は冬雨気候をもつオリエントのいわゆる〈肥沃な三日月地帯〉において,大麦,小麦,エンドウ,ダイコンなど,一群の冬作物を栽培化し,羊,ヤギなどの家畜を馴致することによって成立したものである。その起源はイラクのジャルモ,イランのアリ・コシュ,シリアのテル・アスワド,パレスティナのイェリコなど先土器新石器文化の遺跡の発掘により,前8千年紀から前7千年紀にまでさかのぼることが確かめられている。…

【畑作儀礼】より

…畑の神という名称は東北や中部地方の一部に見いだされるが,その他では山の神,地の神などに包含されており,水田稲作における田の神ほど普遍的な存在ではない。ただ注目されるのは,畑作の主要作物である関東以西の麦栽培地帯では,日本に麦をもたらしたのが弘法大師であるという伝説が多く聞かれ,それが儀礼構成の主要素となっている地方がある。第2には,主として焼畑にみられる儀礼であるが,春に山に入るときに里と山との境界で山の神を祭り,秋に山を下りるとき境界で自分の妻と飲食を共にするところが全国の各地に見いだせるのは,平地に住居を移したのちも,山がなお独自の空間として認識されていることを示すものであろう。…

※「麦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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