精選版 日本国語大辞典 「黄宗羲」の意味・読み・例文・類語
こう‐そうぎ クヮウ‥【黄宗羲】
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中国、清(しん)代初期の思想家、学者。字(あざな)は太沖(たいちゅう)、号は南雷、梨洲(りしゅう)。浙江(せっこう)省余姚(よよう)県の人。東林派官僚の子として生まれる。若いころ、殉難した父の名誉回復を求めて政治運動に投じ、清軍南下に際しては義勇軍を組織して抵抗し、援軍を求めて長崎に来航したともいわれる。清朝体制確立ののち著述に専念し、『明夷(めいい)待訪録』『明儒(みんじゅ)学案』『易学象数(しょうすう)論』などの名著を残した。思想はその師劉宗周(りゅうそうしゅう)を通じて陽明学の穏健な側面を継承し、観念論的な心学の横流を批判して、経世済民を志向する実証的学風を樹立した。顧炎武(こえんぶ)、王夫之(おうふうし)とともに清初の三大思想家に数えられ、とくに史学に長じて浙東(せっとう)史学の祖と仰がれた。清末の変法運動に際して『明夷待訪録』が啓蒙(けいもう)に一役買ったことから、「中国のルソー」という異名もある。
[佐野公治 2016年3月18日]
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1610~95
明末清初の学者。浙江(せっこう)省余姚(よよう)の人。明の滅亡後復明を図り,その希望が絶たれると学問,著述に専念し,一生清に仕えなかった。経世実用の学を重んじ,『明夷待訪録』『宋元学案』『明儒学案』などを著し,清の学問に大きな影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…対象とする領域は,経学を中心に,文字学,音韻学,歴史学,地理学,金石学などきわめて広範にわたっている。 清代の学問の開祖となったのは,経学の方面では顧炎武,史学の方面では黄宗羲である。彼らは,明王朝の滅亡という事態に直面して,強い実践への関心から,明代の学問の空疎なるを慨(なげ)いて実事求是の学問を追求していった。…
…いわば列伝風の思想史。原著は明末の黄宗羲(こうそうぎ)であるが,未完のうちに没したため息子の黄百家が続修,しかしなお完成せず,清の全祖望が引きつぎ,宗羲の玄孫黄稚圭(こうちけい)らの校訂をへて初めて完成した。この書を補った《宋元学案補遺》とともに,宋・元学術史研究の基本資料である。…
…中国,明末・清初の思想家,黄宗羲の著した明代哲学史。1676年(康熙15)ごろ稿成る。…
…中国,黄宗羲の政治評論書。明末社会の混乱,明・清の交替を経験した黄宗羲が,その原因理由を考察して,君主専制の否定,民本重民の視角から論陣を張った明末・清初政治評論集の白眉である。…
…陝西省厔(ちゆうちつ)(今の周至)県の人。若いとき,貧苦のなかで学問にはげみ,経史子集から仏老に至るまで読書し,のち江南各地の書院で教えてその名を広く知られ,孫奇逢,黄宗羲とともに三大儒と称せられた。朝廷から博学鴻詞(はくがくこうし)として招かれたが絶食して拒んだ。…
※「黄宗羲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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