出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…主家滅亡後,画家となったものとみえ,天正年間(1573‐92),佐世宗孚を寄親(よせおや)として,広島城主毛利輝元に,知行200石で召し抱えられた。1588年筑前に移封された小早川隆景の名島城の襖絵と伝える《梅に鴉図》(京都国立博物館)があり,同年新造の大徳寺塔頭(たつちゆう)黄梅院(小早川・毛利家外護)には,《山水図》《竹林七賢図》《芦雁図》などの障壁画が残るので,遅くとも40歳前後には,独自の風格ある画境を確立していたといえる。画風は雪舟流の水墨山水を,桃山的な大画面様式に適応させたもので,師承関係は明らかでないが,中国・北九州地方にあって,雪舟系統の作家・画跡に学び,京都で狩野派に学んだものであろう。…
…真珠庵には曾我蛇足筆といわれる《山水図》《花鳥図》(ともに室町時代,重要文化財)が,聚光(じゆこう)院には狩野永徳筆とされる《花鳥図》などの方丈障壁画(国宝)がある。伽藍の南にある竜源院の本堂(重要文化財)は大仙院本堂に次ぐ古さで,黄梅院の庫裏(1589,重要文化財)は年代の判明する禅宗塔頭庫裏では最古の遺構であり,また同時期の方丈(1588,重要文化財)とそろって残る例として珍しい。伽藍の西に所在する高桐(こうとう)院には《山水図》(南宋時代,国宝),竜光院には燿変天目茶碗(南宋時代,国宝),小堀遠州の設計になる四畳半台目茶室密庵(みつたん)(密庵席)をもった書院(江戸初期,国宝),孤篷(こほう)庵には古来より大名物として知られる井戸茶碗(銘喜左衛門。…
…この間に当代一流の禅僧が住持に入り,寺中に塔頭が作られ,その数は50以上にものぼった。なかでも夢窓国師の黄梅院は関東夢窓派の中心として勢力をもった。永享の乱以降は衰微し,86年(文明18)ごろには仏殿が再建されたが,これも1563年(永禄6)には焼失している。…
※「黄梅院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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