精選版 日本国語大辞典 「黄檗宗」の意味・読み・例文・類語
おうばく‐しゅう ワウバク‥【黄檗宗】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗と並ぶ日本禅宗三派の一つ。中国明(みん)代の僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592―1673)を開祖とし、京都府宇治市にある黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とする。元和(げんな)・寛永(かんえい)(1615~44)のころ、長崎には明末の動乱を逃れて渡来した多くの中国人、華僑(かきょう)が在住していたが、とくに福州(福建省)出身者たちによって興福寺(こうふくじ)、福済寺(ふくさいじ)、崇福寺(そうふくじ)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明(みん)僧が招かれて住していた。臨済宗楊岐派(ようぎは)に属し、費隠通容(ひいんつうよう)の弟子であった隠元は、福州の黄檗山万福寺に住していたが、興福寺逸然性融(いつねんしょうゆう)の招聘(しょうへい)を受け、大眉性善(だいびしょうぜん)、独湛性瑩(どくたんしょうけい)、独言性聞(どくげんしょうもん)、南源性派(なんげんしょうは)ら随行30名を連れて1654年(承応3)に長崎に来航し、興福寺、崇福寺、摂津普門寺の住職を務めた。ついで58年(万治1)江戸湯島麟祥院(りんしょういん)に寄寓(きぐう)し、4代将軍徳川家綱に謁して信頼を得、61年(寛文1)についに幕府の許可を得て山城(やましろ)国宇治に大禅苑(だいぜんえん)を建立、先住地の名をとって黄檗山万福寺と名づけた。
隠元はここで明朝(みんちょう)風の伽藍(がらん)を構え、明朝風の法式勤行(ほうしきごんぎょう)を行い、特異な念仏禅を挙揚し、のちにその系統が黄檗宗とよばれた。この新来の禅に日本僧が相次いで参じたが、とくに儀礼の面で日本の禅界に多大の影響を与えた。さらに隠元の弟子木庵性瑫(もくあんしょうとう)(1611―84)や即非如一(そくひにょいち)(1616―71)も渡来して隠元の教化を助け、またこの系統に高泉性潡(こうせんしょうとん)(1613―95)、鉄眼道光(てつげんどうこう)(1630―82)、竜渓性潜(りゅうけいしょうせん)(1602―70)などがいて、その発展に大きな役割を果たし、黄檗宗は隆盛に赴いた。
とくに木庵性瑫は黄檗宗第2世となり、のち江戸瑞聖寺(ずいしょうじ)を開山、関東に黄檗宗の基礎を据えた。また5世の高泉性潡は中興といわれる。その後万福寺は13世竺庵(じくあん)まで中国僧によって受け継がれたが、14世竜統(りゅうとう)以後は日本僧も住持するようになった。21世大成(たいせい)以後しだいに衰微し、33世良忠(りょうちゅう)が宗門を刷新し再興を図ったが、1874年(明治7)臨済宗に合併された。しかし、1876年にふたたび独立、1952年(昭和27)に宗教法人法による認証を受けた。今日、法系としては臨済宗の白隠慧鶴(はくいんえかく)の系統に変わったが、中国風の法式勤行(ごんぎょう)は現在も伝承されている。2000年(平成12)現在寺院463、信徒35万人を擁している。
なお、隠元とともに渡来した文人工匠らによって、普茶(ふちゃ)料理(精進料理)や煎茶(せんちゃ)などの生活文化、また明朝風の建築様式、画像、彫像、詩文、書などの黄檗風といわれる文化が移入され、日本で独特の発達をみせた。
[石川力山]
『山本悦心著『黄檗東渡僧宝伝』(1926・愛知黄檗堂)』▽『西村貞著『黄檗画像志』(1934・大阪池永美術研究所)』▽『高橋良和著『黄檗山万福寺』(1976・探究社)』▽『竹貫元勝編・著『近世黄檗宗末寺帳集成』(1990・雄山閣出版)』▽『阿部理恵著『禅の寺――臨済宗・黄檗宗 十五本山と開山禅師』(1996・禅文化研究所)』▽『臨済会編『昭和・平成禅僧伝 臨済・黄檗篇』(2000・春秋社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
1654年(承応3)来日した明僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)の伝えた禅宗の一派。61年(寛文元)に隠元が山城国宇治(現,京都府宇治市)に開創した黄檗山万福寺を本山とする。中国では臨済宗の一派にすぎなかったが,日本では明の念仏禅の影響が濃く,伽藍様式・規則・風儀などすべてに明朝風で歴代住持も中国僧だったため,在来の日本臨済宗とは異質とみられた。隠元の前住地,中国福建省の黄檗山万福寺(古黄檗)にちなみ臨済宗黄檗派・万福寺派などと称された。公武の厚い庇護のもとに近世を通じて大いに教勢を伸ばし,法系は法嗣木庵性瑫(もくあんしょうとう)の紫雲派以下11派にわかれ賑わった。1874年(明治7)臨済宗に併合されたが,76年独立して黄檗宗と公称し現在に至る。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…臨済禅の伝来は,そうした中国近代文明の持続的な日本への伝来とともにあり,これを集大成するのが,黄檗山の開創である。 黄檗宗は,中国の福州黄檗山万福寺の住持,隠元隆琦が,江戸幕府の帰依で宇治に万福寺を開いたのに始まる。隠元隆琦は,中国では臨済宗楊岐派に属し,日本でも臨済正宗を名のるが,鎌倉以来すでに日本に来ている臨済禅が,宋・元時代のそれを伝えて完全に日本化しているのに比して,近世中国の風俗習慣を伴う隠元の臨済禅は,日本仏教徒にあらためて中国仏教の現実を見せつけることとなる。…
…京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。…
※「黄檗宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
固定翼機でありながら、垂直に離着陸できるアメリカ軍の主力輸送機V-22の愛称。主翼両端についたローターとエンジン部を、水平方向から垂直方向に動かすことで、ヘリコプターのような垂直離着陸やホバリング機能...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新